2013年3月30日土曜日

グローブ・トロッター

かつて妻の通っていた語学学校で、当時の妻と同じくらい初級の中国語を話すブラジル人のクラスメートから誘われて、夫婦揃ってブラジル料理を食べに行く機会があった。

彼女達の友人のこれまたブラジル人夫妻と合わせて6人で、なかなか肉肉しい料理を楽しんでいると、隣のテーブルに座っている家族連れと会話が始まり、そのノリの良さですっかり意気投合していくブラジル人たち。

その家族は父親がブラジル人で、母親がフランス人。息子は二人とも190センチを超える長身でモデルのような小顔の高校生。お父さんは貿易関係で、お母さんは大使館関係の仕事をしている関係で、世界中を渡り歩きながら生活をしているようで、双子とも英語、フランス語、ポルトガル語に中国語ととにかく流暢。ついでに日本の漫画が好きということで少々日本語も喋れるというのを披露してくれる。

日本のフランス大使館でも仕事をしていたらしく、仕事の関係で日本にも友人がいるということで、何度か日本にも足を運んだことがあると言い、嬉しそうに写真を見せてくれるでかい双子。そんな訳ですっかりブラジルの波にのまれたような一夜を過ごした昨年の夏。

すっかり時間が過ぎて、中華新年を目前にしたある日。家の近くのブラジル料理屋でランチをしていたら、その隣のテーブルについたのがそのブラジル人家族。お母さんはフランスに出張中ということで、「男だけのお出かけなんだ」と嬉しそうに話してくるお父さん。これは何かの縁だということで、今度は日本食のディナーに出かけないとね、といって別れることに。

そんなことがあって暫くすると、こちらもすっかりご無沙汰にしていたクラスメートのブラジル人夫妻に街中でバッタリ出くわす。エレベーターを待っていたら、そのエレベーターから出てきたのが彼らというパターン。

これは何かの縁だということで、彼らも誘って馴染みの日本料理屋を予約して、いったいどんな話題をふればいいのかと、やや心配しながら昼過ぎに街中を歩いていると、向かいから歩いてくるのは例の双子の息子達。ちょうど高校の試験が終わったところらしく、これまた背の高いクラスメートと楽しそうに歩いてきて、こちらに気がつき手を振ってくれる。ここで話し込んだら夜に話すことがなくなるぞ・・・と思いながら「では、夜に」と言い残してその場を離れる。

皆が場所を見つけられないといけないからできるだけ先に・・・と思って10分前には着いたお店だが、他のみんなは既に到着しており、ブラジル人の意外なパンクチュアリティーを実感し、小皿をつまんでの食事が始まる。

「自分達はグローブ・トロッターだから」と笑顔満面で言うお父さんは、カナダの大学への進学が決まった仲の良い二人の息子が手元から離れていくのがやや寂しそうだが、また夫婦二人で自由な生活をするよと笑い飛ばし、息子二人はどうにかとても日本文化に興味があるらしく、今度は日本語を習得したいと比較的時間のある妻と日本語・フランス語の相互学習の約束を取り交わし、お母さんはこの前東京に行ったときに、「ロスト・イン・トランスレーション」の影響で行ってみたパーク・ハイアットのバーの話に花を咲かせ、クラスメートの夫婦は最近妊娠が発覚したといって、そりゃめでたいと皆で一升瓶の日本酒をあける事にする。

日本史における琵琶湖の戦略的位置づけなど説明してあげると、非常に興味深そうな顔をしながら説明に耳を傾ける双子は、将来はフランス以外に住みたいから大学では商業を専攻するという。そのコースはディプロマの最終学年で世界中のどの国でも選んでいい交換留学制度があるといい、二人揃って日本に行きたいらしい。

こういう開放的な両親の元で、世界中を経験する育ち方をして、バックグラウンドも国籍も年齢も職業も、まったく異なる人たちに接しながら成長していくこの子達を見ていると、今の日本の教育環境で育つ子供達に比べたら、その考え方や生き方に対して大きな違いがでるのも最もだと思わずにいられない。

そんな訳ですっかり打ち解け、今度はその家族の家にてパーティーをして、本場のカイピリーニャを飲んでほしいと誘われて、「それはいい」とひょいひょいと誘いに乗っていく我々。

よく考えたら、たまたま隣のテーブルになったのが二回あっただけで、こうして家族ぐるみの付き合いになっていくというのも、またなんだか不思議だが、人生における出会いなんてそんなものだろうし、それもまた悪くは無いなと思いながら、次回のカイピリーニャに想いを馳せる。

2013年3月26日火曜日

恣意性

行ったり、見たり、読んだりした事を、自分なりの整理をして言葉やスケッチなりに身体の外に出しておかないと、それは便秘の様なもので精神の為には非常に良くないことであるはずだ。

溜まって行くデータを横目に、それならいっそと客観的なデータと写真だけを機械的にアップしてしまおうかと思いがよぎるが、いやいやそれにはそれほど意味は見いだせないと思いとどまる。

情報があふれる時代だからこそ、何かしら自分なりの恣意性を与えて外部化しておくことに必要性があり、それで始めて自分にとっても意味を成す。

成長していく過程で出会う脳に対してのなんらかの「刺激」を、その時々の自分の「言葉」で「恣意性」を加味していく。それはきっと薄い薄い一枚のレイヤーでしかないのだろうが、いつかきっと大きな玉ねぎになっていくのだろうとまた気を奮い立たせることにする。

2013年3月22日金曜日

目的地

仕事が忙しく、日々の余裕が無くなれば無くなるほど、次の休暇での目的地に想いを馳せることがなんとか一日をやり遂げることになる。

レンタカーでも借りて田舎道を飛ばして、人里はなれた山奥をひんやりとした空気に囲まれて向かう先は、我々の人生なんて軽く吹き飛ばすくらい長い時間そこから愚かなる人類の興亡を眺めてきた寺社たち。

観光名所になるようなところだけではなく、それこそ佇まいや雰囲気が素晴らしい寺社などはなかなか見つけることができない。だからこそ、実際に足を運んでみて身体で感じることが何より大切だが、その為にもまずは行き先を自らのマップの中に落とし込むことが必要になる。

そんな訳でさまざまなサイトを手がかりに「これぞ」と思う場所を、グーグルマップにマッピングしていくのだが、最近それはそれは素晴らしいチョイスをしてくれているサイトを発見。

