2010年11月28日日曜日

「真夏の島に咲く花は」 垣根涼介 講談社文庫 2006 ★★
















フィジーはどこ?と聞かれて、イメージはあるが、正確な場所と言われたら結構分からないもんだと思いながら、グーグル・マップで確認をする。

暫くぶりの垣根作品。南米から一気に飛んで、今度は南太平洋に浮かぶフィジーの話。

外で寝ても風邪もひかない気候のなかで、ちょっと森に入れば果物もタロイモも空腹を満たすには十分なほど取れて、昔ながらの部族制度に守られて土地を皆で共有するフィジー人。そんな彼等の機嫌が悪くなるのは、お腹が空いた時か眠い時。

その昔、イギリス植民地だったこの地は、支配階級のイギリス人が、フィジー人のあまりのぐうたらさに匙を投げ、同じ植民地であったインドから大量労働力としてのインド人を入植させる。

ある日首都で起こったクーデターに翻弄されるフィジーに暮らす様々な背景を抱えた人々。明日の心配の為に今日働くという資本主義に対して、明日の心配をする必要の無い人とっての幸せとはやはり違った形になってくるのか?

楽園は自分を作ってくれる皆がいる場所で、自分が笑っていれる場所なんだ。

いつかはそんな国に行って、カヴァを飲みながら、タロイモ料理を味わうのも悪くはなさそうだ。

2010年11月21日日曜日

これからの住まいを求めて シンポジウム























先日、中部電力主催のシンポジウムに呼んでいただき、建築家の中村竜治さんとともに、基調講演を行い、シンポジウムに合わせて開催された東海圏の建築を学ぶ学生コンペの公開講評会にパネラーとして参加させていただいた。

最近しみじみと思うことは、建築のプロジェクトには大きく二つのパターンがあり、一つは打ち合せを進めていくクライアントが、実際にその建物を使わない場合で、集合住宅や、公共建築などにあたる。

そしてもう一つは、打ち合せの相手がそのまま建築の中で生活を行うユーザーとなる場合。個人住宅や、飲食店などもこちらに入るだろう。

法人か個人かの違いかといえば、そこまでなのかもしれないが、不特定多数に向けての最大公約数的な設計に向かうのか、極めて個人的な身体と好みと年齢と経済状況等、様々な要素を含んだ特殊解に向かうか、その二つの流れの中で、建築家として何に自分自身を同化させる必要があるかを見極める力も職能としてとても大切なものだということ。

設計行為というのは、打ち合せをから要望を吸い上げ、提案をし、図面をおこし、確認をとり、段取りをし、現場を監理し、引き渡すというだけでなく、時に大きくその枠からはみ出し、施主の生活に足を踏み込まなければいけなくなる。特殊解である施主に対して、生きてきた時間ですらかなわない一建築家が、完璧な設計と図面など用意できるわけもなく、常にそこ高みを目指しながらも、それ以外の心遣いでどうにか施主との時間と隙間を埋めていき、その冗長性の中で信頼と信用を得ることができて、初めて満足して生活に入っていってもらえる。

そんな思いに駆られている昨今、講演内容も自分の設計に真摯に向き合えない建築家が、どうやって施主の信頼を得られるのか、というやや精神論的な内容に寄ってしまったので、聞いていた学生さんを混乱させてしまったかなと思いつつ、何か一つでも言葉が残ってくれればいいなと思う。

さて、楽しみにしていた中村さんの講演内容だが、ずっと続けていられるヘチマ・シリーズから最近のヌケガラ・シリーズへの展開と、メガネショップ・シリーズで何を考えて、そして最近のプロジェクトまで話されたが、一貫して自分のペースで、言葉を大切に喋られる方だという印象を受けた。

ユニットの集積として、集中する応力をシステム全体として吸収・拡散する個のもつ数ミリの冗長性に見ているのは、ゴシックかそれとも日本の伝統工法か?特殊な用紙を水に浸し、結合部にはスティールばりの接合方式を採用し、さらにユニットの構成要素を紙という木を背景にもつ素材から、近代の歴史をなぞるようにアルミニウムへと変更したときに、建築を編むというような結合部の在り方がでてくるのか?などと思いながら、いろいろと話を聞かせていただいた。

それはさておき、今回のメインである学生の作品についてだが、東京以外の日本の都市で建築を学ぶ学生の作品に初めてといっていい遭遇であったのだが、学生達からも建築をどう学んでいいのかとコメントがあった通り、やはりギャップを感じずにはいられなかった。これだけ情報に溢れた時代に、それでも生まれる教育の場のギャップ。大学の解体が叫ばれたネット黎明期が懐かしいが、現実には教師という一個人のもつ冗長性に負うところの多さを改めて感じる。

最後は5年後10年後も建築を好きでいてほしいという言葉を残し、向かうべきは今現在向き合っている受け持ちの学生に一体何を伝えられるのかと思いを馳せながら、新幹線に飛び乗る。







2010年11月16日火曜日

「夜のピクニック」 恩田陸 新潮文庫 2004 ★★★★★













誰にでも必ず訪れる、一日がいつもの24時間よりも濃密に、そしてそれからの人生を決定づけてくれるそんな一日。

夕方が、昼と夜、明るいと暗いの境界線上を明確なラインを持って分けてるのではなくて、1秒づつ微妙に比率を変えてゆくものだとしたら、18歳というのは同じように、微妙なバランスを取りながら子供と大人の境界線上で毎日、大人からは見えない繊細さで比率を変えているんだろう。

