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所在地 滋賀県近江八幡市宮内町
主祭神 誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比賣神(ひめかみ)
社格 県社・別表神社
本殿の様式 三間社流造
創建 131
機能 寺社
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昨晩、夜にも見えるかと期待して車で見にきたが、やはり建築物として太陽の日の下で見るべきだと痛感するほどまったく見えず、写真も取れず、諦めて朝7時過ぎにホテルをチェックアウトし、一番に訪れたのが近江八幡の観光の中心地でもあるこの神社。朝の清清しい空気の中、一の鳥居をくぐり、背後の八幡山を眺めながら気持ちのよい参道を歩いていくと、右手に見えてくるのが堂々とした楼門。色合いもとても落ち着いており、山を背景とした風景によく馴染む。
楼門をくぐってから拝殿に向かう参道の軸がちょっと触れているのが珍しい。拝殿後ろに向かう石畳の道が楼門の軸に沿っているだけに、拝殿への軸のズレがやけに強調されることになる。
朝一番ということで、手水でしっかりと手と口を清め、拝殿に向かって境内によく響く拍手を打ち参拝。
後ろの本殿と、さらに奥に鎮座する摂社に参拝すると、地元の方と思われるおばさんが頭を下げて挨拶をしてくれる。こんな早朝から境内に足を運び、それぞれの神様にお参りをする人に悪い人はいないだろうなと想像する。
境内に戻ると拝殿に向かってかなり若い女性が拍手を打っている。こういう風景を見ると、この神社がこの土地の一部として人々から愛され、人々を守護しているのかを垣間見た気になる。
日牟禮と書いて「ひむれ」。
全く読める気がしない。それだけ起源が古いと想像させる。
なんでも伝承によれば、131年成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。その後、275年に応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩し、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象を経験し、祠を建て日群之社八幡宮と名付けられたという。日が群になっている社と言う訳だ。
そして691年、藤原不比等(ふじわらのふひと)が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められた。和歌に詠んだら名前が変わってしまうのもまたすごいと思うが、やっと現在の名称に近づいてくる。1590年に豊臣秀吉の甥で秀吉の養子となった豊臣秀次が、後ろの山頂に八幡山城を築城するために、上の八幡宮を下の社に合祀する。そして昭和の1966年、神社名を日牟禮八幡宮と改称し、現在の名前となるという。
八幡山城の城下町は近江商人の町として栄え、その守護神としてこの日牟禮八幡宮は多くの近江商人の信仰を集めることとなったという。
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