2012年3月31日土曜日

酒田市美術館 池原義郎 1997 ★★★★★















中国に行く前にせっかくだからと、妻のご両親が山形へのバス旅行を企画してくれた。

というのも、ブログをこまめに見てくれていて、「なんとか中国に行く前に酒田市美術館を見てみたい」というコメントをチェックしてくれていたという。なんともありがたい。

関東から新潟を抜けての山形入りで結構盛りだくさんの内容なので、抜ける時間があるか心配だったが、初日にちょっと早めに宿泊地の鶴岡に着いたのをいいことに、夕食までの束の間に急いでタクシーをよんで酒田市へ飛ばしてもらう。

国体で整備されたという文教地域のゆったりとした一体の中を走っていくと、遠くに土門拳記念館が見えてくるが、両方ゆっくり見る時間は残されていないので、秤にかけると圧倒的な重量をもって池原建築に軍配が上がる。

とことん壁を面に、柱を線分に還元して、建築が一つ一つのモノの集合体であり、その一つ一つのモノの関係性によって、総体としての空間の質が決定されることを端的に示す素晴らしい作品。建築が重力に対する人的な構築物としての力の流れの構成であるならば、その一つ一つの力がエレガントな建築のエレメントとして立体的に配置される。

すべてのコーナー、二つ以上の素材がぶつかる境界、それらは決して無粋な一枚の壁としての表現は取られず、あるモノが別のモノに触れる時に、人の肌がどのようにその面に触れるかを想起させるようなやさしい感触に。モノには凹凸があり感触があるということを受け入れることを強要する力強さ。

ゲニウスロキの存在を納得させるような場の力を建築というフィルターがどのように顕在化させるかは、何を見たいと臨むかの問題で、それは同時に何を見せたいかの問題として構成の問題に置き換えられ、視界の中にどう面を配置するかという建築家の力量に左右される。その操作は内外を超えて、外部空間にも当然のように現れる。

コンクリートが元は液体であるならば、一時期的に固定されて現在の形に表れる凹凸は、液体を囲いこんだ器の形。その形に隠された、今が現存しない固定化された液体の形をいかに作り手のとしての職人と共に見るか、そしてその一つ一つの作る手間が良質なモノへの消化過程だと関係者を説き伏せる能力と情熱。建築の規模が大きく、公的な機能になればなるほどこの作業は困難を極め、着地点という妥協がなされたかどうかはモノの強度が雄弁に語るだけに、この空間の過程に隠された建築家と関係者の信念に脱帽する。

空間の接合は穴ではなく、かならず意味を持った仕掛けを通して行われる。コンクリートの厚さと対比される鉄板の薄さ。通路も開口の一つとして何と何を繋ぐのか、その一転によって処理の意味を与えられる。

彫刻展示室の天井面に天窓を採用するために、鉄骨の正方グリッドトラスが採用され、その要素が全面的に内部外部に繰り返し現れ、全体を通したアイコンとして採用される。静謐な空間に現れる不条理ともいえる異物のデザインではあるが、それが空間に活気を与え、素材を変えても繰り返されることで自然と同様なある種の力を纏うこととなる。

トラス架構

面が切り刻まれ、飛ばされて、なおかつギリギリの緊張感を保ちながら、そこに存在したかつての面の痕跡を残す。それはまるで何百年も前に存在した遺跡の様に。

広大な自然の中に挿入されたかの様な建築は、一枚の面を沿うようにして空間が膨張する。建築内部を歩くことは、つまり自然の中を歩くことと同義になる。それを可能にする為に建築とボリュームとして扱わない徹底した面の処理。浅蔵五十吉美術館のアプローチに設置された水面を眺める為のニッチと同様に、建築内部に外部に飛び出すニッチ・スペースが設けられ、四季折々の自然の下に放り出される。

扉というのは密閉や視線を遮るだけではなく、セキュリティーのみの場合も考えられ、どんな時も思考停止で同じ硬い閉じられた扉ではなく、軽く大きく空気の流れる扉もデザインすることの大切さあるんだと言う、全てをデザインする頑なな意志。機能を担保しするのは最低限のスタートラインで、その上で予算と技術の裏づけをもって以下に現代だから可能な表現を創り出すか、それは当たり前のものを疑う意志でもある。

