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2016年3月1日火曜日

「檸檬のころ」 岩田ユキ 2007 ★★★


岩田ユキ
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スタッフ
監督 岩田ユキ
脚本 岩田ユキ
原作 豊島ミホ
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キャスト
秋元加代子:榮倉奈々
白田恵:谷村美月
佐々木富蔵:柄本佑
辻本一也:林直次郎(平川地一丁目)
西巧:石田法嗣
金子晋平:石井正則(アリtoキリギリス)
金子商店主人:織本順吉
白田の父:大地康雄(特別出演)
大住志摩(白田恵のいとこ):田島ゆみか
吉井薫(サイドギター担当):波瑠
林尚弘(ドラム担当):島田悟志
藤山剛史(ギター担当):島崎徹
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のどかな風景に囲まれる地方の高校を舞台にした青春映画。好きな女の子と交わす一言でその日のすべてが決まってしまう、そんな淡い高校時代がありありと脳裏に思い返される一作である。

学校で学ぶのは授業だけではなく、人はこうして友人や異性との接し方や距離の取りかたを徐々に経験と時間を積み重ねることによって学んでいくのだと改めて思わされる。自分の思うようにいかないトライ・アンド・エラーの中で、心を引き裂かれるような思いをしながら、少しずつ周囲の人との関係性を築けるようになっていく。

そしてそれは年齢に関係なく、かならず通ってこなければいけない社会との折衝であり、傷つくのを恐れたり、守られすぎたりとして通らずに過ごしてしまえば、その分大人になってツケを払う必要に迫られるということか。

受験と大学のある場所によってその後の人生が大きく変わってしまう高校三年生。毎日一緒だった時間から、いきなり別の日常を過ごすようになる大きな断絶を受け入れることを強いられる。

楽器がうまかったり、明るかったり、かっこよかったりと、非常にシンプルな方法で恋に発展し、その関係の中から、その後より複雑に絡み合う恋愛というものに足を踏み入れていく。

主演の榮倉奈々を筆頭に、なんとも見事なキャスティング。明るく、クラスでも人気者を演じる榮倉奈々は、学校のマドンナという役割ながら、決して見た目が抜きん出てカッコいいとは言えない野球部のエースに恋をするという設定が、やたらとリアリティを増してくれる。

自分の目線からからしか見えてなかった学校という舞台には、それぞれの場所でそれぞれの人が、様々な想いを持ちながら毎日を過ごして、成長していたのだと改めて高校時代の貴重さを思わされるのと同時に、これくらいの地方都市の進学校が一番良いのではと思わずにいられない一作である。


















2014年8月31日日曜日

「黒と茶の幻想 上・下」 恩田陸 2001 ★★★★★

高校の卒業15周年を記念しての発足させて高校の同窓会。5年に一度と決めた全体同窓会が来年の夏に迫ってきたために、各クラスの世話人に「そろそろ始動し、役割分担をしていきます」とのメールを送る準備をする。

そんな時に手にしたこの一冊。地方の公立新学校の卒業生が東京の大学に進学し、そこで出会ったもう一人の友人とともに、大学を卒業後、就職、結婚、出産などを経験し、40歳を目前にした時期に、思い切って4人の同窓生での小旅行を決行する。そのテーマは「非日常」。

ドンピシャで今の自分の年齢に当てはまることと、登場人物達の背景などもかなり感情移入できる部分もあり、久々に恩田作品で一気読みしてしまった作品である。恐らく相当部分が、著者自身の人生に重なる部分もあるのだろうと思うが、逆に言えば、地方出身で東京に大学に進学する多くの人がどこかしらに自分の人生と重ね合わせることができる物語であるという点においては、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と同じ分類ができる作品である。

最近はあまり当たりの作品に出会わなかった恩田作品であるが、やはり日常のすぐ横の非日常に入り込み、その中を「歩きながら」物語が進んでいくというゆっくりした動作の中での物語りは、読書以上の身体体験をもたらし、非常にスムースに物語の同化させてくれる。

