2013年9月30日月曜日

「時が滲む朝」 楊逸 2011 ★★

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第139回(2008年度上半期) 芥川賞受賞
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12回9(2003年上半期) ハリガネムシ 吉村萬壱(男性)
130回(2003年下半期) 蛇にピアス 金原ひとみ(女性)
130回(2003年下半期) 蹴りたい背中 綿矢りさ(女性)
131回(2004年上半期) 介護入門 モブ・ノリオ(男性)
132回(2004年下半期) グランド・フィナーレ 阿部和重 (女性)
133回(2005年上半期) 土の中の子供 中村文則(男性)
134回(2005年下半期) 沖で待つ 絲山秋子(女性)
135回(2006年上半期) 八月の路上に捨てる 伊藤たかみ(男性)
136回(2006年下半期) ひとり日和 青山七恵(女性)
137回(2007年上半期) アサッテの人 諏訪哲史(男性)
138回(2007年下半期) 乳と卵 川上未映子(女性)
139回(2008年上半期) 時が滲む朝 楊逸(女性)
140回(2008年下半期) ポトスライムの舟 津村記久子(女性)
141回(2009年上半期) 終の住処 磯崎憲一郎(男性)
142回(2009年下半期) なし
143回(2010年上半期) 乙女の密告 赤染晶子(女性)
144回(2010年下半期) きことわ 朝吹真理子(女性)
144回(2010年下半期) 苦役列車 西村賢太(男性)
145回(2011年上半期) なし 
146回(2011年下半期) 道化師の蝶 円城塔(男性)
146回(2011年下半期) 共喰い 田中慎弥(男性)
147回(2012年上半期) 冥土めぐり 鹿島田真希(女性)
148回(2012年下半期) abさんご 黒田夏子(女性)
149回(2013年上半期) 爪と目 藤野可織(女性)

過去10年、つまり2003年からの芥川賞受賞作家22人のうち、13人が女性作家。半数以上というのはまさに女性の強い時代を代弁するかのようであるが、その中にたった一人外国籍の作家の名前が。それがこの2008年度上半期芥川賞受賞作家である楊逸。

中国語のピンイン表記ではyáng yìとなり、ヤン・イーと呼ぶ。我々夫婦の中国語の先生も同じくハルビン出身で楊さんというので、ハルビンには楊姓が多いのだろうか?と思ってしまう。

中国で生まれ、中国で育ち、大学の途中で日本に渡り、日本語を学び、大学を卒業し、就職をし、そして小説を書き始め、芥川賞まで上り詰める。なんといっても帰国子女などではなく、大人になってから学んだ外国語で物語を綴ることまでに費やした多くの時間と努力に頭が下がる。

青春を中国と日本で過ごし、民主化の動きを高めた天安門事件とその後の経済発展を中国内部からと、中国の外から見た視点で描き、なんと言ってもスポットライトを浴びる有名な民主化活動家ではなく、群集の群れの中でひっそりと燃えるような情熱を心の中にともしていた名も無き学生に焦点を当てて、激動の時代の中国を描きだす。

同じ時代をいきながら、まったく違う時間を過ごす二つの国。その両方に生身で生きた作者だからこそ描けるリアルな視点。そしてその二つを繋ぐ尾崎豊の「I Lover You」。

生の篭った物語を書くためには、社会にどっぷりと根を張って生きる時間を過ごさないとならない。その為には、その社会の共通認識を理解し、自分なりに消化していないといけない。その理解を得るための語学力を身につけるには並大抵の努力では辿りつけない。

今も日々感じるストレスや向き合う困難の多くは、自分が外国人であることから派生する。語彙力を向上させても埋めることの出来ないギャップは、その社会で生まれ育ってこなかったことからくる生身の視点。教科書では決して身につけることの出来ない時代の雰囲気や、社会の常識。それを他言語において、二つの国をこれほどにリアルに描けるというのは、よっぽどの取材力があるか、自らの生きた経験によるものだろうと思わずにいれらない。

主人公の様に、どんな場所にいようとも、どんな仕事をしながら生きようとも、まっすぐに必死に生きている人間には、誰もがこんな自分だけの熱い物語を持って生きているんだと思わせてくれる一冊。

2013年9月29日日曜日

「郊外の社会学―現代を生きる形」 若林幹夫 2007 ★★★


建築を職能としていると必ず向き合う事になるのが「都市とは何か?」の問い。

それこそ人類最高の発明品かもしれないし、ツリーなのかもしれないが、一人ひとりの建築家がそれこそ戦う対象として、自らを呑み込み胎動し続ける都市を考えることになる。別に考えなくてもいいのだが、そのように考えるようにと刺激をするのもまた都市の魅力。

さて、千と千尋の神隠しの「カオナシ」のごとく、捉えどころのないウネウネ動き続ける都市。常に人が流入し、好き勝手に都市を利用し、自分の人生の舞台として様々なドラマを勝手に生み出し、そしてまた転出していく。その変容の状態が都市そのもの。

それを捉えようとするのはプカプカと浮かぶ雲を手にしようとするのと同じで、どうにも手ごたえが無い。だからこそ、歴史上数多の建築家や社会学者がその戦場へと足を向けてきた。

まったく糸口が無いかといえば、歴史上でこれは有効だと考えられる方法が幾つか開発されてきた。その一つが、都市というある種の磁場を持つ場であるならば、その中心と磁力が及ぼすフィールドとして都市を捉える方法。つまり「中心」と「周縁」の問題。

その都市の周縁に当たるのがこの郊外。もちろん中心である都市が捉えどころが無いのと比例するように、その周辺もまたフワフワとなんとも頼りなさげに移ろう。人口流入が加速し都市化が進んだ20世紀後半。その受け皿として消費社会に刺激されながら厚みを持って拡大した東京の郊外。

夢のモダンライフの舞台であった郊外が、いつの間にかどこにもある匿名の場所に成り果てて、世代を超えてそれが既に日常へと取り込まれた現代の日本。「ファスト風土化」し、「どこでもいい場所」へとなり、現代日本の新たなる原風景を作り始めたその郊外。そんな更新する現代の郊外を少しでも捕まえようとする郊外研究の第一人者の書。

「或る社会にはその社会の支配的な価値や中枢的な集団や機能が場を占める「中心」。それに対する辺境で、非正統的な価値、被支配的な集団、従属的な機能が場を占める「周縁」がある。周縁は、中心を支配する価値とは異なる新しい価値を実現しうる場所である「フロンティア」となる。」

歴史性の欠如。コミュニティの欠如。ゲニウス・ロキの欠如。人口分布の多様性の欠如。土地に根付いた祭りの欠如。文化の欠如。ひたすら続く欠如感。

とにかくネガティブに語られる郊外。しかし現代日本のほとんどはその郊外で埋め尽くされている。そして団塊世代を中心に現代日本が形成されてきたように、その郊外をターゲットに日本社会は形成され、その薄っぺらさが日本中を覆う今の状況。

郊外が成立する最も大きな条件として、都市に住まおうとする人口増加が挙げられるが、その前提が崩れていく今後の日本。周縁を定義する中心である都市の意味が変容していく今後の時代。常に中心に憧れとしての視線を向けてきた郊外もまたその意味を変えていく。

そんな時代を読み解くためにはぜひとも読んでおきたい一冊であろう。

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目次

序章 郊外を生きるということ
/『ニュータウン物語』
/私の郊外
/暴力と忘却
/郊外を生きる

第1章 虚構のような街
/美しく丘から
/ニュータウンのポストモダニズム
/虚構のような街
/ショートケーキハウスと小人たち
/郊外の根なし草性
/ニュータウンの社会と文化
/条件としての浅さ
/私たちをめぐる思考

第2章 この立場なき場所
/分厚い膨らみ
/客観的に測定すると
/あぶない郊外
/金属バットから酒鬼薔薇まで
/郊外は住む場所じゃない?
/建築じゃない住宅
/素敵な郊外
/両義性と周縁性
/立場なき場所

第3章 郊外を縦断する
/つくばエクスプレスに乗って
/青い郊外と白い郊外
/陸の孤島?
/歴史の中の郊外
/公園、森、キャンパス
/遠心化と求心化
/普通になる奇妙さ
/郊外の「地層」
/近所の地層を歩く
/均質と混在と
/原風景の両義性
/「郊外を生きること」の形

第4章 住むことの神話と現実
/多面性と重層性
/石原千秋の場合
/理想としての団地
/団地ライフ
/そして、持ち家へ
/「ふるさと」と「いなか」
/新しい二重生活
/闇のある祭り、闇のない祭り
/祭りの記憶
/23万人の個展
/郊外の神話時代
/コミュニティがコミュニタスだった頃
/あなたはだぁれ?
/様々な神話
/郊外の現在へ

