2015年3月19日木曜日

ベアの違和感


なんていう、非常に景気が良いのだと感じるニュースが躍っている。「アベノミクスで潤った企業の収益をその従業員まで恩恵が巡っているのだと社会にアピールするためになんとしても給与アップを成し遂げてくれ」という官邸の移行が上意下達として現れているのだろう。

「円安、株高」だから「収益アップ」。企業が儲かり、それが従業員まで給料アップで日本は好景気。

しかしどうも違和感を感じずにいられない。

数年前から何かしら社会において、この国の産業の価値を高める、各企業の市場における価値を高める、そんなイノベーションが起きて、それが認められ業績として跳ね返ってきて収益があがった。それならばきっと違和感は感じないだろう。

しかし、相変わらずこの国が10年後どんな社会を目指すのか、世界の中でどのような戦略を持ってビジネスを展開していくのか、崩壊していく地方社会をどう維持していくのか、漂流する高齢者に対する福祉政策をどうしていくのか、そんな見えないことに覆われた閉塞感はなんら払拭されることはなく、ただただ「アベノミクス」と「株高」の言葉が踊り、投資家という「労働無き富」を持つ人々が潤っていく。

「235万円」というのはとんでもない額である。年収がそれ以下で生きる人々のニュースも多く報道されているし、この報道を見て「やはり大企業は違う世界だな」と思っている人も数知れずいることだろう。そして逆に、「自分は世界企業に勤めているから、その恩恵を受けるのは必然だ」と思っている人もいることだろう。

二極化していく格差が顕在化し始めているのは間違いない。

しかし「どんどん売ればいい。売れば売れるほど利益は上がる。」と、売り上げ総数を目指し、その行為が我々の生きる世界にどんな影響を与えるのかを立ち止まって考えることなく、自分たちの利益を追い求める、そのやり方に限界は見えていないのかと考える。

限られたパイの中で、自分たちの獲得率を高める。それが自分たちが住まう世界をどれだけ傷つけようともそこは目を瞑る。それよりも自分の生活、家族の生活、会社の動向、自分に関係するそれぞれのスケールの所属母体が生き残ること、なおかつより豊かに生き残ることが利己的な人類にとっては何よりも重要であるのは間違いない。

しかし、これほどグローバル化が進み、経済活動が地球上を覆い尽くした現在においては、ある産業に力は生態系や気候すら変えてしまう巨大なパワーとなってしまった。その中において、「自分だけ」という考え方はすでに通用しなくなってきているのもまた誰の目にも明らかなのではないだろうか。

「周りに何を言われようが売れればいい」
「誰かが困ろうが、自分が得をすればいい」

そういう考え方の個人とそれを囲いこむ企業。「自分たちだけくらいは・・・」という思いはこれほど巨大化した世界経済圏の世界ではもう生き残れないと誰もが認識する時代に突入しており、誰かが、そしてどこかの企業が、企業の利益を超えた新たなる枠組みを提案していくそんなことが必要な時期に来ているのだろうと思わずにいられない。

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