ぶらり寺社めぐり

忙しくなればなるほど、家に帰ってまるでテレビゲームをする子供の様だが、「30分だけ」と自分に言い聞かせ、2,3の県だけマッピングしながら妄想を膨らませる。恐らく「撮り鉄」も同じような気持ちなんだろうと想像しながらも、周りの人には迷惑を掛けまいと心に決めて、また一つマップを増やすことになる。

次はぜひとも滋賀周辺を攻めたいものである。


2013年3月21日木曜日

中国 省


日本ならどんな人に出会っても大体「どちらのご出身ですか?」みたいな会話から始まり、「秋田の生まれなんです」なんて言われればしんしんんと降り積もる雪の彼方に見える日本海を想像し、「鹿児島出身です」なんて言われれば、江戸から明治へと時代を動かす原動力になった周縁の地の男気をついつい想像してしまう。

日本に生まれ、日本で育てば必然の様に身に染み付く郷土の感覚。旧国名から都道府県に変わっても、簡単に変わることがないのがその土地に住み続けてきた祖先のDNA。気候や地形によって養われる地域の性格。それが「どちらのご出身ですか?」に凝縮される。

そう考えるとその国の人を少しでも理解する為には、その国の中に存在する地域性を理解し、「出身は?」の返答に込められる様々な意味が分かる様になるのは、遅かれ早かれ通る道であろう。

その理解が無いので、いつまで経っても場所が点として理解され、白紙の地図の上に浮遊する感覚。点から少しでも線を引き出し、それを繋げて面にしていく、そんな作業。

そんな訳で昨年北京に拠点を移すのを機会に、自分で地図をトレースし、各省の境界線を描き込んでみた。その中に一つ一つ省名を入れていくがまだまだその文字が意味を持って頭に入って来るには程遠い。

仕事や旅行で行ったことのある都市があるのは、雲南や内モンゴルとかなりキャラの立っているところが多いので、必然に頭の中でも地図の上で場所が分かるが、読み方すら危ういマイナーどころもしっかり抑えていかないとということで、各省毎に地図を書き出し、出張で足を運んだ街は出来るだけ自分なりのマッピングをしていく様にと準備をしていた。

が、すっかりやりっ放しで時間は過ぎて早一年が経とうとしている折に足を運んだ遼寧省の省都・瀋陽。大連も遼寧省の都市なのかと、久々に増えたマッピングにまたやる気が立ち上がり、この省と接すののは・・・なども直感的に分かる様まで地図を身体に染み込ませるかと心に決める。

2013年3月20日水曜日

体型不好


何年も続く肩こりと首こりの症状。日本では整形外科に通って首を吊るす器具でリハビリをしてみたり、電磁波を当ててこりをとってみようとしたり、筋肉弛緩剤を注射してもらったりと様々な事を試したが、せいぜい数日の効果のみでまた元の木阿弥。それに伴う慢性的な頭痛。

中国ではマッサージ屋で何人も試してみて、結局信頼出来るの一人のマッサージ師に首の横側をマッサージしてもらう治療を週に二日ほど行い、カチカチの状態からなんとか動くという状態まで二人三脚で脱却を計るが、やはり根本治療にはなってないということで、そのマッサージ師の勧めもあり、中国医の先生に診てもらい漢方を使用して身体の内部から調整した方がいいと言われるので予約を入れてみる。

妻も少し前からその先生に見てもらっては漢方で体調を整えてもらっていたので、一緒に診療してもらう。その病院は中国医先生と西洋医学を専攻している先生の二人に同時に見てもらい、西洋医学、中国医学両方の側面から一番良い手段をとってくれるという。

脈を取りながら、べーっと出した舌の色を診て、「顔色が悪いのがねぇ」と首を傾げながらいう先生。これでやっと苦しいこり生活から脱却がはかれるかと期待を膨らませち、待った先生が発した言葉は、

「頭が大きくて、首が短い。典型的なこりの体型ですね」と・・・・

それをいったら元も子もないじゃない・・・
西洋医学、東洋医学関係ないじゃない・・・

それでも漢方を出してもらって、これは肩こりに余計悪いなと思うくらいがっくりと肩を落とし帰宅し、その後道ですれ違う人で同様の体型の人が前から来ると、きっとあの人も肩こりが激しいのだろうと想像しながら、

「体型不好人来了」と横の妻につぶやく。

2013年3月19日火曜日

「天の方舟 上・下」 服部真澄 2011 ★★



なんの不自由も感じることなく育ってきている現代日本人。ふとしたことで海外に目を向けると、今日一日を生き抜くことすら自分の意思ではどうにもならない人々が沢山いることに気づき、そして悩み、自分でも何かできることがあるのでは?と行き着く先が「国際協力」の分野。日本という枠を飛び出して、世界を舞台に活躍し、なおかつ行く先々の人の為になる仕事を行う。

20代から海外で過ごす時間が長かったために、開発コンサルタントやJICAなど「国際貢献」「国際協力」「国際援助」の分野で仕事をしている友人と知り合う機会にも恵まれたが、そのほとんどの人が教養も高く、人の為に何かできないかと想いを馳せる気持ちの優しい人たちばかり。

そんな人たちを接する上で、少なくとも知っておかなければいけないこともあるだろうとかつて読んだ「ODA 援助の現実」 。その中で示されていたODAが本質的にもってしまう問題点。

友人達もこんな世界を垣間見ていたのか・・・と思わずにいられなくなる内容で、それともそんな世界も95%は、真面目で真摯な人たちで構成されているのだろうと勝手な想像を膨らませずにいられなくなる一冊。

今も中国で地方政府がクライアントの大きな公共建築の仕事を進めているが、関係してくる会社は世界一大きなカーテン・ウォールの会社だったり、様々なコンサルタントだったりする。ひょっとしたら、ここでも自分からは見えないところで、バッド・マネーの濁流が流れているのだろうか?などと想像してしまうことになる。

「国際協力」や「国際貢献」という理想を持って飛び込んだコンサルタントの世界。そして次第に見えてくるシビアな世界の姿。理想だけと貫くだけでは現実の世界で前に進めないと理解し始め、そんな中で耳にする言葉は、