毎年恒例の高校のイベント・歩行祭。修学旅行の代わりに行われる、一晩全校生徒で夜通し80キロ歩き通す、ただそれだけの設定。

普段一緒にいるはずの無い時間に、一緒の目的を持って時間と苦痛を共有する中には、恋愛、友情、思い出、高校時代の全てが現れる。

歩きながら友人から浴びせられる説教は、いつも親戚のお兄さんが毎年くれていた本。その中のナルニア物語。最近になってやっと読み終え、思ったのは「しまった、タイミングを外した」ということ。中学までに読んでいれば絶対に大事な本になったはずで、今の自分を作るためのものになったはずだと。それが分かるだけに悔しい。だから今お前が感じる雑音もお前をつくるものなんだ。煩わしいけど、やっぱ聞いて置く必要があって、このノイズが聞こえるのは今だけなんだということ。

非常に深い・・・

他にも「太陽は偉大だ。たったひとつで世界をこんなに明るくする」なんてのも、一日歩き続けた夜明けに見る太陽だからこそ感じるもの。

とにもかくにも久々の徹夜本。

2005年・吉川英治文学新人賞、本屋大賞、文句なしのダブル受賞。18の自分を忘れない為にもぜひ。

2010年11月9日火曜日

「空海の風景 上・下」 司馬遼太郎 中公文庫 1975 ★★★

流石に平安時代の物語だと、事実を追うための資料が足りないのであろうか、随分と作者が語るくだりが多く目に付くのが他の司馬作品との大きな違い。流石に1000年以上の時間の隔たりは、そうそう簡単には埋められないということか。

どの分野でもそうであるが、新しいものが生まれる混沌とした時代。それから幾つかの勢力が力を持ち始め、徐々に安定化していく時代。その後安定勢力が既得権益を獲得し、当初の目的よりも利権の確保が意味を持ち、変化を阻もうとする時代。

6世紀半ばの仏教伝来以後、200年となる空海が生きた平安時代。奈良仏教と呼ばれる、仏教における6つの思想部門が奈良に成立した華厳(けごん)、法相(ほっそう)、三輪(さんろん)、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律(りつ)の南部六宗。

それらの釈迦仏教は煩悩からの解脱のみを唱えることに疑問を持ち、「過去のどの宗も真言密教にははるかに及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている」と華厳学の部門の大学として機能していた東大寺だけを評価する若き空海。

華厳経をとことん学び、釈迦を教祖としない非釈迦的である密教世界を知るために、当時のインターナショナルなアカデミズムの中心地であった唐への遊学を様々な手を使って画策する。そして手に入れた入唐(にっとう)のチケット。命がけとなる唐行きの船の上にあるのは、生涯のライバルとなる最澄の姿。

大日という宇宙原理に人間の形与えたものを教祖とする新しいインドの密教の教え。能動の世界である金剛、変容の世界である胎蔵界。密教の行法である護摩の行い方。当時の最先端の学問を全て身体の取り込み、その全ての日本に持ちかえる空海。

曼荼羅という宇宙の本質の姿を立体・平面で現したものを幾つも持ち帰り、釈迦没後56億7千万年経って地上に生まれ、人類を救う仏である弥勒(みろく)を持ち帰る。

儒教は世俗の作法に過ぎないとし、中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であったとする。重要なのは史伝と事実であり、誰がいつ、どこで、何をしたか。もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であるとする立場からすれば、ばかばかしくてやる気がでない。

それに対してインド人は対極に位置し、時間がない。「生命とは何か?」ということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟轟とそて旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙を捉え、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。

人生の悦楽の一つは自分とおなじ知的水準の人々と常時交わりを持ちうることであり、稀な才能な人物であればはるほど、喜びを分かち合える仲間は少なくなる。その人物が集まる場所が時代の中心であり、周縁では出会うことが無かった人物と出遭い自らを高めることが出来る。

京に戻り、朝廷から「国を護る寺を作る」様に国家プロジェクトを任されるまでになった空海。東寺を密教の中心機関へとすべく、講堂を建立し大日如来を中心とする五体の如来像(五仏)、金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)、それに加え梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像をあわせ、全部で21体の彫像により、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)をつくりだす。

天空に理想の仏教世界を作ろうと高野山に戻る空海。その眼に映った風景はどれだけ先の日本を捉えていたのだろうと想像する。

「ビッグ・フィッシュ」 ティム・バートン 2003 ★★★★











ロンドンの大学院に席を置いていたときに、友人のポルトガル人にある歌詞の翻訳を頼まれた。それはDJ・クラッシュの「Candle Chant」。その歌詞とは、「人生の一万分の一が今日一日。今日一日の一万分の一がこの一瞬」というものであった。

人生とはこの一瞬の物語を積み重ねることだと改めて思わされた。

話好きで創作好きな父と、それに嫌気をさし、本当の父の姿を見つけたいと思う息子。小さいころから聞いていた父の話が、虚構と現実を行き来し、最後には語り続けるからこそ物語になるんだと気がつく。

美しいのは息子に一生分話して聞かせれるだけの、人生の物語を父が築き上げたこと。脚色はついてはいるけれど、聞いた話や、読んだ話ではなくて、自らが主人公となる物語を父が語り続けたこと。その物語の一つ一つを愛し、語り、それは周りに浸透していく。

そんな人は一瞬を大切に、細かく観察しながら、考えて生きているんだろうと。自分の息子に語れる物語はどれほどできているのかと思わずにはいられない。
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ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー、ビリー・クラダップ、ジェシカ・ラング、ヘレナ・ボナム・カーター、アリソン・ローマン、ロバート・ギローム、マリオン・コティヤール、マシュー・マッグローリー、ミッシー・パイル、スティーブ・ブシェーミ、ダニー・デビート、ダニエル・ウォレス
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