2011年3月20日日曜日

僕は怖くない 1

「僕は怖くない」。

そんなタイトルのイタリア映画があった。自分が理解できない、分からないものに出会った時の恐怖は、実像よりも増大していく。柳のお化けも一緒で人間の想像力が負の方向に働いたときに、脅威となって跳ね返ってくる。

ならば知ればいい。少なくとも知れば、恐怖はやわらげることができる。

今、日本に一番求められるのは、国民の安心。

ならば、皆で知ればいい。

一週間、怖いからこそ調べ、もう嫌だと思うからこそ、考えた。家族の命を守るためにも、これから、皆で考えればいい。


テレビ、ネット、ツイッターと情報格差が顕著に出たネット時代の震災だが、高齢者、子供を含めた国全体への情報の伝達というと、やはりテレビの力は絶大だと感じる。街に出た時と、家の中でテレビをつけている時では、圧倒的に情報量が違うと誰でも感じたのではないか。

一秒が生死を分かつからこそ、緊急災害速報を公民関係なく最速で国民の目に届けるために、今回のNHKと他の民放の間にあった数分の差を埋めることも必要だが、DVDや録画番組などを見ている人などにも情報が届くように、放送局独自に災害速報を流す方式から、メーカーと気象庁と放送局が協同して、地デジを利用してダイレクトに気象庁から各家庭に放送が流れ、それは番組や放送局関係なく、その時表示されている映像を感知し、一番見えやすい表示として現れるプログラムが必要だと思う。

その情報は同時に、ドコモ・ソフトバンク・AU・携帯各社と連動して、携帯の待ち受けにも強制的に表示されるべきだろう。この時の通信の飽和に対しては、スマートフォンでSNSアプリを携帯している端末には優先してそちらに表示がされ、端末ごとに一つのメッセージとすれば対応できそうな気がする。各携帯会社と行政とスカイプやフェイスブックを含めたSNSの連携も必要か。

今後の携帯の発展から考えると、予想震度に対して、音声でのインストラクションが最低限の情報を、「海溝型地震、震源○○、予想震度××」と言ってもらえれば、少なくとも迎える準備は整うはず。

1981年に改正された耐震法に則った建物ならば、今回の様に数百年に一度の地震で震度6-7でも、倒壊せずに人命は守る設計になっており、数十年に一度と想定される震度5強ならば、損傷もない設計になっている。

つまり地震で建物は壊れない。

建築家と構造家と施工会社を信頼できるのなら、落下物からの安全を確保できていれば、安心であるはず。だからこそ、マンションやビルのオーナーは直ぐにでもテナントや借り手に自身のビルの耐震状態について説明するべきであると思う。正確な情報でどの様な建物に住んでいるのか、知らせることも持つ者の義務ではないだろうか。

築年数が古すぎたり、設計に信頼のおけないビルであるならば、狭い面積に4本の柱があり、倒れて来ても倒れるスペースの無いトイレまで駆け込むのが一番か・・・

つまり怖いのは、パニックと、津波と、人。

これだけ事前の準備ができていれば、さぁこいという気持ちでその時を迎えられ、あの一瞬、何が起こったかわからないパニックから少しでも距離を置けるはず。


2011年3月19日土曜日

多くのものが失われた。しかし多くのものが残っている。

一週間が経過した。

一日、一週間、一ヶ月、一年と、どんなつらい時間が過ぎていても地球は回り、悲しみに打ちひしがれている時間から、リセットではなく切り替えをする機会を与えてくれる朝日が、必ず同じように昇るということと、様々な数字の進法の組み合わせは、こんな時のためにあったのではと思わずにいられない。

専門家によれば、1000年に一度の規模で、平安時代に似たような災害が起こったのではという。きっと1000年前の人々は、それこそ天罰だと神に祈るしかなかっただろうが、我々には積み重ねた様々なものがあり、その積み重ねが被害を和らげたのは間違いないはず。しかし、最小限にできたかといえば、きっとそうではない。


「多くのものが失われた。しかし多くのものが残っている。」


数日前に岩手県知事が言った言葉。その通りだと思う。

今しなければいけないことは、人として被災地の人々にできることは最大限することはもちろんだが、忘れてはいけない次への備え。一週間という時間はくるっとまわるように、あの時を俯瞰できる視線を与えてくれて、衝撃から受身の時間を越えて、次は備えと積極的な準備。いつか日本が再度口にする1000年に一度の災害時には必ず被害者をゼロに、そして被害を最小限にするという強い思い。

その思いを持って、自分にできる日常を精一杯に生きて、それぞれの役割を確実に果たし、その中から、個人の喜びの為の時間や出費を少しだけ抑えて被災地の復興に回して貰う。

