2020年4月25日土曜日

「初恋温泉」吉田修一 2006 ★★


もう何年も、読むことを楽しみながらページを捲るというよりも、年齢と共にこれくらいの本は読んでおかなければいけない、メディアで取り扱われている話題の本は読んでおかなければいけない、というなんとも言えない思いに押され、内容よりも読んだということを追いかけるなかで、かつてワクワクしながらページを捲っていた子供時代の読書の楽しさをまるで失ってしまった気分に苛まれ、なんとかあの時に気持ちを取り返せるかと実家で片付けをしている中で見つけた本が詰め込まれた段ボールの中から見つけ出した一冊。

一時期随分気に入って読み漁っていた作家の作品で、納められている5編の物語は、それぞれ年齢も置かれた状況も異なる5組のカップルがそれぞれ違った場所の温泉地の温泉宿を訪れる様子を描いているため、一日一篇と決めて読みすすめる。

初恋温泉が熱海の「蓬菜」
白雪温泉が青森の「青荷温泉」
ためらいの湯が京都の「祇園 畑中 」
風来温泉が那須の「二期倶楽部」
純情温泉が黒川の「南城苑」

レストランで成功した経営者夫妻が訪れる旅館では、温泉に浸かっていると入っている他の宿泊客の「こういう高級旅館というものはね・・・」というセリフに感じられるように、高級旅館から鄙びた温泉宿、お忍びで訪れるような宿から有名温泉街の心地よい宿まで、登場人物が人生の中で如何にもチョイスしそうな宿がうまいことマッチングされている。

温泉と旅館。

日本人なら誰もが想像できる、特別な時間とくつろぎの非日常。

そんな中でも雪深い青森の風景で、一瞬音が消えたような錯覚から始まる「白雪温泉」はとても印象深い内容で、音なく降り注ぐ雪のように、少しだけ読む楽しみが手の中にまた戻ってきたような感触をもってページを閉じる。

2020年4月23日木曜日

春の雪景色


実家での仮住まいの時間が長くなり、かつての自らの子供部屋がリモートワークのオフィスとなるなか、本棚に置かれっぱなしの小説の背表紙を眺めると、読書に没頭していた時期を思い出す。

そんな気持ちを取り戻すべく、読んでない本を探して一時期随分読み漁った吉田修一の「初恋温泉」を見つけ出す。恐らく読んでなかったはずと、一日一篇読み始める。

それぞれの篇には具体的な温泉と旅館名が書かれており、そこを訪れるカップルの話が納められているのだが、 青森の青荷温泉を舞台とした「白雪温泉」では、空港を出た際に感じる違和感が、雪景色に覆われた風景で音がなくなったような感覚から来るのだと始まり、雪深い宿に訪れた夫婦の一夜の物語が書かれている。

その話が印象深く、夜に妻に語って聞かせた次の朝、日課となった庭木の片付けを終えて市のクリーンセンターに向かう途中、前の車が少し不安定な運転をしているのに気が付く。「危ないな・・・」と思ってみていると、どうやら高齢の女性ドライバー。しかも、目的地が同じ様である。「なんとかかわして先につきたいな・・・」と思いつつも結局前後関係は変わらず到着。

最初の計量に際して、係の人から「何を持ってきたぁ?」と聞かれて、「ちょっと見せてくれる?」と通常のやり取りが行われているのを後ろから何気なしに眺めていると、運転席から降りてきたマスク姿のおばあさんが、トランクを開けて指を折りながら数を数えている。「ここは不燃は取れないよ。可燃しかダメだよ」という係の人の言葉に、窓口に向かうおばあさん。

「ここは不燃がダメなのを知らない人が多いからなぁ」と思いつつ眺めていると、どうやらうまくやり取りが進まない様子で、係の人が「あぁ、耳が聞こえないのかね」と。

昨晩の小説が頭の中で甦り、携帯をもって車を降りて駆けつける。携帯に「不燃」と打ちこみ、おばあさんに見せて、腕でバツを作って伝える。それでもうまく伝わらない様子なので、係の人が「中央センターなら全部取ってくれるから」と言うように、中央クリーンセンターを地図で表示して、「可燃と不燃」とタイプしてマルを作って見せると、どうやら分かった様子でトランクを閉めようとする。

大丈夫かな?と思いつつ、「市民病院の近く」と再度打ちこみ画面を見せると、ポンポンと腕を叩いて、マスクの上からでもそれと分かる笑顔でにっこりとうなずく姿からは「大丈夫だよ。ありがとう」と言ってくれているのが伝わってくる。

植木を出し終え、家に向かいながら、こんな状況でも力強く新緑に覆われ始める春の風景を眺めながら、昨晩白雪温泉」を読んで妻に話していなければ、恐らく気が付くことがなかったであろうことが、意味のある景色として見えたことに感謝しつつ、音がすべて吸収されてしまう雪景色のような世界でも、あんなに温かい笑顔と感謝があることに思いを寄せて、ごみを出しに来たのに、それ以上に大きなものをいただいた気がせずにいられない。