2012年7月26日木曜日

新国立競技場設計コンペティション

東日本大震災からの復興のシンボルとして、
また縮小社会の中での新しい建築の在り方を提示し、
世界に先駆けて21世紀型の都市モデルと、
そのアクティビティーの中心となる建築に、
日本の未来を投げかける。

その為に世界中から自由で活発なアイデアを募集し、
国民の総意として新しい日本を代表する建築を作っていく。

明るく輝いて、未来の子供達の声が聞こえてきそうな、
そんな前向きな設計コンペティションになるのかと思われたのが、

新国立競技場設計コンペティション

しかし開けてみた箱の中に入っていたのは、
ガラパゴスの奥地への片道切符で、
欲しかった英知は20世紀のエスタブリッシュからのみのもので、
未来を生きる若者の意見はまったくもって必要とされておらず、
震災後のこの国の振る舞いそっくりな匂いがしてくる募集要項。

建築関係ではない人には分かりにくいかもしれないが、

応募者の代表者若しくは構成員が次のいずれかの実績を有する者であること。
① 次のいずれかの国際的な建築賞の受賞経験を有する者
1) 高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門)
2) プリツカー賞
3) RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダル
4) AIA(アメリカ建築家協会)ゴールドメダル
5) UIA(国際建築家連合)ゴールドメダル
② 収容定員 1.5 万人以上のスタジアム(ラグビー、サッカー又は陸上競技等)の基本設計又は実施設計の実績を有する者

という応募資格は、
野球で言えば以下のいずれかを獲得したものとなるだろうか。
1)日本かメジャーでホームラン王か首位打者、
2)10年連続200本安打、
3)通算200勝、
4)三冠王、

つまりは限りなく少数のすでに巨匠と呼ばれるビッグネームにしか応募資格がないということで、ここまで来ると深読みせずにはいられず、想いの強い若手建築家には、

「世界的エンジニア集団のスポーツ部門とチームアップするなどの、高度の政治手段に訴えてでも第一関門を突破して来い。それくらいでなければ次世代の建築は任せられない。」

という傲慢なメッセージの裏返しか?などと読み返そうとしてはみるが果たして・・・

オフィスにはオランダ、ドイツ、イタリア、アメリカなどの出身者もいるので、募集要項を読ませてみると、「一体、日本はどこにいこうとしているんだ?」と誰もが大笑い。

世界に笑われる国でいいのだろうか?

2012年7月16日月曜日

子供専用車両

実家に戻るために、妻の実家の埼玉より東京にでて豊橋に止まってくれる数少ないひかりに乗り込む。3連休の最後の日ということもあり、連休と都内で過ごした子供連れの姿と、なぜか外国人のグループが目立つ。

朝から張り切って行ったランニングのせいで、新横浜を過ぎたあたりですでにうつらうつらしていると、空気圧の違いに敏感に反応したのかは分からないが、いろんなところから子供達の大きな泣き声で眠気も吹き飛ぶ。

よく千代田線などで、女性専用車両などというよく分からない区別がされることがあるが、それに比べたら新幹線はいまだに区別無しのグリーンランド状態である。

こんなことを言うと逆差別だ!なんて言われるのが縮小した日本社会の典型だろうが、自分が親だとしても、大泣きする子供をあやすストレスよりも、

「他の乗客に迷惑がかかっているのでは?」

と思ったり、

「他の乗客からどう思われてしまっているのだろう?」

と思うことの方がよっぽど辛いのではと思うのが人の常で、そのストレスを軽減するためにも、ぜひJRには6,7号車あたりを子供連れ専用車両としてもらえれば良いと思う。

電車の中で電話を使うのはかまわないが、その声の大きさにはやはり節度というものがあるはずで、その節度を決める理性をまだ持ち得ない子供達を連れて公共という場に立たなければいけない親達の為にも、やはり柔らかな区別のシステムは誰にとっても良いはずで、子供専用車両ではあっちこっちで子供達が鳴いたり叫んだりしているだろうが、少なくとも回りに迷惑をかけているのでは?というストレスからは解放されるはずである。

