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2015年11月15日日曜日

殷墟(殷墟,yīn xū,いんきょ) BC1350 - 1046 ★★


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世界遺産
八大古都
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安陽の駅に着くと、デジャブの様にどの街でも同じ風景が繰り返されるその巨大な構築物から外に出ると、高速電車の到着時間に合わせて待ち構えているタクシーの運転手が一斉に声をかけてくる。この際の運転手の振る舞いで大体この街の規模や民度がうっすらと捨て見えてくるものである。

さてこの安陽。河南省の最北部に位置することも手伝い、あまり良い評判を聞かない河南の先例を受けるかのごとく、声をかけてくる運転手を振り払い列に並んでタクシーに乗り込もうとするが、それでも行く先をブロックするように身体を入れてきて歩くのを妨害される。それでしきりに「どこに行くのか。いくらでどうだ」と。

うんざりしながら、タクシーの列の先頭で待つタクシーに乗り込むが、どうやら運転手同志はすっかり横のつながりが出来ているらしく、先ほど散々妨害しがめつく声をかけてきた運転手が、車内にいた運転手を引っ張り出し運転席に納まり交渉してくる。

唖然としていると、「どこに行くんだ?殷墟か?なら100元でどうだ?」とまくし立ててくる。「メーターで計算していってくれ」というが、「ここじゃみんな交渉で値段決めるんだ。100元でどうだ」とさらにまくし立ててくる。

うんざりして、車から出て列の脇に経っている警察らしき女性の元に行き、「メーターで行くタクシーは無いのか?」と訪ねるがどうにも迷惑そうな表情をするだけで、その周りにわさーっと群がる運転手たちが更に「ここじゃ誰もメーターなんか使わないぞ」と声を浴びされる。

時間の浪費だと半ば諦め、先頭のタクシーに戻り、なんとか元からその車に乗っていた少々大人しそうな運転手と話をすると、「相乗りなら50元だ」というので、結局交渉して40元で出発。これは「久々になかなかのところに来てしまったのか・・・」と心に暗雲を立ち込めるのを感じながら、徐々に霧が濃くなり、視界を奪っていく外の天気を気にしながら中心部へと向かう。

向かった先である殷墟(殷墟,yīn xū,いんきょ)は中国の古代王朝である殷の都が置かれた場所であると言われている。殷は別名「商(shāng ,しょう)王朝」とも呼ばれており、前16世紀頃~前1050頃にこの河南省を中心として黄河の周辺で栄えた王朝とされている。

「殷、周、新、漢・・・」と世界史の授業で覚えたように、その存在が考古学的に確認されているのはこの殷が初めとされているが、中国的にはその前に「夏(xià,か)王朝」が起源だと学校でも教えているようである。

流れを見てみると、兎に角トンでもない昔に「夏」という王朝があり、何百年が続いたがその後にこの地を中心に力をつけてきた「殷」に取って代わられ、また何百年かその時代が続いた後に、今度は「周(zhōu,しゅう)」に敗れて時代を終えるという流れである。この「殷」から「周」への変遷期に活躍したのが周の軍師であった太公望(たいこうぼう)でもあり、様々な小説にもなっている話である。

世界史の教科書を思い出してみると、恐らくこの「殷」に関していくつか重要な項目があったかと思われるが、その二つが「青銅器文化」と「甲骨文字」。その二つを見るだけでもこの王朝が歴史の時間を進めるのにどれだけ大きな役割をしたかが見て取れる。

「青銅器」に関して見ると、その前の「夏」の時代にも既に使われていたようであるが、この殷時代に入ると、表面を覆う文様の複雑さが増し、またかなり大きなものも作られるようにとなっていく。その次にくる鉄器時代まで長い年月に渡り世界各地で人々の生活を助け、文明の発展を手助けしたのがこの青銅器。

そして「甲骨文字」に関してみると、その発芽はこれもまた殷を代表する「占い」に深い関係を持つ。現在の様な科学によって地球環境を把握することが難しかった時代においては、どうにかして世界を把握しようと、様々な手を使って天候や環境を理解しようと務められたのは想像に難くない。

