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2016年2月4日木曜日

淡路国(あわじのくに) ★ 南海道


よく考えてみると淡路島に足を踏み入れるのは人生で初めてだったと気がつく。四国に行くなら飛行機で行ってしまうし、本州側では大阪から神戸と向かったら次はどうしても姫路側に足が向かってしまい、どうしても遠いところに住んでいる人は、相当な目的がないと優先事項はかなり後のほうになってしまうのも理解できる。

そうなると近畿地方に住まう人が、「たまには足を伸ばして・・・」ということになるのだろうが、その目的地となるのはどんな場所があるのだろうと余計な想像を膨らませることになる。

瀬戸内海と大阪湾を隔てる場所にぽっかりと浮かぶ巨大な島である淡路国(あわじのくに)。その頭文字をとって淡州(たんしゅう)とも呼ばれるこの島国は、京の都から畿内ととおり、四国へと伸びる南海道の玄関口。日本書紀や古事記の「国産み神話」では、日本列島で最初に生まれた島とされ、島のほぼ中央に位置する一宮はである伊弉諾神宮の伝えは、その伝承に基づき伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭神として祭っている。

現在では島は上からきれいに三つに分けられ、北から淡路市、洲本市(すもとし)、南あわじ市とそれぞれ仲良く人口4万人強でバランスを取っているようである。

鳴門うずしおや国立公園の花々など、豊かな自然に関する見所が多い様であるが、本州と四国の間に浮かぶ島としての独特の地政学的特長を持つこの島をいつかゆっくりと余裕を持ってめぐってみたいと思いながら、巨大な明石海峡大橋を渡り本州へと戻ることにする。





摂津国(せっつのくに) ★ 畿内


旧国と呼ばれるかつての日本の行政単位。正確には令制国(りょうせいこく)と呼び、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。琉球まで含めると86にもなる旧国なのでできるだけ足を運んで都道府県制度とされた時間よりもはるかに長い時間この国で親しまれてきた国の形を身体で理解するために、機会があればできるだけ多くの旧国に足を踏み入れるようにしている。


今回も兵庫を東から姫路までめぐるとなると、摂津国(せっつのくに)、播磨国、淡路国と三つの旧国を横断することになるが、面白いのはそれぞれが接しているが、互いに所属する五畿七道(ごきしちどう)はが異なり、摂津国は畿内、播磨国は山陽道、淡路国は南海道となっている。ちなみに五畿七道とは旧国同様、古代日本の律令制における広域地方行政区画であり、現在の関東地方、東海地方的な区分と考えてよいであろう。

このように見ると、世界を俯瞰する「鳥の眼」を持ち得なかった古代において、あくまでも都を中心とした人の足によって進む「虫の眼」によって線上に伸びる道があくまでも世界を構築し、人々の認識となっていたのがよく分かる。

そして播磨国、淡路国はそれぞれの道においてもっとも都に近しい場に位置する玄関口として機能し、逆にこの摂津国は畿内における入り口としての機能を持っていたと考えられる。

その頭文字から摂州(せっしゅう)とも呼ばれ、現在の兵庫南東部および大阪の北側ほぼ全域をカバーするこの摂津国。国府は現在の大阪市天王寺区におかれ、一宮は大阪市住吉区の 住吉大社と大阪市中央区の坐摩神社とされている。

その中の藩を見てみると、高山右近で知られる高槻藩が永井家で3万6000石。松平(桜井)忠喬の尼崎藩が4万石、そして九鬼家の三田藩が3万6千石と、比較的石高の低い藩が並び、大大名を配する国ではなかったことが見える。それにしても、近畿を見渡すと、和歌山藩の紀伊徳川家の55万石と彦根の井伊家35万石の飛び抜け方が目に留まる。


小国が寄り添うように都を守る畿内。その西の要である摂津国で、古代の都の周縁の風景を感じることにする。


2016年2月3日水曜日

播磨国(はりまのくに) ★★★ 山陽道


年に数度しかない長期休暇。実家のある愛知と妻の実家のある東京。そのどちらに先に戻り、そこを拠点に日本全国に散らばる見てみたい建築や史跡などを巡る旅に出るために、どのような巡り方とスケジュールにすれば一番効率が良いのか。そんなことに頭を悩ませながら過ごす休暇前の数週間。