第5章 演技する「ハコ」
/郊外化の二つの波
/「東京」の侵略と第四山の手
/新しい神話ーパルコ=アクロス的なもの
/量から質へ
/演技するハコ
/輝くクリスマス・イルミネーション
/文化としての郊外
/出窓と小人とガーデニング
/リビングとワンルーム
/済むことの偶有性
/「演技するハコ」のアイロニー
/ロードサイドという「どこでもいい場所」
/偶有が必然になるとき

結章 郊外の終わり
/郊外化と「大きな社会」
/郊外化の終わり
/高齢化する郊外
/それは「病」ではない
/縮小する郊外、純化する郊外
/ブランド化する郊外、郊外と言うブランド
/共異体=共移体としての郊外
/忘却の歴史、希薄さの地理
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膿み始めた社会


東京でのヘイトスピーチのニュースを見る。あるコメンテーターが言っているように、まさに「百害あって一利なし」。昨年のこの時期に中国国内で巻き起こった反日の動きと、それに続く日系企業への暴動。その姿が世界中に流れ、どれだけこの国のイメージを落としたかは記憶に新しいと思うのだが・・・

同じコメンテーターが言葉にするのは、このように社会に対して何の利益も与えない状況が起きるということは、既に社会が膿み始めていることの現れだという。まさに国益を損なう動きに違いないと思いながら、続く負の連鎖に思いを馳せる。

友人の話によると、彼の学校での負の連鎖は留まるところを知らないらしく、生徒への盗撮行為が発覚して退職させられる教師。生徒へのストーカー行為を止められない教師。学校関係者一族ということでやりたい放題の生徒。教師間でのいじめによる鬱病発症で留まらない退職者。まさにリアルはドラマよりもドラマチックというとこか。

これらの話を聞いていても、まさに百害あって一利なし。聞いているこちらの気持ちを暗くさせる、まさに人類にとっての無駄。そしてこのヘイトスピーチの動き。共通するのは個人の感情を満足するためのエゴイスティックな行動。それがスケールを変え、形を変えて社会の様々な場所で発症し始める。まさに膿み始めた社会である。

そして投入される東京オリンピックという国家の物語。斑に現れた膿を、大きな白い布で覆い隠すかのようにするそのしぐさ。えも言われぬ恐ろしさを感じているのは自分だけではないだろうと思いを馳せる。

2013年9月28日土曜日

「建築を愛する人の十二章 」 香山壽夫 2010 ★★

本人が「分析の役に立ったとしても、それがそのまま創作の方法とはならない」と書くように、建築というものは、数々の歴史の中の建築作品を分析し、それが何をして美しく、何をもって社会にとって意味のある建築物として残されてきたかを理解することはとても重要であるが、その理解をした建築家全てが、同様に素晴らしい建築作品を作れるかというとそうではない。

つまり、数々の建築物の良さを建築学というアカデミックな視点、そして一般の人が体験する空間としての視点から解説し、より深くそれらの建築物の良さを伝えることができるのと、その系譜に並ぶような素晴らしい建築作品、建築空間を設計できることとはまったく違う才能である。

そして作者は、前者の建築の魅力を伝えることに関しては間違いなく日本でトップレベルの知識と経験と、それを言葉にする能力をもっていると改めて思わされる一冊。放送大学用のテキストという、専門分野以外の人を意識し、より一般的な表現を使いながら建築を語る中でその能力はより磨かれたのかと勝手に想像するが、根源的な建築の魅力を解説する素晴らしい言葉達に出会えることになる。

そして上記のように、建築を理解し解説できることが、そのまま素晴らしい建築を設計できることにならないように、いくつか訪れてきた作者の建築作品も、この本で語られるようなキラキラした建築言語とはどうにも乖離しているように思えてしまうのは自分だけではないと思うが・・・

兎にも角にも、日本の建築アカデミズムの真ん中を歩き続けた正統なプロフェッサー・アーキテクトによる建築史を横断し、建築の持つ魅力を各部から解説していただける一冊。その中には、下記のように「明日も建築をやっていこう」と思わせてくれるような素晴らしい言葉や、耳が痛くなるような激励の言葉が盛りだくさんである。

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スケッチを作り、スケッチする事によって問いかけ問い直しのである

日常とは、数多くの約束や目的あるいは習慣によって成立している世界の事である。建築は、これらの制約を受け入れた上で始めて成り立つ。それだけではない。建築は、大空の下、大地の上に建たねばならぬ。雨風や地震に抗い、重力を支えて、建築は立ち上がらねばならない。

建築は技術。明治以降の近代化の課程で、西欧の工学の一分野として、近代の建築学を受け入れた日本においては、とりわけそういう見方が一般的である。建築において、芸術と技術を分けることは不可能である。分けたとしたら、その瞬間に建築は死ぬ。

フランスの小説家・ゴーチェの言葉
「何の役にも立たないものに、真の美がある。有用なものは全て醜い。なぜなら、必要は人間の本性と同じく、貧弱で、下劣で、厭わしいものだからだ。」

アメリカの哲学者 ジョン・デューイ「経験としての芸術」より
「建築は存在の安定と持続を表現するに最も適したものです。音楽が海なら、建築は山である。」

建築家は共同体に形を与える

私は、空間に包まれている。

外から眺められるだけでは、建築とはいえない。それでは、彫刻と同じだ。建築はその内に人を包み込むもので無ければならない。

空間とは何か

自分を包むもの。自分を包んでくれる囲い

ミルチャ・エリアーデ「家は世界の模型である。」

ルイス・カーン「部屋、建築はひとつの部屋を作る事に始まる」

閉鎖的な高い塀「日本の住居が閉鎖的でまったく中の生活が見えない」

ミース ガラスの家 開放的空間の純粋的な実現

ある部分の開放性は他の部分の閉鎖性で補わられている

華やかに人目を引いている建物でも、その空間があなたを優しく、暖かく包み、そしてあなたがそこにとどまっていたいと感じられないものであったら、それは良い建築ではない、と言い切ることにしよう。自分の空間を、しっかりと持っている人は、そこから出て外と繋がる事ができる。それが無い人は、外と繋がっていくことが難しい。

良き建築は、常に大地を讃えるものでなければならない。

平凡な地形。それが、建築郡と、そこで続けられている意図の営みによって、まったく特別なものとなる。それが建築の力である。

人間が、自然と深く関わりながら生き、それに対する畏敬の念を失っていなかった時代に建てられた建築は、全てこのように大地を賛美しており、その姿を見る私達の心は喜ぶ

建てられる場所の特性を、豊かに感じ取り、正しく理解せねばならない。そのような感性を、原始・古代の人々が豊かに持っていたこと 残された遺跡や遺構は私達に教えてくれる

場所にそれぞれの「霊(アニマ」がある

今日の日本の大都市とその周辺の敷地は、画一的に開発されてしまって、それぞれの特徴を見出すことは、極めて難しい

フランク・ロイド・ライト
「私に良い敷地を与えてくれるなら、私はあなたに良い住宅を与えよう」
「そこが美しい敷地だったことは、その家が建てられるまで誰も気がつかなかった」

「建築は、場所の特性を視覚化する」

建築を作り出す決定的な力を、屋根が持っている。従って屋根とは、内に包んでいる良きまとまりを、外に向かって表現するものとならねばならない。屋根は、内なる空間を外なる大空に向かって表現するのだ。

谷崎潤一郎「外から見て最も目立つのは、或る場所には瓦葺、或る場合には茅葺の大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」

建物の内部に会衆を呼び集めるものとして、教会堂は誕生した
神社、初期の仏寺 内に入ることが出来る人は限られていて

門をくぐる時、私達の心は躍る。門のかたちは、そのような力を持っているものだ。緊張させ、逡巡させ、立ち止まらせる。門の意味は、入れてもらえる人もあれば、入れてもらえない人もあるという。入れてもらえない人もある門に、自分は入れてもらえたからこそ嬉しいのだ。

都市が門を持っている。内には法律と秩序 外には無法、無秩序。

エリアーデ「門とは秩序の支配する空間と、無秩序の支配する空間との境」

細長い奥行きを持った門。門は準備の場所。宗教建築。長い参道は、心を整えるための空間

豊かな内部空間を持った建築は必ず見事な門・入口を持っている。

窓は建築の目。窓の持つ多様なかたちと、それが生み出す豊かな働きついて見ることは、建築の与えてくれる最も大きな喜びの一つです。

窓は、望ましい景色に向かって開かれる
様々なものが窓を出入りする。光、風、視線だけでなく、時には小鳥や蝶や木の葉も出入りするかもしれない。

建築家が、はっきりとした意図で、この景色をこの位置からこの方向で見てくださいと考えて作られた窓もある。

様々な外と内との繋がりを多様に、そして適切に制御するために、様々な形の窓がつくられる

ロンシャンの教会堂 彫塑的造形 奥行きの深い窓から射す光 ロマネスクの窓 更に古代ローマの建築の光

空間は、自分から発し四方に広がっている。必ず中心を持って成立している。良きまとまりには中心がある。

プリンモア女子大学の学生寮。分棟型から中心型へ移っていく空間生成。何故、学生は学生寮に住むのだろう。大学の寮で共に暮らすことと、街のアパートでそれぞれに住むことの違いはどこにあるのだろう。その問い直しの結果、食堂・居間・図書室のまわりに、個室郡は集中する。

アルベルティが「都市は大きな住居であり、住居は小さな都市である」

力を支えて立つ柱が美しいこと。柱は人の心に働きかける根源的な力を持つ。

空間のうちと外を区切るための重要な空間要素。守られ、安全と安定があるからこそ、人は、外とつながることができる。我が国において、都市を囲む城壁が築かれることはなかった。自邸を囲った 。

ロバート・ヴェンチューリ「建築において、壁は、常に、少なくとも、二枚重なっている」

良い部屋には必ず良き日の光がある。

あなたの忘れられない光はどのようなもの

構造体は光を与え、光は空間を作る

光の濃淡、陰影、差し込む光の位置と強弱、そして反射や透過を、自分の思うようなものとするために、壁や柱や屋根を造形することが建築の設計なのだ。光と影を描くことによって、空間を描くことを学んでいく

自然の景色は、南都心慰められる安らかな 人間がそのように美しくつくるためには、どうすればいいのか?