そんなことを思いながら、耳栓をしてさらにうつらうつらと始める。

墓参り

今年の初めに闘病生活の末に逝った小・中の同級生。その葬儀には地元に残るメンバーが中心となり声かけをし、同級生の半数が参加することができ、盛大に送ることができたという。

北京への引越しの準備も重なり葬儀に参加することができずにいたのが心残りだったが、葬儀以来SNSなどを使っては、仲の良かった同窓生が月々の命日に合わせて小さな同窓会を開いている様で、卒業以来疎遠になっていたメンバーも帰省の度にみんなと会うことができているという。小学校のメンバーそのままに中学校に上がるという、田舎の小さな学校だからこそできるコミュニティというところだろうか。

良い機会ということで、今回の帰省に合わせて妻と一緒にお墓参りをさせてもらえればと、中心で動いているメンバーと連絡を取り合って、わざわざ車で迎えに来てもらって一緒にお墓に花を沿え、手を合わせることができた。

お墓参りの後に近くのコメダ珈琲でお茶をしていると、たまたま時間が空いたという他の同級生も来てくれて、妻を紹介したり、懐かしい話に花を咲かせたりとしているうちに、せっかくだから他のメンバーにも声をかけて夜に軽く飲みに行こうか、ということになり、何本か電話をかけてくれて、また21時に車で迎えにいくよ、ということに。なんともありがたい。

久々に両親と一緒に夕飯を取り、少し休憩をしているとあっという間に21時。少々のダルさはあるものの、久々に会える顔を想像しながら、妻に今夜の登場人物の概要を説明しながら出発。

恰幅ばかり良くなった男ばかりのところに、妻と一緒に参加する形になったのだが、何人かは7-8年ぶりにも関わらず何の違和感も無く、逝った友人の最後の話を聞かせてもらったり、懐かしい小学校時代の話で盛り上がる。それと同じくらい、すんなりと話に入っている横の妻の適応力に驚くと同時に、こんな場所でも嫌がらずに楽しみながら馴染んでくれることに感謝する。

チョイスは限られるのかも知れないが、こうしていつでも会いたい仲間がいて、会える場所がある田舎があるというのは、何にも変えがたいものだと再認識し、

「これもあいつが最後にくれた縁なんだな」

なんていう言葉に、確かにこういう機会がなければ、こうしてまた集まることも無かったのかと思うと、いつもワイワイと明るく人気者だった友人にもまた感謝せずにいられない。

2012年7月15日日曜日

快適指数

環境などというものを、建築の分野で教える手伝いを東京大学で3年ほどしていたので、人体が感じる快適さが、気温、湿度、風速という変数の組み合わせによって決定されるということは、少なからず理解しているつもりである。

高温多湿の東京の夏。それに比べて、高温ではあるが内地で比較的湿度の低い北京の夏。

BMIがやや高めの我が身体にとっては、炎天下で遮るもののほとんど無い家から駅までの約1キロの道の歩行ですら、体中から汗が噴出してくる。

空気の悪い北京ではなかなか自由に早朝のランニングができないので、ということで楽しみに持っていったランニング・シューズで朝方に30分ほどでも走ろうものなら、その後2時間はとどまることなく汗が出続ける。

恐らく気温、風速については微々たる差しかないだろうが、飽和寸前まで高められた湿度の差が、人体活動にここまで致命的な影響を与えるというのを身体で理解し、消耗激しい体力に、こんなに住みにくかったか?と思いながら、北京の夏の方がよっぽど楽だなと再確認。

