殊像寺に入れなかったために、「それなら先ほどのバス停で降りたのに・・・」とやや恨めしく感じながら、バス停に戻るよりも直接歩いてしまったほうが早いだろうということで、荒涼としたかろうじて舗装された道を東に進むと、遠くに丘に沿うようにして見えてくるのが小布達拉宮(小ポタラ、Xiăo bù dá lā gōng)と呼ばれる普陀宗乗之廟(ぷとうしゅうじょうびょう、pǔ tuó zōng chéng zhī miào)。この承德で「外八廟」といえばこの寺院というような代名詞になっている寺院である。
その名の通り、チベットにあるポタラ宮殿を模して造られているからであり、これは先ほども出てきた満州族から中国の支配者に上り詰めた康煕帝が広大な中国全土を支配するために、チベット仏教を利用して蒙古族やチベット族などの少数民族達を支配下に置こうとした意図から分かりやすい「記号」としてチベット仏教の重要な寺院であるポタラ宮殿の様式を採用し、巨大な寺院をこの地に建造したということである。
避暑山荘の北側に位置する獅子嶺と呼ばれる山の起伏を利用するように、手前から徐々に上昇するような動線を経て徐々に寺院の奥に到達する構成をとり、下から見上げながら常に視線の先に鎮座する巨大な赤色の壁は「大紅台」と呼ばれ、高さ43メートルの巨大建築物である。
思ったよりも急な勾配で疲労を感じながら上っていくと、その壁はただのアイキャッチの機能だけでこの寺院の背景として機能しているのかと思っていたら、その壁の脇に設置された階段よりさらに内部に入りさらに上の上がっていく建築物であることに驚くことになる。
内部は建物が折り重なるようにして積まれているような空間になっており、中央に位置する万法帰一殿と呼ばれる建物の屋根は金色に輝く銅瓦にて覆われており、その先に今上ってきた寺院が鎮座する山の地形を望むことができ、さらにその先には避暑山荘の北側の山エリアが見え、その頂部には「万里の頂上?」と思われる建造物も見ることができる。
ここまで登るのはかなり体力と時間を要すので、真夏の暑い時期には相当な運動になるだろうと想像しながらも、この場所から見下ろす避暑山荘の風景がまさに歴史の中に承德の名を刻んできた舞台なのだと理解すると、承德に来たなら間違いなく訪れる場所の一つであろうと納得する。
と同時に、満州族という周縁の民族が歴史の舞台の中心に躍り出たときに、やはり歴史や文化を利用して支配構造を強めることに傾くために、自らの文化をさらに磨き上げるよりも、分かりやすい既存の文化を借りてきて、その権威を使うことで分かりやすい異文化間の支配を成し遂げようとした結果のこの場所の風景に、文化を成熟させていった唐や宋の時代の文化に比べ、清時代の風景があまり心に響いてこないのと何かしらの関係性が無いとはいえないだろうと思いながら、急勾配の階段を降りていくことにする。
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