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2016年2月5日金曜日

姫路城 赤松貞範 1346 ★★★


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所在地  兵庫県姫路市本町
城郭構造 渦郭式平山城
天守   連立式望楼型
築城主  赤松貞範
別名   白鷺城
築城   1346
機能   城郭
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世界遺産
国宝
日本100名城
現存天守(松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・弘前城・丸岡城・備中松山城・丸亀城・高知城・伊予松山城・宇和島城)
国宝五城(松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城)
三名城 (4姫路城・名古屋城・大坂城)
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姫路の北側から街の中心部に車を走らせると、閑静な住宅地を抜けていきなり緑の豊かな文教地区に入ったことが、通学に向かう学生の姿で感じられる。ここは戦国時代に中国攻めの拠点として重要な位置を占めた播磨国の中心地、姫路城。

織田信長の命を受け、後に豊臣秀吉となる羽柴秀吉が居城し、その秀吉の部下であった池田輝政が最後は徳川家康の家臣となって治めた城である。現存天守の12の城の一つとして、また周囲の環境と調和した素晴らしい配置計画と青い空と対話する様に映える白色のように、非常に美しくまた歴史的にも重要な意味を持つとして世界遺産にも登録されており、長くかかっていた修復作業が終了し、白さを増した姿が公開されたことで、多くの観光客を呼び込んでいるのでも知られているこの姫路城は、ぜひとも一度は実際に訪れてみたかった場所である。

その一番の記憶といえば、子供の頃に夢中になって読みふけっていたキン肉マンの王位争奪戦の最中にキン肉マンチームとゼブラチームの対決の会場となり、さらに「鯱が白鷺をくわえる時、強者、関の原に集う」という予言に沿う様に、別会場であった名古屋城と一緒に空を飛び、合体して関が原に降り立つという強烈な印象を幼少期の記憶に刻み付けた「あの白鷺城がこれか」と思う同年代はきっと少なくないだろう。

城はもちろんだが、素晴らしいのはその足元に雄大に広がる都市公園。街のシンボルとなる美しき歴史建造物に見守られ、ここで人生の中の様々なイベントを体験し、その時々の記憶に見上げた城の姿が残っているこの土地に生まれた人々は、幸せな時間を過ごすのだろうと勝手な想像を膨らませながら、城の中へと足を向けることにする。

























2015年10月6日火曜日

水戸城跡 弘道館 馬場資幹 1198 ★


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所在地  茨城県水戸市三の丸
城郭構造 連郭式平山城
天守   なし
築城主  馬場資幹
別名   馬場城、水府城
築城   1198
機能   城郭
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日本100名城
Discover Japan「いま、見ておくべき城 100」
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「城」は訪れるのがなかなか難しい。詳しく事前調査する時間がたっぷりあれば、そこに城が残っているのか、それとも再建されているのか、それとも城跡として整備されているのか、それとも整備も何もされていないのか、などという情報を持って、どの様な訪問になるのかある程度のイメージがつけれるが、この現代社会、そんな悠長なことは言ってられない。「日本100名城」に登録されている程度の情報を持って訪れることになるので、現地で混乱することが多いものである。

という訳でこの水戸城も、もれることなく「日本100名城」に数えられているためにリストに入れていたが、その前に訪れた水戸芸術館で受付の人に「どうやって行けばいいのか?」と尋ねてみるが、「この人は何を言っているのか?」という顔をされ、「水戸城なんてありませんよ」とあっさりした返答を受け取る。城ではなく城跡なんだと理解し、ここに住まう人にとってもなんら思い入れのある場所ではないようだと察して立ち寄り地から外そうかと思うが、「日本100名城」だけでなく、「いま、見ておくべき城 100」にも数えられているなら何かあるはずだと、再度ネットで検索して城跡らしき場所まで行ってみることにする。

ナビでそれらしきところを目的地として向かうが、相当に入り組んだ道に、プラス高低差があってたどり着けないなど、何度かぐるぐる回らされることになり、やっと上に辿りつき警備員らしきおじさんに聞いてみると、なんだか嬉しそうに、「あの先の信号を左に曲がってまっすぐ行くと弘道館に就くから、そこらへんですよ」と教えてくれる。

言われるままに進んでいくと、確かに弘道館を目的地としてなら来れるかもしれないが、水戸城跡地を探してくるのは難易度が高いなと理解する。とりあえず弘道館前でサンドイッチを頬張り昼食を済ませる。

水戸藩と言えば、2代藩主の徳川光圀に次いで知名度の高い、9代藩主の徳川斉昭。その斉昭によって作れれた藩校である弘道館。徳川光圀が始めた大日本史編纂を基礎とし、水戸学の作り出す舞台となった場所である。完成したのは1841年。建物としては同じ年代の高山陣屋に似ている雰囲気で、あちらは行政の場、こちらは学問の場であるが、当時の建築が場を提供し、内部のしつらえによって機能を変化させていたことが良く分かる。

外に戻り、門の向かいの橋を渡る。ここからが所謂水戸城跡地ということらしい。しかし徳川御三家の居城であったこの水戸城であるが、どうやら尾張徳川家の名古屋城、紀州徳川家の和歌山城に比べて随分と質素なものだったようである。

徳川の世が始まるまではどちらかと言えば京都を中心とした西日本が群雄割拠の中心地であり、それほどこの地に強固な城を築く防衛の重要性が無かったこと。徳川の世が始まってからは主に北の奥州への構えとしてこの地に徳川を置いたが、結局300年に及ぶ安泰の世が続いたことから、この城が防衛の為に強固にされることは一度もなかったという訳である。その為に、、北を流れる那珂川と南部に広がる千波湖を活用し、城を囲むのは石垣ではなくすべて土塁と空堀によって構成されている点も特徴であるらしい。

この一体は現在ではすっかり文教エリアとなっており、水戸一高、水戸三高、第二中学校、三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園と、所謂この地の優秀な学校がこの一体に集まっているようである。

丁度子供たちの下校の時間なのか、多くの母親が子供の手を引いて歩いていく姿を見かけたのだが、すべての人が徒歩にて子供と一緒に坂を下りていく。恐らく、車での迎えは禁止されているのか、それとも坂の下までしか車で来てはいけない事になっているのか、恐らくどちらかだろうと想像しながら、やはり歴史のある街の昔から残る文教地区の文化レベルの高さを垣間見た気がし、心地よい気分で次の目的地へと向かうことにする。