梅雨明けしたばかりの7月中ごろでこうならば、いわんや8月なんて・・・想像するだけでも恐ろしくなる日本の夏。

季節ごとに快適な場所に、その気候にあった建築とともに生きる。

許されるのならば、それがもっとも贅沢なことになってくるのだと確信し、同時に、これはどう考えても異常気象と呼ぶべきだと思わずにいられない世界の気候。

2012年7月14日土曜日

乾いた大地から緑溢れる風景へ

北京を飛び立ち、東シナ海を横切り東京へ。

窓から見下ろす風景が変わっていくのをなんとなしに見ながら気づくこと。

「中国大陸から、日本列島へ。」

つまり

「大陸から島へ。」

北京を飛び立ち、都市部を離れれすぐに見えてくるのは、荒涼とした永遠に続くのではと思われる果てしない大地。乾燥し、剥き出しされた地面の薄茶色の世界。

東シナ海で真っ青に染められた面に慣らされた眼は、日本列島に上陸し、起伏の激しく、緑で全体を覆われた山々と、平地に広がる水田の風景へ変化を経験する。

薄緑から深い緑まで様々なグラデーションを持ちながらも、ほとんどが緑一色の世界。

むっとするような湿気も、マイナスイオンが感じられるような爽やかな川辺も、すべて水気を感じさせる緑の層。

そんなことを感じながら、徐々に高度を落としていく飛行機は、水田の中に着陸するのでは?と思うような成田の風景に溶け込んでいく。

飛行機で降りていくのが美しいのはイギリスが一番だと思っていたけれど、日本の国土もやはり美しいと再認識する。

広大な大陸の風景を見ながら育ったら、自分の性格にも大きな違いがでていただろうけど、やはり島国の起伏に飛んだ風景の中で育って良かったと思えるような歳になったんだと気がつく2012年の夏。

東京のお盆

8月には戻ってこれそうに無いという理由もあり、妻と自分の両方の実家での墓参りも今回の帰国の大きな目的でもあった。

帰国日がちょうど東京でのお盆の季節に当たるので、妻の実家に着いたらすぐに近くのお寺まで送ってもらい、妻のご両親と4人でお墓に手を合わせることができた。

が、妻に「東京のお盆に合わせてお墓参りができて良かったね」と言っても、

「東京のお盆が7月だなんて、聞いたことが無い」と、頑なに返され、

「きっとそれはご両親が地方出身だからだよ」と、やんわり返すが、

「周りでもそんなことは聞いたことが無い」と。

東京のお盆が七月って???

確かにテレビや会社の休みもお盆と言えば、8月の15日前後を指すものだとうえつけられているので、その来歴などはほとんど疑問を持たないとういことだろう。

江戸から明治に、農耕社会から近代社会に変化する過程で、暦との付き合い方も当然のように変化してきたのだと改めて感じることもまた、季節のある国だからなせることなんだとお墓を後にする。

この先、渋滞があります

北京に戻って三ヶ月しか経っていないので、日本の戻るといってもそんなに懐かしいものでも無いと頭では理解しても、乾燥した大陸の気候に慣らされた身体にとっては蒸せるような初夏の湿気は耐え難く、一週間の滞在ですっかりグロッキー状態になってしまった今回の帰国。

機内という究極の空調域からいきなり無防備な身体で放り出される着陸後のブリッジ内部が、一番強烈な環境的ストレスを身体に与えることになるんだと感じながら到着した成田空港。

海の日を飲み込んだ三連休の初日に、渋滞に捕まりながらもわざわざ埼玉より迎えに来てくれた妻のご両親と久々の再会。とにかく今日の渋滞は酷いということで、挨拶もそこそこに荷物を車に載せて東関東道を都内にむかう。

そして早速ナビから流れるのは「この先、渋滞があります」の声。

しょうがないとは分かっているが、どうして関東の高速道路の経路は一度東京を経由してしか別方向に迎うような放射状だけの整備にとどまり、そのせいで都心部と経由する必要の無い通過車両がどんどん流入し、慢性的な交通渋滞が起きるのは当たり前だろうと、なかなかできない東京外かく環状道路にイライラする。

