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所在地 島根県大田市仁摩町天河内
設計 高松伸
竣工 1990
機能 美術館
規模 地下2階
敷地面積 63,423㎡
建築面積 1,084㎡
延床面積 1,124㎡
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何で日本の文化施設はこうも早く閉館するのかと、9:00-17:00(受付終了16:30)という開館時間に恨みを吐きながら、スピード超過で捕まらないようにと気をつけ先を急ぎ、道を挟んだ側にある駐車場に車を停めて駆け足で階段を駆け上がり、なんとか受付に到着したのが16:25分。肩で息をしながらチケットを購入する。
「町おこし」のため、と掲げて作った施設であるなら、せめて完全に日が落ちるまでは開館しているべきではないだろうか。欧米の観光地では、日が長いのも寄与してだが、夜の21時まで空いている文化施設なんてざらである。大人が夜の闇の中で美しい照明に照らされた文化施設で優雅に観光をする。
それがどんな仕事の仕方をしていても、当たり前の様に税金にて給与が払われ、定刻に当たり前に閉館して家路に着く受付で働く地域のおばちゃん。
文化施設と銘打つのであれば、少しでも訪れてくれる客に対して有意義な観覧をしてもらおうという姿勢があってしかるべきだと思うが、と訳の分からない八つ当たりが頭の中で渦巻くのを感じ、やはり時間の余裕が無いと人は品位を落とすなと自分を戒める。
さて、1990年に竣工なので1991年に弾けたバブル景気の真っ只中に計画・建設が行われたことになるこの作品。バブルの後押しを受けた建築業界の好景気。日本中で煌びやかな商業施設や後に「ハコモノ」と呼ばれる行政施設を設計しまくった建築家が何人か存在する。建築という経済に左右される宿命を持った職業だけに、それが良いか悪いかは別にして、「スター建築家」として青天井の予算で自らの設計思想を具現化する為にポストモダンの旗の下、なんでもありの建築を行っていたバブル期の建築家達。
建築家が建築物の計画構想を立ち上げるわけではなく、もちろん最初は行政などが色々と検討し、他の例を参考にし予算を獲得し、その計画のもと建築家を選定していく。その計画にそって設計を行った建築家が悪いかのように言うのは少々酷であるのは間違いない。
バブルという実体が伴わない景気に日本中が浮かれ、数十年後にはこの国の景気が後退し人口すら減っていく縮小社会に突入するなど想像して、その時代の社会も想定しながら建築計画を立てるべきだというのは流石に厳しすぎるだろう。
しかし山陰の小さな街で、なんら特別な産業があるわけでもなく、日本中から人を呼べるような観光資源がある訳でも無い街が、今後何十年に渡ってどのように街として存在していくか。それを真剣に考えたら、近くの浜の砂が「キュキュ」と鳴くような音がするからこれを使ったミュージアムを、地元出身の「スター建築家」に膨大な予算を元に全国から観光客が押し寄せるような目玉スポットを設計してもらえれば、後々まで語り継がれるような「町おこし」になって、この街がより活性化するだろう、とはなかなか考えられないと思う。
では何が背中を押したのか?
それこそが昔なつかしの「ふるさと創生事業」。当時の首相・竹下登の指揮のもと、1988年から1989年にかけて地方交付税交付団体となっている自治体に均一に使い道を自由とした1億円が交付された事業。まさに「ばら撒き」と揶揄されてもしょうがないとんでもない税金の使い道である。その竹下登の地元もこの島根県。何たる縁と思わずにいられない。
しかし、全国にばら撒かれた1億円がどのように使われたかを30年近く経った今となってはあ、その使い道の結果を見ることで、当時の各地方自治体とその首長が一体どんなビジョンをその自治体に持ち、どんな幸福な未来を見つめていたのかが良く分かる。
村営キャバレーを造ってしまったところもあるようなので、決してこの「サンドミュージアム」を構想した町長が政治家として悪かったということはなく、むしろ少しでも将来につながる地元の観光地を残す方向で税金を使用としたことは評価に値するだろう。
延床面積が1,124㎡なので、総工費がその「ふるさと創生事業」の交付金である1億円で賄えたとは思えないので、総工費が合計でどれだけになったかは定かではないが、間違いなくこの「ふるさと創生事業」の交付金の存在が「ゴーサイン」を出すことに寄与したのだろうと想像する。
さてこの街出身の高松伸。バブル期に京都の街中に多くの奇抜な設計を残した建築家でもあるが、この仁摩町出身と言うこともあり、地元出身の大建築家ということで山陰地方には多くの高松作品が残されている。その設計を廻っていくと、時代と共に大きく作風が変わっていくことが良く見て取れる。
さてさて、このサンドミュージアム。ルーブル美術館を思い出させるようなガラスのピラミッドが丘の上に鎮座し、その中の最大のピラミッドの内部には、全ての砂が落下するのに1年かかると言う世界最大の砂時計が展示されている。
まさかとは思ったが、その構想のヒントとなったのは、エジプトの3つのサイズの異なったピラミッドが呼応する風景であるという。「なんと直裁な・・・」と思わずにいられないし、「なんでエジプトのピラミッドがこの山陰の地に関係が・・・」と思わずにもいられないが、それがポストモダンだったんだといわれてしまえばそれまでなのだろうか。
兎にも角にも、建築家にとって、この山陰の地に必要なのは、強烈なシンボリズムを持った建築だったということだろう。
昨年、新国立競技場の国際コンペの結果について、その規模が今後の東京の社会に相応しいものかどうかを問う誠意と勇気のある建築家の声が社会を動かした。世のほとんどの建築家が、自己実現の為に得られる機会はできるだけ利用し、与えられた条件を受け入れてその中で自ら求める、そして目指す建築を設計する。その中でその前提条件に対して疑問を呈すことは相当に難しいことになる。
ただし、バブルに踊り、社会の不良債権を残した前世紀の日本の姿を見て育った我々世代の建築家は、数十年と言う長いスパンでその社会を眺め、本当にどんな公共の場が必要であるのか、こんな小さな街にこれほどの施設をどうやって維持し、使いきっていけるのか、身の丈にあった、コミュニティに適した建築とプログラムとは何なのか、ということを常に問い続けていかなければいけないのだろうと思わずにいられない。
『私と建築』、『私と建築2』など素晴らしい建築に対する言葉を紡いできた高松伸。素晴らしい建築家の眼差しを感じ、学生時分の自分も大いに影響を受けた著書。それらを読む中で、「こんな世界なら自らの一生費やしてもよいのでは」と十分に若者の心を掴んだものである。
優れた理論家が優れた設計をするとは限らないのが建築の難しいところであり、それでも優れた理論を振りかざす建築家が力を持つのもまたアカデミズムとして存在する建築の宿命である。そんなことを考えながらも、夕日に照らされた3つのピラミッドの風景もまた、この地で育つ子供達の原風景となっているのだろうかと思いを馳せる。