古代ローマの発展を支えたのは帝国内に張り巡らされた舗装された道路網。整備された道は馬車での移動を高速化する。統治する各地方で取れる産物や優秀な人材を、その道路網によって拘束で中心ローマまで輸送し、そこで価値の再分配を行い別の土地に届ける。道路を整備する膨大な費用を負担できれば、それは同時に帝国の更なる発展を意味してくれる。
その事を十分に理解していたのが戦国の世を制した徳川家康。関が原の合戦に勝利した翌年、新たなる価値の中心である江戸を中心とし、全国を結びつける5本に陸上交通路を整備する国家事業を開始する。それが五街道(ごかいどう)。
東海道:1624年完成。
日光街道(日光道中):1636年頃完成。
奥州街道(奥州道中):1646年完成。
中山道:1694年完成。
甲州街道(甲州道中):1772年完成。
整備するとは具体的にどういうことかというと、一里(約3.9キロ)ごとに一里塚(いちりづか)とよばれる旅行者の目印として設置した塚(土盛り)を用意し、距離を正確に把握させる。また一定間隔ごとに宿場を用意し、街道沿いに新たなる宿場町というリニアな都市を作り出した。
その中で4番目に完成されたのが今回の主役である中山道(なかせんどう)。江戸の日本橋から草津宿まで本州中部の内陸側を経由する路線である。木曽山脈を抜けていく為に、「木曾街道」や「木曽路」とも呼ばれる。通過する土地は険しい山の中の道であり、現在の都道府県に当てはめると東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたる。
その中山道の中でも高い人気を誇るのが、43番目の宿場であり、木曽を通る宿場を総じて呼ぶ木曽11宿の一番南の宿場町である馬籠宿(まごめじゅく)。越県合併により岐阜県中津川市に編入され、石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(つまごじゅく)(長野県木曽郡)とともに良く知られている中山道の宿場町である。
その妻籠宿(つまごじゅく)は一つ手前ということで、中山道42番目の宿場となり、経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた町でもある。
そんな馬籠、妻籠の間は程よい距離で道も整備されており、中山道ハイキングと呼ばれ全長9Kmの徒歩2.5時間~3時間の距離なので、ゆっくり周囲の美しい木曽山脈の風景を楽しんであるける距離である。
そんな訳で、かつての日本の風景を楽しもうと立ち寄ることにしたこの馬籠。できることなら宿場町ということで、「一度は泊まりたい宿」にあげられている幾つかの昔ながらの宿を見て回りたいところだが、流石にそれは同行者の手前時間が許されず、道中よってきた中津川の有名和菓子屋で教えてもらった蕎麦屋さんに向かうことにする。
細く伸びた宿場町は上と下で随分高低差を持っており、まずは教えてもらった蕎麦屋があるという上に向かうことにする。その宿場町の規模を見ると、かつては相当に栄えていたのが伺える。残念ながら蕎麦屋を訪ねるが休みのようであり、どうも平日はほとんど観光客が来ないので飲食店のほとんどが閉まっているようである。
観光客が訪れる時期にに一気に稼ぐということか、地元に人に聞いて見に行ったお店も閉まっていて、しょうがないので下の入口に戻り整備された観光センターのようなところで、台湾からの観光客と一緒になって食事をすることに。
「次の宿場が妻籠なんで、折角だからそこまで行きたい・・・」といえる雰囲気ではなく、早く宿に行こうという妻からのプレッシャーの為、しょうがないので美味しい蕎麦と堪能し、車を走らせ中津川に戻り、そこから下呂方面へと向かうことにする。
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