むき出しの生身で自然に対していた太古の人々は、そう簡単に、自然這うt区しいなどと甘いことを言うな、と言うに違いない

美しい自然がある、人間はそれを美しいと思う

なぜ、「なぜ」と人は問うのか それはつくりたいからだ。美しいものを作る方法を見出したい身体。

ウィトルウイウスは紀元前後 最古の「建築書」 「美は、建築の寸法が正しいシュンメトリアの理法に従っている場合に得られる」 

シュンメトリア 「建築の各部分と全体の間に、一定の比例関係が成立すること」
シンメトリーの語源
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[目次]
第一章 建築はいつも私達と共にある
第二章 空間は私を包む
第三章 大地に根ざして立つ
第四章 大空の下に立つ
第五章 門は招き、あるいは拒む
第六章 窓は建築の目
第七章 空間には中心がある
第八章 支える柱
第九章 囲む壁
第十章 空間をつくる光
第十一章 自然と人工
第十二章 建築を見る楽しさ、作る喜び
私の作品
あとがき
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「こゝろ」 夏目漱石 1952 ★★★


自分自身の古典を探すためには、人生の中で何度も同じ本を読み返す事が必要だということで、本棚の中から忘却の彼方に置かれている本を探しだし、手に取った一冊。

言わずと知れた「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」の物語。

書生システムがまだ生きていて、学校以外でも自らの「先生」と呼べる人物にである事が可能だった明治末期。

陳腐化する以前の有産階級達がまだ生存していた消費社会の波に呑み込まれる前の日本。その時代には、「生きる」ことに膨大な費用を支払う現代のような汲々とした日常は無く、家族と女中、そして数人の書生を抱える姿は多くの過程で見られた風景であった。

田舎のそこそこの資産家の息子である自分。そして同じく田舎の資産家の息子であった先生。共に学の為に東京にやってきて、学ぶことを目指して日々を過ごす。

書生でありながら夏には涼を求め、房州を巡りながら学習をするなんて、現代から考えたらなんとも贅沢な時間の過ごし方が可能であった時代。高度成長という幻影のお陰で、国全体が豊かになったように見えるが、かつてあった文化的豊かな生活を送る余裕と、それを支える経済力を共に持ち得るのが非常に難しくなった現代は、本当に豊かになったのだろうか?と思わずにいられない。

自分は何を成すべきか?
自分のすべき事に対して自分の日々の過ごし方は十分にストイックであるか?

そんな高貴な思いではなく、もっとドロドロした人間の本質的な感情。自分が叶わないと思っているライバルとどうにかして蹴落としたいが、それを自分が好意を寄せてる相手に知られたくは無い。

千利休が死をもって永遠なる文化の華を咲かせたように、Kもまた死をもって永遠に先生の心の中で生き続ける。明治天皇の崩御に続いた乃木大将の自決。死が選択肢として生きていた時代のまっすぐな自らの表現。

ネットが露にしつつある人間の醜い本性。努力することなしに、誰か近しい人間が自分よりも高みに足をかけようとすると、ものすごい勢いで足をすくおうとする負の力。社会全体が病みだし、生きていくのが簡単ではない現代。

そんな時代にこそ、読み直す価値がある一冊なのかもしれないと読み直しに満足できる一冊。

2013年9月23日月曜日

企業文化 ARUP Beijing


今日はいつもお世話になっている世界的建築エンジニア会社であるARUP(アラップ)に中国でのプロジェクトについて少しでいいので話をして欲しいと頼まれて足を運んできた。

なんでも、世界的企業に成長したARUPの中で3年に一度行っている、次世代のリーダー養成の為のプログラムとして、世界中のどこかの支社に1週間滞在してその地で動いているプロジェクトについて学んだり、自分達でチームを組んでプレゼンをしたりするという。何と言っても40前後で分野を横断してプロジェクトを率いる段階に入ってきた人材が、こうして世界の様々な場所で働いている「同僚」と知り合い、情報交換し、互いに高めあっていくというのが大きな目的のようである。

そんなプログラムの一環として、この地で設計をする建築事務所が何を見ているか?どんなプロジェクトを進めているか?その裏に見えるこの先の中国の姿とはどのようなものか?というのを話して欲しいと言うので、30ページほどのプレゼンを纏めて、簡単なカクテルも用意してあると言うので妻も同伴の上、久々に訪れるARUPの事務所。

すっかり馴染みになったイギリス人のエンジニアは既に北京在住10年で、肩書きもダイレクターになっており、久々の再会を喜び会の流れを教えてもらう。参加者はヨーロッパ、アメリカ、アジア、中東、アフリカ等々から総勢30人で、世話人や北京での担当者などを合わせると50人弱。参加者は大体が40前後で、構造、設備、環境、シビル・エンジニア、法務など各部門から選ばれており、各専門によって性格も違っているようなのが見えて面白い。

北京事務所の担当者から現在進行中および過去に行ったプロジェクトの説明が30分ほど行われ、その後紹介を受けて我々のオフィスの作品のプレゼンを20分ほど行う。日本の事務所からの参加者もおり、妻も含め期待していなかった日本語でのリラックスした会話を楽しめた。

それにしてもこうして日常で行っている仕事が、シームレスに世界につながっており、自分の努力によっては世界最先端の技術がどれだけでも学べ、世界中のどこでも、そしてどれだけ面白く同時に困難なプロジェクトにチャレンジできる環境の中で、同じ思いを持った同僚と切磋琢磨しながら過ごせる。そして、会社が更にモチベーションと知識を高めるためのプログラムを与えてくれる。

これが世界で戦う企業文化なのかとすっかり感心すると同時に、どうやれば自分達の事務所に適応できるか考えながら、知り合った人と再会を誓い帰路に着く。

2013年9月22日日曜日

「中国行きのスロウ・ボート」 村上春樹 1983 ★★

村上春樹の初めての短編集。

そう聞くと、何故だか考えることなく受け取ってしまうが、よくよく考えたら1979年の「風の歌を聴け」発表後に書かれた短編を1983年にまとめて一冊にしたもの。収められているものも一度に書いた訳ではなく、数年の中で書かれたもの。その発表日時は以下の様になっている。

1980 中国行きのスロウ・ボート  (1980年『海』4月号)
1980 貧乏な叔母さんの話 (1980年『新潮』12月号)
1981 ニューヨーク炭鉱の悲劇(1981年『BRUTUS』3月15日号)
1981 カンガルー通信 (1981年『新潮』10月号)
1982 午後の最後の芝生 (1982年『宝島』8月号)
1982 土の中の彼女の小さな犬(1982年『すばる』11月号)
1982 シドニーのグリーン・ストリート (1982年『海』臨時増刊「子どもの宇宙」12月号)

初期の作品ということは、今までの人生の中で溜まりに溜まった書きたい題材や、さまざま言葉達が不器用な形で流れ出す、その作家の起点とも言えるような時期。

今や押しも押されぬ世界のムラカミ。その物書きの天才でも、最初から凄かった訳ではないだろう。建築家だって長い年月を重ねていく中で、徐々に自分のスタイルが確立していき、何処で何を気をつけるべきか、素材の扱い方やコストの中でのやりくりなど、時間が糧となって味を出してくれる。

もちろん、「さすが処女作からきらりと光るものがある」的な言い方をする人もいるだろうが、ところどころに現われる独特の言い回しには「らしさ」が感じられるが、それでも前半の数編は自分にはあまりピンこない一冊。