この災害を目にした若者達は、辛いからこそ学び、二度とこの光景を起こさない為にも学問を目指すだろうし、その中から、必ず将来のエネルギー産業や、国の防災を担う人材が育つだろう。

巨大地震を予知できれば、一体どれだけの人の命を救い、どれだけ国の経済を守ることができるのか、それを実感した人の中から、時間を限定することができないために、危険と思っても公表することがためらわれるという現在の地震学の枠組みを越えて、積極的に地球と共につきあう方法を示す地震学を確立するものがでてくるだろう。

一瞬にして全てを失った人が失ったのは、どうせまた積み重ねてもまた災害で失うのでは・・・という未来への眼差しも一緒に失わないように、希望を消さない強い政治家の役割。

そして縦割りでは通用しないということが痛感した今回の教訓を生かし、横の連携はもちろん、想定外の事を想定するためにも、イマジネーションにあふれた災害シナリオ・ライターとして小説家でも作家でも協同して新たなる防災対策を練る必要性。

遠からず来るといわれる東海地震。そして首都圏直下型大地震。その時に、この経験を活かすべく、今すべきは各行政の災害対策マニュアルをしっかりと読み、各市区町村の災害情報へのアクセスを確立し、自宅とオフィスの防災環境を立直し、電話通信に頼らないSNSのコミュニケーション方法を装備して、耐震基準を信頼し、海溝型地震であれば地震で焦らず、津波を逃れること。いつ来るか分からない、から、いつ来ても大丈夫と迎え撃つ頭に切り替える。

残されたものの一員として、皆がそれぞれの一週間を経て、その先に我々の1000年後があるのだろう。

そう思いたい。

2011年3月17日木曜日

「千利休―無言の前衛」 赤瀬川原平 ★★

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日本アカデミー賞脚本賞受賞
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赤瀬川原平といえば、藤森照信と一緒になって「路上観察学会」を主宰し、東京中の風景を容赦なしに叩き切り、斜に構えながら現代に生きるインテリ酔狂の在り方を良くも悪くも体言している人だとばかり思っていた。

そんなイメージだったので、「日本と言えばお茶。お茶と言えば利休」と言えるほどの人物を映像化する作品の脚本をとことんストイックに書き上げていたとは少なからぬ驚きを持ちながら読みきった一冊。

「路上観察学会」同様に、掴みどころ無く、困難な作業も面白おかしく書き進めてくれるので、非常に作者がどう利休という人物に近づいていったかが良くわかる。そのまま捉えるわけには行かないが、まったく歴史の背景が理解できてないので、まずは参考資料として学研のカラー版学習読物「少年少女・日本の歴史」 から読み始めたというのもなんだか作者らしいといえばらしいが。

「茶と言えば利休」だが、もちろんいきなり利休がその才能で何も無かったところから茶道というものを作り上げたはずは無く、その前にはしっかりと先達がいて道を整えていてくれた。それが村田珠光(むらたじゅこう)であり、次に武野紹鴎(たけのじょうおう)が受け継いで、成熟されつつあった茶の道を、利休が完成させたという。

茶の湯と切っても切れない関係を築いてきた大徳寺。応仁の乱以来荒れ果てていたこの寺を復興させたのは名高い一休和尚。その一休を師とする珠光にことを学ぶ利休。この寺の禅の精神を受け継ぎ、当代の古渓和尚( こけい)と深い友人関係を保っていた利休。

利休の寄付によって上層が完成したこの寺の三門。その恩に報いようと親友の古渓が自らの発案で、利休の木像を依頼し、その木像に雪駄をはかせて上層を安置した為に、この門を通るものは全て利休の足元をくぐることになってしまい、それが豊臣秀吉の怒りを買い利休の切腹の要因となっていく曰くつきの禅寺。

茶道は、無口な芸術。「見えない物を見える形で説明しようとするから面白い」とし、秀吉の怒りを買い、利休が妻のりきと謹慎中に作り始めた最後の茶室を、著者は自らの想像力によって、楕円の茶室として描き出す。一つの中心ではなく二つの中心からくる不均等な均等性。茶道とは日常のなんでもない、普段は目に見えないものを見えるようにする儀式であるとする。

どんどん、どんどん狭い空間に全ての意識を集中して作り出す極小の空間。その縮小への流れ。その不思議な引力が向かうのはディテールへの視線。朝顔が見たいと言う秀吉の為に、庭に咲いている花を全て切り落とし、一輪だけを茶室に飾ることで咲き乱れる朝顔の美しさをたった一輪に絞り込む。それに感服する秀吉。原広司が言うように、「砂漠の文化と木の文化の違いとは、木の文化では態度をはっきりさせない。常に木が生えている輪郭を曖昧化する」というが、その自然の不整合の中に美を見つけ出す。