この配置は遠くに見える鳥海山をいかに借景するか それによって決まっている。庭に開けた喫茶モンマルトは外部レベルよりやや低く設定され、窓際に座ると、目の前に芝生が広がりその先に察知された彫刻作品とオーバーラップするような鳥海山。それは、この場所に始めた立った建築家の眼が捕らえた景色であり、その景色を人の力を使うことで、以下により美しくできるかと想像力の中で浮かんでいた風景でもあるだろう。

アプローチのキャノピーを支えるのは、重力の流れを表現するような華奢な鉄骨柱。足元がキュッツと細められた十字柱と決して直接下からは支えず、サイドによけてスッと落ちる二つの支柱。人の動線は最小限しか遮らず、尚且つその場に存在する物理的力の存在を暗喩し、空間に緊張感を持たせ、これから特別な空間に入り込んでいくというアプローチならではの操作。

視線の操作への意志を感じさせる塀の切り込みと、その塀の上部の処理と雨水の排水ディテール。なにげない一つのエレメントたちではあるが、これが建築を美しく生きながらえさせる大きな力になり、必要なものだからと機能的処理だけにとどまることは許さず、爪先一つかもしれないが、徹底的にしてデザインしようとする意志。それは、足元の植栽との淵の処理にも通じ、その場を訪れた人がどう動いて、何を感じるかというシナリオをどれだけ多くその建築家が考えたか、歩くときの風景にどの高さの木がどの場所に必要かどれだけ建築家がその想像力の中で風景を描いたか、頭の中と実際の机の上で描かれたスケッチと図面の数と同じ数だけ、そこに訪れる人々に感動がもたらされる。

空間が長さと高さそして幅という根源的な意味に置き換えられることによって、空間は限りなく自然の体験に近づくのではあるが、収束して限りなくゼロに向かうのではあるが、決してゼロにはならない緊張感をもたらすのは、そこに至極の人的操作がなされるからであり、決して自然ではなし得ない上位の空間体験が現れることを教えてくれる。それはつまりは人類が存在するだけの時間続いてきた建築の力の証明。

建築史における100人を挙げろと言われたら、自信を持って池原義郎の名前を挙げるだろうと確信できる作品である。

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2012年3月23日金曜日

「のぼうの城 上・下」 和田竜 ★★★


友人が必要に進めてくるので日本から中国への移行期に読んでしまおうと手にした二冊。

天下人・秀吉にその才気を愛された石田治部少輔三成。

愛して止まない主人・秀吉が見せた華麗かつ壮大な戦いの姿を、備中(岡山県)高松城にて天下の水攻めとして網膜に焼き付けた光成は、生涯その光景を目をつぶったまぶたの裏に見ることになる。

「俺のこんな戦がしたい。壮大かつ豪気な戦がしてみたい。」と。

時は流れ、信長の後継者の座を圧倒的なスピード感でその手中に納めた秀吉。日本の初の天下人誕生まで後一歩となった時、光成の心の中には「我が生涯の師が天下人にお成りあそばす」と自分を拾ってくれ、その才能を開花させてくれた秀吉への想いで一杯になっている。

小田原城を落とすために悠々と関東へ兵を挙げてきた秀吉。この戦を全国各地の武将達の自分への忠誠度を測るための実験場とし、自らに従わない武将達にはその有能な部下達を討伐へと向かわせる。

その一つ命令。「館林城を落とせ。その後武州忍城 (おしじょう)を取ってまいれ」が光成に下された秀吉の言葉。

現在の埼玉県行田市い位置し、成田氏によって築かれた浮島。当時は成田氏長が城主として君臨するが、小田原の戦いで北条氏につくために小田原に向かっていた氏長の代わりに、圧倒的な兵力を見せ付ける光成軍を迎え撃つ役割を担ったのが、どうにも抜けているが、どうにも憎めない、根っからのでくの坊らいい氏長の従兄弟にあたる成田長親。

正木丹波守俊英や、柴崎和泉守、靱負達などの同年代の家老からは、やや馬鹿にされながらもその器の大きさを認められ、城下の百姓達からは「のぼう様」なら自分達が助けてやら無いとどうにもならないと、官民両方より担がれる形になりながら、天下の一ページに刻まれる戦の舞台へと上がっていく。

圧倒的に勝ち目の無い戦に向けて、家中皆が降伏に傾く中、一人頑なに反対し、ただただ、「降伏はいやなのだ」とぐずる姿に、他の男達は「この男は、異常なまでに誇り高いのだ」と戦うことを決意していく。