早めの英断だということで、高速を諦めて下道で行くことになるのだが、主要な幹線道路に入ればすぐに、

「この先、渋滞があります」。

それならば、と裏道を抜けて抜けてここなら大丈夫か?と思われる道にでたところで、

「この先、渋滞があります」。

ならこちらにと向かうと。

「この先、渋滞があります」・・・

本当にノイローゼになるのではと思われるのどのヘビーローテーション。

こんな渋滞ならばI don't need youだなと頭の中でガンガン鳴りながらふと考える。

世界に誇る自動車会社がいくつも存在するこの日本。高度経済成長に支えられ、どの家庭もいつかはマイカーと願った時代に合わせるように整備された日本中に張り巡らされる道路網。世界第二位まで登り詰め、見渡す経済大国としての日本の風景には、一家に数台は当たり前で、子供達はどんどん核家族化してねずみ算的に増えていく国内におけるマイカー総数。麻薬の様に一度覚えた便利さへの欲求は不可逆的に加速にするばかり。

そこで気になるのは、購入などによって一年にこの国に送り出される車の数と、逆にこの国から破棄される車の数のバランス。需要と共有などという机上の空論はほっといて、国土という限界がある世界で、道路の面積が増える速度には当たり前の様に同じく限度がある。

無計画にあまりに一度に増えすぎると多くの問題が起こるというので行われるバース・コントロールの様に、人間には理性というものがあるものだが、この現状はどう見てもおかしいとしか思えない。

売れなくて利益がゼロよりも、安くても売れればいいから値段を下げたり、廉価版の安い車を開発して普及させる努力を見ていると、一体一台の車を作る本当の原価率とはどのくらいで、本当は恐ろしいほどの暴利を国民からむさぼっていたのではと思わずにいられない。

限られた道路にドンドン送り込まれる車達は、心筋梗塞や脳梗塞などを引き起こす人体の血管の詰まりを想起させる。

これ以上詰まったら、血管が弾けるぞと危険信号段階で人は理性を働かせ食生活の改善や、適度な運動を行ったりするもので、それがロンドンで導入されたコンジェスチョン・チャージだったり、北京で導入されているナンバーの末尾の数字による規制となって現れる。

人として適切な都市生活を享受するためには道路面積と活動する車の総数との間でのコントロールが必要になるというのが、通常の人の理性であるだろう。

それらの街と比べても、現在の東京の状況は圧倒的に酷いと誰でも思うであろうが、一体どのようなアクションが取られているのか?なぜ、このような状況が慢性的にほかっているのか?

世界に誇る優秀な自動車会社と体系的に国土を開発するはずの国土交通省が置き去りにしたのが国民で、優先されたのが国と企業の成長で無ければいいのだがと思いながら、なんとか渋滞を抜け出す。

2012年7月11日水曜日

誕生日


ここ一ヶ月毎日降りかかってくる仕事の波を、
必死に息継ぎしながら泳ぎ切るので精一杯で、
落ち着いて過ぎた一日を振り返るなんて余裕は、
とてもじゃないが望めるは訳も無く、
ただただ指の間から零れる水のように、
過ごした時間が自分の中に定着することなく,
流れていってしまっているようでとてもやるせない。

どんなに頑張ってもノンストレスにできる訳も無いと理解しつつ、
せめてこの日くらいはレスストレスで過ごそうと心に決めて、

「Today is my birthday, i don't need any stress but a good news.」

とプロジェクト・アーキテクト達に釘を刺し  、
なんとか変化を日常に取り込もうとする海馬たちに対抗すべく、
歴史上の建築家達がこの年齢時に、
どんな風景を見ていたかを調べることにする。

ライトはユニティ教会の構想に夢中になっている最中で、
アアルトはヘルシンキに移り自邸を設計するちょっと前で、
カーンは自らの設計事務所を立ち上げたばかりで、
ミースはフリードリヒ街のオフィスビル案やガラスのスカイスクレーパー案など、
野心的なプロジェクト通して自らの生涯の方向性を見つけつつあり、
ル・コルビュジエは翌年発表される『建築をめざして』にむけて、
長年のアイデアをまとめているところであったか。