国宝として今も残る茶室・待庵。それは信長の茶頭であった利休から、新しき時代の主となる秀吉への明智討ちの戦勝を祝っての贈り物。明智討ちのその翌年、利休は秀吉の茶頭へと引き立てられる。

敵を破りその陣地を勝ち取り、褒美として味方に分け与えることでのし上がってきた秀吉。信長や家康のように、生まれ持っての殿様で、決して利害関係での結びつきではなく、裏切る事のない家臣というものを持ってなかった秀吉にとっては、戦い続け、与え続ける事がそのもろい天下を保持する唯一の方法であったに違いない。

天下統一を為し、国内に敵がいなくなった事で、秀吉の視線が向けられたのは隣国・唐。その本質を見抜いているからこそ、誰かが言わなければいけないことだからこそ口にした唐御陣批判。全国の武将の鬱憤が徐々に利休の下で結託し始める。

茶室という外の世界とはまったくヒエラルキーを異にした世界。利休が始めたにじり口をくぐるには、武士なら刀を外さなければ入れなく、頭もぐっと下げねばならない。その結界で、外の世界の力関係から解き放たれ、茶の湯と言う美学の世界での優越が支配する。

「侘びたるは良し、侘びしたるは悪し」

という利休の言葉通り、利休の美意識の中には偶然という要素が大きく入り込む。偶然を待ち、偶然を愉しむ。無作為を意識し、それゆえに歪んでしまったものを美として取り上げる。

その利休が行き着いた縮小の極点である茶室。その先にあるのは一体何かに思いを馳せた末に著者がたどり着く重心がずれ。空間の中に見えない重心があること。ずれるということは、もう一方に何か見えないモノを作り出している。歪み、ズレ、非対称。そこから生まれた楕円の茶室。

人真似で無い創造力を持ちえた利休。常にオリジナリティこそ大切なものだと説き、常に新しい感性を信じたその生涯を十分に描く脚本になっているのだろうと想像する。一刻も早くその映像を見てみたいものだと思わずにいられない。


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目次
0 お茶の入り口
/日本人とお茶
/利休と茶の湯
/アンチ利休ファン
/無口な芸術

1 楕円の茶室
①利休へのルート
/日常への力
/前衛の消失点に見たトマソン
/利休とバッタリ出会う
/家元からの電話

②縮小の芸術
/歴史の勉強
/ディテールへの愛
/縮小のベクトル
/ビートたけしとマーロン・ブランド
/黄金の魔力
/桃山時代のアンデパンダン

③楕円の茶室
/利休・秀吉、位置の逆転
/バランサー秀長の死
/茶の湯攻めの恐怖
/楕円の茶室

2 利休の足跡
①堺から韓国へ
/トレンドの町・堺
/堺港跡の巨石郡
/待庵の秘密

②両班村から京都へ
/両班村で見たにじり口
/紙張りの合理性
/うねる植物
/時の魔術
/醍醐寺の花見
/金の茶碗の感触

3 利休の沈黙
①お茶の心
/生きていることの不安
/古新聞の安らぎ
/手洗いの蛇口荒い
/財布の中の儀式
/リベラ物件の発見
/間を抱えたゲーム
/受け皿の形をした日本列島

②利休の沈黙
/意味の沸点
/そして沈黙が生まれる
/不肖の弟子

③「私が死ぬと茶は廃れる」
/和服の行列
/形式の抜け殻
/パウル・クレーの落とし穴
/織部の歪む力
/前衛の民主化というパラドクス

結び 他力の思想
/現場の作用
/自然に身を預けて

あとがき
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2011年3月16日水曜日

「M8 エムエイト」 高嶋哲夫 集英社文庫 2004 ★★★★★
















2ヶ月前であれば、見ただけでは何のことか分からない人が大半だったのではと思うこのタイトル。

コンピューターを使ったシュミレーションによって、地震予知を進めようとする一人のポスドク。ここ数十年のうち必ず起こると言われ続ける、海溝型巨大地震・東海地震。日本を囲う10数枚プレートの中の、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの間の歪が限界に達した時に起こる跳ね上がりは、そのまま東海地震から、東南海地震、南海地震を誘発し、M8クラスの大地震を引き起こすという、今回の東北大地震をそのまま90度、南に回転させたかのような予測。

気象庁長官の私的諮問委員会という位置づけの地震防災対策強化地域判定会は6人のメンバーはで構成される。もちろん、その時点の地震学の権威によって固められている。その為ゆえに、必然的に集団が保守に傾く。