「上と外」でも見られてようなうっそうとした森の中で流れる時間と空間は、日常を過ごす都会の中のそれとはまったく違ったものになり、今まで見えなかったものを見えるようにし、聞こえなかったものを聞こえるようにしてくれる不思議なデバイスとして扱われる。

日本に暮らしていると山に上ることは多々あれど、森の中を歩くということは非常に少なくなってしまう。その森を歩きながら、前と後ろに歩いている同行人に語りかけながらも、その実自分に向けて発している言葉が森の中に漂うのを感じるのは心にとって計り知れない効用をもたらすのであろう。

多感な高校時代から20年近い年月を過ごし、その間に進学、就職、結婚、出産などの様々な人生ゲームの一ページをクリアしてきてはいるが、かつて思ったほど自分の中では当時思い描いていた未来の自分の姿にはなっていないと理解しながら今を生きる主人公達。

自分で選ぶことができず、生まれた場所で振り分けられる人生の第一部。社会に出ていき、仕事上の関係性で付き合うことになる人生の第二部で出会う人は、どうしても根底のところで共感をもてないのは、マイルドヤンキーだけに限られて事ではなく、こうしてたまに同級生であつまるまともな大人たちもまたしかり。

自分にとっての人生の根っこがどこにあり、その根っこを共有している人々が人生にとってどれだけの意味をもたらしてくれるかをしっかりと描くのが「夜のピクニック」しかり、著者の一番の強みであろう。

歩きながら話す。そして、旅の中で非日常に出会い、自らの過去に会いに行く。

そんな旅を重ねることができること。
そんあ旅を共有する仲間がいること。

それが人生の豊かさなのだろうと思わずにいられない。


2014年2月11日火曜日

分厚い最低保障

日本に戻っている間に、高校の同窓会の世話人が集まって、次回の同窓会の打合せと称した集まりを開いた。そこに国会議員となった同級生も来たので、「日本はこれからどうなっていくのだろうか?」について話をする。

彼が言うには、「多くの人が貧困だ、貧しいとか言うが、今の日本で餓死者がでているか?世界でこれだけ豊かで、死の心配をしなくて良い国は他にはない。それは政府が努力をしてきた結果に違いない」という。

高齢者の孤独死や、若年貧困層が生活保護を受給できずに貧困生活から抜け出せない問題などもちろんまだまだ個別ケースで貧困に関わる事は多くあるのだろうが、確かにそれも一理あると思いながら聞いていた。

普段から、日本人は朝から晩まで、大多数の人がドロップオフすることなく、全うなサラリーマンとして会社勤めをし、その真面目さでそれなりの知識を得て、しっかりとした社会人のマナーを身につけて仕事をし、社内や社外での人間関係に神経をすり減らしながら一生懸命働いている。朝の地下鉄や、終電で乗り合わせる人を見ると、誰もが疲れ果てているようにしか見えない。

それだけ真面目に働いているにも関わらず、ヨーロッパのどこかの国の様に、「経済危機だ」といいながら、夏には皆バケーションとして南の島に大移動する、なんという豊かさ。

一方日本ではあんなに一生懸命、真面目にあれだけ長い事働いているのに、家賃、健康保険、国民年金、光熱費、住民税等々、生きる事の必要経費でほとんど手元に残らない。その中でもできる楽しみを見つけて、文句も言わずに今日も電車に乗って通勤する。

そんな中で生きていると、やはり家賃や健康保険などが本当に適正な金額から外れ、必要以上に吸い上げられてしまっているのではと思いたくなるのが人の常。土地や建物を持つ者だけが、システムとして下部層からできるだけ多くのお金を奪っていく。そんな一面もあるのだが、彼の言ったことを考えると恐らく違った一面も見えてくる。

日本人が日本で生きていくうえで保障されている生活の基礎部分が世界に比べてどれだけ手厚いかという問題。しっかりと手続きさえ踏まえれば受けられる行政サービスは多様に渡り、生活保護もしっかりと需給条件さえ満たせれば、生活するのに十分な額が支給されるようになっている。

医療や高齢者介護、障害者や教育。それらの制度と維持すべき施設。そしてその分野で働いている人々への賃金。保障する最低基準の生活が、世界基準で見れば相当に豊かな生活になってしまっている事実。それほど手厚い保障が施される国。それを維持する為にどれだけ多くの税金が投入されていくことか。

