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2015年10月6日火曜日

偕楽園(かいらくえん) 徳川斉昭 1842 ★★★


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所在地  茨城県水戸市見川
機能   都市公園
庭園形式 回遊式庭園
作庭年代 1842
作庭   徳川斉昭
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常磐神社の境内より見えてくるのが隣に位置する偕楽園(かいらくえん) の東門。広域の航空写真を見ると良く分かるが、この偕楽園(かいらくえん)は水戸藩9代藩主であった徳川斉昭によって構想され、千波湖に臨む七面山を切り開き回遊式庭園として作られた。

この偕楽園を有名にしているのは、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つとして数えられていること。その為に一年の来園者は20万人を超す。水戸市の人口が27万人なのを考えるとその数字がどれだけのインパクトを持つかよく理解できる。

しかしこの偕楽園。大名庭園が観光地として解放されたというのではなく、その構想時より、藩校である弘道館にて文武に励む藩士の為の余暇休養の場として、また藩の領民と「偕(とも)に楽しむ場にしたい」という意味をこめ、巨大な庭園を「偕楽園」として名付け、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていたという。

その伝統を受け継ぎ、今も入場料は取っていないという。その為に非常に開放的な門から入ると、「あれ、入場券はどこで支払うのかな?」と思ってしまうほどである。この入場料無料は日本三名園の中でもこの偕楽園のみという。これだけ広大な庭園の手入れをするには相当な手間と費用がかかると想像されるが、さすがは水戸ということか。ちなみにその広さは、都市公園としてはニューヨークのセントラルパークに次世界2位だというから歩いて回るとかなり時間がかかるのも納得である。

ではその名前とされた「偕楽」であるが、これは中国古典の「孟子」の中の一節「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」から採用されたといい、これを徳川斉昭がその信条として親しんでいたことから来ると言う。

園内にはもう一つ中国古典に由来する場所があり、晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づき、の異名「好文木」に由来する別荘・好文亭が園の南の縁にひっそりと建っている。

広大な緑の芝生に日が指す明るいエリアから南の好文亭を巡って階段を下って水辺を沿って歩いていくと、徐々に木々の茂りが濃くなっていく。すると「吐玉泉(とぎょくせん)」と呼ばれる泉が見えてきて、その脇には樹齢は約700年と言われる杉の巨木の「太郎杉」が待ち受ける。

今度は右側を孟宗竹(もうそうちく)、左側を杉に覆われたうっそうとした森のような空間を徐々に上げって行くと、正門にたどり着く。説明によると、こちらの北西部分はこの竹や杉にて暗い空間とされ、逆に南東部は梅に覆われた明るい場所として陰陽の対比を表せているという。そういわれれば確かに全く世界観の違う空間で、ぐるりと回ってくると庭園というよりも、ある種の旅を思わせるようなシークエンスとなっている。

毎年2月下旬から3月下旬にかけて、水戸の梅まつりが開催され、この偕楽園も満開の梅で埋め尽くされるという。梅の木だらけで方向感覚を失いそうになるその風景に想像力で梅の花を継ぎ足しながら、ぜひとも梅の季節に再訪したい場所だと思いながら水戸での訪問を終了する。















2015年2月16日月曜日

「沙中の回廊 上・下」 宮城谷昌光 2001 ★★★


「ちょっとここ読んでみて」と妻に蛍光ペンで引いた数行を見せる。

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自分の精神が饐(す)えてゆくことは避けたい。世知や常識にくるまってしまう自分を憎悪し、みずみずしさの残った感覚の棘(とげ)で虚空を搔(か)きたい。傷ついた虚空から何が滴り落ちてくるのか、それをみたい。蒼天(そうてん)のしずくが地表に落ちて赤い花と化す、そのような時に接したい。

---自分はまだ何も成していない。

花と化せば、いつ滅んでもよい。感覚がそういっている。
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「恐らく、この一節を世に届けることがかなり大きなモチベーションとなってこの小説を作らせたのではと思うんだ」と伝えると、「なかなか良い言葉だね」と妻。

そんな「これがこの本の後ろに見える著者の思想だろう」と思われる気合の入った数小節を見つけること、それが現代に生きながら、遥か時空を超えた日常を描く時代小説の一つの愉しみであることは間違いない。

冒頭に出てくる

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たれも士会の懸命な姿をみていなくてもよい。自分がどういう気持ちで何をしたのかは、自分がもっともよく知っている。自分を裏切ることだけはしたくない。
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この一節もまた著者の信念が滲み出る。

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士会は戦場を局部とみなさない。一つの小さな戦いが伏流を発すると考える。その流れが必然をつくり、大きな何かを地上に出現させる。それゆえに士会の脳裏にあるのは空間の多角だけではなく、時間の多角もあろう。
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碁盤の上に広がる無限の広がりを思わせるこの一節もまた、情報と技術が限られた時代に、戦場と言う広がりを持った状況を、時間と空間の広がりを持って理解し、分析し、対応することができた人間こそが、すぐれた将として歴史に名を刻んできたことを理解し、そこから何を学び、そして今我々が生きる時代に何を写し取るか。

そんな過去を生きた題材として向き合いながら、今の時間を生きていく。

そんな風に、生き生きとした「かつてそこにあった現実」として古代中国を捉え、そして少しずつでもその場に自らの身体を置いてみて、かつてそこで繰り広げられたであろう風景を、こんな歴史小説の想像力を借りながら自らの脳裡に再現してみる。

そんな実感を伴った歴史の楽しみ方。「晋(Jìn)」が山西省のナンバープレートだと思うのと同じくらいに、春秋時代の一角を担った様々な人材が描いた爽やかな風景を、荒涼とした大地の中に見つけていく、そんな旅に出かけようと思いながらページを閉じることにする。