「金はいくらでも抜ける。簡単に億単位の金が沸いて出てくるんだ。」

数字に残らない裏金が存在し、いくら頼まれて、いくら渡されたのか双方に分からない状況の架け橋として自分が存在していれば、ついつい聞こえてきそうな悪魔のささやき。誰も責めないし、誰も傷つけない。そんな中で、「ちょっとだけ・・・」と金を抜き、「これも貧しい国の人々の為になっているんだ」と自分の心を納得させる。次第にそれが当たり前になり、心が求める額が大きくなる速度に応えるために、更に大きな額を扱う場所に自らをおき、そこで力をつけていく。

「理想」と「現実」に苦しむ20代。

「現実」に上手く心を順応させる程、経済的な豊かさがついてくる。その豊かさはその他の様々な豊かさを伴ってやってきて、次第に人格すら変容していく。今まで経験してきたように、経済的な辛さがどうしても心を小さくすることを知っていればいるほど、それが人間としての余裕を無くすのを知っていればいるほど、悪魔のささやきに自分の心を傾けるのはいとも簡単になっていく。

「うぬぼれという感覚は、本能的なもので、自分を肯定しなければ人はやっていけない」

なにかを「肯定」することは、他の何かを「否定」することに他ならず、否定するのは、違う時間を過ごしていたらなっていたであろう「自分の姿」かもしれない。

「海外協力」の世界に飛び込んでいく人と同様に、建築の世界に飛び込んでいく人もまた、相当に世界に対してウブであり、夢見がちで、「理想」と「現実」の狭間で苦しむことになる。

その世界の入り口で見聞きした建築家の名前は、それこそ一握りの成功者の例だと頭では理解していても、その他大勢のその世界に生きる人々の生活の姿になかなか目を向けることができずに、30歳あたりまで厳しい生活のなかでやりくりしながら、それでも自らの「建築家」というイメージにがんじがらめになりながら生きていく。

大学同期の友人がちゃんと大企業に就職し、「理想」と「現実」に折り合いをつけながら、結婚や出産など確実に人生を進んでいる姿を脇目にしながら、自らの「理想」と「現実」の狭間に苦しみながら、それでもなかなか進まない自らのキャリアに苛立ちを感じつつ、ままよっと踏み切る独立への道。

理解のあるお施主さんと出会って、メディア飾るようなセンセーショナルな「作品」を発表し、斬新なアイデアでコンペを勝ち取って、大学の講師として学生と建築を語る日々。などというキャリアのイメージからは徐々に偏差していく自らの日常。

「理想」と「現実」に挟まれて、徐々に秤が片方に倒れだし、生きるためにとにかく仕事をこなしていかなければいけない状況になっていき、そのための仕事すらどうして手に入れたらよいのか分からない毎日。

そんな時に、この本に描かれているような状況が目の前にぶら下がっていれば、お金という安心感をいとも簡単に手に入れることができるような状況に置かれていたら、一体どれだけの人間がそれを拒むことができるだろうかと想像する。

生きるために必要な悪。そのインナー・サークルに入れば、その仲間の利益は確保される「談合」。そこで生きる続ける以上、「理想」と折り合いをつけていけば、生きることへの安心感は常の手の中にあるという「現実」。

恐らく、様々な分野で多くの人が多かれ少なかれ同じようなことをして作り上げてきたのが現在の日本であり、きっと数え切れない人がこのような「おいしい」思いをしてきたのだろうと想像させる一冊であり、それにODAというテーマを絡ませるのはやはり著者らしいチョイスだと思わずにいられないが、いかんせん、最後がややあまい感じはぬぐえない。

2013年3月18日月曜日

沈阳 Shenyang シェンヤン



沈阳 シェンヤン

沈阳(瀋陽)とかいてShenyang(シェンヤン)。
中国北部の辽宁省(遼寧)とかいてLiaoning(リャオニン)と呼ばれる省の省都。

日本のサイトで見ていると繁体字で表記されるから簡体字で慣れているこちらでの印象とやや離れてしまうことになるが、できるだけ簡体字で海馬に埋め込むことにする。

吉林省、黒龍江省とともに、いわゆる「東北」と呼ばれる地方に属する省であり、「北の都市」といえば思い描くのがこの沈阳と哈尔滨。

またこの沈阳はかつて奉天市と呼ばれ、吉林省の省都である长春市とともに、満州という言葉とともに、日本人にとっても大変思い意味を持つ都市でもあるわけである。

この辽宁省。南部に行くと北朝鮮との国境があるので、最近ではニュースでその国境沿いの町の様子などもよく報道されている。

その名前のメジャーさから、勝手に省都クラスの街だと思っていた大連が、実は沈阳に次ぐ第二の都市であるが、やはりこの二つの大きさが郡を抜いているというのが北の沈阳、南の大連というこの省の特徴をよく現している。

そんな沈阳に今回はオフィスから一人で出張にやってくる。7時の北京空港で、一緒にオペラハウスのプロジェクトをやっているファサード・コンサルタントの人と合流し、1時間半のフライトで降り立つ沈阳。そして自分の中国語のレベルが如何に仕事の上では不十分かというのを思い知らされながら、葛藤の中で出来上がったサンプルを確認し、何箇所ものディテールを確認し、その日の夜には北京に戻る。

2013年3月17日日曜日

「レ・ミゼラブル」トム・フーパー 2012 ★★


かつて住んでいたロンドンの中心地に、数ポンドでちょっと古いがナイスチョイスな映画を3本観れるという映画館があったのでよく足を運んでいた。当時は英語もよく聞き取れないがなんと無しに流れは分かるし、DVDもまだまだ高い時代でとてもじゃないが何本も購入できないというので、たまにその映画館に行くのが楽しみになっていた。

映画館に行く度にになぜかその時の風景を思い出す。そんなことを思い出させる久々の映画館での映画鑑賞。

知り合いのフランス人に「戊辰戦争の薩摩の勝利で近代日本国家が誕生したんでしょ?」とさらりと聞かれるので、今度は何か気の聞いたことを聞いてやろうと下心を持って鑑賞したが、見終わって妻と二人で「結局いつの時代なの?」とさび付いた世界史の知識を思い知ることになる。

妻はミュージカルを見たことが何度かあったので、なんとなく流れは分かっていたらしいが、ヴィクトル・ユーゴーが1862年に書いたということらしいが、フランス革命後の時代を描いたもので、全体的に混沌とした社会の姿が描かれる。