日本を見てみると
伊東豊雄は「White U」で住宅の根源に挑戦していて、
安藤忠雄は「住吉の長屋」で日本建築の根源に向かっていた。

こうして見ると建築家にとっての30代半ばは、
やっと建築の手触りが分かってきたところで、
同時に見えてきた目の前に伸びる道のりの長さを感じつつ、
毎日考えている頭の中身や言葉達と、
もやもやした風景を定着させる手によるスケッチとの間に、
どうしようもない距離を感じてはうな垂れて、
そして次の朝にはまた手を動かしてという、
オートポイエーシスのサイクルに没頭している頃合ということを、
歴史の必然と自らを納得させて誕生日を消化する。

2012年7月7日土曜日

天壇 (てんだんこうえん 天坛公园) 1530 ★★★★★




「スケールの大きな風景が見たい」

という妻の要望に沿って足を運んだのが天壇 (天坛 tiān tán)。言わずと知れた北京の歴史的スポット。紫禁城(故宮)、万里の長城、そしてこの天壇。それが風水都市北京を代表する歴史的風景であり、歴史的建築。

良く言われるように北京には九壇八廟(jiǔ tán bā miào)と呼ばれる歴史的に重要な位置を占める9つの壇と8つの寺社がある。その壇を並べると下記の様になる。

天壇(天坛) 別称を園丘壇(圜丘坛 yuán qiū tán)
地壇(地坛) 別称を方澤壇(方泽坛 fāng zé tán)
日壇(日坛) 別称を朝日壇(朝日坛 cháo rì tán)
月壇(月坛) 別称を夕月壇(夕月坛 xī yuè tán)
祈穀壇(祈穀坛 qí gǔ tán)  天壇内に位置する
先蚕壇(先蠶壇 xiān cán tán) 北海公園内に位置する

壇とは明清時代の皇帝が神を祀った場所である。古来より天を治める「天帝」に対して、地を治める天帝の子「天子」としての皇帝が君臨してきた中国。そしてその天子が治める中華の国には天子が天帝と交信する特別な場所が設けられ、それは地上から数段高く、少しだけ天に近い場所として作られた「壇」。

四季折々だけでなく、様々な表情を見せる自然としての天。その天と少しでも交信し、この地を治める力を授かろうとして天子は森羅万象をつかさどる、天、地、日、月など様々な神達と交信する場をそれぞれに設けることになる。そういう訳で北京で見ることができる多くの壇はその悠久の歴史の中でも極めて貴重な意味を持つ場所である。

その中でも最大にして最上に位置づけられたのがこの天壇。中国語表記では天坛(tiān tán)と記され、様々な説があるようだが、1530年の明王朝時代に地壇と共に建設され、紫禁城(故宮)を真ん中にして南東に天壇が、北東に地壇が配された。

天壇と地壇は様々な意味で対を成し、形状も「天は円、地は方」という古代思想に基づき天壇は円形、地壇は方形とされている。アプローチもまた対を成し、真ん中に位置する紫禁城(故宮)に向かってアプローチするかのように、南に位置する天壇は南から入り、逆に地壇は北から入る様に設計されている。

更に「天は陽、地は陰」という陰陽思想に従い、天壇内の階段、柱など様々な要素は奇数(陽数)で構成され、地壇は偶数(陰数)で構成されている。

構成としては、南の入口から入っていくとまず現れるのが、九壇の一つに数えられる天壇、いわゆる園丘壇(圜丘坛 yuán qiū tán)。こここそがこの天壇公園の中心場所。皇帝が天を祀るための儀式を執り行い、「天は円、地は方」にそって円形に作られた台が3段連なり、その中心に立ち空を見上げると、何かが空から降ってくるような感覚に襲われることになる。

毎年太陽の力が一番弱まり、明日から復活の期間に入る冬至の日に、ここで豊作を祈る儀式を行い、同じく雨が少ない年は雨乞いを行ったと言われる。因みに階段や欄干なども陰陽思想でいう最大の陽数である9とその倍数を元にして設計されているといい、壇の直径を合計すると45丈といい、どれだけ古代の設計者が数字を崇拝していたのかを思わされる。

