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2014年5月13日火曜日

コラボレーションの誘い

昨年のこの時期、シンポジウムに参加する為に訪れたオーストラリア。その時に挨拶に伺ったシドニーの組織設計事務所より、コンペでのコラボレーションのお誘いのメールが届く。詳しく聞くと、幾つかポテンシャルのあるコンペがあって、ぜひ一緒にチームを組んでやってみないかということ。

なんともありがたい話である。

もちろんどういう形でチームを組むのかなど、ビジネスとしてシビアな話は詰めていくことになるのであるが、ふと考える。

何かの機会があったとする。その時に自分達だけよりもどこかの会社とコラボレーションすることによりよりチャンスが広がると判断する。その時に誰とチームを組むのか?

その時に条件に合うような事務所をネットで探して、それからアプローチをして・・・と言うことよりも、やはりすでに誰かに紹介されていたり、互いに知っている中の事務所に話を持っていくことのほうが多いはずである。なぜならばそこには既に知っている、つまり知り合う為の土壌があるというある種の信頼が横たわっているからである。

恐らく彼らがコラボレーションを考えた時にもちろん幾つかの事務所の名前が挙がったはずである。その候補の中に我々がいること。つまり選択される可能性の中に入っていることがまず重要である。

そして彼らがその候補の中から最終的に選ぶだけの理由を事務所としてもっていること。それは何かに特化していることが一番の近道であろう。

今後どういう方向に進むか分からないこのコラボレーションの話。しかし昨年オーストラリアに行って、直接顔を向き合わせて互いにやっているプロジェクトを紹介し合い、どんな事務所かを理解したからこその一年後のお誘い。

世界がフラットになろうとも、結局は誰が何をやっているか、誰とどうやって繋がるかがこの世の中を動かしているのだと改めて実感する一日である。

2014年3月24日月曜日

希少性を薄める

テレビを見ていると相変わらず、「格差」「貧困」という内容で世間の不安を煽るような内容が流されている。「熟年離婚」や「介護」といった新しいものとくっつけての、新しい貧困のあり方を紹介し、誰でも貧困に陥ることはありうると警鐘を鳴らす。

その中で一点だけ気になったのが、親の貧困状態が子供の教育の機会の不公平を作り出していること。これは常識的に考えて、どの時代でも起こっていたことである。生活レベルの高い親は十分に子供へのケアを与えられ、また教育やスポーツなど様々な機会をも与えてあげることができる。得てしてそれらは時間と経済性という二つの余裕がないとできないことである。

しかし問題なのは、現在の教育システム。受験がある種テクニックの習得になっている状況では、如何にそのテクニックを身に付けることができるか、学校では教わらない内容が受験の現場で試され、その対策として塾に通って受験用に技術、テクニックを学ぶことができた子供のみ、優秀な学校に入学できる。

優秀な学校に入ることは、学歴を手に入れることと同時に、優秀なクラスメイト達と過ごす時間をも手に入れる。これが子供の生き方、時間の過ごし方に大きな影響を与えてしまう。どんなに素地が悪くても、一度そこに入ってしまえば、長年揉まれていくうえでそれなりに優秀な子どもになっていくシステム。

そう考えれば、塾に高い学費を払い、自分の子供だけには特別なテクニックを身に付けさせようと投資する親の気持ちも分からないではない。しかし、いくら子供や親がより高いレベルの学校に行きたいと望んでも、塾に通う経済性を持ちえない限り、自分ではそれを学ぶことができない。つまり親の経済性が大きなハードルとして子供の人生を決めてしまっている。

これは大きな問題である。酷い不公平な事態である。

経済性を持つ親は、できるだけ競争を楽にするために、より高い学費でより優れた内容の塾があればあるほど喜ぶはずである。愚かな自らの子供でも、お金さえ払ってその塾に通わせれば、そこに通うことができない一般の子ととの差を開けることができるから。

つまりは希少性をお金で買うことで格差の上への新路を進む現状。これでは同じ膠着した社会構造を保つだけで、何のイノベーションも起こらない。子供の能力とやる気にそって学ぶ可能性を与えてあげることができるのが健全な社会であろう。

ではどうするか?

