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2013年12月31日火曜日

「九月が永遠に続けば」 沼田まほかる 2004 ★

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第5回(2004年) ホラーサスペンス大賞受賞
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「グロテスク」

そんな言葉を何度も頭に浮かべながらページをめくったこの一冊。非常に嫌な感じのする、全編を通して付きまとうネットリした性の気配。

登場人物がその年齢や役割に関係なく、常に「男と女」というむき出しの欲望を社会性という表面のすぐ下に隠し持ちながら役割を演じているような気にさせるほど、「性」の気配が常に見え隠れする。

「グロテスク」なものが、その差異性の為に何からしらの「魅力」を携えてしまうように、痛みを感じる描写やえぐいほどに壊れやすい美しい登場人物達は、不思議な魅力を持っているのは確かであろう。

それがいいのか悪いのか、小説として何か心に残るのかどうかは別にして、それでも目を覆う指の間から、「グロテスク」をちらりと見てみたい人間の欲望の様に、先のページに何が待ち受けるのか気になって読み進めてしまう。

よりグロテスクなものを求める。それが人間の本性だと言わんばかりに。


登場人物は決して多くは無いがその中で複雑にそしてドロドロに絡み合う人間関係。41歳のバツイチの主人公を中心にして、一見普通に見えながら、何とも心に闇を抱えた登場人物たちに絶対的に惹きつけられしまう。現実にもいる、そこに居るだけで周りをひきつけてしまう人間達。

「グロテスク」と言えば、東電OL殺人事件を元にした桐野夏生の小説を思い出すが、それとはまた違った意味の「グロテスク」の魅力と恐ろしさを描いた内容で、新しいだけにどう消化するのに戸惑う一冊。


2013年12月20日金曜日

年代の多様性と触れ合う大切さ

先日妻が友人に誘われて、その友人の通うキリスト教の教会の活動として、北京郊外にある孤児院にクリスマスの飾り付けの手伝いに行ってきた。主に障害を持つなどして親が養育できないとされた幼児達が生活をする施設で、海外からの養子縁組などを受けているという。

その時は妻の友人が通う教会からだけでなく、中国人の大学生グループも訪れて幼児の遊びの相手などをしていたようであるが、妻が言うにはどの子も皆性格がとにかくオープンで、知らない人に対しても積極的に身体を預けているというのに驚いたと言う。

恐らく、養子縁組に出される子供たちなので、訪れる人に対してできるだけの愛嬌を振りまいた方がより養子に引き取られやすいというのを小さいながらに感じ取っているという点もあるのだろうが、何よりも毎週違う大人たちが100%の愛情を持って接しに来てくれて自分を可愛がってくれるという環境に慣れているからの性格なのだろうと妻と結論付ける。

こういう話を聞いて思う事。現代社会の都市生活では特に顕著になってきた、ある一定の層としか交流せずに繰り返す日常。特に日本の社会ではそれが顕著だと思うが、自分の生活水準に近しい限られた人としか接することなく、ストレンジャー達に出会うことなく時間が過ぎていく。

この教会の活動の様に、絶対的に自分がケアを与えてあげる事のできる幼児達に日常の中で触れ合うこと、それぞれの人の様々な意識を変えるのではと思わずにいられない。

中国の街を歩いていると、小さい子がお尻がぱっくり割れているズボンを穿きながら、母親に抱きかかえられておしっこをしている姿をよく見かける。もちろんあそこも丸見え状態。

そんな風景を眺めながら妻と話す。「そういう趣味の人にはたまらないんだろうね」と。そう思うが、そういう風景が当たり前に日常に溶け込んでいる方が、よっぽど変な趣向が芽生えないのかもとも思わずにいられない。

現代社会の過酷なストレスと、誰でも誰とでも繋がる事ができるようになったインターネットの出現で、女子高生や幼女など歪んだ性の趣向が渦巻く現代日本。それがこの国独特なもので異常なものであるのかどうかが気にかかり、スタッフの中国人に聞いてみるが、やはりそういうのは聞かないという。

日常の中に当たり前に年代の多様性と接すること。それが輪切りにされてしまった今の社会の硬直性を打開するのと同時に、少しでも健全な精神を取り戻す事にも繋がる事なんだろうと思わずにいられない。

2013年4月27日土曜日

こむら返り

かつてロンドンで働いている時に、同じくAAの大学院を出て、同じタイミングでザハ事務所で勤務し始めた当時10歳くらい年上のオーストラリア人がいた。

その年齢からか、もしくは彼の経験からかわ知らないが、こちらが必死にコンペで最後の仕上げをしているのに、定期的に画面を覗きに来ては「どうなってる?」「問題ない?」「ここはちょっと直した方がいいね」などと偉そうに言ってくる役割を担っていた。