そう思いながらある種の我慢を伴って読み進めていくと、後半三作は調子が変わってかなり楽しめる。「あれ?」と思ってその書かれた時期を調べてみると上記の様に、2年ほどの時間に沿いながら書かれてきたことを理解する。恐らく「書く」ことを職業として、今までに溜め込んできた言葉にどう筋をつけてあげるのがいいのか手探りながら徐々に「らしさ」の感覚をつかんでいった時期なのだろうと勝手に想像する。

全体に渡って技法がまだまだ確立されていないので、荒削りだがそのやろうとすることがむき出しのままで露にされている印象。それが良く分かるのが6作目の「土の中の彼女の小さな犬」の構成。

雨で出かけることのできないホテルに一人で滞在
ホテルの誰も使わなくなった図書館でゲームをする謎めいた女
手に意識を落とす女
その手についた匂い
その匂いの元は銀行手帳
その銀行手帳には死んだ犬の匂いがついている
それが一緒に箱に埋められている

物語の中の入れ子構造。そして最後にぐるりと最初に戻ってくる。読者の意識はそれぞれの段階での主題。そこに目が行く為に、本来の主題はすっかり頭の片すみに追いやられる。そしてぐるぐるついて回るってくると、角を曲がったとたんに最初の主題が顔を出す。そんな感覚。

必死に続けるながらかつやっていることをちゃんと分析し続けることで、徐々に自分「らしさ」が見えてくる。その持続と離見の見を持ち続け、どんなにゆっくりでも歩みを止めないこと。それがプロフェッショナルの基礎なのだと改めて理解する一冊。

2013年9月21日土曜日

動き出す時間

一週間以上もジムに行かないと、どうも身体のあちこちにポツポツとにきびが出来てくる。明らかに通常の生活では新陳代謝が十分に成されておらず、強制的に汗をかいて内部から押し出してやらないと身体の内部にどんどん不純物が溜まっていく。

それと同じく身体の中に溜まる膿。

足を運んだ場所、そこで目にしたもの、そこで感じた空間。それらについて何かしら外部化していかないとどんどん身体の中で腐っていく。本来なら時間をかけてその場でスケッチを描き、見たものを平面化してみて、そこで新たなる発見として日常に持ち帰る。

それが出来れば一番良いのだが、それほど余裕のある生活を送れるほど何かを成し遂げても居ないので、とにかく修行の身として出来るだけ多くのことを目にし、見たものから興味を得、それを少なくとも知識として仕舞っていく

体内で腐敗を起こさないように、出来るだけ自分の言葉で見たものを纏め、簡単でもいいが体系立てて理解をする。その作業の中で自分化を行っていく。その為にとても役立つのがこのブログとういメディア。

そんな訳でやっとまとめ終えた100を超える寺社の訪問記。別に誰かに頼まれているわけでも、誰かが喜んでくれる訳でもないが、それでも自分なりにしっかりと今をこなして行く為にちゃんと時間を消化する一つの基準。

ただし時間は待ってくれないから、「今」はすぐに「この前」に変わり、なんとか「かつて」になる前に定着しようと試みる。その為に、どんどん「今」から偏差しながら「この前」の「今」を言語化することになる。チクタクと進む時間との闘い。その間もどんどん増えていく「今」が更におざなりになっていく。

「この前」の「今」を消化するために、別の膿が身体に溜まっては本末転倒もいい所で、なんとかドォッと吐き出す様にまとめては、やっと「今」に追いつく。

歪んだ時間のイメージが「カチリ」と動き出す。

それと同時にすっかり「かつて」に属するようになってしまった、本や訪れた建築。ほったらかしにされて、すっかり記憶も陳腐化してしまってはいるが、カレンダーから掘り起こしてはその時のメモを見返して、「今」の言葉ではなく、「その時」の言葉で外部化していく。

再度の読書体験と共に、自分の記憶のあちらこちらで「カチリ」「カチリ」と様々な時間が動き出す。

「沖で待つ」 絲山秋子 2009 ★

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第134回(平成17年度下半期) 芥川賞受賞
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分からないものは怖がることなく分からないという。それが知的生活における知的正直さだというので、はっきり言い切れるが分からなかったこの一冊。

平成17年度の芥川賞受賞作品ということで手に取ったのだが、男と女の友情はそんな簡単には生まれないが、それが「同期」という枠組みの中に入れられれば、同志的な友情が生まれ、その当人がたまたま女性総合職として社会に組み込まれただけであり、「女性」という存在よりも「同期である」という事実が先にくる。

恐らく、そういうことを書きたかったのだとは理解できる。

そして女性として男女雇用機会均等法の時代の流れを受け、様々なやっかみや慣習が交差する環境のなかで、時にさらし者にされているような感情を持ち、それでも戦場を闊歩するように強く生きていく。その中でいつの間にか男女を越えた同志としての絆が育まれる。

それは分かる。

家族でも、親友でもなく、同期だからこその信頼感。日々の半分以上の時間を過ごし、自らのアイデンティティーをかけて向き合う仕事の場。それを共に過ごし、苦しみを分かち合い、一緒になって成長していく同期だからこそ共有しあえる何かがある。

それも分かる。

そしてその同期という枠組みは、時に男女と言う枠組みよりも大きく、そして強くなり、絶対的な所属意識と自らのアイデンティティーを植え付ける。「こいつは絶対裏切らない」と。

「仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。 同期ってそんなものじゃないかと思ってました。」

そんな表現に現れるのは、自らが存在意義を欠けて過ごしてきた会社人としての時間。それが価値のあるものだと証明するためには、それを共有している同期が価値のある人間であると照明するのと同義であるようなもの。同期は鏡に映った自分であり、同期の一生はいわば自分の一生でもある。

現代の会社人の世界にどっぷり染まって生きていく女性の日常と感情のリアリティ。それが良く描かれているのも分かるし、その物語が共感を呼ぶ読者層がいるというのも理解できる。

しかしこの話が現代を代弁し、時代を超えて何かを残していくのかと思うと、どうにも分からない。文学賞なんでそんなものかも知れないが、どうして芥川賞受賞につながったのか・・・と返って悩むことになってしまう一冊かもしれない。

2013年9月20日金曜日

胡同ホテル・ホッピング

北京に住んでいると、その有り難さが骨身にしみる久々に晴れた空。中秋节の休みも重なって、折角だからと妻と電動スクーターに乗り、市内の胡同内部に散らばる、古い四合院をリノベーションして作られたこじゃれたホテルを巡ってみる事にする。

前日夜から妻が英語のサイトなどから集めてきた情報を元に向かうはカナダ人がオーナだと言う小さなブティック・ホテル。狭い道でたらいに入れられた魚の群れを跨いで進んでいくと見えてくる入り口。「ブーー」とブザーを鳴らしドアを開けてもらうととても良い感じの小さなラウンジ。

「朝食は食べられるか?」と聞くと、「二階へどうぞ」と気さくな対応。階上のテラスは周囲の胡同の屋根が連なり、植えられた植物も手伝いなんだか南の島のリゾートにでも紛れ込んだかの雰囲気。

妻も大満足の様子で、それぞれに朝食を注文し、北京ではなかなか見つけるのが難しい美味しいコーヒーに舌鼓を打ちながら小説を開き、久々の休みの朝を満喫する。香港から来ているというスタッフと話をし、ポツポツと部屋から出てくる欧米からの旅行客の姿も増えてくる。すっかり満喫し今度は夜に来ようと次へと向かう。

オフィスで少し仕事を片付けて、次なる目的地である胡同はオフィスのすぐ近くに位置している。それぞれの胡同にそれぞれの宇宙があるというように、まさに一本はいれば違う世界。同じようなおばあちゃんが、外に椅子を出して座っていても、決してそれは同じ風景ではない。

やっと見つけた特徴的な青い門のそのホテル。堅く閉ざされたその扉の横のブザーを鳴らして出てくるスタッフに聞いてみるが、宿泊のみでゲスト以外は受け入れないとのこと。それは残念と思いながら、次の目的地へスクーターを飛ばす。

随分中心から離れたこの胡同。あまり聞いた事もない名前だったので探すのに戸惑いながら、やっと見つけて先ほどと同じように大きなもんで呼び鈴を鳴らす。なかから感じの良さそうなスタッフがでてきて、今度は問題なく入れてもらえる。

長いこと北京にいたが、これほど大きな四合院を使ったホテルは見た事が無いと思えるほど、ゆったりとしたテラス。大気汚染も無く、気持ちのよい光が照らすうってつけの一日だけに、人気の無いテラスで冷たいお茶を注文して二人とも満足して静かに読書。

中国にいると、静かに読書ができるような環境というのは本当に得がたい。最初は静かなところも暫くするとイナゴの大群の様に押し寄せては、もの凄い音量で会話をする中国人で荒らされる。一度荒らされた場所には二度と静寂は戻ってこない・・・