占いの発展に欠かせないのが天の動きを読み取る天文学と、天の意志を写し取る道具達。

現在も使われる閏年。これは太陽暦を採用する国において、365日と人類の都合の様に決めた一年と、太陽の運行の微妙なずれを4年に一度1日多く挿入することで吸収しようとすることであり、つまりは4年に一度366日の一年となることである。

逆に中国で使われる暦では、一ヶ月が30日で、それによって生じる太陽の軌道とのズレを、ある一定の期間ごとに更に一ヶ月を挿入することで吸収していた。その挿入された月を閏月と呼んでおり、なんとこの閏月が行われ始めたのがこの「殷」の時代だというから驚きである。

では、今度はその天の意向を人間が読み解けるような媒体をどう作り出すか?という問題であるが、これが鹿や牛の骨に、裏面から小さな穴を開け、金火箸(かなひばし)という金属製の箸を差し込んで、徐々に熱していき、表面にできるひび割れによって、様々な意味を読み取る方法が開発された。そのひび割れの瞬間に、「ボクッ」と音がしたので、占いのことを「卜(bǔ,ぼく)」と呼ぶようになったようである。

まず始めに「卜」が漢字であること、そしてそれが「ボク」と発音されること、また「うらない」を意味することも今回始めてちゃんと知ることになるのであるが、「卜部(うらべ)」というのもこれを知れば納得できるというものである。

そんな訳で、通常の場合は鹿や牛の骨が使われ、特別なものを占うときには特別らしい、亀の甲羅が使われていたといい、その占いの結果などをその甲羅に刻んでいたのを「「卜辞(ボクジ)」と呼ばれ、いわゆる甲骨文字として発展していくこととなる。

後ほどいやとなるほど見るのであるが、この甲骨文字がその後の漢字の元となったのは間違いなく、よく見てみると実に沢山の文字がほぼ同じ形をしていることが見て取れる。つまりは、現在アジアの文化の源流を成す漢字という媒体が、この地から生まれ広がっていったという意味においては、非常に重要な意味を持つ都市というわけである。

到着した殷墟(殷墟,yīn xū,いんきょ)は、街の西の外にあり、「街一番の観光地がこれならば、大体街の規模が見て取れるな・・・」という感じのつくり。ここは殷朝後期(BC1350 - 1046)に首都が置かれたとされており、北に流れる川の更に北側にて2000年に更に広大な遺跡が発掘され、全体としては二つの異なったエリアに別れていることになる。

この南側は小屯村と呼ばれ、多くの墳墓とともに甲骨や青銅器が発掘されているという。その為中心施設は特に発掘された甲骨文字や青銅器を展示する殷墟博物館(殷墟博物苑)や、墳墓の発掘の様子を展示する建物となるのであるが、そのほとんどが建物として地上にボリュームを現すのではなく、地下に埋められる形で配置されており、全体としては平屋のボリュームが広大な敷地に点在する形となっているのは非常に好感が感じられる。

事前のリサーチが足りず、エリアが二つに分かれていること、それが徒歩でいける距離ではないこと、どちらかメインなのか、などなどほとんど分からないまま到着してしまい、とにかくチケットを購入しようと二つのエリア共通券を90元で購入する。

午後には邯鄲に移動するために駅に戻らないといけないので、孔林の様な広大な敷地であれば、回りきれないどころか午後のスケジュールを全て台無しにしてしまうだろうということで、入口近くにおいてあるシャトルバス的なものの近くにいるおじさんにどれくらいの広さか、歩いて回れるのかを訪ねてみると、「自分は無料ボランティアで、外国人には説明が無いと分かりづらいだろうから一緒に回ってやる」という。

「大丈夫かな・・・」と思いながらも、時間が無いことと建築をやってることを伝えると、結構手馴れた感じでポイントを絞って案内してくれる。「これは確かに案内無しでは理解の深さが全然違うな・・・」と思いながら、博物館の配置の元になっている甲骨文字などを見て、さっさと展示を巡っていく。

また来るときにはもっとゆっくり案内をしたいし、天津大学で日本語を学んでいるという息子にいつかあって話をしてもらいたいからと、早速wechatの連絡先を交換してくる如何にも中国人らしい人懐っこさを発揮され、一周して入口へ。「もう一つのエリアを見て回る時間はないだろうから、文峰塔まで行ってそれで駅に戻れ」というアドバイスに従い、笑顔で見送られながら次の目的地へと足をむけることにする。



