侍だけでは戦にならぬと百姓の徴収を始めるが、誰もが戦はいやだと始め拒否するが、長親が親分だと彼のの名前だすと「しょうがねえなぁ」と快諾して武器を持って城に向かう。「だって、あの人は俺たちが助けてやらねえと」と、ここに作者が描きたかった日本の上に達人像が見て取れる。

それは孫子の「有能なるも敵には無能を示せ」にも現されるが、結局物語を通して長親が実際に何を考えて行動をしていたのかは明かされないが、爽快な坂東武者に囲まれて、勝つか負けるかではなくて、どう戦ったかにこだわる戦国の匂いを巻きちらすツワモノたちの中、ただただ異彩を放ち続けるのぼう様。

水攻めは失敗に終わったが、それでも爽快な戦をできたと晴れ晴れとした光成の表情が眼に浮かぶような開城後の面会。そこに自ら使者として足を運んだ光成と、彼がなんとしてもどんな男と自分は戦い敗れたのか、その男ぶりを目に焼け付きたいと願った長親。

「よき戦にござった」

「応」

というそのやり取りに、日本の戦国を生きた男達の生き様を見せ付けられるような気がする。

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第139回直木賞 ノミネート
2009年本屋大賞 2位
2008年キノベス 3位
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2012年3月16日金曜日

知合いや友人は増やせるが、同窓生は増やせない


年を重ねて初めて気づくことだが、生きる時間が増えれば増えるほど、出会う人も多くなり、必然的に友人や知り合いも増えていく。しかし同窓生は決して増えることはないということ。

増えることはない替わりに、在籍時代には言葉を交わすことがなくても、卒業後何十年という時間を同窓生として過ごすことができ、その時間の中で願えば何度でもまた出会うことができるということ。

そんな根っこが一緒の多くの人間が、実はすぐ近くに存在しているという事実。

そういうことを想いながら地元の高校の卒業15周年を記念して、一昨年のお盆に全体の同窓会を開催した。東京や別の地方に出ていった人もいるにもかかわらず、100名を超す卒業生が集まる会となり皆懐かしい顔に笑顔の溢れる会になった。

それから早2年が経ち、その後の同窓会の運営を組織化する為に世話人代表として、各世話人に発破をかけて、会の主旨の明文化から世話人の人員増強や各会の開催頻度をシステム化し、東京と地元で毎年行う個別会の第一回としての同窓会をなんとしても北京に行く前に開催すべく、地元の世話人代表をしてくれている青山周平氏も駆けつけ、少人数ではあるけれど、とても内容の濃い集まりが開催された。

高校時代に一言も交わすことがなかったけれど、15年以上たった今に交わす言葉に違和感を感じることがなく、おそらく参加したみんなが来てよかったと思えるような時間になり、次は必ず人数が増えていると思えること、それが同窓の持つ力なんだと実感し家路につく。

2012年3月15日木曜日

日本人としての自分


今日は、半年間北京のMADにインターンとして勤めてくれた日本人が東京に帰ってくるというので挨拶に寄ってくれた。必然的に話にあがるのが、建築家として海外で働くことについて。

彼は大学からアメリカに渡り、そこから中国に渡ってインターンの経験をして、これからどういう風に時間を過ごすかに悩みを感じているという話を聞きながら、最近読み直している本にあった言葉を思い出す。

あるジャーナリストがロンドンで活躍するバレエダンサーに「大変でしょう?」と質問したら、大変不機嫌に返答をされる。

「別に大変ではない。言葉を覚えたり、食事に慣れたり、受け入れられるまでは大変だが、そのあとは普通にやっている。普通にやっていけるようになるまでが大変なのだ。

日本人には分かりにくいが、ロンドンにも多くの日本人がいるが、そのほとんどが日本を背負ったままここで暮らしている。日本を背負わずに向こうの生活に馴染めば、普通に暮らせるようになる。」

と。

確かに始めはとても大変だ。当たり前の日常から違う当たり前に飛び込むのだから、それに時間がかかるのは当然。頑張ってか、受け流してかはその人次第だが、次第に新しい日常に身体を溶け込ませ、言葉も食事も会話も徐々に慣れ、いつの間にかそこにいる自分が当たり前になり、今度は仕事に慣れてくる。その頃には恐らく一年程度が経過しているころだろうか。