その欄干(手すり)の数は、下の段で180(9x20)、真ん中の段で108(9x12)、そして上の段で72(9x8)となりそれぞれが9の倍数。しかもそれらを足すと360と陰暦の日数となるという。まさにレックス・ムンディ。中華中毒の内容がうっすらと頭の中で蘇る。

うだるような暑さのもと、壇を下りたところでおじさんたちが声を大きく張り上げて売っているアイス。北京で何処でも売られているベストセラーとも言えるアイスは1元だというので、妻と二人で雨乞いの代わりにアイスで水分を補給しながら壮大な風景の中を更に北上する。

すると現れるのが皇穹宇と呼ばれる歴代の皇帝の位牌をふだん安置しておく建物。円形の段の上に円形の建物がのっている。その周りを取り囲むのも円形の壁であり、その壁にそって囁くと反響の関係で60m先まで声が届くといわれる回音壁。至るところで大声で壁に向かって喋っている中国人の姿を見ながら、「その大きさなら反響しなくても十分聞こえるだろうな・・・」と思いながら更に北に。

強烈な軸線を北で受け止める建物が九壇のもう一つの壇である祈穀壇(祈穀坛 qí gǔ tán) 。壇であるのでもちろん皇帝が何かを祈る場所。では何を祈るのかというと、その字から見て分かるように五穀豊穣を祈り、いつ祈るの?というとなると正月の上辛の日(旧暦1月の最初の日干が辛の日)だという。ここに関してはかなり厄介な言葉が沢山出てくるので深追いしないことにする。

高さが38mというかなり背の高い建物が3段の円形の段の上に建っている。段を上がる階段中央には石彫りが施されており、鳳凰、龍、雲という3つが用意されている。中も見所沢山であるが、流石に炎天下にこれだけだだっ広い場所を石畳の上を歩き続けると既にヘトヘト。

「スケールの大きな風景が見たい」という要望が十分に叶った妻も満足げな様子で、世界遺産に登録されるのも納得のここでしか見れない風景だと再認識する。東側の出口から出てその目の前に位置する红桥市场の屋上に上って再度広い広い天壇を暫く見下ろすことにする。






園丘壇












回音壁


皇穹宇













祈年殿














2012年7月5日木曜日

原理原則で生きる

母国語が共通語にならない場所で生きていくには、
できるだけ原理原則を見ることが求められる。

仕事一つ取ってみても、目の前のタスクをただ必死に終わらせようと努めるよりも、それがどういう理由で求められ、どんな説明が必要で、どんな結果を得ることが、全体のフローを助けることになり、全体のスケジュールから見ると、どれくらいの時間と労力をかけるべきか、その為にはどの関係者の確認がどのタイミングが必要で、その後は誰に報告をして、どれくらいフォローアップする必要があるのか。

会議に出席して、母国語以外という理由で100%は分からない内容になんとなく頷き、いかにも意味があった体で終了させるのはどこかの馬の骨でもできることだが、この会議がプロジェクトの中でどんな意味を持ち、会社にとっての意義を大きくする為に、ここで何を話し合い、どんな情報を得るべきか整理して臨み、協同会社を説得しタイムフレームを与えて、その日に得るべきものを得て帰り、その後決定事項にそって各関係者を動かすこと。それが原理原則に沿った仕事のあり方であり、限りなくシンプルに仕事をこなしていくこと。

余分な贅肉をそぎ落として、何故ここにいるのか、何故今日一日を過ごすのか、惰性から出来るだけ遠くに身を置いて、自らの原理原則に向かい合う。「上と外」での言葉にあるように、