もちろん本当に精査していき、現在の社会に適した内容に変更していく必要もあったりし、かかる費用を落としていける部分もあるのだろうが、もう一つの側面は、成長期に合わせて、人口が増えていく想定の中で様々な制度が作られてきた中、その前提がガラッと変わり、制度を維持するだけの力が国になくなってきてしまった以上、「今までのような手厚い保障を続けていく事はできません。それに健康的に生きていくには今よりも低い水準でも現代日本では十分可能なはずです」と政府は正直に言う時期に入ってきているのだろうと思う。

それに合わせて大幅に制度を変えて、教育や住まう場所は提供し多様性をもった保障の形を作りだし、これからの日本の国の規模に適した、多様な生き方を許容でき、かつての良き時代の利権を維持するだけの搾取構造から脱却し、適正価格を社会で見つけていけるような時代が訪れて欲しいと願わずにいられない。

2014年1月27日月曜日

「桐島、部活やめるってよ」吉田大八 2012 ★★★

移動に時間がかかることの良さは、身体を拘束されるから、できる事が限られる事。必然的に選択は睡眠か、読書か、Ipadでの映画鑑賞。そんな訳で、数日前から平行して見ていた映画をまとめて見切る。

直木賞作家となった早稲田出身の朝井リョウによる青春小説の映画化であるが、マイケル・ムーアの「エレファント」を思わせるような、多視点の描写で物語が進んでいく。繰り返し同じ時間が別の人間の視点から描かれ、徐々にその事象の本質が見えてくるような感じ。

勉強も運動もでき、イケメンでクラスの人気者である生徒がある日突然部活を辞めることで、それまで絶妙なバランスで保たれていた学校内のヒエラルキーや人間関係がガタガタと音を立てて動き出す。そんな誰もが登場人物の誰かに自分を投影できるような淡い日本の高校時代を描き出す非常に良い一作。

登場する俳優も、今をときめく若手俳優ばかり。そしてその誰もが人気先行ではなく、しっかりと演技に実がある。あまり主演ぽくなく描かれる主演の神木隆之介はじめ、「ごちそうさん」で無骨な父親を演じる東出昌大(ひがしでまさひろ)、「あまちゃん」で埼玉出身のリーダーを演じた松岡茉優(まつおかまゆ)はクラスでイケてる女子役。クラスで一番の美人で一番の当事者の彼女役には山本美月。こちらもあまり重要っぽくは描かれないが、ヒロイン役にはおなじく「あまちゃん」の橋本愛。

などなど、思えば高校時代は誰もがそれぞれの個性を持って、役割を持って学校生活が成り立っていたんだと実に良く思わせてくれる内容。大人ぶっていても誰もが皆まだ子供で、それだけに繊細で揺れ動く。

タイトルでもこの物語の中心に据えられるべき「桐島」は登場することなく、中心が空虚のまま物語が終結する。決して都会でもなく、そして田舎過ぎもしないなんとも素晴らしいその雰囲気。撮影は「高知中央高等学校」が行われたらしく、恐らく高知市はほどよいコミュニティを残す数少ない幸福な地方都市なのだろうと勝手に想像を膨らませる。

主題歌である高橋優「陽はまた昇る」もまた映像によくあって、雰囲気を守り立てるのに十分な役割と果たしている。

日本人であれば、ほとんどが共有できる青春の一ページ。誰もが主人公で、誰もが輝いていたあの時代。こういう物語も自分で描いてみたいと思う物語に近いのだろうと思いながら画面を閉じる事にする。

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スタッフ
監督 吉田大八
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キャスト
神木隆之介 前田涼也
橋本愛東 原かすみ
大後寿々花 沢島亜矢
前野朋哉 武文
岩井秀人
清水くるみ 宮部実果
藤井武美 詩織
山本美月 梨紗
松岡茉優 沙奈
落合モトキ 竜汰
浅香航 大友弘
太賀 風助
東出昌大 菊池宏樹
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作品データ
製作年 2012年
製作国 日本
配給 ショウゲート
上映時間103分
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2013年2月23日土曜日