そんな月日が過ぎ去って、数年ほど経つと訪れるのは「日本人である自分」との向き合い方。

どんなにその国での生活が日常となっても、どんなに一職業人として自分の居場所を確保しても、馴染めば馴染むほどに向き合うことになるのは自分のアイデンティティー。

ガラパゴスになればなるほど対岸との距離は開き、こちらから見てもあちらから見ても距離は一緒という訳で、かつて渡ってきたその距離に、いつかは同じように渡って帰る自分の姿があるのかないのか、その時のガラパゴスは当然のごとく、違う当たり前として現れてくるであろう恐怖心。

その恐怖心を受け止めてガラパゴスに背を向けるもよし、一度消化するためにガラパゴスに戻るもよし。

いずれにせよ、一度は自分で「日本人としての自分」を自己内解決しなければ、真の意味での一日本人から一職業人にはなれないのだろうと思いを馳せる一日。

2012年3月14日水曜日

根拠なき上昇


米景気回復期待が追い風となり7カ月半ぶりに1万円に達した日経平均。

FRBの雇用の改善との発表によって押し上げられ、2008年のリーマン・ショック前の水準まで回復した米国の株価の上昇によって芋づる式に世界各国の株価も押し上げられ、その一現象としての日経平均の上昇。

原油高や引き続き円高に苦しむ日本経済に何ら明るい光が射しだした訳でもなく、言ってみれば根拠なき株価上昇。それに浮かれ、株主の懸念感が薄まり、消費が促進され、企業の業績が改善し、給与に反映され、消費がさらに加速して日本経済が好転する。と嬉しそうに解説するNHKの解説員の姿を見て感じる。

アメリカやヨーロッパは今までの体制のいわば膿を出そうとなって必死になっている現在。他国の事情も顧みず、ひたすら進めたドル安や、EU内での自浄作用。その煽りを一手に引き受けるかたちになった異常なる円高と長引く不況。

厳しい時代に守るべきは身内からで、辛いところは引き受けさせられるのが都合のよい隣人。

ひとしきり踊った後に見るのが更なる地獄でなければいいのだがと思わずにいられない。

2012年3月13日火曜日

管理建築士講習


足の裏の米粒に手が届いたと思っていたら、早3年。

今度は一級建築士事務所の運営に必要な専任の管理建築士になるために必須の講習会を受ける時期になる。管理建築士というのは、建築士事務所の運営に関して技術的および経営的にも助言をする立場にあるが、一般的に事務所の開設者がそれを兼ねることが多い。

一級建築士全員が管理建築士というわけでもないので、必然的に一級建築士の定期講習よりもより受講者が少なく、つまりはその頻度も低くなる。

そしてその講習だが、どの機関でも勝手に行っていいものではもちろん無く、指定の登録講習機関によって運営されるので、それぞれの機関がそれぞれのスケジュールで日本の各地にて行うものである。

北京に渡る前のタイミングで受けられる講習のタイミングは・・・・と探していると、合致するのは総合資格学院の大阪での講習のみ・・・・。悔しいながら申し込みをし、本来ならば発生することの無い交通費だからと、再度高速バスでの往復を選択し、深夜の新宿より出発。

この管理建築士の講習だが、姉歯事件で失われた建築業界への信頼を取り戻すべく改定された建築士法の一環である訳だから、主な講習内容は改正された建築士法および建築基準法、またその他関係法令などと、建築士事務所の業務に関する内容が主になる。

しかしその内容ときたら、とにかく大変・・・。もう引退した方がいいのでは・・・と思われるヨボヨボのおじいちゃんが杖をつきながらも、マークシートがなんたるかを教えてもらって修了考査を受けている姿がこの講習、ひいては、姉歯事件が建築業界に与えた影響を物語っていると思わずにいられない。

午前に10分の休憩を挟んで1時間20分のコマが2コマと、お昼を挟んで再度午後に10分の休憩を挟んで1時間20分のコマが2コマ。そしてその後に1時間のマークシートにての修了考査。すべての講義を聴講することと、修了考査にて必要基準を超えることが講習修了の基準となる。

修了考査は講習で使用したテキストを調べながら回答していいので、講習をしっかり聞いてもらえれば難しいことではないという説明はあるが、計222ページのテキストに必死にアンダーラインを引きながらの聴講となるのだが、襲ってくる高速バスでの疲労と眠気との闘いになる。

管理建築士に求められるのは、時代に即した建築士事務所の運営の眼差し。設計だけでなく、企画やコンサルティング、またはコストダウン能力が設計者を選らぶ要因としてデザイン力を上回っているとデータを示される。