ジャンルとしては「シカゴ」や「ムーラン・ルージュ」といった台詞を曲に乗せて綴っていく「ミュージカル映画」なのだが、やはり序盤戦はなかなか馴染めず、ストーリーが頭に入ってこない目に。

それでもアカデミー賞の各部門にノミネートされ、幾つかの賞も獲得した2012年の大作の一つ。圧倒的な予算のかけ方が見て取れるほどの重厚な映像と音楽は十分に楽しめ、日本で大ヒット中というのも納得。

観終えた後に、フランス革命後の世界だから、ひょっとしたら大河の「八重さん」と一緒ぐらいかもね、などといって「情報の歴史」を引っ張り出して確認するが、50年ほども誤差があることを確認し、世界史音痴を再認識。

頭の中でヘビーローテーションするメロディーをつい口ずさみ、「Look down look down」と歌っていると横で妻が、「外れているよ」と笑っている。こちらの音痴も再確認。
--------------------------------------------------------
第85回アカデミー賞助演女優賞 アン・ハサウェイ
第85回アカデミー賞録音賞
第85回アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞
--------------------------------------------------------
監督 トム・フーパー
原作 ビクトル・ユーゴー

キャスト
ヒュー・ジャックマン ジャン・バルジャン
ラッセル・クロウ ジャベール
アン・ハサウェイ ファンティーヌ
アマンダ・セイフライ ドコゼット
アーロン・トベイト アンジョルラス
サマンサ・バークス エポニーヌ
ヘレナ・ボナム・カーター マダム・テナルディエ
サシャ・バロン・コーエン テナルディエ
エディ・レッドメイン マリウス

原題  Les Miserables
製作年 2012年
製作国 イギリス
--------------------------------------------------------

「時をかける少女」細田守 2006 ★★★



「タイム・トラベル」と言えば、ミステリーかSFというのが王道だと思っていたら、そこにまさかの「恋愛」と「青春」を絡ませるところは流石の筒井康隆というとこか。

「もし、過去に戻れたら・・・」

という質問に対して、様々な立場の人が様々な思惑を持ってその恩恵を受け取るというのを非常によく描き出したのが「リピート」 を経験した後では、どうしても誰もが打算的な動きをするものだと思いがちだったが、毎日そこそこに楽しい青春真っ只中の悩みも可愛いらしい程度の高校生が過去に戻れるとなったら、こんなに話が変わるのかと非常に納得してしまう。

「妹に食べられてしまった、取っておいてプリンが食べたい。」
「仲いい友達が急に切り出した告白を聞かなかったことにしたい。」

なんて、とても単純な目的になんだかほのぼのさせられる。

と、同時に、「好き」とか「付き合いたい」とかが毎日のすべてであり、副次的に「部活」とか「勉強」が彩りを加える高校時代の時間の過ごし方が、とても自然に描かれて、それがとっても懐かしく感じられるシーンばかり。

テレビやドラマで何度も実写化されてきた原作の持つ魅力が、アニメという世界で細田守という才能によって映像化され、新たなる世界観が足されたような一本。「サマーウォーズ」につながる様な、「時間」の描き方が覗き見れるような一作である。


--------------------------------------------------------
監督 細田守
原作 筒井康隆

キャスト
仲里依紗 紺野真琴
石田卓也 間宮千昭
板倉光隆 津田功介
原沙知絵 芳山和子
谷村美月 藤谷果穂
垣内彩未 早川友梨
関戸優希 紺野美雪
--------------------------------------------------------

始点はまた終点でもあり得る


1と言うのはいつも良いとは限らない

一番最初はあっという拍子に一番最後になってしまう。

それなら、いっそ一番なんかに望まずに真ん中辺りの人生の方が、心への負担も少なくよっぽどいいかと言えば、やはりそういう訳にはいかない。

そんなことを思いつつも、また末端神経の先にあてがわれたゲートを目指して早朝の空港を歩く。



2013年3月15日金曜日

「聞く力―心をひらく35のヒント」 阿川佐和子 2012 ★


妻が好きで見ている「サワコの朝」をたまに一緒に見ると、どんな相手も昔からの知り合いのように話を聞きだすその力量はTVタックルの激しいやりあいとはまた違ってなかなか見所があるなと思わず二いられない。

そしてバカ売れしたというこの新書。実家の机にあったので「読んだの?」と母に聞くが、いつも途中で止めるくせに、読んだかのような体を取りたがる母親らしく、訳の分からない言い訳をするので、「なら持っていくよ」と手にした一冊。

ベストセラーと期待したのだが、ほとんど目次が全てを物語っている気がするので、目次を備忘録として目次を示しておくことにする。
-------------------------------------------------------
1 聞き上手とは
1 インタビューは苦手
2 面白そうに聞く  
3 メールと会話は違う   
4 自分の話を聞いてほしくない人はいない
5 質問の柱は三本
6 「あれ?」と思ったことを聞く
7 観察を生かす
8 段取りを完全に決めない
9 相手の気持を推し測る
10 自分ならどう思うかを考える   
11 上っ面な受け答えをしない

2 聞く醍醐味
12 会話は生ものと心得る
13 脳みそを捜索する
14 話が脱線したときの戻し方
15 みんなでウケる
16 最後まで諦めない
17 素朴な質問を大切に
18 お決まりの話にならないように
19 聞きにくい話を突っ込むには  
20 先入観にとらわれない 

3 話しやすい聞き方
21 相づちの極意   
22 「オウム返し質問」活用法    
23 初対面の人への近づき方
24 なぐさめの言葉は二秒後に
25 相手の目を見る
26 目の高さを合わせる
27 安易に「わかります」と言わない
28 知ったかぶりをしない
29 フックになる言葉を探す
30 相手のテンポを大事にする  
31 喋りすぎは禁物?
32 憧れの人への接し方   
33 相手に合わせて服を選ぶ
34 食事は対談の後で
35 遠藤周作さんに学んだこと   あとがきにかえて
-------------------------------------------------------

「ふがいない僕は空を見た」 窪美澄 2012 ★★★


吉本ばななから宮部みゆきに近年では垣根涼介から今野敏、道尾秀介、貫井徳郎と並ぶ山本周五郎賞受賞者作家。安定感のある作家名に並ぶ2011年の受賞作と同時に、池井戸潤 の「下町ロケット」を抑えての受賞となれば、それはそれは期待感も大きくなるもの。