想定される東海地震の死傷者は25000人。直接間接合わせ損失は80兆とほぼ国家予算に匹敵する。今回の東北大地震から強烈に感じる、一つの巨大地震を予知できればその経済効果は数十兆に及ぶという現実。しかし警戒宣言の発令による経済損失 は一日当たり3450億円ということから、どうしても絶対でないと声にできないという重圧。そして必ず来るという共通認識ゆえに、他の可能性が霞んでしまう。その中に権威もなにもない一人の若者が探知する、かつて否定された手法による東京直下型の大地震の予知。ちなみに最近の歴史において関東に起こった大規模の地震となると、

1703 元禄大地震 海溝型
1855 安政江戸大地震 直下型
1894 明治東京地震 直下型
1923 関東大地震 海溝型

そして東海地震の前兆ともとれる静岡におけるM6.4の地震。いやおなしに専門家の視線は東海沖に向けられる。そんな中に自分の予知の可能性に確信を持ち始める若者。そして、その仲間。彼らは10年前の神戸の瓦礫の中から自衛隊に助けられ、自身に対してそれぞれの道を進んだ若者達。

地震の被害とは備えしっかりしていれば、最小限で食い止めれる。恐いのは火事。揺れは一瞬だが、家屋崩壊に伴う火事による交通渋滞とインフラ遮断。そのシナリオはかなり現実に沿っていたことが分かったが、そこに足りなかった津波の脅威。マグニチュードが1大きくなると、地震エネルギー32倍にもなるから、M7とM9では世界が違うということだろうが、決して想定の外に位置していることではないと思う。

それを想定外とせずに0ではない可能性を食い止めようとするのは、一首長である東京都知事。そのモデルとなったであろう人物は、震災を乗り切り4期目に突入したが、国のトップが非常時に全く機能しないというシナリオは的を得ていたのか。

港湾の石油貯蔵タンクからの火災。都内上空を飛び交うヘリコプター。1981年の改正によって、ただでさえ世界一厳しいといわれる建築基準法に導入された新耐震法。その上、神戸の教訓によってより強化された耐震対策。そのお陰で地震で倒れない建物。通信の不通と、数百万の帰宅難民者。円売りに走る為替相場。液状化する湾岸エリア。徐々に状況を把握することで、その後におこるであろう復興景気目当ての日本株買い。

何をやってもどうせ全てをまた失う、という被災者に対して、政治家の役目は新しい希望を与えること。国民に必要なのは心の安心。露呈される危機管理で一番大切なことはイマジネーション能力という事実。被害の多様性とその刻一刻と変化する同時性に対応できるフレキシビリティ。

まるで今回の地震の脚本を読んでいるかのようなシナリオを突きつけられると、これが書けるだけの十分なデータがあり、危険性を発信していた人はいたということ。

ハイパーレスキュー隊や現場作業員など、本当に個人としては世界に誇れるくらい優秀な人材が必死になってやっている。しかし、そのシステムを考え、動かす国の頭脳が機能していなければ、多くの命だけでなく、その先の希望すら失われてしまうという現実。

必要なのは今回の震災を踏まえてどのようなシナリオが描かれるのか。
その為にも必読の一冊。

2011年3月11日金曜日

「大地と自由」 ケン・ローチ 1995 ★★★★★


















「敗者のない戦いに参加しよう。たとえ死が訪れてもその行いは永遠なり」

Come, join in the only battle wherein no man can fail,
Where whoso fadeth and dieth, yet his deed shall still prevail.

by ウィリアム・モリス William Morris

70年前、自由と平等を信じ、国を超えてまでし集い戦いながらも、自由という概念が有する自己矛盾の為に、大将率いる組織の前に敗れたものの、最後まで信念を貫いた人々。

そして今、中東では、自由を信じる個がネットという冗長性を持ったシステムによって自己矛盾を超えた群としての組織になることによって、今度は大佐を追い詰めている。

スペインで起こった人民戦線とファシストとの戦い。ファシズムへの対抗心と、自由を求める信念によって突き動かされ、密入国の末スペインにたどり着き、POUM(マルクス主義統一労働者党)系民兵隊に合流するイギリス人青年。重度のクィーンズ・イングリッシュ。

劇中で交わされる激しい議論は、個人が自らの信念を持って、国を世界を良い方向に進めると信じていた姿に他ならない。

解放された村で行われる、村民総出での土地の共有化をテーマとした議論。持てる者と持てない者、そして第三者としての民兵隊。どんなに拙くても、それぞれがそれぞれに必死に何が善い方法かを考え、言葉を重ねる。

