年に数度しかない長期休暇。実家のある愛知と妻の実家のある東京。そのどちらに先に戻り、そこを拠点に日本全国に散らばる見てみたい建築や史跡などを巡る旅に出るために、どのような巡り方とスケジュールにすれば一番効率が良いのか。そんなことに頭を悩ませながら過ごす休暇前の数週間。
この時期は雪の影響の為にどうしても東北や北陸地方は避けがちとなり、そうなると四国や九州、もしくは上信越や北関東など、温泉地と絡めて・・・などと欲をかきがちとなり、気がつくとぽっかりと空いてしまっていたのに気がついたのが兵庫県。
都市というイメージが強いので、どうしても優先リストから外れてしまっていたが、改めてマッピングした地図を眺めてみると、なるほど京の都のお膝元で、歴史的に非常に豊かであったのがあちらこちらに散らばる古刹や神社で見て取れる。何といっても安藤忠雄があちらこちら作品を残しているし、姫路城も長い改修を終えて美しい姿を見せていることも手伝って、いきなり目的地の候補として頭角を現すことに。
現在の兵庫の大部分は旧国では播磨国(はりまのくに)とされ、京都から西に瀬戸内海沿いに伸びる山陽道に属する。つまり西から京に向かって上ってくると、京の玄関口がこの播磨ということになる。それだけ重要な意味を持ちまた様々な歴史の舞台となった場所である。
別称をその頭文字から播州(ばんしゅう)と呼ばれ、国府は現在の姫路市に置かれた。一宮はというと、宍粟市にある伊和神社であったというから、これは現在の感覚から行ったらかなり山奥に位置しており、そうなると「かげとものみち」とも呼ばれた山陽道(さんようどう)を詳しく見ていかなければいけなくなるがそれは別の機会とし、播磨国と言えば、やはり姫路藩と明石藩が。なかでも非常に巨大な国力を持った姫路藩は織田信長の家臣であり、その死後、豊臣秀吉に尽くした、更に関が原では徳川家康側についた池田輝政の治めた藩。戦国の雄、3名に尽くし、戦後はその功に対してこの播磨一国52万石を与えられ、姫路藩を創設する。更にその息子達にも同様に淡路や備前岡山などの国が与えられ、池田家全体としてはこの近畿周辺において100万石を超える領地を所有する一大大名家として君臨する。それだけ徳川家からの信頼が厚かったといえるのであろう。
そしてその領地に相応しい居城として、既に存在していた姫路城を拡張することにより、現在見られるような大規模な城郭へと変貌を遂げさせたのもこの池田輝政によるものであるという。
そんな江戸幕府にとって非常に意味を持った姫路藩と播磨国。もちろん教育にも多大な力が注がれ、非常に多くの人材を輩出する。そして江戸も時代が進み、後期になると徳川譜代の名門酒井家が藩主としてこの姫路城を治めることになる。
この徳川家との密接な関係性が、幕末に訪れる混乱期に、この姫路藩を時代の流れに逆らって、最後まで佐幕派、つまり江戸幕府を支持する側に留めることになる。それが時代が下って江戸幕府に変わり薩長中心の人材によって運営された明治政府の時代に、新しい時代にあった新しいインフラ整備、そして様々な政治的決定が下される際に、幕府側についた藩は当然のことながら冷遇され、人材登用もされず、またインフラの拠点からも外されていったという話。
それが意図的なものであったのか、それとも地政学的に見て新たな時代の国家運営に対して、描かれたグランドプランから、たまたま外れていたのか、それともその二つには必然の関係があり、新たらしい時代の中心や軸線から外れていたからこそ、時代の波に呑み込まれる宿命だったのか、それを知るには旧国ではなく、さらにその下のレイヤーとして横たわり、それでいながら、日本全国で各地の家風や人々の考え方に大きな影響を与えた「藩」の存在を細かく見ていかなければいけないこととなる。
それはともかく、京都いう都に近かっただけに政治に翻弄される運命を持つことになったこの播磨国。その地政学特徴から経済的にも文化的にも非常に豊かな場所であったのは間違いなく、その風景の中に潜む様々な歴史の落し物を見つけながら、この地の場所性に触れる旅になることを期待する。