現代日本のなんとも表現しようの無いすべてに薄幕が張り巡らされたかのような様々な事象が盛り込まれ、それぞれがあまりに印象深いタイトルがつけられているので、目次を開いたときには短編集だとばかり思ってしまったが、ある事象をそれぞれの登場人物の視線から描いていくという、「エレファント」的な作品。

子供と大人の間で、うまい具合にその両方を使い分ける高校時代。その中でも時に自分でも抑えきれないほどに自分の中で成長していく「やっかないもの」たち。

・ミクマリ
・世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸
・2035年のオーガズム
・セイタカアアダチソウの空
・花粉・受粉

とても魅力的なタイトルをつけられた各章で描かれるのは、その「やっかいなもの」に振り回されれつつも、とてもまっすぐに生きている魅力的な登場人物。

平凡な高校生活の中で、年上の人妻との不倫にはまり、名前も知らないその女とのコスプレ・セックスに明け暮れる男子。助産院を営むシングル・マザーに育てられ、自宅で「自然な形で」で「生」と触れてきた彼が自然と身につけた人肌に触れる感覚。

ブスでチビでデブだと思って大人になって、男性から求められると断れなかった大学時代。OL時代のいじめから抜け出すようにプロポーズされた男と結婚するが、不妊に対する姑の非難に堪えながら、徐々にアニメのコスプレ世界へと逃避する女。

お兄ちゃんは賢くて、あなたはかわいいだけでいいのよと育てられて入った高校で、好きになれる相手が見つかったが、その相手のコスプレ・セックスのビラがばら撒かれ、どうにも関係がうまくいかない女子高生。家では賢すぎる兄がフリーセックスの教団にはまって家族が崩壊しそうになった時に襲ってきた大嵐で浸水する家。そこで再度繋がる家族の絆。

日本全国どこにでも出現する団地風景。その風景が示唆するある種のイメージとそこに生活する人のライフスタイル。そんな風景と違わず、トンネルを抜けた先にある団地で、父が自殺し、母が別の男と出て行き、抜け出すこともできずに、ここで痴呆の祖母と暮らす男子。お金が無くて、食べるものも無くて、どうしようもなくてバイト先の店長の財布に手を伸ばす。

それぞれの登場人物の設定や生きてきた時間、彼らから見えている風景が非常に精密に設定されており、物語がどちらの方向に流れていってもの破綻が見えない。作者がどれだかこの世界に没頭し、一緒になって世界を歩き回ったかがよく感じられる良作。
--------------------------------------------------------
第24回(2011年) 山本周五郎賞受賞
第8回(2009年) R-18文学賞受賞
2011年本屋大賞第2位
--------------------------------------------------------

2013年3月14日木曜日

落ちた風車


京都の風車が折れて無残な姿を晒しているニュースを目にする。

重さ45トンの風車落下、京都 けが人なし

まさに「風をつかまえて」、そのもの。

地震、津波、嵐、原発と一体どれだけ当てるのかと恐ろしくなるが、まさにどこかのデスブログなどよりよっぽどの的中率だと思いながらも、小説の主人公の様に、折れたブレードを眺めながら、悔し涙を浮かべて更に精密な、更に美しい白い風車を想い描いている人物がそこにもいることを願う。

2013年3月12日火曜日

「共喰い」 田中慎弥 2012 ★★★


ネットリするような「粘性」とここまで届きそうな「匂い」。

「釣り」も「川」も「女」も「血」も、形を変えども前編を通して共通するのは「時間」を「生きる」上で避けては通れない、「粘性」と「匂い」。


「川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりもできそうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。」


むっとするような匂いに包まれた、こんなリアリティのある街の物語。都市化とは生活から「匂い」をとり、限りなく「透明」にしていくことだとしたら、現代都市とはまったく正反対の不条理に囲まれた街。現代都市で見えないフィルムに囲まれて生きていく人々の価値観から見ると、決して良いとは言えないその環境。一体このリアリティはどこから来るのかと見てみると、作者は下関出身だという。これはぜひとも一度足を運んでみないといけない都市のリストに追加しないとほくそ笑む。


「何もかもが遠ざかって消えてゆく感じがする。なのに、昔からこの川辺にあって何も変わらない全てのものが、いまのまま残り続けてゆきそうでもあった。」


世間一般で言われるような負のスパイラル。遺伝する格差によって生まれたときから決まっている「当たり前」。そこにいれば、それはそれで日常になり、抜け出したいとは頭の隅で思いながらも、それなりに楽しいことも悲しいこともあって時間が過ぎていく、その圧倒的なリアリティ。

生理の時は鳥居をくぐってはいけないだとか、川が女の割れ目だとか、セックスの時に殴りつけるとか、後頭部を鈍器で殴られたときのような苦い味が口の中で広がっていくその感じ。まさに「重みだけでどこまでも沈んでいゆくという感じ」。

そんな中で生きているのに、登場する女性の誰一人すら悲壮感を感じさせない。どこでも適応するのはまずは女性ということか。まさに女の強さ。芥川賞受賞が納得の現代らしい一冊であろう。
--------------------------------------------------------
第146回芥川賞受賞
--------------------------------------------------------

2013年3月10日日曜日

「永遠の0」 百田尚樹 2009 ★


数年前に足を運んだイベントは、ある映画の試写会。戦後60年を超えて、本格的に戦争を体験した世代が歴史から消えていく中で、国をあげて出来るだけ多くの記録を残そうとする動きの一環で、若きジャーナリストが戦後、自らの意思にて日本に帰国することを選ばなかった人々へのインタビューを元にしたドキュメンタリー映画である。

東南アジア全体に広がった戦場で、様々な想いを抱えて終戦を迎えた人々。昨日まで自分たちを縛っていた常識が、今日にはまった別のものに反転してしまった人々は、ガダルカナルやインパールといったこの世のものとは思えない苦しみとその中での人間の性を経験し、それこそ様々な思いで日本に帰ることを拒否していく。

各地に溶け込んで、各地の人間として生きている80に手が届く当時の若者たち。彼らが久々に発する日本語の中で語られる壮絶な事実。現在からは到底想像もつかない軍の命令。挫折、絶望、後悔。様々な思いが今も昨日のことの様に語られる。

