2014年2月3日月曜日

萬福寺(まんふくじ) 雪舟庭園 雪舟 1479 ★★


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所在地 島根県大田市大森町
山号  石室山
宗派  真言宗
創建  1374
開基  月海浄印
機能  寺社

庭園
年代 1479
作庭 雪舟
形式 寺院様式(須弥山様式)
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雪舟四大庭園
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昨年京都を中心にした近畿地方で重点的に体験してきた日本庭園の世界

重森三玲、小川治兵衛、中根金作、小堀遠州石川丈山夢窓疎石、雪舟・・・

どんな近代建築も敵わない永続性を空間の意味を作り出すその庭園の世界。自然の力を借りて、調和の中で絶妙なバランス、緊張感、快適さを作り出すその作庭の手法は、今ではどんなプロジェクトをデザインする時にも参照しながら進めるようになっている。

そんな訳で、この山陰にも庭園の歴史の中の重要な意味を持つ人物の手による作品が幾つか見られる。それがこの萬福寺(まんふくじ)内に作庭された、雪舟庭園。

雪舟(せっしゅう)といえば、1420年に生まれた室町時代に活動した水墨画家であり禅僧。当時の禅僧といえば、総合知を兼ね備えたスーパー文化人。その才能を求めて庇護したいと求める大名の下に落ち着きながら、作画や作庭をし全国をめぐりながら、更にインスピレーションを集めその感性を向上させる。

今で言う世界中を駆け巡ってプロジェクトを手がける「スター建築家」のようなものであるが、飛行機で本を読みながら目的地に到着できる現代とは異なり、全ては徒歩により周囲の自然を感じながら、様々な風土を理解して全国を巡る。なんとも羨ましい時間の流れ方。

備中と呼ばれる現在の岡山県の一地方で生まれた雪舟は京都の相国寺にて修行を積み、その後、現在の山口県の大名である大内氏の庇護により、周防に渡り活動を行う。その後、遣明船に乗り国費によって中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学ぶ。

今でいったら文化庁による芸術家海外研修制度のようなものである。国のお金で数年間、海外でじっくり最先端の技術とデザインを学ぶ。インターネットの出現で情報の同時間性がもたらされ、物理的な距離が情報の格差を確保しなくなった現代においては、身をもって体験しないと身につけられないものをしっかりと見極めていかないといけない時代であるが、どんな時代でも自分のいる場所から離れて自らを見直す「離見の見」を人生の若い時期に見につけることは大変意義の大きなことであろう。

開国以降の日本でも、西洋諸国の新しい技術と理論を学ぶ為に多くの若者が海外に送られ、多くの知識を見につけて帰国し、それを国の発展の為に発揮する場があったし、それを与えてくれる上の世代がいた時代。現代では上の世代はいつまでも「俺、俺」と場所を占拠し、海外に視野を広げにチャレンジするものよりも国内に留まりレールから外れないものが安定した生涯と立場を手に入れていく硬直した現代の日本。

古来より大陸から多くの知識と文化が流れ込み、更に向学心を持った若者が多く危険を伴いながら海を渡った交流の歴史を顧みると、それを放棄していく日本にはどんな文化的未来があるのかと思わずにいられない。

しかし、こうして歴史を見てみるとやはり旧国地図と現代地図のオーバーラップを頭の中で行わないと、どうしても地理的理解が得られないことが理解できる。面倒でも常に現代地図と旧国地図を対比しながら街道沿いに作られてきた日本の風土を理解していかねばと改めて痛感する。

さて、そんな室町の文化的巨人であった雪舟。彼が築いたものと伝えられる庭園は各地に残っており、中でも医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園は雪舟四大庭園と呼ばれる傑作である。

そんななかの一つである、この萬福寺(まんふくじ)。建立は1374年で、この増田の地を語る上で外せない益田七尾城の城主であった益田家の、11代城主益田兼見(ますだかねはる)により建立された。そしてその後もずっと益田家の菩提寺として保護されてきた。

益田の街に入り、川沿いの道を少し入ったところから見える境内。脇の細い道を通って裏の駐車場に車を入れるがその周辺はなんとも雰囲気のあるバラックのような家屋に囲まれる。「表と裏があるいい雰囲気だな」と整備された塀に沿って正面総門へ。

総門正面には参道がまっすぐ整備され、神社も近くに鎮座し寺前の街並みが形成されている。総門をくぐると、左手に見えるのが、鎌倉様式の本堂。その規模は七間四面。この七間四面だが、ネットで調べるとどうもちゃんとした説明がなされていない。

七間という奇数だけ柱の間があるということは、中心軸上に柱にぶつかることなく通り抜けられる通路があるということ。写真でも分かるように中心の障子部分が中心軸となっている。

この1間というのは現在で言えば約1.8m。しかし昔は場所によって長さの計り方が違っていたので、文字通り、柱と柱の間のことを表し、柱の間がどれだけあるかによって○○間と表記される。

その七間が四面に巡っている正方形のお堂の形式であり、この母屋の大きさは、平安中期くらいまでは「五間四面」、つまり少々が標準とされ、平安後期以降は「七間四面」が標準となってきたという。つまり技術の発展と共に徐々に大きな建物を建てられるようになったということである。

同じ七間四面の形式を持つものは京都の知恩院勢至堂(せいしどう)であり、その形式は七間四面単層入母屋造本瓦葺と表記される。間違いないように「日本建築史図集」に依って平面図を確認してみると、やはり四面ともに七間であるという認識で間違いないようである。

つまり七間もあるので、水平に伸びるような伸びやかさを持ったデザインであり、それでいて中心に入り口を持って安定した印象を与えてくれる。同時期の建物としては銀閣寺や金閣寺などがあげられるが、比較するとその重心の低さがよく理解できる。

さて、境内をぐるりと巡って入り口へ。受付に誰もいないので「すいませーん」と呼ぶと、お寺の奥さんが出てきてくれる。建築よりもよっぽど手入れに手間のかかる庭園を併設しているお寺ならこれくらいは当然だと納得できる大人300円の拝観料を支払い、中に通される。

「他には誰もいないので、ゆっくり見てってください」という言葉に甘え、雪舟がその生涯を終えたこの益田の地で、今までの集大成として手がけていたに違いないこの庭園をじっくり堪能することにする。

本堂の裏側に広がる雪舟庭園を縁側に座りのんびりと見終わって立ちあがろうとするときに、ツルッとカメラを落としてしまい、「大丈夫かな?」といじってみるが電池が入らなくなってしまう。「これはこの先の行程に大きく影響がでるな・・・」ということで、少々落ち込みながらおばさんに大きな家電屋が無いかを聞きに入り口に戻る。

すると、暫くしてなぜか電池が再度入るようになり、怪訝に思いながらも入り口に戻ると、丁寧なおばさんがあれやこれやと説明してくれる。恐らく平日に訪れてくる観光客も少ないのか、「建築をしている」、というと、「それは素晴らしいです」と本堂の建築について色々と説明してくれ、「庭園を巡っている」というと、雪舟についてあれやこれやと教えてくれる。

もちろんこの後、この益田の地に残されたもう一つの雪舟四大庭園である医光寺に足を運ぶと伝えると、丁寧に近道を教えてくれて、「よい旅を」と玄関まで見送られる。なんだか益田の風土とこの土地の人柄が垣間見えた気になって、駐車場へと戻っていくことにする。











知恩院勢至堂







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