2015年3月4日水曜日

ドイツ型の成熟社会もあるのだと思う

ドイツの街で時間を過ごすと、今まで日常的に過ごしている風景が如何にアメリカ的な考え方に支配されているのかが見えてくる。

人口が100万を超える都市でも、過剰に消費を刺激するような街並みになっている訳でもなく、夜遅くまで人々が街に繰り出し都市の享楽に耽るのでもなく、都市全体としてしっかりとした価値観を共有し、仕事、家庭、文化、娯楽、スポーツなどがちゃんとしたバランスで成り立っている。それが風景のいたるところから感じられる。

見た目重視よりも、しっかりと頭部を守るためのヘルメットを被り自転車で通勤する人々の姿の裏には、到着したオフィスでしっかりとシャワー室なども完備されているのだろうと想像する。

時間に追われるように、歩道を駆ける人の姿もなく、時間を惜しむかのように歩きながらドリンクを飲む人もなく、忙しさに追われるように日常を生きるのではなく、自分のペースを持ち、そのペースでできる中で生きるしっかりとした意志。

朝食を楽しむ時間。午後のコーヒーを楽しむ時間。友人とディナーを囲む時間。家族と週末に自然を楽しむ時間。

もっと多く、もっと速くと時間に追われ、仕事に支配され、自らの人生が欠片も残らない社会の在り方の対極にある成熟した社会。

刺激や娯楽性といった享楽的な要素は確かに少ないのかもしれない。それでもしっかりと自分でハンドルを握って、アクセルとブレーキを駆使して時間を過ごしている。そんな自信が感じられる。

都市がどこも同じような消費社会の投影図のような風景には決してならない。世界のどこでも同じ商品がロープライスで手に入る便利なショッピングモールの利便さを自分たちの住まう日常のプライオリティに据えてしまう。そして十年も経たないうちに、長い年月を経て培ってきた地域的風景が、統一的なモールの風景に置き換えられる。そんな日本の現代の風景とは対極的な風景。

ものすごく便利でなくても、ものすごく刺激的でなくても、それでも社会が選んだという共通意識がそこにあれば、それでも人々は幸福度を感じて生きていけるのだと、このドイツの風景が教えてくれているように思えてしょうがない。

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