「語らない」のではなく「語れない」のだと世代の背負った宿命を垣間見た気がした一日だったが、その一日がフラッシュバックするような一作。まさに、同じ視点で進められたであろう取材とそこで語られた言葉たち。


その帰り道、どれだけ自分の祖父の世代のことを知らないんだと自分を恥じたことを今でも鮮明に覚えている。


二世代前までは人格を踏みにじるような過酷な状況の中で、自分と年齢が変わらない若者が家族の為に、祖国の為にと命をかけて戦った事実があることすら、まるでネットの中のバーチャルな物語の様に感じる現代に生きる若者。司法試験に落ち続け、それでも必死になることもなく生きていける現代の飽和社会。その若者を歴史を紐解く視線にし、その若者が同じく若者であった当時の祖父の姿を追うことで、「生きる」ことと「愛する」ことに新たなる意味を見つけていく物語。

小説として成功しているのは、時代を超えた若者をオーバーラップすることと、「ゼロ戦」という「メイド・イン・ジャパン」の化け物を軸に物語を進めることで、壮絶な過去のインタビューからさらに奥行きをつくりだしているのだろう。

戦時を語れば、すぐに「右」だ「左」だと隣国の表情を眺めて右往左往する現代。ドイツの様に過去の過ちを確実に清算して新たなる歴史を歩みだすことができずに、いつまでたっても過去にとんでもないことをした国だと隣国からなじられ、祖国に対する愛国心を持つことが難しい時代に育つ子供達は一体どのような大人になっていくのだろうと思わずにいられない。

いつの日か、日本でも「ヒトラー 〜最期の12日間〜」のような映画が、自国産で製作されるような時代が来ることを祈るだけである。

2013年3月8日金曜日

いつから老いるか


「再不学习,我们都将老去」

北京の地下鉄の広告。かなりドキッとするコピーだと思い、中国人スタッフにその意味を確認して見るが間違っていないようだ。

「学ぶのを止めた瞬間から、我々は老いていく」


誰もが歳を取るにつれて、「老いたくない、老いたくない」などと口にするが、何を持って老いるのかを考えてみる。体力が落ちていくのは当たり前で、それは身体を鍛えることで克服できるだろう。しかし、そんなことは「老い」ではない。本当の「老い」は「成長」しようとするのを止めた時から始まる。

高校生までは意思と意志に関係無く、学んだり、本を読んだりする機会を強いられる。その後の人生においては、よくよく言われるように自分で時間を管理する自由を手に入れる。身体の目に見える成長、身長が伸びたり日常生活の中でも筋力が上がったりとする時期も、この大きな時間の使い方の変遷期で終了するのもなるほど良くできていると思わずにいられない。

つまりそれ以降の時間で自分をどう成長させるか?もしくは成長出切る様な環境に自分をおけるか?もしくは何を持って自分の成長かをちゃんと考えてきたか?によって例えば同じ30歳でも中身は全く異なる人物となる可能性があるわけだ。

まともに社会人となりある程度の会社に入社すれば、新人研修という期間に社会で人とうまくやって行くための「いろは」や「生活の規律」の基礎を教え込まれる。大学に入ってから自分で管理する時間の中で、とんでもなくだらけてしまい、怠惰な生活を送っていたような自分を律することの能力のない人間でも、最低限この「新人研修」とうい通過儀式によってそれなりの社会人へとなっていくものだ。

それでも馴染めない人間が、「自分探し」や様々な言い訳を探しながらも、また自分で時間を管理する生活へと舞い戻り、「ニート」や「格差」ということばを作っていくことになる。

それは兎も角、突き詰めれば「成長」とは昨日の自分よりも今日の自分の方が自分の価値観の軸線上でベターになったかどうかであるだろう。

持ち上げれなかったダンベルを上げれる様になったという身体的成長は筋トレでいくらでも維持出切る。恐ろしいのはやらないと現状維持ではなく、あっという間に落ちて行き、再開するのもしんどいし、増してや辞める前のレベルに戻すのは相当時間がかかる。その人間の摂理を教えてくれるのも筋トレの大きなアドバンテージであろうが、とにかく続けるのが何よりの秘訣であり、それ以前に何も鍛える事をやっていない、それがどのような意味を持つのか気づいてないのは相当後でツケが出てくるだろうと想像する。

同じように考えると人間としての思考力や理性、言葉の能力もどうやってあげていけるか?読書をしたり、新聞を読んだり、時事問題を考えたり、または新しいものを見て刺激を受けたり、色んな人に出会って会話をしたりと、様々なことが考えうる。

しかしそのどれもが決して受動的ではあり得なく、かつて学生だった頃の様に誰もがご親切に用意したり、推薦したりは決してしてくれない。何が必要かと考え、自分から動いて見つけ、時間を割いて学んでいかないといけない。それは確かに苦痛であろう。できることなら誰もが避けたいであろう。

日常の中でも学ぶ事はあるからとよく聞くが、そんなのは当たり前で、小学生だって毎日生きてく上で学んでおり、問題なのは年々上がっていく自らの年齢に見合った何かを学んでいるのか?ということ。

ただその前に座ってチャンネルを変えていれば、バラエティーからドラマなど、ダラダラと決して自分で選んだことではない刺激に身体を晒すことができるテレビ時代に人格形成をし、更に多様になった欲望と刺激に答えるネット世界で生きている我々の年代にとっては、如何に「苦痛」に向き合うかが重要である。

新聞を読まない、読書をしない、旅行にいかない、新しい出会いを求めない。ただただ自分の感情、自分の思考に波風の立たない安穏とした生活範囲のなかで、ただひたすらに受動的に生きていくこと。それはきっと、年金を払わなかったり、貯金をしてなかったりとすることよりもよっぽど、自らの将来を危険に晒すことになるのだろうと想像する。

語学でも、習い事でも、仕事でも、何か昨日よりも今日が、今日よりも明日の自分がベターになっていたいと思えることを持って生きること。それが自分に「成長」をもたらし、「老い」から自らを遠ざける。死ぬ瞬間まで一度も「老いる」ことなく生きていける、そんなことも可能なんだと、そんな風に思わせてくれた一枚の広告。

