シテ島を南に渡り、セーヌ川沿いを西に向かっていく。朝のラッシュ時にあわせ、車も人も仕事場へと向かって急いで動いていく姿が、都市の一日のリズムを加速させていくようである。
遥かかなたに頭を雲に隠されたエッフェル塔を見ながらしばらく進むと、左手に半円弧の古典主義であるフランス学士院が見えてくる。その中心軸上にセーヌ川にかかり、向かいのルーヴル宮殿へと繋がるのが、このポンデザール(Pont des Arts)。
1804年にナポレオンの命を受け、初の鋼鉄製の歩道橋として架けられたという。ここで問題なのは、まず歩道橋。つまり馬車や汽車などではなく、純粋に人々が歩いて渡るために架けられたということ。そしてもう一つが鋼鉄製。つまりそれ以前にも石橋や木橋はあったけど、鉄という新しい素材を使い、その特性を表現するように、今までの石や木に比べて格段に「軽い」表情を持った橋が生まれたということ。
都市の中に輸送の手段として大きな川が流れる場合の必然として、両岸を生活の場面から分断してしまうが、それを人類の知恵として橋を架け、つなげることで様々な物流や交流を生み出す。その中で歩行橋として人の移動を主として架けられたということから、19世紀初頭のパリが都市としてどれだけ成熟してきていたかを感じさせる。
それと同時に、「鉄」という近代を象徴する新たなる素材が、様々な研究を積み重ねられ、その耐久性や加工性などを踏まえて今までにできなかったことを土木の世界において実践し始められたということ。こうした鉄に対する技術発展はさまざまな技師によって行われ、それがこれからおよそ100年後、1887年に開始してたった2年という驚異的なスピードで1889年に完成したエッフェル塔の建設へと繋がり、その後様々な建築にも使用され、軽く透明感をもった近代建築が生まれていく流れとなる訳である。
そんな歴史上の重要性よりも、この橋を有名にしたのは、世界中様々な有名観光地の橋で行われる「愛の南京錠」という若いカップルが互いの名前を記して永遠の愛を誓って橋の欄干に取り付けるという儀式。このポンデザールでも2008年ころからその行為が人気となり、あまりの多さに2014年にその大量の南京錠の重さによって一部の欄干が壊れてしまい、そのために南京錠を取り付けられないようにするために、以前の金網を取り外し、現在のガラス板の欄干へとデザインの変更が行われたという。
ちなみに橋の名前がポンデザール(芸術橋) と呼ばれるのは、ルーヴル宮殿がかつて「芸術の宮殿」と呼ばれていたからだといい、観光シーズンには多くの観光客がこの橋を渡り、セーヌ川の北と南を行き来するのだという。
ちなみ北側のルーブル宮殿は1区に属し、南側のフランス学士院は6区となる。すぐ南にはサンジェルマン・デ・プレ教会があり、学生時代によく聴いていたサンジェルマン・デ・プレ・カフェの音楽を思い出しながら、6区を南へと進んでいくことにする。
パリ6区