「オマエは何もしてないのに、何を偉そうに・・・」

と思いつつ、顔が似ているということで、チームの周辺にやってくる度に「ミスター・ビーンがやってくる」と皆でコソコソ言っていたのを思い出す。


恐らくその時の彼の年齢に自分も達したであろうこのごろ。

大きな大きなコンペの締切りを控えたこの時期、今の自分はオフィスの中でよく歩き回っている。

チームのメンバーのパソコンの前まで行き画面を覗き込み、印刷させてはスケッチをし、イラストレーターでの着色を微調整し、インデザインのレイアウトに使う参考写真を探してわたし、レンダリングの雰囲気を描きこむなどととにかく歩いて回る。

そのおかげでかこの数日、朝方にこむら返りになる程。

指示をして、そのスタッフが正確に意図を理解し、テイストを感じ取り、クオリティを確保でき、時間通りに仕上てくれるのなら、こちらはきっと歩く必要はないのだろう。

しかし、これだけ様々なバックグランドを持った人間がいると、それぞれの仕事への姿勢も大きく差があり、ましてはインターンという学生もチームに入っていると、どうしても誰かがこまめにグルグル回って、全体を統合していかなければいけなくなり、その作業は外から見ているよりもずっと難易度が高いものである。

「やれる、やれる」といいながら、一向に仕上がらない平面図。遠くからその作業振りを見ていると、ちょっとやってはすぐに携帯をいじっているスタッフの姿・・・。思い通りに行かないと、必要のないことをやりだしてみるスタッフ。全体を見渡す役割を担わせて見ても、ついつい一つのタスクに視野を取られてしまうスタッフ。

それが人間の性だと分かりつつ、その為には時間と経験が必要だと知りつつ、「勝てるプロジェクト」に磨き上げるために、期限内で仕上るために、明日の朝もまたこむら返りだと思いながらまた歩くことにする。

2010年6月23日水曜日

「東京島」 桐野夏生 2008 ★

一時期、随分とはまった桐野夏生。描きだす人間のドロドロとした本性。社会の中で生きるという暗黙のルールが外れた途端に、そのグロテスクな獣性、汚らわしいまでの自己保身の為の行動など、結局人間も動物であるということをこれでもかと描くその非日常性にずっぷりと埋もれていた時期から暫く時間が空いていたが、どうもこれは凄いらしいという評判を聞きつけて手に取った一冊。

「東電OL殺人事件」を基にした「グロテスク」同様、本作も実際にあった事件を基にした創作だという。その事件とは太平洋のマリアナ諸島に浮かぶ島・アナタハン島に1945年に漂着した日本人の間でおこった「アナタハンの女王事件」と呼ばれる事件。その内容はまさに本作の下敷きになったといってよいであろう。

夫二人で参加したクルーズ旅行から一転、流れ着いた無人島での生活。その後、同じく漂着してきた若い男の集団。そして生きる力を失い、死んでいく夫。そこで生まれる状況は男31人に対して、女1人の無人島での生活。

生きていく為の食料などの確保は比較的容易に出来るだけに生まれる男と女という社会性。その中で「一人」という希少性が持つ価値を利用して、この新たに生まれた世界で権力を独占しようとする主人公「清子」。

「今年で46歳」というその設定もまた絶妙であるが、「これほど男に焦がれられた女は世界に何人」と自ら言うように、自らの「女性」が圧倒的な価値となる場を手に入れた清子はその価値を最大化する為に一定期間、自分を独占できる「夫」をくじ引きで決めることとする。

そのくじ引きの行われる場所は「コウキョ」と呼ばれ、この島を「トウキョウ」と呼び、無人島の中にも一定の人数の人間だ共同して住まうことの中で生まれる社会性を入れ込んでくるのもまた絶妙。

そこに流れ着いてきて、力強いサバイバビリティーを見せる中国人の集団。日本人の集団の中にも様々なグループが出来てきて、リーダーも生まれてくるなか発覚する自らの妊娠。島からの脱出、その失敗を経ての出産。そしてチキとチータと名づけられる、男と女の双子。

調べるとスペイン語で少女を「チカ」と呼び、それが「チキータ」と変形し、それが更に変形して「チキチータ」となってアバの名曲の中でも歌われるようになったというが、どういう繋がりかは分からないがそんな名前を付けられた二人の運命はその後、島のプリンスと東京に戻って普通の中学生へとまったく異なってしまう。

設定の強烈さ。そして極限状況における人間が徐々に現す獣性。そして社会的動物である人間の行動と、その中でも異彩を放つ個人のエゴという、基本的に著者の作品の中で形を変えては搭乗する要素が「無人島」と「圧倒的多数の男に対して一人の女」という「非日常」の舞台を与えられテンポ良く読み進める。

それで中盤まではぐいぐい引き込まれていくのだが、人間の本能的な汚さと社会性の中での揺らぐ葛藤という構図を別にすると、「汚い、怖いものを見てみたい」という娯楽性を超えて何かあるかと考えると、これといって何も見えてこないままにページを閉じることになる。