2013年3月7日木曜日

「Perfect Blue」今敏 1998 ★★


今の日本ではどこにでもありそうな、アイドルから女優へと転進を遂げていく主人公とその周りに蠢く様々な人の想い。

ふわり、ふわりと浮遊していく姿や、夢がいつの間にか現実へと浸食していく感覚はまさに後の「パプリカ」への発展を暗示する。

ネットとバーチャルの世界で個人としてつながることが可能になったアイドルとオタク。目覚めたと思ったら、また夢の中。その入れ子構造の中で、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが自分なのか次第におぼろげになる境界線。

底の無い沼に引き込まれるような、「ネット」という匿名世界によって解放されら人々の「欲望」。曖昧になった境界線は、自分の好きなように解釈され、引き直される。どこまでも自分の意識の世界だと。

現実の世界ではそれこそ起こりそうなサイコ・スリラー物。それがアニメの世界になることでその異常性がより強調される一作。

--------------------------------------------------------
スタッフ
監督 今敏
原作 竹内義和

キャスト
岩男潤子 霧越未麻
松本梨香 ルミ
辻新八 田所
大倉正章 内田
秋元洋介 手嶋
--------------------------------------------------------

2013年3月4日月曜日

面白いのは人

社員旅行でやってきたハルビン市。現在オペラハウスとレイバー・レクリエーション・センターの二つの建物が現場進行中で、近くには最近竣工したチュンリー美術館もあるので、オフィスのメンバーにこの現場を見せてあげることと、ハルビンという街を少しでも理解できるように、有名な観光スポットと合わせて一泊二日の弾丸ツアー。

初日の夕食で円卓を一緒に囲むことになったアメリカ人スタッフ。いつも「ヒュー!!」とか、「ワァオ、ザッツ・クール!」とすぐに大きな声をだす典型的な西海岸出身の性格で、明るく前向きなのはいいことだと思っていたが、そんなに詳しく話す機会は今までなかなかなかった。

円卓に納まりきらず、どんどん皿の上に積み木のように重ねられる東北料理に一向に手をつけないので、どうしたのか聞いてみると、「だって、ベジタリアンなので」とサラッという。「いつからベジタリアンなの?」と聞いてみると、「12年前からで、数年前からは卵やチーズも止めた」という。

「何かアレルギーとかの問題?」と尋ねると、「違う、だってこれ全部動物でしょ?」と。つまり動物の命を摂取するのはポリシーに反するということらしい。野菜の上にちょっと挽肉がまぶしてあるのも、「ああ、それは肉だからダメ」というので、食べれそうな野菜料理を追加注文。となりに座っているアメリカ人も同じくベジタリアンだとういので、二人して野菜の皿のつつくことに。

「アメリカの若者ではベジタリアンになることはある種流行っているのか?」と聞いてみると、「家族でも自分だけだからまだ特別な方だと思うけど、回りでは程度の差はあれ、結構居る」という。たしかにオフィスで一番背の高いもう一人のアメリカ人もベジタリアン・・・恐るべしアメリカ。

そんなこんなで話は他に飛ぶのだが、よくよく聞くと彼女はお母さんがイラン出身で20代の時に渡ったアメリカで彼女のお父さんに出会ってそのままアメリカに残り結婚をしたと言う。その時にイスラム教からキリスト教に改宗をしているので、もしお母さんが故郷のイランに帰ったら刑務所行きになるから帰れないという。自分は母方とは違った名前を持っているので、いつかテヘランに行って自分のルーツを見てみたいと、ガバガバとビールを飲みながらあっけらかんと言う。

「なんて重い話を軽くするんだろう・・・」と思いながらも、個性を尊重するアメリカらしく、人と違ったことがなんの問題も起こさないお国柄で育っただけあって、その人生もまたなかなか興味深いなと思いながら箸を進める。

そんなこんなで白酒をクライアントと乾杯したりとかなり深酒をした様子で、次の日は朝6時起床で7時にスキー場に向かって出発なので、遅れないようにと念を押したが、次の日の朝に案の定そのベジタリアンのアメリカ人が居ないという。それを探すドイツ人・・・

結局夕食後もホテルのバーで飲み続け、朝起きられず、二日酔いだしスキーは嫌いだから別行動をするといい、ホテルで寝続けるアメリカ人三人組・・・日本だったらどんだけの始末書を書くことになるのだろうと思いながら、それでも型にはまった生き方よりもよっぽどインタレスティングかもなと想いを馳せる。

人と違うのは、ただ自分の好きなことがはっきりしていて、それをただ純粋にやりたいだけであり、皆がこれをいいというからこれを着ようとか、こんな仕事についておけば大丈夫だとか、そんなことで人生の何かを決めるのではなく、少なくとも自分で考えて自分で決めていく。その代わり、最後は自分で責任を取ることになるのだろうが、日本人の生き方に比べたらよっぽど無駄がないように感じる。

社会人になっても、周りとの調和を図るために必要のない飲み会やイベントに顔を出し、人間関係に疲れながらも、それなりに楽しめるようになっていき、今度はその状況の中で自分が好きなものを見つけていく。

それに対してこんな自由なアメリカ人は、誰かと一緒にあるグループや集団の中に入っていなくてなんら不安を感じずに、むしろできるだけ無駄な時間を削って、自分の興味のあることに時間を費やそうとする。だからやたら初期のパソコンの歴史に詳しかったり、日本のアニメに対して膨大な知識をもっていたりと、会話をしていてやはり「インタレスティング」だと感じられる何かを持っている。

恐らく自分で決めていくプロセスの中で、様々な場面で自分を成長させることもあるのだろうと想像する。日本人でも外国人でも関係なく、自分が好きなことを明確に持っていて、しっかりとそれに向き合い時間を費やしている人はやはり何かしらの魅力をまとっていくのだろうと思わずにいられない。

いろんな場所に足を運び、いろんな風景や建築を見て感じることももちろん大切だろうが、それでも最後はやはり今、同じ時間を生きている、インタレスティングな人を知り、彼らの考え方や時間の過ごし方を知ることが一番面白いことなんだと改めて理解する。

「海と大陸」エマヌエーレ・クリアレーゼ ロシア 2009 ★


イタリアと言えば、イメージするのはローマやミラノ。そしてベニスやフィレンツェ。そんな中心はいわば日本の東京や大阪。日本の地方が疲弊しているように、どこの国でもまたグローバリゼーションの波にさらわれて、情報だけはフラットに向かうが、中心と周辺の格差は広がるばかり。そんな周辺に更に大きな視点での周辺が飛び込んだくる物語。