繰り返しライトをあてられる自由と平等。

普段着で銃を構え、買い物帰りのおばちゃんの通る横で手榴弾を投げ合う、日常のすぐ隣の戦い。その10年後経たないうちに原子爆弾が落とされることを考えると、ものすごい時間的加速度を感じずにいられない。

悩み、迷い、傷つけあいながらも、理想を信じ、まっすぐに進んだ末に敗れたとしても、その人生は決して空しいものではないのだろう。突然の死の後にその形見から祖父がスペイン内乱に身を投じた義勇兵であり、妻との手紙のやり取りから、どんな時間を過ごしたかを知る孫娘。葬儀の最後に、ウィリアム・モリスの詩とともに、殺し合いの中でも当たり前のように、人を愛し、愛した人が戦場に倒れ、見送った祖父の思い出のスカーフと砂を一緒に埋葬するシーンに投影する。

何度でも繰り返される、人間の歴史を語る映画。

革命は国のその後を信頼して任せる人に正しく政権を移譲する移行期の現象であるべきだが、願わくは大佐の後に未来の大佐が居座るのではなく、革命を推し進めた人々が安心できる理想を持つ人物が現れることを期待する。

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キャスト:イシアル・ボリャン、イアン・ハート、ロサナ・パストール、トム・ギルロイ、マーク・マルティネス、フレデリック・ピエロ

原題:Land and Freedom
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2011年3月9日水曜日

牛久大仏 1989 ★
















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牛久大仏 1617 ★
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所在地  茨城県牛久市
宗派    浄土真宗
本尊   阿弥陀如来
創建   1989
機能   寺社・霊園
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建築ツアーの序に、同行者がどうしてもというから立ち寄る。

高さ120mで自由の女神の3倍の大きさというから、そんなものがある分けないとタカを括っていたら、はるか彼方になにやら遠近法を無視するかのごとく影が・・・

周りに比較対象となる構築物もないものだから、巨大さは実際に体験してみないとわからない。東京からも見えるという大仏は確かに圧倒的な迫力で人々を迎え、きっと親鸞もこれには驚くだろうと思わずにいられない。