また経理と財務の違いをはじめ、貸借対照表(B/S)・損益計算書(P/L)・キャッシュ・フロー計算書(C/S)に代表される財務諸表の見方から事務所の健全な運営体制への気配り。

各プロジェクトに対して適切な人材が配されているか、またそのスタッフの職歴や資格および資格取得が可能かの学歴および職歴の把握とそのデータ化などの人材管理を含めた人事の役割。

罰則が強化されたことで、各建築士にも300万もの罰金が科せられたり、法人として一億の罰金が科せられる可能性も出てきたことより、そのリスクに備えた保険への加入など、法的責任をどう負うことかについての危機管理意識。

紛争がこじれた場合にお世話になる訴訟や民事裁判では、各自どのような特徴があり、期間がどのくらいかかって、どのような結果がでるのか。その為の法的管理。

工事費ベースから床面積ベースに移行した設計料の略算式の使い方から、契約についての定義と揉め事になった前例からどのような点に気を付けるかを踏まえての法的契約書の作成方法。

いつどの段階で、どのような業務が発生し、どの割合の設計料が支払われるか、そんなこともデザイン例と一緒にホームページなどに明記しろと簡単に言われるが、それならばホームページの作り方も覚えないといけないことに・・・・

あげだしたらきりがなく、それこそ一つ一つ確実にこなしていけば簡単に数年はかかってしまうし、それほどの社会的責任と大きなリスクを背負ってでも足を進めていかなければいけないのか・・・と決心を迫られる内容満載。

雑誌を賑わす秀逸なデザインで紙面を飾る建築家達も、同じだけの社会的責任をその両肩に背負いながら、零れ落ちそうになる涙をこらえてマークシートを塗りつぶし、塗りつぶされた数だけの決意を胸に、管理建築士としての見えないバッチをくくりつけたのかと思うと、心がいっぱいにならずにいられない。

そんなことを思いながら修了考査を受けていたのは自分だけかと思いながら、今度は東京行の夜行バスを待つ時間を如何に過ごすか考えながら、せっかくだからと今宮戎神社まで足を延ばしてみる大坂の夜。

2012年3月11日日曜日

「鉄の骨」 池井戸潤 ★★★★



東京のスカイラインを作り出す高層ビルが立ち並ぶ景色。その景色に圧倒され自分もその景色作りを担いたいと希望を胸にゼネコンへの就職を希望するが、最終面接で担当役員から言われるのは、

「うちのような中堅ゼネコンに都庁の様な建物が建てられると思うか?うちが建てるのはそこらへんに建っているなんの変哲もないビルだけだ。それでも夢があると思うか?」と。

それでも答えるのは、

「なんの変哲もないマンションにも、そこに生きる人の夢が詰まっている」と。

このやり取りが心の琴線に触れない建築関係者はいないのではと思うほど、建築に関わる人たちのリアルを描いている。大学で名作と言われる歴史を彩る建築があたかも最上のものとして教育にそまって社会にでてぶち当たらる葛藤。

しかしそこで配属された部署で、いかに今まで教えてこられた、自分が知ってる建築の世界が実は建築のほんの一部分でしかないと学ぶことで、妥協ではなく、さらに上位の視点をもって建築に携わることの充実感。と割り切ることができるかの更なる葛藤のループ。

高度成長を支えてきたのは、間違いなく全国に待ちきらされた公共事業であって、それを束ねるゼネコンとその下にあまたぶら下がる下請け業者。その何百万という人への待遇を厚くすることでなりたってきた社会構造をたった一つの「談合」という象徴で表し、社会の変化から「脱談合」へと体制を変えなければいけない大きな転換点に立つ人々が、「悪か必要悪か」という視点だけでなく、会社の中で生きる一人の人間としての葛藤と、それを外から見る純粋な視点の暗喩として使われる彼女の葛藤も重なり、綺麗ごとだけでは決して物事を前に進めることができないと突きつける良書。

建築を学ぶ学生にもぜひ読んでもらいたい一冊。
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「鉄の骨」  池井戸潤 講談社文庫 2009 ★★★★

目次
第一章 談合課; 
第二章 入札; 
第三章 地下鉄工事; 
第四章 アクアマリン; 
第五章 特捜; 
第六章 調整; 
第七章 駆け引き; 
最終章
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第31回(2010年) 吉川英治文学新人賞受賞
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2012年3月9日金曜日