そんな訳で、この静かな空間はとても貴重な場所となる。スタッフの対応も非常に気持ちの良いもので、ここには何度も戻ってくるだろうと確信して門を出る。

怪しくなってきたスクーターの電池の残りが気になるので、一度家に戻って少し横になりながら充電。すっかり暗くなったころあいに再度出かけて今度は紫禁城脇にあるホテルのテラスからライトアップをされた紫禁城を見ながらお酒でもと思い予約をしていたホテルに向かう。

色んなところでも紹介されているのでかなり期待をしていたのだが、すっかり観光地化されているようで、外国人に混じり多くの中国人達も賑やかにおしゃべりをしている。加えて店側が客数に対応しきれておらず、15分待っても注文を取れない姿を見て、「これははずれだな・・・」と妻とうなずき席を立つ。

はずれがあれば、当たりがある。いくら引いても当たりが出ない詐欺のようなくじ引きでなかった今日の胡同ホテル・ホッピング。時間のある週末にテラスでコーヒーを飲みながらの読書を楽しみにして家路につく。





















「重力ピエロ」森淳一 2009 ★★

兄と弟。同じ男でありながら、一生変えることの出来ない自分のポジション。どんなに歳を重ねても、どんな経験を経たとしても、二人の仲での距離感は決して帰ることが出来ない役割。

「ゆれる」でも同じように描かれた男兄弟の切ない機微。長いこと時間を共にしてきたから家族だから、そして同じ子供と言う視線で物事を見てきたから、他の誰よりも世の中のことへの視点が近く、だからこそ違うことがより目に付くのが兄弟。

男だからこそ、そこにはプライドや虚栄心もより強く映し出される。仲間でもあり、家族でもあり、ライバルでもあるのが男兄弟。同じ人生を過ごすことはできず、必ず違う道を行くことになるのだが、どこかで確認することになる根っこ。

だからこそ、この世の中には多くの男兄弟の物語が生み出されるのだろう。そして自分も男兄弟の弟して、決して兄の視点は持つことが出来ない宿命を感じながら見る一作。直木賞候補になったその原作が山積みにされているのを書店で見て、なんだか毛嫌いしてしまっていた作品だが、ジムでランニングがてらに見始めたら結構見入ってしまった。

背も高く男前の弟・春(岡田将生)と、なんだか冴えない理系大学院生の兄・泉水(加瀬亮)。暮らしている仙台市内で発生する連続放火事件。そしてその近くで発見されるグラフィティ・アート。そこに残されたメッセージから見つける二つの関連性。

と仲むつまじい兄弟の姿と二人が追っていくミステリーの答え探しのような導入部だが、これはまったく本筋ではなく、徐々にリンクしてくるかつてこの街に起こり、この家族に大きな影を落とした事件。

「火」、「浄化」、「家族」、「愛情」、「意志」。

全編を通して問われるのは「自分で考える」こと。人生なんて自分の思ったとおりに行くはずもなく、「かくん」と躓くごとに如何に自分で考えて、その先を決めていけるか。その意志の積み重ねが人生であり、その積み重ねを共有するものが家族であるということ。

今ではすっかりベストセラー作家の常連となった原作者のいわゆる出世作の映画化。70年代生まれという非常に若い作家の小気味良いテンポで物語は進んでいき、確かにテーマは随分伝わってくるのだが、その突きつけ方があまりにも直截過ぎる感は否めなく、すっりきテーマを噛み砕けず、のどの奥に残った気分になるのは自分だけではないだろう。
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スタッフ
監督 森淳一
原作 伊坂幸太郎

キャスト
加瀬亮
岡田将生
小日向文世
吉高由里子
岡田義徳
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作品データ
製作年 2009年
製作国 日本
配給 アスミック・エース
上映時間 119分
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2013年9月19日木曜日

中秋節

中秋の名月に当たる中秋節は、中国では家族が集う大切な節句の一つ。9月20日は家族で集まり、夜には月餅(げつぺい)を食べることで有名。そんな大切な節句なので、通常は週末も関係なく動いている事務所も基本的に3日は休みということで、その前日の夜はオフィス・パーティーを開く事に。

「一体世界中に、事務所の中に火鍋を並べ、かつてのスタッフも誘い60人もの人数でこの節句を祝う建築事務所があるのだろうか・・・」

と思いながらも、火鍋ケータリングでモクモクといかにも辛そうな湯気がオフィスの中に立ち込めながら、懐かしい顔もやってきて皆で好き好きに鍋をつつく。ビールにワインに、お決まりの白酒と、気がつくころには何年ぶりかの悪酔い。

そのまま皆はカラオケに流れるようだが、自分の移ろいやすい音程の為に綺麗に顔を出した満月が隠れてしまっては申し訳ないと呂律の回らない言い訳をし家で待つ妻のもとへと帰ることにする。

帰り道、中秋節ぴったしに満月となった月をフラフラしながら眺めながら、太陰暦だからぴったりなのは当たり前か・・・と古代の人の知恵に感心しながら更にフラフラしながら、自転車をこぎ進める。









2013年9月18日水曜日

対極に振れる

この世が作用反作用の法則によって支配されているように、人の感情もやはり寄せては返す振り子の様に、一方に振れた後は必ず対極に振れ返すものだと思う。

自分にとってもここ数年の寺社を始めとする日本の数百年もの古建築などに対する興味もまた、その振れ戻しの作用なのだと思わずにいられない。では、その対極にある日常は何かと考えると、毎日を過ごす中国でのスピード感。

日本では、というよりも、他のどの国でも考えられないほどのスピード感とプロジェクトの巨大さの波の中で揉まれながら生きている。波に呑まれて流されないようにと必死に手を伸ばすように、効率を上げて考えながら、同時に手を動かしてスケッチをする。

建築家として生きてきた時間の仲で、こういう短い時間でこなしていかないといけない設計では、どうしても奥行きのある味わい深い空間はできないだろうと理解しても、今やれることはそこから逃げ出すことではなく、その状況に自分を晒し、慣らし、手なずけること。そしていつか自らコントロールできるように自分が上がっていくことに他ならない。

朝に、「ッフ!」と息を吸い込んで、気がついたら夜になっている。そんな疾走感。

建築家を目指したからには、ゆっくりといろんな本を読みながら、じっくりと様々なことを考慮しながらスケッチをし、いろんな角度から検討して設計を深めていく。そんな世間よりゆっくり流れる時間を持ちながら設計に取り組む。そんなことを夢見るものであるが、今の状況ではそれは望めないこともまた理解する。

だからこその振れ戻し。自分の中でのバランスをとるために、どれだけ振れ戻さなければいけないか?それは頭よりも身体が知っている。その求めるままに人の人生なんてなんて短いスパンだと思えるような悠久の時間が流れる空間に身を置きに行く。

悩み苦しむ自らの一日なんて、まさにハッと息を呑む一瞬だと理解するために。

出来る限りの対極に振れ戻せば戻すほど、日常を生きる力になるのだろうと思いながら、多くの聖域に流れる空気を自分の身体に吸収して帰ってきた日常の時間の中で、以前よりも更に遠くまで触れることができるようになった自分を感じながら今を生きる。

2013年9月17日火曜日

「知的生活の方法」 渡部昇一 1976 ★


一体何のきっかけでこの本を知り、手にしたのかまったく覚えてないが、ふと自宅の本棚で背表紙を見つけ北京につれてきた一冊。娯楽小説ばかり読んでいるのではなく、少しは読書力のある生活に戻していかないということで、新書の一冊に名を連ねるようにと読み始める。

「今度は何の本を読んでるの?」と聞いて来る妻に、「渡部昇一の本」というと、「あ、授業受けた事がある」という。なんでも著者は、妻の出身の上智大学で有名な英文学の教授を長く勤めているという。

堕落した心には徹底して耳が痛くなる本を与えないといけないということで、齋藤先生よりも厳しい内容を期待してページをめくる。

日常生活を送るのではなく、知的生活を送る為には「己に対して忠実」である必要があり、ごまかす、ズルをする、あてずっぽうでやるという態度では進歩をその時点で止めてしまうので、簡単に言うと、分からないのに分かったふりをしないということだという。

面白い本は徹底的に読み込み、これを分かると言う事が聡明だと言われることだからとりあえず分かったふりをするのではなく、自分で「分かった」と思った瞬間まで分からない事を恐れないことが大切だと言う。

僧坊の縁先に置かれた碁盤。田舎の寺院で、仏事の余暇には本を読み、考え、客があれば碁を打っている山の中の坊さんの生活が、一つの理想的な生活のヴィジョンだと感じだ少年時代。

などと、所々共感できるところはあるが、もっとバリバリの教養主義者の訓示が書かれているのかと期待したが、如何にストイックに勉強してきたか、その事でどれだけ世界が広がったか、知的に生きるためにはどんな事が必要か、などということは書かれているが、何故だか耳は一向に痛くならない。
 