テーマパークのような案内図に、でかでかと大仏のイラストが描かれていたりと、襟を正し聖域に踏み入れるような雰囲気ではなく、遠目よりお参りを済ませ次の地へ。




















「建築史的モンダイ」 藤森照信 ちくま新書 2008 ★★★















目利きは目利きとしていて欲しいが、その本領発揮の文章がいくつか読める一冊。
/建築と住まいの違いとは?、の中で「住まいと建築は違う。それは美しいかどうか」とし、その為には「視覚的な秩序があること」を挙げる。そして「形と材料に秩序があり、その建築的秩序があたりの環境とも統一を保っている」と続ける。民家には無意識の美が蓄積され、木や土や石や草を使い、周囲と乖離せず、それ同居する自然界の見えざる秩序や統一を、人の眼は美しいと感じる。そこには住まいにはない感動がある。とする。確かに良い建築を目の前にすると、ここの納まりがどうのこうのとか、現代社会に対応した・・・なんてことよりも、まずは訴えかけてくる高揚感があるかどうかだと思う。その根拠は環境を含めた周囲との視覚的秩序だということ。
/住まいの原型を考える、ではフランス南部のラスコーでの、絵の描かれた洞窟と人の住んだ洞窟の場所の違いの発見から、住むのは入口近く、描くのはずっと奥であり、入口が半分空に開いた開放的で、見晴らしが良いというのに対し、内に向かった感覚の先には火があることから、壁に浮き上がる影の存在によりスクリーンのような壁の出現し、そこに発見された表皮性;サーフェイスではないかと仮定し、建築の外観(ファサード)は野外において太陽が生み育てた、とするなら、建築の内観(インテリア)は洞窟の中で産み落としたのではと続ける。
/建築を建築たらしめるもの、では建築の宿命として一箇所にしかたてることは出来ないこと。それはつまり、建物というものは広い台地と特定の一点で不可分に結ばれていることであり、そこから土と建物が接するその一点に決定的なテーマが発生する建築の本質へと発展する。建築が、実物大の模型にならないようにするためには、環境との親和性、連続性が重要となり、地面の上にスックと立ち上がっていた、という印象を与えるような自然に立ち上がった大地としての地面との関係。建物と地面の接する一点のデザインが、建築がそこに本当に存在するか否かを決定するのであるとする。そういう観点で見ていくと、近代建築の巨匠達も形無しであるとし、コルビュジェのサヴォア邸なんかひどく、建築・地面論的には最悪と切り捨てる。逆にあの時代、個々の地面に拘っていてはインターナショナルになれない状況のなかでもやっぱり、白い箱型を最初に抜け出た コルビュジェで、そのヒントは打ち放しコンクリート仕上げにあり、あれだけこだわったピロティの柱の新しい形として、スイス学生会館のホールの壁などに現れる、打ち放しの中に大地の破片たる自然石と相通ずるものを見ていたのでないかとし、厚く太くなり、壁柱(ピア)と化し、逆三角形として大地に突き刺さる接地方法。モダニズム建築の中でいかにして台地は発見されたか。レーモンドは、打ち放しは大地の一つであると高々と言い放ち、吉阪隆正大学セミナーハウスにて建築本体を逆三角形として大地に突き刺す。モダニズムが気づき始めたコンクリートの液体性。それは写し取ってしまう、ネガとポジ。
II.和洋の深い溝、では日本で様式というものが一度成立してしまうと生き続ける不可思議さに注目。西欧では、ロマネスクやルネサンスといった様式が時間軸に沿って展開するが、日本の場合は時代に従属せず、用途に従うために、今の時代でも数奇屋様式などと一度成立したものが、ずっと生き延びて共存してしまうことを説明する。
/教会は丸いのだ、においては、建築の本質の問題として、建築はいかに発生したかを、長い歴史がありかつ今も生きているタイポロジーとしてキリスト教の平面問題を見て、バシリカ式と集中式の比較を行う。
/ロマネスク教会は一冊の聖書だった、では、言葉よりも図賞が優先した時代においては、教会の建物が一冊の聖書として扱われ、布教活動の大きな役割を持っていたとし、聖画がバシリカの壁面や天井面への拡大し、聖画の教会占拠をしていく過程を説明し、その意味からステンドグラスの出現を見る。
III.ニッポンの建築、では、/日本のモクゾウ、において、都市における火事と資本主義の問題から、どうにかして大火だけは防ぐために、中は木造のままだが、外だけ木造をやめるという準防火の普及の過程で、辰野金吾、地震学の佐野利器つづく建築界三代目のボスで安田講堂の設計などで知られる内田祥三が果たした役割を説明する。彼がたどり着く準防火。火事の時に延焼を遅らせる。火のまわりが遅ければ人は逃げることができるという時間差の問題。建築よりも人命を守ることに重きをおいた当時の解放は今も脈々と建築基準法を縛り付ける。
/焼いて作る!?、では桂離宮を見たコルビュジェが、即答で「好きになれない。線が多すぎる」と言ったことから、線、面、塊の構成の違いを展開して、線として現れる木材をどうやって面として塊として扱うかを自作を通して解説。材料というものは長ければ長いほど広ければ広いほど材質感は強くなるというが、自然にあったままの形を現すとすれば、その通りだと思う。
最後に/打放しの壁をたどると・・、では、打ち放しコンクリートが日本の私小説の伝統を終わらせたとし、前面打ち放しコンクリートに染められた日本の建築界が直面した問題、民家や古社寺の魅力をどう現代建築の中に活かせばいいか?に大して、木という素材の扱い、つまりは型枠の表現をどう写し取るか。コンクリートの本質として、型枠という雌型を写し取ってしまう液体性に対してどういう表現の方向性をとるかに言及。
ざーっとまとめてみても、改めてここ何年かずっと興味を持って考え続けてきたことのヒントになる部分が多く含まれる一冊だと認識。



2011年3月6日日曜日

知恵袋

ご飯の味付けがちょっとおかしいかな・・・と思った時に感想を聞かれてしまった時などに、微笑みをたたえながら、机の下でスマートフォンを使ってのベストアンサー頼み。

そんな切羽詰った状況に使う袋が正しい気がする。

第一、問題に対して答えを聞いては不足しているのは知恵じゃなく、知識だと思うのだが・・・

もっとおばあちゃんの知恵袋的に、答えの無い事柄に対して、長年の経験から導かれるのが納得というもので、少しは人生の機微があることが必要条件だろう。などと思いながら少し考えをめぐらせる。

この冬も終わりが近づいた試験シーズンに、そんな問題が知恵袋に投稿されれば誰もが怪しむもので、少し考えが回る奴は、そういう輩が試験会場にいると見越し、自分は投稿せずに、閲覧のみをしてチャンスを待つ。

書き込まない限り、ネットには痕跡は残さないということなら、ただただ需要と供給の一致する日に試験会場に居た幸運に感謝し、入学式を待つ若者が今現在いないとも言い切れない。

一人の投稿者が吊るし挙げられて、彼よりもはるかにさもしく、こうなることをいとも簡単に予想していたネット時代の若者が、丸写しではなく、サイトに掲載された答えに手心を加えて提出し、大学側がどれだけ人の眼で確認しても、コピーの痕跡がみえない限り、冗長性の網の目にかかることなく、罪悪感の欠片すら感じず、ほくそえみながら正門をくぐる日も近いのかもしれない。