それは価値を生んでいる希少性を薄めてやればいい。つまりは塾で高い学費を払ってでしか学ぶことができない知識、技術、テクニックを無料で公開し、誰でもそれを学ぶことができるようにしてあげればいい。なんともまっすぐな回答である。

それを実践しているのが東京大学の学生が立ち上げたNPO法人「manavee(マナビー)」。「地理的・経済的な教育格差の是正」を目標に、誰でも行きたい大学に行ける学習環境をウェブで無料にて提供するサービスを、ボランティアの大学生が教師を務めることで運営している団体だという。

社会の中ですでに「持つ者」となっている人々はその地位、利権を保持するために、できるだけ流動性のない社会を望む。硬直した社会が全体の利益になっている時代はそれでもいいか、変化が必要な現代のような時代には、さまざまな階層から新しい才能を持った若者が出てくる必要がある。

お金を払うことで、特権階級に居続けようとするお金持ち。その欲望をビジネスに転嫁する塾。ガチガチにビジネス化された教育制度の中ではじき出されて学ぶ機会すら得られない子供たち。

それを変える可能性のある大きな試みだろうと思われる。

そう考えると、ほかに希少性を薄めることで格差を解消することにつながることは多くある。本来誰もが発信者になることを可能にしたネットというのは、本来こういう目的につながるべきことであると思う。

このブログも、自分が若く建築を学び始めたばかりの時に、少しでも上の世代が何を考え、実際にどういう具合に設計実務の日々を送っているのか、その過程の中で何を見て、何を学び、どう職業的能力の向上につなげるのか。そんなことを知りたいと思っていたということは、今もどこかで同じように悩んでいる若者がいるはずで、ひょんな機会にその彼がこんなブログに目をとめて、少しでも建築家としての将来に明るい見通しを持つことができるようにと思っている。

百科事典が高価で特権階級しかある一定の知識にアクセスできなかった時代から、誰もが望めばどんなことでも知りうる時代に入った我々。覆い隠すことでは希少性を担保できなくなった時代には、新しい希少性によって価値を作り出していかなければいけない。

何を破壊し、何を新しい価値とするか。そしてその価値に自分がどう貢献できるかを考えながらテレビを消すことにする。

2014年2月11日火曜日

分厚い最低保障

日本に戻っている間に、高校の同窓会の世話人が集まって、次回の同窓会の打合せと称した集まりを開いた。そこに国会議員となった同級生も来たので、「日本はこれからどうなっていくのだろうか?」について話をする。

彼が言うには、「多くの人が貧困だ、貧しいとか言うが、今の日本で餓死者がでているか?世界でこれだけ豊かで、死の心配をしなくて良い国は他にはない。それは政府が努力をしてきた結果に違いない」という。

高齢者の孤独死や、若年貧困層が生活保護を受給できずに貧困生活から抜け出せない問題などもちろんまだまだ個別ケースで貧困に関わる事は多くあるのだろうが、確かにそれも一理あると思いながら聞いていた。

普段から、日本人は朝から晩まで、大多数の人がドロップオフすることなく、全うなサラリーマンとして会社勤めをし、その真面目さでそれなりの知識を得て、しっかりとした社会人のマナーを身につけて仕事をし、社内や社外での人間関係に神経をすり減らしながら一生懸命働いている。朝の地下鉄や、終電で乗り合わせる人を見ると、誰もが疲れ果てているようにしか見えない。

それだけ真面目に働いているにも関わらず、ヨーロッパのどこかの国の様に、「経済危機だ」といいながら、夏には皆バケーションとして南の島に大移動する、なんという豊かさ。

一方日本ではあんなに一生懸命、真面目にあれだけ長い事働いているのに、家賃、健康保険、国民年金、光熱費、住民税等々、生きる事の必要経費でほとんど手元に残らない。その中でもできる楽しみを見つけて、文句も言わずに今日も電車に乗って通勤する。

そんな中で生きていると、やはり家賃や健康保険などが本当に適正な金額から外れ、必要以上に吸い上げられてしまっているのではと思いたくなるのが人の常。土地や建物を持つ者だけが、システムとして下部層からできるだけ多くのお金を奪っていく。そんな一面もあるのだが、彼の言ったことを考えると恐らく違った一面も見えてくる。

日本人が日本で生きていくうえで保障されている生活の基礎部分が世界に比べてどれだけ手厚いかという問題。しっかりと手続きさえ踏まえれば受けられる行政サービスは多様に渡り、生活保護もしっかりと需給条件さえ満たせれば、生活するのに十分な額が支給されるようになっている。