恐らく自分の知的生活レベルの低さの為にメッセージを受け取りきれていないのだろうと思いながらページを閉じて、さらりと妻の座る席の前に置いておく事にする。
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目次
1 自分をごまかさない精神
・知的正直
・「三国志」からシナ文学へ
・頼山陽をまねる
・縁先の碁盤
・「手段としての勉強」の危うさ
・恩師にめぐりあう
・「わからない」に耐える
・漱石体験
・「わかった」という実感
・巨人、大鵬、卵焼き
・英語の小説が読めない
・知的オルガスムスを求めて
・不全感の解消
・老齢は怖くない

2 古典をつくる
・繰りかえし読む
・趣味の形成
・漱石と漢文
・一つのセンスにコミットする
・精読が生み出すもの
・『半七捕物帳』
・古典とはなにか

3 本を買う意味
・身銭を切る
・読みたいときに取り出せる
・カード・システムの問題点
・無理としても本を買う
・ギッシングとハイネ
・貧乏学生時代
・極貧の中の楽しみ
・闇屋になってでも本を買う
・知的生活を守る危害

4 知的空間と情報整理
・彦一の知恵
・図書館に住む
・能動的知的生活者
・蔵書と知的生産の関係
・向坂氏の蔵書
・「ドイツ参謀本部」裏話
・「本がある」という自信
・金は時なり
・時間を金で買う方法
・クーラーの効用
・書斎の温熱対策
・図書館を持つ
・カード・システム
・カード・ボックス
・カードの入れ替え
・ファイルボックス
・コピー利用法
・卓上ファイル
・森鉄三先生の方法
・書斎の構想
・水鳥の足

5 知的生活の形而下学
・静かなる持続
・タイム・リミット
・ハマトンの見切り法
・見切り法の活用
・早起きカント
・ゲーテの場合
・夜型か朝型か
・血圧型
・「中断」
・溶鉱炉と知的生産
・ゲーテの城
・たっぷり時間をとる
・半端な時間の使い方
・通勤時間
・コウスティング
・睡眠と安らぎ

6 知的生活の形而下学
・交際を楽しむ
・食事について
・ビールとワイン
・コーヒーについて
・牛乳とウイスキー
・散歩について
・家族
・結婚
・夫婦の知的生活
・知的生活と家庭生活の両立
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2013年9月15日日曜日

「日本庭園・鑑賞ガイド 庭がよくわかる本 庭に隠された約束ごと」 野村勘治 1994 ★★

建築家。

という職業をしているだけで、京都にいって寺院や庭園を廻るのが、安易にも何故かその仕事の糧となり、OLさんが3人くらいでキャッキャッいいながら内容の薄いガイドブック片手に廻る二泊三日旅行とは意味が違うように聞こえてしまうがそんなことはない。

見るものにテーマを持ち、意識を持って参観し、見たものを改めて整理し、自分の中で消化する。その中から見えてきた新しい意味を自分の日常の中へと持ち帰る。そうしていつか、何十年か先かもしれないが、どこかでそれが本当の意味での糧となって設計に反映される。それほど簡単に理解できたり、習得できるものではないのが京都の空間。

興味があるから訪れるのはもちろんだが、どんなに興味があっても事前に細かく調べることはできやしない。実際に足を運んでみて、そこで感じたものが何だったのかに興味が湧き、帰ってから時間をかけて理解しようとする。興味に奥行きを与えていく。

そんな訳でこの夏に様々なところで訪れた庭園。建築を職業とし30代も中ごろに差し掛かれば作庭の基本くらいは身についていてもよさそうだが、それはどっぷりと日本建築に関わる仕事に関わってこなかったからと言い訳をし、興味を持ったが始まりということで、いろいろと調べる手始めに、自宅の本棚から見つけ出したこの一冊。

やはりその時に読まなくても、とにかく本棚にコレクションとして残しておくことの意味に改めて気がつきながら、めくるページには、少なからず今回訪れた名庭園が紹介されている。

体系だてた説明というものではなく、非常に簡単な導入本ではあるが、それでもズブの素人の今の自分にはうってつけの一冊。何よりも巻末に名庭園リストとして掲載されている写真の全国の庭園がなんと84も載っている。

これはぜひとも自分のマップにマッピングしなければいけない・・・ということで、ネット上でそのリストを探そうとするがどうにも見つからず、しょうがないので、自分で打ち込むことにする。この作業が結構時間を要する。寺や神社に付属するものが多いので、必然的に読み方も複雑で簡単な変換では出てこない名称のものが多くなる。

しょうがないので、ひらがなで打ち込み、所属件名と一緒にネットで調べていく作業。「これでまた行かないといけない所が増えてしまうじゃないか・・・」などと思いながら、抑えることの出来ない嬉しさがニヤニヤと口元に出てしまいながらリストを完成させていく。

その姿を見た妻が、「なんだか楽しそうだけど、何してるの?」と聞いてくるので、「こういう手間を超えることで効率という近代のベールで見えなくなったもの探す地図をつくっているんだ」と、如何にもかっこよさげに答えると、「良く分からないが楽しいならいいや」と返される。

マッピングされていく目的地でいつか、その妻から「まだ次があるの?」と文句を言われる日も遠くは無さそうだと想像を膨らませながらまた一つ目的地を追加する。

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名庭リスト
青森
・瑞楽園(ずいらくえん)
・盛美園(せいびえん)
・ 藤田記念庭園(ふじたきねんていえん)
岩手
・毛越寺(もうつうじ)
栃木
・古峯神社(ふるみね)
東京
・小石川後楽園
・東京天理教館
・明治神宮
・六義園
神奈川
・三溪園(さんけいえん)
・箱根美術館
石川
・兼六園(けんろくえん)
静岡
・龍潭寺(りゅうたんじ)
愛知
・名古屋城旧二の丸
三重県
・北畠神社(きたばたけじんじゃ)
滋賀
・居初氏庭園天然図画亭 (いそめしていえん てんねんずえてい)
・旧秀隣寺庭園(きゅうしゅうりんじ)
・玄宮園(げんきゅうえん)
・大池寺(だいちじ)
・福田寺(ふくでんじ)
・楽々園(らくらくえん)
・蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)
京都
・京都府立総合資料館 
・銀閣寺
・金地院(こんちいん)
・三千院有清園(ゆうせいえん)
・橋本関雪記念館(はしもとかんせつ)
・平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん)
・法然院(ほうねんいん)
・曼殊院(まんしゅいん)
・無鄰菴(むりあん)
・金閣寺
・孤篷庵(こほうあん)
・正伝寺(しょうでんじ)
・真珠庵(しんじゅあん)
・大仙院(だいせんいん)
・大徳寺
・龍源院(りゅうげんいん)
・京都御所
・仙洞御所(せんとうごしょ)
・本法寺(ほんぽうじ)
・青蓮院門跡(しょうれんにんもんぜき)
・東福寺
・普門院(ふもんいん)
・二条城二の丸
・旧嵯峨御所(きゅうさが) 大覚寺大沢池
・退蔵院(たいぞういん)
・天竜寺
・東海庵
・法金剛院(ほうこんごういん)
・龍安寺(りょうあんじ)
・真如院(しんにょいん)
・西本願寺対面所庭園(にしほんがんじたいめんしょていえん)
・桂離宮
・西芳寺(さいほうじ)
・醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)
・酬恩庵(しゅうおんなん)
・浄瑠璃寺(じょうるりじ)
・慶沢園(けいたくえん)
・正覚寺(しょうかくじ)
奈良
・依水園(いすいえん)
・平城京左京三条二坊宮跡庭園(にぼうきゅうせき)
・大和文華館(やまとぶんかかん)
島根
・足立美術館
・出雲千家(いづもせんけ)
・櫻井邸(さくらいてい) 櫻井家・日本庭園
・万福寺(まんぷくじ)
岡山
・岡山後楽園
・頼久寺(らいきゅうじ)
広島
・縮景園(しゅっけいえん)
山口
・桂氏庭園(かつらし)月の桂の庭
・漢陽寺(かんようじ)
・常栄寺(じょうえいじ)
・宗隣寺(そうりんじ)
徳島
・観音寺(かんのんじ)
・千秋閣(せんしゅうかく)旧徳島城表御殿庭園(きゅうとくしまじょうおもてごてんていえん)
香川
・栗林公園(りつりんこうえん)
福岡
・木曽路博多駅南店
・旧立花家御花(おはな)松濤園(しょうとうえん)
熊本
・水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)
鹿児島
・磯庭園(いそていえん)
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[目次]
・庭―四季の彩り
・まずアプローチから始まる
・水の造形を楽しむ
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広がる水景 池泉庭園
/舟遊式庭園ー水上に浮かぶ
/廻遊式庭園ー景の中を巡る
/座視鑑賞式庭園ー枠鳥が産む立体絵画
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走る水景色 流水庭園
/造形としての流水
/流れの発展と、その効果
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究極の水景 滝
/滝への篤い思い
/滝の種類と、その効果
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水景の演出 島と汀
/島ー奥行きと広がりを演出
/汀ー海を写す造形美
/橋ー水景の小道具