期末の過ごし方


ここ数年のこの時期になると本屋に足を運び、じっくり時間をかけて今の社会がどうなっているのかを物色する。各ジャンルの本棚をスキャニングしながら、最終的に建築関係の本棚へ。

これは、と思うものを手に取り、後はメモにとってレジへと向かう。その後に向かうのは都内に点在する大規模ブックオフ。同じように各本棚のスキャニングと何点かの購入。

その後はアマゾンにて先ほど気になった本及び、その関連書籍の購入。そんなことをしていると大抵30冊くらいの本が続々と事務所に届く日々が一週間ほど続く。

その目的は4月に向き合うことになる新しい生徒達に、懇々と言うことになる「社会性」について自分なりに「今」をアップデートする準備。必然的に、建築以外の「今」を問題にした新書や文庫中心のラインナップとなる。

日本の建築関係の教育にかけていると思われるところに建築の社会に対する眼差しがある。社会学者的な理論を持つ必要性は全く感じないが、30年前と今とでは、同じ建築を設計してもその評価は全く違ってきてしまう。それは当然、その建築が挿入される受け皿として社会が変容してしまっているから。ならばその社会とは、一体どうなっているのか?を少なくとも知っておく必要はある。

「彼を知り己を知り、天を知り地を知る」

2500年前に生きた孫子も言うように、何かに挑むときの基本中の基本。知ることでよりグズグズになっていく現代の政治の後追いはする必要はないが、生きてきた背景も考え方も全く違う生徒が集まる社会人中心の学校では、できるだけ多様な「今」を自分の中に入れておく必要がある。

そんな風物詩となった本屋ホッピングだが、その期末をどう過ごすかに変化が起きる。今年は学校で教えることに一区切りをつけるということで、「今」を知ることがどれほどこれからの自分にとって意味を成すのかをもう一度見つめなおす。

「今」を知り、できるだけ広い総合知を身につけ、どんな人との会話にも対応し、どんな学生の意見にも更に発展性を見つけ出す、そんなアベレージヒッターとしての能力が求められる先生としての準備と、深く自分に向かい合い、何がやりたいのかを問いかけ、自分達にしか出来ないことを創りだす。その為に必要なのは、「今」の乱読ではなくなり、むしろ消費されるだけにマーケットに蔓延する「今」の排除であろう。

日経新聞を読んで、WBS、クローズアップ現代、NHKスペシャルを見て、経済雑誌をチェックし、SNSで発信しながらtwitterでつぶやき、毎週恐ろしい数発行される、必読書を読みながら、週末は趣味に時間を費やし、充実した生活を満喫する。こんなことをやりながら、仕事はしっかりこなしていかなければ一人前の社会人として認められない。生きることが既にかなりハードルが高い今の東京。

東京で生きるために必要なことの中に、自分の人生に必要なことが一体どれだけ含まれているかの仕分け作業。

今を貪るよりも、一歩先を知ることよりも、今までの自分を見つめなおし、今まで得た知識を整理し、今までの体験を自らの言葉で更新する。

この一年、必死に日本の今を排除して、自分のこれからにシフトする。

2012年3月8日木曜日

卒業生の送別会


学校で教えていた卒業生と、事務所の元スタッフなどが主宰して建築関係の送別会を開いてくれた。

非常にありがたい。

ありがたいついでではないが、かつて在籍してくれた元スタッフからは送別の品までいただいてしまった。タイミング的に日本で見ていけないからということで桜の後が残る季節らしいグラスセット。

重ねてありがたい。

日本に戻ってきていない人生もあったのかと思うが、その時には今こうして会っている人たちに出会っていなかったのかと思うと、日本で過ごしたこの5年の意味が自分なりに消化できる気がする。

燻ってはいるけれどそれでも建築を楽しみながら、こうしてたまに集まってはあーだこーだ言える根っこの同じ同年代の人間が回りにいることの大切さに感謝する。

そんなことを感じながら、出会いと別れの季節にはしっかりとした出会いと別れをしていくことが大切なんだとなんだか納得する帰り道。




2012年3月6日火曜日

鉄は熱いうちに打ち 思ったことは鮮明なうちに書き留める


引っ越しに合わせ、自宅とオフィスと実家の片付けをするハメになり、出てくるのはデジタルに移行する前にそれこそ高校生時代から三日坊主の繰り返しで書き綴られた日記と手帳の束。

筆跡鑑定は一理あるなと納得させられるほど今と変わらない文字で、それこそ今とたいして変わらない内容が綴られる。

不思議なものでその文を読んだ瞬間にその事象に付随する様々な事や感情が蘇る。アンジェラ・アキではないが、その時々の自分に今の自分が怒られないか何だか身が引き締まる。