医療や高齢者介護、障害者や教育。それらの制度と維持すべき施設。そしてその分野で働いている人々への賃金。保障する最低基準の生活が、世界基準で見れば相当に豊かな生活になってしまっている事実。それほど手厚い保障が施される国。それを維持する為にどれだけ多くの税金が投入されていくことか。

もちろん本当に精査していき、現在の社会に適した内容に変更していく必要もあったりし、かかる費用を落としていける部分もあるのだろうが、もう一つの側面は、成長期に合わせて、人口が増えていく想定の中で様々な制度が作られてきた中、その前提がガラッと変わり、制度を維持するだけの力が国になくなってきてしまった以上、「今までのような手厚い保障を続けていく事はできません。それに健康的に生きていくには今よりも低い水準でも現代日本では十分可能なはずです」と政府は正直に言う時期に入ってきているのだろうと思う。

それに合わせて大幅に制度を変えて、教育や住まう場所は提供し多様性をもった保障の形を作りだし、これからの日本の国の規模に適した、多様な生き方を許容でき、かつての良き時代の利権を維持するだけの搾取構造から脱却し、適正価格を社会で見つけていけるような時代が訪れて欲しいと願わずにいられない。

2013年12月8日日曜日

日本人の優秀さ


日本の外で日常を過ごし、日常で接する大多数の人間が日本人以外でいると考えさせられる事の一つに「日本人の優秀さ」がある。

世界で何かを成し遂げるタイプの人間というのは、とにかく自分で物事を決めていく人間であり、朝令暮改になろうとも常に自分で決断を重ね、その以前に行った決断よりもよいベターな選択肢があると判断した時には、周りが困ろうとも、プロジェクトが遅れようとも、より仕事が増えようとも、そんなことはお構い無しに決断をできるタイプの人間である。

ただしその決断には誰よりも責任を持ち、誰よりも深く考え、どんな反論を受けようとも論理的に論破できるだけのロジックを用意する。それでいながらも外からみると「なぜ?」と思うくらい鮮やかに、かつ迅速に決断を下していく。その積み重ねによってより感性が研ぎ澄まされ、リーダーとしての風格をまとっていく。

それに対して日本人で優秀だといわれるタイプは、とにかく空気を読める事。誰が何を欲し、何を望んでいるのかを瞬時に察して、うまく振舞う事ができるタイプ。その空気を読んだ上で決断を下していける人間。

いわゆる優等生といわれるタイプの人間で、常に決定の力の及ぼす枠組みを視点に捕らえ、マジョリティとして生き残るように決断を下していく。小さな頃から教師や親からそのようにすることで「偉いね」と褒められて、その結果同級生からもある程度の尊敬を集めて調整役としてのリーダーの経験を積んでいく。

「クラスの全員が反対しても、俺はこれが正しいと思うからこれだ。」

というような小学生の学級委員が日本中どこを探してもいないのは、この国を覆う空気がなせる業であろう。

典型的な日本人としてその様な時間が身体の中に浸み込んでいる自分にとっては、いまさらながら周囲をバッタバッタと一刀両断するようなリーダーにいきなり変われる訳も無く、どんなに外国人に囲まれる日常でもそれでもやはり空気を読んで調整をしてしまう。

その横で、「お前、この前全然違う事言ってたじゃないか・・・」と思うような決断を下していくパートナーの姿を見ると、「これはどうあがいても日本で育った日本人には無理だし、敢えてそれをやる必要もないから、自分は自分のやり方でボチボチやっていくしかないかな・・・」と目の前に続く厳しい道のりに思いを馳せる事になる。

2013年11月8日金曜日

見下ろす東京

先日、六本木ヒルズの森美術館に展覧会を見に行った折に、高層ビルから見下ろす東京の街を見て思う。

一体この眼下に広がる街の中に、どれだけの土地が空いていて、どれだけの人がそこに新しい建物を建てようと思うだろうかと。

建築家という職業は、もちろん様々な形が存在する。行政の側に入り、都市計画や規制などを作っていく、言わば建つものの設計に携わらないものもいれば、ディベロッパーの側となり建築家に発注する側となるものもいる。

建物の設計を日常の業務とするものでも、ゼネコンなどで巨大企業が手に入れてくる大プロジェクトに対して、構造、設備、環境などの各分野ごとに設計に関わっていく人もいれば、ハウスメーカーや不動産会社の一員として、パッケージ商品として効率とコストを徹底的に苛め抜き、少しだけお洒落な雰囲気を演出する人もいるだろう。