「2005年のロケットボーイズ」 五十嵐貴久 ★★★


どうしてこんなところにいるのだろう。
胸のどこかで、小さな笑いが弾けた。
そうだ、あんなことがあったから、おれは今ここにいる。

おれたちはバカだったな。
本当に、おれたちはダメだった。
バカはバカなりに、ダメはダメなりに、よくやったじゃないか。
そうだ、俺達は間違ってなかった。


「僕らの7日間戦争」を思い出させる様な、なかなか憧れる様な回想シーンから始まる青春物語。全体的に現代らしい軽めのウィットが聞いていて、小気味のよいテンポで読みきれる。

新種子島宇宙センターから打ち上げられる日本初の友人探査機’のぞみ13’。それを見つける担当部長。17歳の夏に経験した仲間達との時間が彼を今この場所にいさせるのだが、近未来とされるその設定もまたなかなか洒落ており、エクサバイトばりに身体に埋め込む体内ユニットのおかげで、携帯電話を持ち歩くことが必要なくなり、部下は「SONYって何ですか?」何て聞いてくる、そんな未来。それでも持ち歩く、かつての折りたたみ式携帯電話。これも話といたるところにちりばめられる伏線の一つということか。

回想するかつての日本では、鳥人間コンテストで毎年優秀な成績を残す鳥人間部が支配的な地位を占める工業高校で彼は落ちぶれたダメ生徒として登場する。蒲田のつぶれそうな鉄工所だとか、ひきこもりになった親父、サヴァン症候群で他人とコミュニケーションができないレインマンなど、登場人物設定がなかなか凝っていて、話が展開していってもほつれが出てこない。

「どこかで一度くらい当事者になってみたいって思ってたんだ」

そんなのは17歳の夏だからゆるされる会話だ、と主人公が言うように、ほどよい具合に青春の青臭さが漂い、キューブサットの設計コンテストという理系の中でもかなり角の尖ったオタク・トピックにも関わらずサクサク読み進めること間違いなし。

「おれたちは少しずつ自分の居場所を見つけたような気になっていた。」

子供ができたらぜひとも読ませたいと思える一冊

2012年11月9日金曜日

「悪の教典 上・下」貴志祐介 ★★★★

「人を殺してはなぜいけないのか?」

そんな根源的な問いに対して、

「法によって罰せられることが決められていて、その後社会での生活が困難になるため」

と、何の躊躇いも無く答える人間が同じ社会の中に住んでいるとしたらどんな恐怖であろうか。

道徳やルールといった社会が成立するための前提として我々が共有していると思われる感覚をまったく持ち合わせていないのに、それを微塵も滲ませること無く、高い知性とそれを成し遂げる意思と身体能力を持ち合わせ、心理学や刑法に精通し、人心をいとも簡単に操り、良心の呵責の欠片もなく、自己の欲望の実現の邪魔になるものは排除する。

そんなサイコパスが日常に紛れ込んでいるかもしれない現代の恐怖。

「長い腕」にしても、どうも作者はサイコパスという、常識をいとも簡単に逸脱するほどの明確な自己内論理を持ちうる主人公の狂気に惹かれるようではあるが、どうしても映画「アメリカン・サイコ」の冷たいエリート殺人鬼のイメージを超えていかない。


世の中に衝撃を与える小説として、そのストーリーの前提となる軸をどれだけ歪めることができるかが重要であり、それが日常のすぐ近くにあればあるほど、差異の効果は抜群になる。

たとえば「バトル・ロワイヤル」。未来の平和な日本の中学校の風景だが、たった一点のゆがみ;中学校の一クラスが殺し合いをして生き残ったもののみが生還できる。というルールが挿入されることで、パラレル・ワールドが成立する。

そんな歪みとして用意されたのは頭脳明晰で容姿端麗、生徒想いで上司同僚からの支持も抜群という理想的な高校教師。そしてその舞台は半ば閉鎖された空間としての高校。

学校という規律と管理が支配する空間で、小学校や中学生のように圧倒的な子供でもなく、ましてや大人でもない高校生という群を相手に、自らも顔のある人間として苦しみ日常を送る教師としての大人たち。