2013年7月20日土曜日

高野山 奥の院 816 ★★★★


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所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山
山号  高野山
宗派  高野山真言宗
寺格 総本山
創建  816
開基  空海
機能  寺社
文化財 不動堂、仏涅槃図ほか(国宝)
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高野山の最大の聖域、奥の院へ向かうために、一の橋の駐車場へ。

料金は一時間で600円で30分毎にプラス200円というので、係りのおばさんに「どれくらいで戻ってこれるか?」と聞いてみると、「ここからだと2キロだから、往復になると4キロになので1時間だと厳しい」とのこと。奥の院近くに無料駐車場もあるというが、昨晩泊まった宿の主人からも薦められた様に、せっかくだからここから歩くかと参道へ。

ここから奥の院までは歴史上の人物から有名企業まで多くの人物のお墓が並ぶ。中でも有名なのはやはり有名武将の墓。織田信長、石田光成から豊臣秀吉まで。とにかく多い。「彼らは全員生前から真言宗だったのか?」と思いながら、外よりも数度下がった感じのする杉木立の中先へと進む。

大きな杉の間を抜けて30分ほど歩くと道の脇になにやら小さな看板があり、おじさんがなにやら手を突っ込んで奮闘している様子。どうやら中に石が入っていて、それを段差になっている奥の部分まで持ち上げられれば幸せになれるという弥勒石らしい。高齢にも関わらずなんとか持ち上げることができ、杖で再度下に石を落としてくれたおじさん。「結構重いですよ・・・」というので、折角なのでチャレンジしてみることに。

どうやっても片手しか入らない入口から手を突っ込んでみると、結構な大きさの石が。おじさんでもできたんだから・・・と思っていたらこれが結構な重さ・・・。なんとか気合を入れて持ち上げ、上の段に乗せることができたが、後で調べると出来なかった場合は不幸になったり、よくないことが起きるとされているという。

後ろに並んでいた女性に、「結構重いですよ・・・」と忠告をしながら石を落とし更に先に進むと、見えてくるのが奥の院。高野山が聖地である所以は、この奥の院が空海の御廟でありからである。

結界を張るように流れる川にかかるのは、この世とあの世を繋ぐかのような御廟橋。この先は写真撮影は一切禁止。まさに聖域への入口。脱帽し一礼。橋を渡ると燈籠堂にたどり着く。手を合わせ、左に回って裏にたどり着くと弘法大師御廟が見えてくる。

その前には無数のロウソクの灯が焚かれている。手を合わせ静かにお祈りをし、再度お堂を回って正面に戻ってくる手前に、地下に下りていける階段が。下りていくと暗順応するまえの目に入ってくるのは、天井から吊るされた提燈と壁面いっぱいに広がる小さな光。それらが、暗い空間の中でぼうぅっと浮かぶように光る姿は、まさに幻想的。

その壁面の光に近づいて、それらが小さな仏像だと気がつくと「ブワッ」と風が吹き抜けていったような気分になる。やはりここが聖域で、何かがこの空間にいるんだと思える場所。暗闇で再度手を合わせ、ぐるりと回って地上に上がる。

懐かしい気分のする光の元、橋を渡り振り返って頭を下げる。

先ほど来たときとは何かが違ったような気分を感じながら参道を帰っていく。











2013年7月18日木曜日

義仲寺(ぎちゅうじ) 不詳 ★

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所在地  滋賀県大津市馬場
山号 朝日山
宗派  天台宗
創建   不詳
別名 木曽寺
機能   寺社
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大津市中心部のにおうの浜2丁目交差点よりすぐのところに位置するこの義仲寺(ぎちゅうじ)。とても小さな寺であるが、以下の2点の点で大津の観光地として名を馳せる。

一つ目は鎌倉時代前夜、平家討伐の兵を挙げて都に上り、源頼朝に追われて最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬り、その墓所があること。

そしてもう一つはこの寺を愛し、度々滞在もした俳人・松尾芭蕉は大阪でその生を終えるが、遺志によりこの寺に葬られ、その墓所は木曽義仲墓の横に位置している。

拝観料の大人200円を支払い中に入ると、それこそ5分で巡れるようなこじんまりとした庭。無名庵前の池ではおびただしい数の亀の姿が見られる。