高画像で写真におさめ、捨てようとゴミ箱に入れるが、

「文字だけじゃなくて、いろんなものが残ってるからやめた方がいいんじゃない?」

と妻に言われ、捨てられない母親を責められないなと思いながらゴミ箱に手を伸ばす。

人は忘れる生き物で、一度忘れた感情の鮮度は失われるだけならば、せめてこのようにかつての自分を召喚できる記録を残す手段を持つのも悪くはないかと、今日もまた文章を綴る。

2012年3月4日日曜日

筑波山 ★


来週の土曜日に駅伝チームの皆と景信山に昇る予定になっていたが、軽アイゼンが必要なくらいの雪ならば軽くケガ人がでそうだな・・・・と先日の大雪の影響が心配で、同程度の高度の山を選んで単独行を決行。

800m前後で電車での日帰りが可能でそこそこ楽しそうな・・・と選んだのは筑波山。アクセスも良好で、下山後には付近で温泉も可能だということで即決。ちなみに日本百名山でもある。

登山に行くのは、その前日までのリサーチで半分決まってしまうきがするが、案の定調べ終わったら深夜の2時近く。その影響か、もしくはあまりに便利な場所になるという安心感のせいか、既に登山口に着いてなければいけない時間に目が覚める。

何度来てもどんだけ本を読んでも、その良さがまだ理解できない「つくばセンタービル」を脇目に、つくば駅前のバス停から筑波山神社バス停までやく40分の道のりが700円という高額に驚きつつ、ノッペリとした街だからどこからでも見ることができる男と女のテッペンに気分も上昇。

ふもとちかくになると、かなり急勾配をもった立派な瓦屋根の家が目立つように。かつては相当な豪商が集まる街だったのか、それと雪の影響のせいか、甲冑を思い出させる複層的な瓦のヌルリとした面にセクシーさを感じる。

とてつもなくデカい鳥居をくぐって筑波山神社でお参りをし、その境内でスパッツを装着して身支度を整える。境内脇の階段を周ってケーブルカーで頂上に行く人は左の宮脇駅に、ケーブルカーと並走して登頂する人は右の登山道入り口へ。ちなみに筑波山には4つのコースが用意されているが、今日は王道と言える御幸ヶ原コースへ。

ネットで検索すると、百名山の中で最も楽な山とか、初心者でも簡単に登れますとか、そんなことが書いてあるが、「嘘だろう・・・・」と呟かずにいられないほどの急勾配の連続。身体から上る蒸気のせいでメガネがあっという間に曇り、靄の中を歩いているようでとても危険。歩きを止めて待ってはみるが一向に曇りはとれない。手を伸ばして身体からメガネを離してしばらく歩くと流石に曇りは治まり、また装着するが5分と持たずにまた靄の中へ・・・

防寒の上着と、なかに来ているユニクロのダウンを速攻で脱いで、どうにか発散する蒸気を鎮めようとするが効果なく、立ち止まってペットボトルから水を飲んでは歩き出し、靄の中に入っては止まっての繰り返し。とんだタイムロス。しかし前回はフレームレスだったが、縁ありメガネではこんなに違うかとよい発見。

こんなに煩わしいのなら、少しくらいの視界不良の方がいいということで、思い切ってメガネなしでの登頂に切り替える。靄の中より5倍は楽に歩ける。そんなこんなで予定より大幅に遅れ、クタクタになって山頂広場に到着。人心地ついてそこから10分の男体山山頂へ。ここらへんよりチラホラ雪が目に付くようになる。ぬかるんだ足元にスパッツの重要性を理解する。

また広場に戻り、今度は15分先の女体山の山頂へ。筑波山の最高峰873m地点という訳だが、ここまでの道のりも結構雪が多く残って、ケーブルカーでそのまま上がってきてしまった観光客などはかなりの苦戦を強いられている様子。女体山山頂では三角点を確保するが、そこからの眺めは

「なるほど百名山!」

とうなるほどの絶景。高所恐怖症にはかなりつらいが、なかなかのスリルも味わいながら、目の前に広がる関東平野から吹き付ける風を頬に感じることができる。

これは女体山に登らず帰ったら相当な後悔だなと思いつつ山頂広場へ戻り、先日購入したが、家の中では試しが許されなかったジェットバーナーでコーヒーを作ろうとウキウキしながらセッティング。しかし何度ライターでつけても、「ヒュー」とガスは出てるのだが着火せず・・・苦々しく思いながらも、下がってきた温度に耐えられずあえなくケーブルカーでの下山。

