3年という月日はあっという間だと教えてくれる、そんな区切りがあることはいいことだと思う。その一つがこの建築士定期講習。
普段からよく思うのだが、例えば医者。人の命を預かる大切な職業であるだけに、基本的な知識とともに、日々進歩する技術において最先端の知識を常に学び続けなければいけない職業であるが、それがどのように資格として担保されているのか?
それが国家資格として医師と呼ばれるために国家試験を受けて、その後はある程度個人に任されてしまい、大学病院など大きな組織に属しており、組織が体系立てて常にメーカーから新しい技術の講習を受けたり、製薬会社が主宰する勉強会などで新しい薬の知識を得たり、もしくは自身でいろいろな本をを読んだりして新しい社会の病気のあり方を学ぶ。
そんな最近流行の「意識高い系」の人ばかりとは限らないのがこの世の中。
下手すれば、何十年前にパスした国家試験の内容の知識で、あとは日々の診療という日常の中での経験だけに依拠し、それこそ何十年も前のカビの生えたような能力で診察を続けているという人だっているはずである。
能力を高めるためには、新しい知識を吸収するのと、日々同じことの繰り返しの中で修練する二つがあるとすれば、もちろん日常の中で様々な症状を見ていく中で修練されていく能力もあるに違いないが、それと同時に新たなる知識を更新していくのも確実に必要である。
またこの修練というものも、その環境によりまったレベルの違うものになってしまう。自分では随分レベルの高い日々を送っていると思っても、より大きな組織で、より競争の厳しい世界にさらされている人々に比べたら、何倍も遅いスピードで、まったく緊張感の無い中で時間をすごし、結果的職能としてまったく低いままの状態を維持すること、もしくは能力の維持どころか、かつての能力よりもずっと右肩下がりに落ちていることだってあるのかもしれない。
それが「技能」を保障されてそれを糧に社会から報酬を頂く技術職としてのあくなき葛藤であろう。ある程度までは資格というもので技術を担保するが、その先その人が技術をさらに伸ばしていくか、社会の変化に対応しただけの能力を身に着けていくか、資格を確保したときと同じだけの技術を維持していくか、それらはすべてその個人に拠ってしまう。
それを社会として確実に担保していくには、数年おきにその有資格者に対してある程度の確認作業を行い、彼らの技能が一定レベルと確保していると保証することが必要となる。
建築という、同じくかなり複雑で多岐に渡る技能を持って社会に向き合っていく職業を糧をしていると、上記の葛藤に常に悩まされることになる。
建築といっても、人によってはまったく設計をせずに何十年も自分を建築家と呼ぶ人もいれば、資格を取っても一度も図面すら引かない人もいる。そうかと思えば、施工とはかけ離れた表層的なことを日々の生業にしている人もいれば、逆に技術的な図面ばかりに向き合う人もいる。
それだけ分野内において細分化が行われている現代の中で、1から10まで一人でやり、しかもそれを長い年月において「やり続ける」というのはなかなか厳しいというのも事実である。しかし、「建築家」として社会に認められる上では、有資格者として最低限の技能を一定レベル以上に保つための努力はしなければいけない。
そんなに起きた姉歯事件。「プロフェッショナル」という特殊技術を糧に社会に奉仕するための技術者が、その職業倫理を守ることができなかったという事件以後、国家としてどのように資格者の技術レベルの担保を行うのかという議論の果てに義務付けられた3年ごとの講習会への参加と、その講習会の最後に行われるテストをパスすること。
あってしかるべき動きであると思う。
そんな訳で一番最近に受けた講習より3年以内に再度講習を受けなければ行けなく、また講習が受けられる場所も決まっているために、随分早く予約を入れることになる。講習内容といえば朝の9時から開始して、各コマ1時間の授業で間に10分の休憩。モニターを使った録画講義を元に手元のテキストを確認していき、職業倫理や最新の事故事例、新しい技術や素材の授業をみっちり受けることになる。
一級建築士という資格上、会場に来ているのも人の年齢層もやはりそれなりに高いが、誰もが集中して授業内容を聞きながら、最後のテストに向けて重要項目に線を引いている様子である。
そんな中、テレビ講義の中で講師として登場しているのが、大学で教わっていた先生であったり、また会場にもかつて学校で教えていたときにご一緒させてもらっていた先生がいたり、かと思えば同時期に資格に受かったかつての仲間の顔があったりと、なんだか懐かしい気分に浸りながら夕方の17;20分まで濃密な時間をすごし、職業人としての能力を少しだけ向上した気分で会場を後にする。
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