学校が狂っているのは、生徒が狂っているだけでなく、その親も、そして教師も共に狂っている現代。誰もが過度のストレスに圧迫され、鬱憤を溜め込んで、ネットという非現実の世界でもう一人の自分を見出して加速させたその欲望を飼いならすことが出来ないままに、また現実社会のなかで徘徊し、欲望を垂れ流す。

ネットという匿名の武器を手に入れた大人以前の高校生たちが、一番近しい大人としての教師の選別を始め、学校の中に出来上がる新たなる秩序。

その中に圧倒的な知性を備えた主人公が、支配・非支配の潜在的な世界を構築し、自らの理想郷を築いていく。その設定はなかなかスリリングであり、前半はかなりよいテンポで読ませてくれるが、いかんせん、いきなりデウス・エクス・マキナで「木を隠すなら森に」と、クラス全員を一夜にして殺してしまおうというのはいただけない。ここまで積み上げてきたロジカルな展開を随分泡にしてしまう。生徒一人に一つの伏線では流石に薄っぺらくならざるを得ない。

しかし、ネットやモンスター・ペアレンツの登場によって聖職者として境界線を守り続けてきていた教師という人格も、当たり前の様に弱さや脆さを抱え、逃げることの出来ない閉鎖社会の中で苦しみを表現することなく蓄積させて、さまざまな犯罪行為に走るほどのゆがんだ欲望へと走る教師たち。

そんな犯罪者にならないまでも、頭の中で想像したことは誰にも言えないというほどの煮えたぎる悪意を抱えて今日も教壇に立っている教師は恐らく数え切れないほどこの社会の中にいるはずで、そんな彼らこそ心の中で拍手喝采を送りながら、「いいぞ、ハスミン!」と唱えているのではないだろうか。

2012年11月3日土曜日

地元

「地元」

と言ったら、何を思い浮かべるのだろうか。

自分の育った場所はある小学校の学区に属し、それは同時により広域な中学校の学区に属し、さらに言えばより広域な高校の学区にも属する。高校は選択があるので、同じ地域でも幾つかの高校が円をオーバーラップさせながら班目模様を描くそんなイメージ。その全体は恐らく市という形を描き出す。

高校以降に大学進学などで生まれ育った場所を離れたりすれば、恐らくその全体としての市を地元として意識することが多くなるのだと思う。しかしそれは小・中学校のより小さい単位の「地元」のよって構成されているということを忘れる事はできない。

それは極めて同時に自らの人格構成の寄る場所としても同じことが言える。

自らの意思による選択と受験の結果によって通うことになり、似たり寄ったりの学習能力の生徒が集まることになる高校時代。それに対して、生まれ落ちた場所とダイレクトに結びつき、選択の余地なく放り込まれた多様性のある様々な家庭環境をもった人間の集まる小・中学校の地元。

小さな単位であるから逆にいるメンバーによって集団はどのようにも変化する。

そんなことを思う帰省。今年始めに逝った小・中の同級生の訃報をきっかけにSNS助けを借りて繋がりが広がった小・中同級生の輪。夏にあった同窓会に顔を出せず、前回の帰省で別途墓に手を合わせにおくために逝った彼の親友であった同級生と取り合う連絡。

そんな繋がりから仕事へと発展し再度の帰省で、その彼が声がけして集めてくれた懐かしい面々。地元で根をおろし新しい世代を形成する彼ら。JAという地元の横の繋がりが助けを借りながらも、着実に自分達の世代を形成し、力を蓄えているその姿に何ともいえない羨望を感じる。

そこに来てくれた別の同級生。恐らく年内になるだろうという総選挙に出る予定をしている今は政治家として活動する彼の登場で、現状の活動を聞きながらも「そりゃ、大変だな」などと言いながら、あーだこーだと話に花を咲かせる。そんな間にすっかり2時をまわり、「そろそろ」と代行に電話する姿を見ると、皆それぞれいいおっさんになったもんだと思いながらも、そんな「地元」に感謝を感じる秋の夜。