・石と砂の造形を楽しむ
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心で観る山岳と大海 枯山水庭園
/枯山水庭園の始まりー平安から鎌倉
/写景庭園ー景観を写す枯山水
/写意庭園ー寓話を造形する枯山水
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現代の枯山水庭園
/脈々とつくり続けられる枯山水
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白いキャンパス、白い造形
/白砂と砂紋と盛砂

・究極の庭園美、石組
/枯滝石組ー流れ落ちる水を表現
/枯流れー清流・大河を表現
/橋石組ー景の中に導く表現
/石島石組ー水面を鮮やかに演出
/護岸石組ー汀を立体的に演出
/須弥山・三尊・七五三・の石組
/蓬莱石組・鶴亀石組ー伝説の島
/舟石・夜泊石ー蓬莱島へ渡る

・廻遊より生まれた用と景の世界
/飛石ー用と景が織り成すリズムとメロディー
/敷石ー文様のハーモニー
/灯篭・層塔ー誘う灯、景の要

・庭の外にも庭が見える
/塀・生垣ー囲障で切り取る
/植栽で整える
/建築でとる・背景と共につくる
/調和と対比
/枠取りで見る

・庭の彩り―植栽の美
/植栽がつくる空間構成
/刈込がつくる造形的空間
/下草ー庭のたたずまいをつくる
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2013年9月9日月曜日

「なぜ日本人は学ばなくなったのか」 齋藤孝 2008 ★★★

気がついたら1読書サイクルである4年になっている。文庫100冊、新書50冊。専門書、新書、文庫とサイクルで読み進めていたが、どうもサボリ癖がでてしまい、到底読書力のある生活とは言えないこのごろ。

積みあがっていくのは文庫の中でもカウントされない娯楽小説の類ばかり。これはまずいなと新書の数を増やすためにも手にした齋藤先生の新しい本。どうもかなり怒ってらっしゃるようである。そしてひたすらに耳が痛くなる一冊である。

それにしてもこの齋藤先生。もう何年もテレビで見続けているが、知識人という枠の中で常に必要とされるということは、次から次へと出てくる新しく面白い人材がいるなかで、それでもやはり齋藤先生だと言われる何かの理由があるのだろう。それはこの本で書かれている飽くなき向上心であり、総合的教養に支えられた人間性なのだろうと勝手に想像を膨らませる。

生命の宿命として、個体は必ず死を迎える。これは避けられない。誰でも必ず死ぬ。その個体として、自らの一生の中でも身につけた生きていく為の知識や経験を如何に同じ種の仲間に伝えるられるか?その術をもった種は生存競争の優位に立つことになる。その方法は当然の様に伝達による。そして知恵や経験は言葉に置き換えられ時間を超える。それを受け止めるのは「学び」。つまり学ばなくなった個体は、生物としてというよりも種としての生存本能を失ったことと同義である。そんなことを思いながら読み進める。

線が引かれた部分をメモにするために目次をネットで探すが、この本はどこを探しても検索に引っかからない。しょうがないので諦めて自分で打ち込むことにする。妻からもらったペーパー・ウェイトを役立てながら、章題から見出しを打ち込んでいくだけで、十分に耳が痛くなる内容。

日々の生活に汲々としていた時期に手にした本で、耳を痛くしながらもやはり再度の教養だと突入したはずの読書力のある生活。それにもかかわらず、現在の本棚に並ぶのは背表紙に何の個性も表さない小説と呼べないような娯楽文庫の山と、緊張感を持った読書から逃げ出すように途中で投げ出されっぱなしの専門書コーナー。ああ、恥ずかしい。

大学で学生を相手にする時期は、新年度が始まる前に知識の更新時期だとし、2月から3月にかけて大量に購入する建築関係の本と、時代を読み解く新書と、世間を賑わせる文庫。それらを短期に詰め込んで、準備をして向かえる新学期。学校に誘ってくれた恩師の「出来る限り勉強してくれ」というプレッシャーに対峙するための自己防衛。

社会無くして語ることが出来ない建築だからこそ、社会に目を向けない建築家がいない様に、出来るだけ幅広く現代を知るのと同時に、齋藤先生はじめ尊敬する知識人の読んでいる本を調べては、様々な分野に手をつける。

始めは浅く広くと。そして一部から深く掘り進める。ある一定の深さになったら、そこからまた横へと広げていく。そして徐々に立体的な知識の空間を構築する。そんな身体的感覚を伴った読書体験。

人は堕落する生き物であるのは当然で、読書は本来快楽であるはずなのに、読まなくなるのもまたすぐに日常へと組み込まれる。それが人間の適応力。「読んだほうがいいよ」と妻に薦め、「どう、耳痛くなってきた?」と痛みを共有しようと試みる。さぞや自分よりもキツイ痛みだろうと想像していたが、どうもあまり応えていない様である。しょうがないので堕落した自分の姿に一人で向き合うべく、耳を擦りながらも下記の本文をパソコンに打ち込むことにする。

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「バカ」とは、もちろん生まれつきの能力や知能指数ではない。「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」の事だ。

学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心をもたない人間は、自分の明日を今日よりも良い日だと信じる事ができない。「生きる力」とは、「学ぶ意欲」とともにあるものだ。

当たり前の話ですが、人は勉強しなければバカになります。

何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣がごく自然に身についていた

まず自分より優れたものがあることを認識し、それに対して畏怖や畏敬の念を持つこと

ところがある時期を境にして、日本には「バカ」でもいいじゃないかという空気が漂い始め、もはや「あこがれ」という心の習慣自体がありません。学び続ける精神や教養への敬意はないし、学ぶべき書籍や教科書の価値も分からない。それに教えてくれる先生への畏敬の念もない。

ひたすら水平的に「何かいいものは無いか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけの自分探し。

読書の時間とは、著者が自分ひとりに語ってくれる静かな時間であり、それによって自分を掘り下げる時間である。

リスペクトと言う「精神のコスト」をかけずに得られるものは、所詮「それなり」でしかない。

いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が、「強さ」として映るような時代になっている

人間の心の潤いというものは、尊敬や憧れの対象をもてるかどうかで変わってくる

外の情報を検索し、活用し、快適な暮らしをするだけの存在としか捉えられない

親元を離れ、食事も選択も自分でやらなくてはいけないという状況自体が、大学以上に人間としてのステージをクリアする事であった。「上京力」。上京への憧れ、プレッシャー、孤独感、負けん気、誇りと意地。緊張感のある向上心を生み出していた。

競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質がある」とほめてもらいたい。都合のよい欲求。

授業は授業料の対価としてのサービスとする学生と消費者(学生)優位に陥る大学の逆転現象。浅く短い学生生活を終えていく。一体彼らはいつ勉強したといえるのか。

知的な本を読む習慣さえ持っていません。軽い読み物ばかりです。小説ともいえない通俗小説やマンガ。

大学で学んだことを語れなければ、大学を出た意味がない。基本的な向上心と言うものは、読書量に現れます。学生時代に本を読む習慣を身につけないと、社会人になってからはなおさら読みません。

未来のタイムスパンは短期化している。無定期、無期限の夢だけを見て今を生きる。

いつまでも自分はフリーでありたい、モラトリアムな状態に置いておきたい。自分ひとりの自由。社会的な責任を負いたくないと短絡的に発想する。

学ぶと言う事は、たんに知識を獲得するだけの行為ではない。そのトレーニングを通じて、わからないことや大量の問題に立ち向かっていく心の強さを養っていく事

ウォークマンの出現により、自分自身の快適な空間を持ち運べるようになった。音楽は麻薬に似ている。音楽を聴くには努力も才能も徳も不要。要するに努力しなくてもエクスタシーを味わうことができる。地道な努力の果ての達成感、それは登山のようなもの。誰でも易きに流れやすいもの。「気持ちいいことが好き」。

アメリカのヒッピー文化。家から離れ、若者だけで漂流し、さまざまな人と出会い、コミューンと呼ばれる集団生活を行うというライフスタイル。

異性関係における若者の評価ポイント。イケメンかどうか。見た目が良いか。見た目が欧米人に近いことを重視する。

経営者の場合、強靭な精神が求められます。一般の人には考えられないほど、心身ともに疲れる激務です。途中で休むとか、具合が悪いから誰か交代してと投げだす訳にはいきません。自分自身がぶれない中心と言うものを持っている、あるいは判断力の基礎を養っているという自身があれば、それを原動力としてさまざまな障害を乗り越える事ができる。

自分の成功や快適さより優先すべきものがある。人としてどう活きるべきかどうか指針を持つ。

読書にかぎらず、高い山の切り立った崖を登るような努力やエネルギーを必要とする事は、若い頃に経験しておくべきなのです。

概して人間的にはさして問題ない。しかし、あまりにも本を読まないために、教養がない。したがって読書で知識・教養を得る面白さを知りません。高いレベルのものに憧れ続ける事によって、自分の心を生き生きとさせるという習慣も身につけていません。結局そのまま大学を卒業してしまうのです。