そしていわゆる世間一般がイメージする建築家の様に、事務所を構え、個人住宅などを主に手がけて、いわゆる「先生」的な生活をするアトリエ事務所と、そこに勤める多くの所員建築家。その規模は数十人という大所帯もあれば、一人二人という小規模のものまで果てしない。

これらの建築家にとって、設計する対象があるというのがまずは存在の大前提となる。どんなに設計が優秀でも、それを発揮する機会がなければ仕事が続かない。どんなに賢い先生でも、事務所を回していく経済概念がなければ設計を続けられない。どこかで、どうにかして、仕事を取ってこないといけないし、その仕事でお施主さんを満足させ、世間に発表できる良い仕事を続けていかなければいけない。

そういう訳で、建築家が仕事も取ってこないといけないのが、このアトリエ事務所の大きな特徴。設計しか学んでこなかった人間が、そんな簡単に営業のスペシャリストになれるわけも無く、ハウスメーカーやゼネコンではもちろんその職責は切り離されている。設計畑は設計だけに時間を情熱を費やす事ができる環境を手に入れる。

建築家にとって、どこかの誰かが家を、建築を建てようと思った時に、その選択肢に自らが乗っていることが仕事への第一条件となる訳だが、その前提の前に、「誰かが建築を建てようと思う事」が必要となる。そして弱肉強食の自由経済の中では、組織の存続の為に大企業も大御所事務所も牙を剥き、獰猛さを剥き出しにしてその仕事を取りに来る。

一つの空き地に群がる建築家達。

市場経済では如何に他社と差異化をなすかが重要となるので、それぞれがどうにか付加価値をつけようとする。ある人は環境建築を謳い、ある人は税制の優遇への知識を旗とし、あるものはコネを使って信頼を得ようとし、あるものは雑誌などに取り上げられている華やかさをアピールし、ある物は長期的なビジネスプランまで作成し、解体から建替えまでをセットとして施主に迫り、既に設計だけの土俵というもの自体をひっくり返す。

そんな獰猛なる市場経済の中にぽつねんと放り出された無垢な建築家。スター建築家制度が蔓延する学校教育の中温室栽培の様に育てられ、いつか自分にもチャンスが巡ってきて、誰もが思いもしなかったアイデアと建築言語で一躍表舞台に踊りだし、自分も学生時代に舐めるように見ていた建築雑誌の紙面を賑わしこの国の風景を変えていく。そんな純粋で穢れの無い若き建築家が、この荒廃した東京の大地に放り出されているのを想像する。

土地の数だけ建物があり、建物の数だけオーナーがいる。

アベノミクスは、その既に「持てる者」を更に裕福にし、局所的な富の集中を生み出した。既に建ち切ってしまった東京の街。どこもかしこも建築で埋め尽くされてしまっている。建築家が設計という学問を始めた当初に喜びを感じた分野で日常を過ごせる時代はとうに終えたということだろう。

富に明るい「持てる者」は、更なる富を欲望し、彼らが求めるのは風景や街並み、良質な空間よりも、より確実で高い賃貸収入であり、不動産投機としての回収プランである。

視界のはるかかなたにのっぺりと広がる住宅街。そこにも空き地は見えないくらいに埋め尽くされて、数十年前よりもはるかに少ない新築住宅の着工数、そして建替えやリノベーションなどのプロジェクトを含めても、明らかに今までの様に建築家が社会の中で同じ数を保持していくのは難しいのは誰の目にも明らかであろう。

既にネットワークを構築し終えたエスタブリッシュされた「先生」のいる事務所はまだ血を流しながらも生きながらえる事ができようが、これからそのジャングルに飛び込んでいこうという若い建築家は、ジャングルの厳しいルールすら知らずに、地図もコンパスも持たず素手で森の中に迷い込むようなもの。

そんな彼を誰も護ってくれない。少なくなるパイを誰もが競い合って手を伸ばす世界では、誰もが「品」などかまってられず、ただただ自らと自らの組織のみが生き残ることを至上目的とする。

足元に広がる東京の風景。7年後のオリンピックということで笑ったのは間違いなく「持てる者」達。そしてこれから「持てる者」の仲間入りを果たそうとするものたち。

いつ命を落とすか分からない大海原かジャングルか。そんな東京の風景を見ながら、この街を拠点に建築設計活動を行っていく事の不可能性に再度思いを馳せる事になる。