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所在地 岡山県津山市山下
設計 川島甲士
竣工 1965
機能 文化センター
規模 地下1階地上3階 別棟1階
構造 鉄筋コンクリート造り、一部鉄筋コンクリート造り及び鉄骨造り
建築面積 2,832㎡
延床面積 4,677㎡
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ちゃっちゃっと書こうと思うが、やはり時間がかかってしまう。忸怩たる思いを抱えながらも、それでもほっておいても消化されていくわけでも無いので、しょうがないかと一つ一つこなしていくことにする。
中山神社から市内中心部へ向かう。昨日かなりの長距離を走った為に、ここに来てガソリンが無くなってくる。目盛りが残り一つでかなりやばい。それが点滅し始めたところ中心部をグルグルしながら、やっとガソリンスタンドへ。
城下町だけあって、市内中心部はかなり道幅が狭い。朝のラッシュ時も重なりかなりの交通渋滞が発生している。ガソリンを満タンに補充し、何とか渋滞を抜け出し城方面へと走らせると、視線の先に明らかに不思議な建物が見えてくる。
これが川島甲士(かわしまこうじ)設計による津山文化センター。津山城の麓に聳える現代の城郭の様な建物。そう思わせるのはこの建物が寺社建築でも多く使われてき「斗栱(ときょう)」をモチーフとして鉄筋コンクリートにて実現されているからである。
その「斗栱(ときょう)」だが、寺社の屋根の下に張り出すように組み合わされている部分であり、升と肘木を組み合わせた木造建築に特徴的なデザインである。つまり肘を曲げた腕でモノを支えるように、細い部材が何個も繰り返されて深い庇の空間を作りだす。
太い部材を取り出すのは製造的にも輸送的にも、そして施行的にも難しかった古代に生み出された細い材で大きな屋根を支える木造の工法とその表現方法を、日本建築の代表的な表現だとし、現代的な素材である鉄筋コンクリート造の建物に適応させた非常に珍しい建物である。
異なる素材にはそれぞれに適した表現方法があるのは当然で、その意味で鉄筋コンクリートと言う新しい素材を手に入れたモダニズムの建築家達が、その科学的特性をどのような表現に落とし込むのが一番この素材の特性を表現するのに適しているのかを模索した時代。
その中で、少し上の世代である丹下健三が日本の伝統的建築が持つ水平性を、鉄筋コンクリート造で近代的表現に昇華させたのが「香川県庁舎」だったように、時代が新しい技術に対して、日本の伝統をどう組み合わせていくのかを必死に求める中で生み出された建築の一つといっていいだろう。
二段組で張り出すコンクリートの「斗栱」はPC造(プレキャストコンクリート造)で、その間に組み込まれる手すり部分などとあわせて、工場で生産されて現場に運び込まれた。その為に現場での打設に比べて格段の精度が得られる。そしてその「斗栱」に支えられ上方に行くほど迫り出し、広がる屋根が作り出す暗く深い庇の下の空間。それを強調するかのように黒で統一されたサッシ類。
プレキャストという精度の高い工場製品の特徴は、輸送や施工を考えても一つ一つの部品は大きさに限度がある。その為に比較的小さな部材が数多く繰り返されることにより、全体を構成することになる。そして同じ部品を、多く、早く、正確に作れることが工場生産の特徴であり、産業革命以来の建築における一つの通過点でもあった。
そんな訳でプレキャストを採用した建築の大きな特徴でもある、モデュールによるリズム感を十分に感じながら、ぐるりと建物を廻っていく。
凹凸をつけられたタイル張りや、こちらもどうやって打設したのか頭を悩ませるような凹凸をもったコンクリートの壁面。もちろんその型枠は焼いた杉板。壁から張り出す避難階段など、ディテールには見所が満載である。
しかし、寺社建築の「斗栱」をモチーフとしながらも、寺社建築が四面に対して同じ表情を持つのに留まらず、柱間を変えることや壁面の扱いによって、それでも正面性を持たせたその庇の下の空間があるのに対して、この建物はどうも庇の下の壁面に対する意識があまり感じられない。
ガラス越しに見えるホールの壁面など、面白そうなところは沢山あるにも関わらず、「斗栱」による段階状のファサードとその上の大屋根。その下に数多散りばめられた土着的なディテールたち。それらを統合する1階部のファサードがもう一つあればより明確な建築になったのではと思わずにいられない。
ぐるりと廻って城側にやってくると見えてくるのが地上から浮かされたなんともプロポーションの良い展示ホール。その壁面は、ボリュームから独立し、一枚の面として扱われており、その表面もザラザラとした質感が十分に伝わってくる迫力のあるものになっている。なんでも、5人の斫り師が、蚤で1ヶ月かけてつくったという。やはり手の痕跡は建築に大きな魅力を与えてくれる。
設計者である川島甲士氏は1925年(大正14年)生まれで、同年代の建築家といえば下記の様なメンバーになる。
丹下健三 1913年
篠原一男 1925年
槇文彦 1928年
磯崎新 1931年
黒川紀章 1934年
原広司 1936年
谷口吉生 1937年
こうして見ると、メタボリズムよりも少々上の世代であるが、確実に新しい時代の空気を感じながら設計に取り組んでいた時代といえよう。
1949年に早稲田大学建築学科を卒業し清水建設設計部を経て逓信省(後・郵政省)営繕部設計課に勤務。そして1957年の32歳の時に独立し自らの設計事務所を構えることになり、40歳の時点でこの津山文化センターを手がけることになる。
東京都台東区に設計した「松源寺(1969)」や「妙経寺(1959)」も、やはりコンクリートの大屋根が特徴的で、この津山文化センターを含め建築家のぶれない設計姿勢が良く見て取れる。ぜひ次回の帰国時には久々に台東区へ足を伸ばそうと思いながら、横に広がる津山城津山城に向かうことにする。