「人生は無為に過ごすには長すぎで、何かをしようと思えば短すぎる」

日々一喜一憂する事象に踊るよりも、その後ろに流れる10年後でも忘れることの無い原理原則に視線を投げかけながらまた明日を生きる。

2012年7月4日水曜日

神と龍

空の上では神の船が帆を張らせ、
水の下ではミズチが這いまわる。

そんな風景をつなぐキーワードは資源。

人類に取り残された数少ないフロンティアである宇宙と深海。
隣の国では弄んだつもりの神の炎がガイアの怒りに揺さぶられ、
収め先が見えぬまま有望な代替方式に目を向けられずにいる間に、
悠久の歴史から目覚めたようなミズチたちは、
今まさに成熟した龍に成らんかとするようにフロンティアを駆け巡る。

安全基準が未確定のままに再稼動に舵を切った日本の舟を横目に、
続くように飛び込んで来た中国の二つの国家プロジェクトによる快挙。

アジアを覆う梅雨空の上で繰り広げられたのは、
有人宇宙船「神舟9号」による無人宇宙実験機「天宮1号」とのドッキング。
米国、ロシアに続いて三カ国目となる快挙である。
その先に見据えるのは月面着陸であり、
それは「LIMIT」で繰り広げられるかの様な、
膨大な宇宙資源への先行投資に他ならない。

そんな思いをで空を見上げているその足の下では、
日本の技術の粋を集めた深海潜水艇「しんかい6500」の限界を超えて、
深海7000メートルまだ達するという深海有人潜水艇「蛟龍号」が、
その名の蛟龍の様に天に昇り龍となる機会をうかがいながら、
深い海の底を這いずり回るようにして目を光らせて、
大陸棚に眠るメタンハイドレードを知らせる気泡を横目に、
未知の資源を目指して更なる海底へと身体をうねらせることだろう。

震災で傷ついた国家を慈しんでもらえる時間はとうに過ぎ去り、
世界はその次へと動き出しているというのに、
それを見て見ぬふりを決め込んでいるのか、
それとも本当に見えないのか知らないが、
日本人であることを誇りに思い、
日本人であることに感謝をできる、
そんな次世代が生まれる為に、
そろそろ本当に変化が必要な時期だろうと思わずにいられない。

2012年7月3日火曜日

周回遅れ

毎日やるべき事は恐ろしいほど沢山あり、それをちゃんと処理しようと試みてはやり切れず、気がつけば本来やるべきことが後回しになり、何をやっているのだと省みて、明日こそはうまくやれるようにと新しい一日に新しい希望を投げかける。

1秒で様々なことが変化する現代においては、処理能力を高めていくことと、クリエイティブな作業を両立することが求められる状況で、一歩でもバランスを崩したり、少しでも気持ちを緩めると、処理される情報に溺れたり与えるべき方向性が示せれずに、後手後手へと回っていくことになる。

建築家にとって真剣に処理すべきメールの内容というのは、簡単に返信だけで済まされるものでは無く、関係会社に確認し図面の修正や面積の確認を踏まえて、間違いの無いようにメールを書くことになる。そんな内容が一日に30通ほどくれば、それを追っかけるだけであっという間に外が暗くなる。

積極的に何かをやったという実感よりも、ただただ周回遅れにならないために、必死に処理に追われる一日。

そんなことをする為にここに居るわけじゃないと奮起して、プロジェクト担当者にメールのやり取りをお願いしては、攻めの姿勢でひたすらチーム内の担当者への設計指示を作成し、スケッチを進めていくわけだが、それでもどうしても自分で処理しないければいけないメールは届き、確認しなければいけない事象は毎日の様に現れる。

そんな状況の中では、ネットにうつつを抜かしたり、日々の徒然なる事象を書いたりなんていうサボリをしたものならが、あっという間に前の走者の背中は遥かに遠ざかる。

そんな状況にジリジリしながらも、ほっといてもどんどん周回遅れになるだけならば、自分で出来るようになるだけしか道は無いと開き直り、いつかは周回遅れの走者たちに「諦めるな」と声をかけれるようになってやろうと、また一つ一つとメールをやっつけることにする7月の北京。