多くは生活に終われ、仕事のみに汲々とする日々を送っています。そこでどうやって心を癒すかといえば、インターネット、テレビ、あるいはSNS。いわば高校の同窓会のような雰囲気を続けている。ネット上では、お互いに追い込み合わないような、ゆるやかな会話が繰り広げられる。そしてお互い安心しあおうとする。

マルクスも指摘したとおり、こうしう文化的なことは経済的な基盤がなければできません。下部構造としての経済活動があって、初めて文化が生まれるということは、世界史を見ても明らかです。一人残らず明日の食べ物に困っていたら、さしもの紫式部も物語を書く余裕は無かったはず。
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一つ一つの段落ごとに猛省をし、せめて今まで読んではそのままになっていたメモを纏めるのから始めようかとカレンダーを遡ることにする。

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本文中で紹介される本や映画など
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栗原彬「やさしさのゆくえ=現代青年論」
石原慎太郎「太陽の季節」
アラン・ブルーム「アメリカンマインドの終焉」
富田常雄「姿三四郎」
福沢諭吉「学問のすゝめ」
サミュエル・スマイルズ「自助論」
サミュエル・スマイルズ「西国立志編」
西田幾多郎「善の研究」 
倉田百三「青春をいかに生きるか」
阿部次郎「三太郎の日記」
新渡戸稲造「自分をもっと深く掘れ!―名著『世渡りの道』を読む」
夏目漱石「こころ」
「きけ わだつみのこえ」
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
スタンダール「赤と黒」
バルザック「谷間の百合」
ピエール・ロティ「氷島の漁夫」
マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」
フローベール「感情教育」
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
倉田百三「出家とその弟子」
西田幾多郎「自覚における直観と反省」
和辻哲郎「古寺巡礼」
倉田百三「愛と認識との出発」
筒井清忠「日本型「教養」の運命 歴史社会学的考察」
森見登美彦「太陽の塔」
ハイデッガー「存在と時間」
渋沢栄一「論語と算盤 」
ジョン・スタインベック
ウィリアム・フォークナー
フランシス・フィッツジェラルド 
アーネスト・ヘミングウェイ
ジャン=ポール・サルトル「嘔吐」
ジャン=ポール・サルトル「存在と無」
九鬼周造「「いき」の構造」
和辻哲郎「風土―人間学的考察」
レヴィ=ストロース「野生の思考」
下村湖人「論語物語」

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目次
序章 「リスペクトの精神」を失った日本人
・バカを肯定する社会
・垂直志向から水平志向の世の中へ
・「検索万能社会」であらゆる情報がフラットに
・大学教授を引きずり下ろすテレビの性
・「内面」のない人間があふれ出す
・「ノーリスペクト社会」の病理


第1章 やさしさ思考の落とし穴
・濃い交わりを避ける学生達
・幼稚化する中高生
・「知」と出会わずに卒業していく大学生
・読書量の減少は向学心の衰退
・自ら転落していく若者達
・経済より深刻な「心の不良債権」
・「夢」しか持てない30歳代アルバイター
・若者はなぜ「やさしさ」に目覚めたのか
・「やさしさ」と「自由」の相関関係
・社会へのアンチテーゼとしての「やさしさ」
・「心の不良債権」の処置を
・「ゆとり教育」こそ元凶だ
・「偏差値教育」のどこが悪い?
・世界に比べても学ぶ力が落ちた日本の子供
・「モンスター・ペアレンツ」が子供に与える影響
・公立小学校の授業と教科書のレベルを上げよ
・将来の格差を是正する為に、今できる事

第2章 学びを奪った「アメリカ化」
・「アメリカ化」する若者達
・教養に対して「ノー」を表明する国・アメリカ
・ロックで簡単に得られる快感
・「性の解放」が日本にもたらしたもの
・「教養主義」はいつ没落したか
・ヒッピー文化が再興した「身体論」
・「中身」より「見た目」重視へ
・憧れの対象は白人文化から黒人文化へ
・アメリカ文化の優れた部分は導入せず
・精神の柱を失い、金銭至上主義へ
・広がる格差、崩れる信頼関係
・「学び重視」から「遊び重視」への大転換

第3章 「書生」の勉強熱はどこへ消えた?
・司馬遼太郎はなぜ「書生」にあこがれたのか
・「姿三四郎」に見る師匠と書生の濃すぎる関係
・「深交力」があればこそ
・大家族、居候、書生が当たり前だった時代
・「同じ釜の飯を食う
・学ぶ事が身体的だった素読世代
・明治の文豪は「一家」を背負っていた
・若い時代の「修行」が糧となる
・「書生再興」のすすめ
・「深効力」は人生の醍醐味

第4章 教養を身につけるということ
・旧制高校に心酔して
・哲学的思考を試みるなど垂直願望の生活を送った
・新旧の「世界」の違い
・「わだつみのこえ」の格調高さはどこから来るのか
・独特の「恥の文化」が向学心を生む
・修養主義から教養主義へ
・哲学を学び、思考の基本スタイルを作る
・大学の「一般教養」に忍び寄る危機
・教養の欠落を嘆く人すらいなくなった
・「新しい教養」としてのマルクス主義
・マルクス主義に予見されていた今日の日本
・「徳育」教育への期待
・倫理観を再興するための「読書力」
・「迂回」を知らない社会の脆さ
・現代恋愛事情が生み出した虚無感
・お金の使い方にも本来は教養が必要

第5章 「思想の背骨」再構築に向けて
・責任は中高年世代にある
・薄い人間関係を志向する若者達
・「パノプティズム」に陥った日本
・「コーチング」が流行する裏側
・早期退職する若者達の悪循環
・読書とは自分の中で行う他者との静かな対話
・「無知ゆえの不利益」に気づけ
・実在主義の「投企」に生きる意味がある
・「ポストモダン」で思想は終焉した
・思想なき世をいかに生きるか
・「ガンダム=世界観の全て」の恐ろしさ
・思想的バックボーンが溶解した日本
・「学び」へのリスペクト導火線に火をつけて

あとがき 次代へのメッセージ
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2013年9月7日土曜日

「GEQ 大地震」 柴田哲孝 双葉文庫 2010 ★


記憶に新しい東日本大震災。2年半経った今も復興は遅々として進まず、それどころか併発した原発事故後の日本の迷走は未だに行き先が見えない。その地震が起きたのは、政権交代が叫ばれ戦後初めて二大政党制が成立したかに見えた民主党政権時代。

早朝のテレビを見たら、まるで戦場のようになった神戸の風景。高速道路が途中で切れて、車がぶら下がっている姿と火の手に追われる街の姿は高度成長を遂げた日本に大きなショックを与えた。そしてこの阪神淡路大震災が起きた時は戦後始めて自民党以外が内閣を努めた連立政権時代。

巨大大国が近代化の象徴として準備していた北京オリンピック。その直前で起こったチベット紛争。世界各地で起こる聖火ランナーへの妨害。そして各国トップが表明するボイコットへの可能性。そんな中起こった四川大地震。それを契機に世界の意見は逆転し、オリンピックは国家の団結の象徴へ。

911の後ろでささやかれる様々な憶測。結局は誰が得をし、誰が笑ったのか?

あくまでも911は人為的テロであるが、もし地球で起こる超巨大地震が作為的に引き起こされたものだとしたら一体誰が得をし、誰が笑ったのか?

そんなネット上で飛び交うような都市伝説を一つ一つ検証して一つの線として紡いでいく。世界中に起こる不都合な真実。自然現象に必ず結果に対応する理由があるように、自然現象といわれる災害にも、何かしらの理由があり、それは自然的な理由だけでなく、人為的理由も隠されているとしたら。

そんなとっかかりはとても広がりをもったネタではあると思うが、それぞれのネタを繋ぐ大きな物語なしに、あまりに安易に繋げる感は否めない。

「なんなんだ、この終わり方は・・・」と言わざるを得ない、何の説明もない最後。

「何で生きてるの?」
「ケロイドの説明はどうしたの?」
「今はどうやって生活を成り立たせてるのか?」
「何を知ってしまったのか?」
などと想像力を刺激するようなレベルでなく、あまりに詰められてないプロット。

あまりに稚拙なカンパニーの行動。「どこの国のトップの諜報工作員がこんな安易に単独行動をするのだろうか・・・」と突っ込みどころが満載。

一つの国の利益は他の国の不利益ともなり、国家レベルで利益が共有できるというためには相当なところまで詰めていかないといけないと思うが、「そんな簡単に大国間で合意がとれるか・・・。そんなに大勢が知っちゃっていいのか・・・」となんだか悲しくなってページを捲る。

かつての作品は好きだったがそろそろ潮時かと思わずにいられない一冊。