イタリアの南の島といえば、シシリア島。地中海の向かいに見えるのはアフリカ大陸。7月のバケーション・シーズンになれば、ヨーロッパ中の人間がこの地中海を目指して南下してきて、思い思いの夏の過ごし方をしていく。

そんな目的地であるシシリア島のさらに離島での話。

どこの世界にもある北と南の格差。ローマやミラノといったピカピカした都会の生活とは程遠く、潮水と共にある、ドロドロと粘性をまとった島の生活。その中で日常を生きる一人の若者。

そんな彼に周辺を意識づけるような、同年代のおしゃれな若者が北から島へとやってくる。それど同時に南から機会を求めて世界を隔てるこの地中海を渡ってくるアフリカの人々。命を賭して密航してくる人々が波にさらわれ、命からがら上陸した母と子。そして産まれる新しい生命。

自分が生きること。誰かを生かすこと。誇りを捨てて生きるよりも、自ら信じたことをやり遂げる。誰かが決めた中心が正しいわけでも尊い訳でもなく、自分の考え方次第で、自分が立っている場所がいつでも中心に成りえること。

そんなことを揺れ動く若者の視点と共に描き出す一作。

--------------------------------------------------------
2011ベネツィア国際映画祭審査員特別賞
2011 アカデミー賞外国語映画賞イタリア代表作
--------------------------------------------------------

2013年3月3日日曜日

MAD Office Trip to Harbin Day 1

事務所も人が増え、総勢50人くらいの所帯となった我々MAD Architects。中華新年前のAnnual Dinnerの席で、「中華新年が明けたら皆で建設中のハルビン・オペラハウスの現場を見に行って、ハルビン観光やスキーなどを楽しむ社員旅行をしよう」とパートナーのマーが言い出す。


プロジェクトが複数同時進行しているので、各所員やインターンはそれぞれのチームに属して毎日を過ごすことになる。そうなるとオフィスにいながらも、他のプロジェクトのことを知る機会はなかなか少なくなってしまう。そういう意味でも、現在オフィスで進行している中でも最大級の規模とデザイン難度を誇るオペラハウスの現場を皆に見せるのは大きな意味があるだろうと想像する。

そして組まれた一泊二日のハルビン弾丸ツアー。そういえば自分の人生でも初の社員旅行か?と思い、これはいい機会だということで妻も同伴して参加する。

朝の7時に空港集合で、早速一人来てないオランダ人スタッフに連絡がつかずに問題発生。しょうがないのでほったらかしで、乗り込む飛行機。二時間ほどのフライトで降り立つハルビンはまだまだ冬真っ只中という感じで吹き付ける風も春の兆しが感じられるようになってきた北京とは比べ物にならないほど寒い。

観光バスに乗り込み一時間ほど走った後に、オペラハウスのクライアントさんがお勧めしてくれたというハルビン料理のレストランで、クライアントさんも合流してランチに。様々な国籍のスタッフがいるので、皆上司やクライアントという関係性もそんなに気にせずお酒も入ってにぎやかに。

ランチを終えると、近くのオペラハウスの現場に向かう。ここはハルビン市の北側に位置し、新たに開発の進む地区の中心となる文化公園を形作り、MADがハルビン・オペラハウスとその横にこれまた建設中のハルビン・レイバー・レクリエーション・センターの二つの建物を含んだ、公園全体の設計を担当している。

流石に雪が深く積もった冬のハルビンでは現場作業は止まっているのだが、日本ならありえないなと思いながら、クライアントの案内で皆ヘルメットも無しに建設中の建物の中に入っていく。ところどころで簡単な説明をしてあげて、今どんな問題を抱えながら設計をしているのかを伝える。来年の終わりにはここでオペラを観ることが出来るのを楽しみに次の目的地へ。

次の目的地は現場のすぐ横に位置する「东北虎林园」。いわゆる絶滅の危機に瀕している野生のトラを保護しているというトラ園。数百頭いるらしいが、中はサファリパークのようになっており、トラックに乗り込んでそれぞれに仕切られた各エリアに入って息かなりの至近距離でトラを観察することが出来る仕組み。

流石は中国というところか、入り口で鳥や羊を購入し、広い雪に染まった草原で佇む何頭ものトラが待つ中に一台のバンがやって来ては、後部座席から入り口で購入された羊を投げ出し、それに群がり、地を滴らせてむしゃぶりつくトラたちの姿をバスの窓から眺めることができるという。

かつてここを訪れたときにはそのメニューに「牛」があったのを記憶しているが、それが無くなっていたのは流石にどこかの動物愛護団体からのクレームでもあったのかと、勝手に想像する。

自然の摂理ということで、我々も鳥を数匹購入し、投げ込まれる姿に弱肉強食の食物連鎖を垣間見て、日没前にトラ園を後にして、最後の目的地であり、ハルビン市の最も有名な観光イベントでもある「ハルビン氷祭り 冰雪大世界」の会場へ向かうことにする。

赤く染まりだした夕暮れの広い空をバックに、積み上げられた氷で作り上げられた様々な彫刻作品にテンションが上がりっぱなしの妻について会場を巡る。ここでもそうだが、他のところでも社員旅行といえども皆勝手気ままに、気の合うもの同士で歩き回っている様子で、これは気を遣わなくていいやと、終始妻との二人行動。

ここもかつて来たことがあるが、その時よりも随分洗練されてきたようではあるが、日が暮れだして下がってきた気温に耐え切れず、暖房の効いた喫茶店で暖を取っていると、入り口に向かって走っていくスタッフの姿が。「何があったのか?」と聞いてみると、「寝坊して遅れていたオランダ人のスタッフが、昼ごろの便を取りハルビンについてのだけど、お金を持っていなくて入り口で入れなくて困っている」とのこと。

日本だったらいったいどれくらいの始末書を書かされるのだろう・・・と思いながら、完全に日が落ちて、ライトアップされたまた違う表情を見せる氷の彫刻を最後巡ることにする。

その後近くのレストランで、もう今日はホテルについて寝るだけということもあり、白酒やビールなども入ってワイワイと食事と会話を楽しみながら、スタッフの意外な一面を発見しつつ夕食を終えホテルに戻る。

「明日は6時に起きて食事をし、7時には出発してスキー場に向かうから寝坊しないように!」という担当者の号令と共に解散した初日の夜。