などなどと考えると、ネット時代のパノプティコンに真剣に向き合う必要性が現実味を帯びてきたのだと実感する。

まぁそれ以前に縁故にて進学・就職する人数の実態はどれほどか感がえると、入るよりも出る方のハードルを上げることが、あるべく姿なきがするが・・・

2011年3月5日土曜日

落し物





















夜道をトボトボ歩いていたら、とんでもないものを拾った。

道路記号かと思っていた白ペンキが、なんだか変な形をしてて、通り過ぎようとするときに、茂木的アハッ体験で、これはホームベースだと認識。

なぜ夜中のこんな時間にお墓の前にホームベースが・・・
周りを見渡しても、それらしきものといえば、目の前の寺の塀から除く数々の卒塔婆。

摩訶不思議と思いながらも、とりあえずホームインはして点を入れてみる。記念に写真をと思っていると、通行人がやってくるので、夜中に墓の前でホームベース相手に写真を撮ってるいい歳の男を見かける人の気にもなってみて、ゾッとするのでホームベースを片手にその場を立ち去る。

持ち方はこうなります、と若手芸人的に、やはりさきっちょを持ってみると、なんだかいったんもんめの散歩中みたいな絵を想像する。こんな時には普段遇わない人にも出くわすもので、すれ違うのは馴染みの靴修理屋さん。とりあえず自慢してみると、ここらへんの汚れ具合がいいねー、と訳のわからない褒め言葉をもらう。

オフィスに戻って、とりあえず正式に記念写真を撮ってみる。しかし、こんな落し物の後ろには、それなりにドラマが展開しているのだろうと心が痛む。

明日は地区大会決勝。河川敷での試合になる為に、自校から用具一式を持っていかなければならない。そんな中で託されたホームベース。めんどくさいなとぶらつきながら家に帰って、風呂に入り、明日の準備をしていると、消えたホームベースに気がつき、一向に点が入らないエンドレスな明日の試合で冷たい眼差しを受ける自分を想像し、吐き気を催している中学二年生・・・

もしくは、ドラッカーを読んでる美人高校野球部マネージャーが、頼まれて持ち帰るホームベースの重量からくる疲労を変数とした独自の経済理論より導いた解答に沿って、途中で放棄する道を選んだ可能性も・・・

とにかく、そんな悲しい青春の一ページを作らせないためにも交番へいったんもんめを連れて出かける。一しきり警官にも笑われながら、ぜひとも取得の権利は履行してもらいたいとの要望を出して書類を作成してもらい、明日の朝にでも登校前の中二が駆け込んでくる姿を想像しながらも、落とし主が出てこない場合は、3か月後に役目を全うさせるためにもどれだけのホームインをしなければいけないか、ややワクワクしながら、なんだか善いことをした気分で家路につく。

そしてその先に待ち受けるのは、先ほどホームベースを拾ったT字路。ひょっとして次は一塁ベースか・・・と思ってしまわずにはいられない。

2011年3月4日金曜日

桃(上巳)の節句 雛祭り




















あかりをつけましょ ぼんぼりに  
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓  
今日はたのしい ひな祭り

女兄弟がいなかったもので、雛祭りもあまり身近なものではなかったが、親友の娘が桃の節句に生まれたからといって、「ひなの」と名づけられ、しかも尋常じゃないほど懐かれてるとなると、流石に3・3にもいろいろ思うことがあるようになり、重ねた歳の多さを実感する。

川中島の決戦を前にし、妻女山の陣内で一枝の菊を愛でながら重陽の節句を祝った謙信のように、これは桃の一枝でも送ってあげないとと探してはみるが、さすがにこの寒さではまだ蕾を開けというのは酷なもので、代わりになにか絵本でも探そうかなと軌道修正。

紙の雛人形を海に流すことはできないが、家で四苦八苦して作ってもらった春らしい五目ずしと蛤の潮汁を味わいながら、桃の代わりに桜を愛でて節句を祝うことにする。

2011年3月3日木曜日

松見タワー 松見公園 展望塔・レストハウス 菊竹清訓 1976 ★★★★




















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所在地  茨城県つくば市
設計   菊竹清訓
竣工   1976
機能   公園展望塔施設
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前回から随分時間が空いてしまったが、年明け初の建築ツアーということで、向かった先はつくば市。うっすらと記憶にあるのは1985年の科学万博。万博の時代。団塊世代が大阪万博で感じたような未来は無かったかも知れないが、父親に連れられて訪れた記憶はそれでも今も残っている。