宮脇駅脇の江戸屋の前にある地元の街が運営するシャトルバスに飛び乗り、露天風呂付きのつくば湯へ。通常でも1050円のくせに土日だとさらに210円増しという、とんでもない値段設定に一体どんな設備が用意されているのかと思い入浴するが、いかんせん・・・・。登山客目当ての温泉の割に、ロッカーが狭い狭い。一体どうやって山リュックを入れればいいのかと、10分くらいの悪戦苦闘。結局、火がつかなかったバーナーも、沸かすはずだった2Lのペットボトルも、全部取り出して整理整頓して収める羽目に・・・

「ロッカー増やせばその分客を入れれるんだ。空間が限られてるなら、その分小さいロッカーにすればいいだろう!」というオーナーの怒号が想像できそうになり、「最悪だな・・・」と思いつつも、汗を流せることでチャラにしようと風呂場に入る。

「デジャブ?」と思うくらい、先ほどメガネで苦戦したのと同じような靄の中の風景に、風呂場内の換気が全く機能していない前世紀的な設備に「これは銭湯と同じ450円で十分だな」と思いながら露天風呂に浸かっていると、横でくつろいでいる二人が喋っているのは韓国語。

そういえば、行のバスに乗っていた如何にも山ガール的な女の子と、その彼氏が喋っていたのは中国語だったと思いだし、外国人として日本で住むのはまぁ大丈夫だとしても、こうして郊外のレジャーを自分でリサーチして、さらに出かけるというそのバイタリティーに驚く。日本人で同じように外国でもしっかりと人生を楽しむことができる人はいったいどのくらいいるのか?と思わずにいられない。

そんなことを思いながら風呂を上がると、先ほど乗ってきたシャトルバスはもう終わったという。「いきはよいよい、帰りは恐い、」である。「出た・・・」と思っていると、同じ境遇の人たちが何組かいて、それをまとめて施設からバス停まで送ってくれるという。ギリギリセーフ。

バスの揺れで眠りにつき、完全に日が落ちたつくば駅からエクスプレスで都内に送られ、新宿モンベルに火がつかないバーナーを持ちこんだら、何人もの店員さんに囲まれて「一応外で試してみましょうか?」と火をつけると完璧に着火。「上の方でマイナス5度以下だと着かないこともあるんですけどね・・・」と言われながら、「今日はどこへ行ったんですか?」みたいな事を聞かれながら店を後にする。

友人宅に泊まりに行った妻が帰宅していて、満喫した一人の週末の最後にとレンジフードの下でバーナーに火をともし、作ったインスタントコーヒーで一緒に乾杯をする。

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2012年3月4日 日曜日
天候 曇り
標高 877m
標高差 690m

10:30 秋葉原駅
→ つくばエクスプレス  快速 つくば行 45分 (1,100円)
11:15 つくば駅

11:30 つくば駅バス停
→ 筑波山行き 36分 (700円)
12:06 筑波山神社入口バス停

12:20  筑波山神社入口バス停
→ 徒歩 御幸ヶ原コース 
13:50 筑波山山頂広場

14:00 筑波山山頂広場
→ 徒歩 10分
14:10 男体山山頂
→ 徒歩 5分
14:15 筑波山山頂広場
→ 徒歩 15分
14:30 女体山山頂
→ 徒歩 10分
14:55 筑波山山頂広場


15:20 筑波山山頂駅 
→ ケーブルカー (540円) 
15:28 宮脇駅

15:35 宮脇駅脇の江戸屋前
→ 周遊バス 10分
15:40 つくば湯

16:50 つくば湯
16:55 筑波山神社入口バス停

17:10 筑波山神社入口バス停
→ 筑波山行き 36分 (700円)
17:50 つくば駅バス停

18:02 つくば駅
→ つくばエクスプレス  快速秋葉原行 45分 (1,100円)
18:54 秋葉原駅

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筑波山神社入口バス停降りてすぐの観光案内所。
暖房が効いているのでありがたい。

筑波山神社入口バス停より筑波山神社に向かう途中にある
とんでもなくデカい鳥居。



なんとなく雰囲気を醸し出す門前町。




桃の節句の季節だが、3分咲きの梅を堪能。