この時期は雪の影響の為にどうしても東北や北陸地方は避けがちとなり、そうなると四国や九州、もしくは上信越や北関東など、温泉地と絡めて・・・などと欲をかきがちとなり、気がつくとぽっかりと空いてしまっていたのに気がついたのが兵庫県。

都市というイメージが強いので、どうしても優先リストから外れてしまっていたが、改めてマッピングした地図を眺めてみると、なるほど京の都のお膝元で、歴史的に非常に豊かであったのがあちらこちらに散らばる古刹や神社で見て取れる。何といっても安藤忠雄があちらこちら作品を残しているし、姫路城も長い改修を終えて美しい姿を見せていることも手伝って、いきなり目的地の候補として頭角を現すことに。

現在の兵庫の大部分は旧国では播磨国(はりまのくに)とされ、京都から西に瀬戸内海沿いに伸びる山陽道に属する。つまり西から京に向かって上ってくると、京の玄関口がこの播磨ということになる。それだけ重要な意味を持ちまた様々な歴史の舞台となった場所である。

別称をその頭文字から播州(ばんしゅう)と呼ばれ、国府は現在の姫路市に置かれた。一宮はというと、宍粟市にある伊和神社であったというから、これは現在の感覚から行ったらかなり山奥に位置しており、そうなると「かげとものみち」とも呼ばれた山陽道(さんようどう)を詳しく見ていかなければいけなくなるがそれは別の機会とし、播磨国と言えば、やはり姫路藩と明石藩が。なかでも非常に巨大な国力を持った姫路藩は織田信長の家臣であり、その死後、豊臣秀吉に尽くした、更に関が原では徳川家康側についた池田輝政の治めた藩。戦国の雄、3名に尽くし、戦後はその功に対してこの播磨一国52万石を与えられ、姫路藩を創設する。更にその息子達にも同様に淡路や備前岡山などの国が与えられ、池田家全体としてはこの近畿周辺において100万石を超える領地を所有する一大大名家として君臨する。それだけ徳川家からの信頼が厚かったといえるのであろう。

そしてその領地に相応しい居城として、既に存在していた姫路城を拡張することにより、現在見られるような大規模な城郭へと変貌を遂げさせたのもこの池田輝政によるものであるという。

そんな江戸幕府にとって非常に意味を持った姫路藩と播磨国。もちろん教育にも多大な力が注がれ、非常に多くの人材を輩出する。そして江戸も時代が進み、後期になると徳川譜代の名門酒井家が藩主としてこの姫路城を治めることになる。

この徳川家との密接な関係性が、幕末に訪れる混乱期に、この姫路藩を時代の流れに逆らって、最後まで佐幕派、つまり江戸幕府を支持する側に留めることになる。それが時代が下って江戸幕府に変わり薩長中心の人材によって運営された明治政府の時代に、新しい時代にあった新しいインフラ整備、そして様々な政治的決定が下される際に、幕府側についた藩は当然のことながら冷遇され、人材登用もされず、またインフラの拠点からも外されていったという話。


それが意図的なものであったのか、それとも地政学的に見て新たな時代の国家運営に対して、描かれたグランドプランから、たまたま外れていたのか、それともその二つには必然の関係があり、新たらしい時代の中心や軸線から外れていたからこそ、時代の波に呑み込まれる宿命だったのか、それを知るには旧国ではなく、さらにその下のレイヤーとして横たわり、それでいながら、日本全国で各地の家風や人々の考え方に大きな影響を与えた「藩」の存在を細かく見ていかなければいけないこととなる。

それはともかく、京都いう都に近かっただけに政治に翻弄される運命を持つことになったこの播磨国。その地政学特徴から経済的にも文化的にも非常に豊かな場所であったのは間違いなく、その風景の中に潜む様々な歴史の落し物を見つけながら、この地の場所性に触れる旅になることを期待する。