さてその科学万博。なぜつくばだったのかというと、1969年代から検討された首都機能移転先として、すったもんだの末に、東京から近いなどなどの理由を元に、有事の際に首都機能をスムースに移転できるようにと筑波研究学園都市と定められ、その知名度を高め民間企業の誘致につながるようにという、極めて政治的判断の元で国際科学技術博覧会が1985年に開催される。

その1985を前後し、国家プロジェクトとして大規模な都市計画が施され、バブル絶頂期も手伝って、1970年の大阪万博に次いで国内トップレベルの建築家達が腕を振るう機会をもたらした。

特に中心を平行して走る、東大通り、西大通りの間の地域はつくばエクスプレス線つくば駅を中心にして、左右対称形を成し、歩車分離を原則にし、ランドマークとなる建築群が建ち並ぶ。南北軸の北には筑波山が聳え、南には日本有数の軍事の街・阿見がひかえる。何があっても自衛隊と連携した米軍が守りきるという、当時想定された有事の姿が見え隠れしなくもない。

その地中には共同溝が整備され、福井晴敏が当時の作家であれば、台場でなくてこここそが「Op.ローズダスト」の絶好のターゲットになっていただろうと思わずにいられない。その代わりにエヴァンゲリオンで戦略自衛隊技術研究が想定されたというのも、街づくりの背景を知ってみると現実味を帯びてくる。

そんないわくありげな建築郡達の先駆けとして、まずは中心軸が発展していく様を見渡せる展望台を作って、それをこの町のランドマークとしよう!という感じでプロジェクトが立ち上がったのではと思わずにいられない、中心軸の北端に位置する松見公園に聳える45mの展望台;松見タワー。菊竹清訓のキャリアの丁度中ごろの作品ということになる。

基本的に日本のタワー建築に、なかなかよいプロポーションを持った建築はないと思うが、その中でもやはり日本のタワー・トップ5に入ってくる美しい形態。基本的に展望フロアまでエレベーターで上がって、学園都市から筑波山のパノラマを眺めるという以外何もないという、今では考えられない機能設定のために、ランドマークとしての「か・かた・かたち」が大きなテーマとなっていたのであろう。

軸線上に建つタワーとして、南面と北面をどう扱うか、そして4面性を持つことに対して、東西面をどう異化させるか。加えて科学万博として、日本の技術を世界にアピールすべく、鉄筋コンクリート造での新しい形態への挑戦をどう表現するか。

それに対して金閣かと思うほどの濁った水面への映り込みと水平と垂直へのプロポーションへの執念。大きな軸線に対しては対称性を持たせ、公園の中というこもあり、足元ではしっかりと雁行させて小さなタワーと湧き出る水で自然の非対称性へと繋げていく。そして凹凸のある水面と床面でしっかりと時間が刻まれる。

1976年だから、まだバブルの夜明け前。手触りの感じられる自信ありげな姿に少なくない高揚感を感じながら、軸線を南に歩を進める。

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2011年3月1日火曜日

現代のインフラ

人生の中で不意に訪れる引越。それに伴うインフラの整備。

電気・ガス・水道の開通やらなにかしら煩わしいことが多いが、無いと困るものであるから、文句を呑み込み手続きを行う。無いと困るというのがインフラならば、現代社会においてはネット環境も含まれてしかりとなるだろう。

しかし、毎月・毎年必ず行うものでない限り、引越の頻度よりも圧倒的にネット環境の変化の速度が先を行き、プロバイダーと回線会社の組み合わせやら、なんだか分からない機器をレンタルするのやら、フレッツやらネクストやら、契約時はこの内容でしてもらい、明日にでも解約の電話を入れてもらえればお得やらと、アナログ時代のコードのように頭の中は絡み合うばかり。

説明を受けているその場では、確かに納得できていたはずなのに、家に帰り次の日になると、どれがどれだかよく分からずに、結局不必要なものは全部やめて、自分で無線LANルーターを買いに行くことに。

CDロム入れて、exeしたら一発でかんたん設定、みたいなのを期待していたが、あれやこれやと指示に従った末、アクセスキーだかセキュリティーキーだか説明書にない文字が表示されてギブアップ。翌日、数十分待たされてオペレーターに指示を仰いでなんとかコードレスの世界に。

スマートフォンの電波状態が悪くても、ネットはサクサク来ることに感動し、10万を切る時代に入ったノートパソコンを手に持って、隅々でも電波の切れが無いことを確認する。

これで、場所を選ばず自由にあれこれやれるなと思いを馳せながら、天然資源に頼らない新たなインフラのネット環境は、必然として無料に収束するのは時間の問題で、一刻も早く孫さんの「光の道」革命が利権を超えて成し遂げられるのを応援する。