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2017年6月22日木曜日

Western Concourse at King's Cross ジョン・マカスラン(John McAslan) 2012 ★★



London Holocaust Memorial Competitionにも参加しているスコットランドのグラスゴー生まれの建築家ジョン・マカスラン(John McAslan)  設計によるキングス・クロス駅の改修。

ロンドンから北に向かうだけでなく、ユーロスターがかつての始発駅であったウォータールー駅から、このキングス・クロス・セント・パンクラス駅へと延長・変更されたことで、ヨーロッパ大陸への玄関口として機能することで、以前よりも頻繁に足を運ぶようになったこのキングス・クロス駅。今回は明日から向かうヨーク行きの電車のチケットを受け取りに立ち寄ったのだが、やはりハリーポッターのワンシーンを思わせる19世紀のイギリスのターミナル駅の雰囲気と、柔らかな構造をもった未来的な巨大屋根との対比は、現在のロンドンを象徴する都市空間となっているのは間違いないだろう。








2016年10月30日日曜日

「コンビニ人間」 村田沙耶香 2016 ★★★


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第155回(2016年) 芥川賞
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毎年「芥川賞」と「直木賞」の発表があると、「ああ、今年ももう半分終わったんだな」などと6ヶ月という時間の流れを感じることになる。しかし、それも毎日留まることなく押し寄せるニュースの波の中に埋もれ、あっという間に「そういえば、今年の受賞作はあれだったな・・・」と、話題になる受賞作関連のニュースに触れては思い出すことになる。


今年はどちらかといえば、「コンビニ人間」の方がややスポットライトを浴びている印象があり、そのタイトルは耳に残りながら、「そのうち文庫化されてからブックオフで見つければ・・・」と思っていたくらいであっという間にコートが必要なほどの深い秋に差し掛かってしまっていた。

父親が定期購読をしている文藝春秋を帰国のたびに貰ってきては読み込んで、会うたびに読み終わった号をくれる親友が、「コンビに人間も載ってるよ」と渡してくれた最新号。こうして誰かの手を巡ってきた物理的重さを持った「本」というメディアのありがたさを再認識しながら、「ポン」と久々に時間ができた週末に、先日の産経新聞で書かれていたように、「いざ、読書。」と覚悟を持って手にしてみると、思いのほかするすると引き込まれてあっという間に読み終えてしまった一冊。

今年の受賞作なので、少しネットで検索すれば、それほど星の数ほど感想や批評が書かれているのであろうが、現代社会の中でほぼインフラとしてなくてはならなくなったその都市機能の中で、利用者からは当たり前の風景として視界に入ってこないそこで働く人々の日常を、小さなころから当たり前の人間としての感覚を持つことができなかった欠陥品として自分を捉える主人公の視線から描き出すことで、現代日本の持つ同調圧力と、無意識の中で人々がそれに併せて振る舞い、それぞれの役割をこなしていくこと。どんな場所でも、どんな立場でも人は自分を肯定しなければ生きていけず、どんな形でも自尊心を保つことが必要で、そのために時に周りの人を下に見ることによって、安易な自己肯定感を得ていく人々。「あなたのためを思っているのよ」とか「社会で生きていくためには」などと、価値観の強制が振りかざされ、「世間で言う全うな人」ではない人々がドンドンと切り落とされていく姿が徐々に鮮明に描き出されていく。

「マウンティング」や「「格差」。「底辺」といった様々なキーワードが、見え隠れしながら物語の背骨を支え、それでいながら、しっかりと生身の人間としての温もりを感じさせながら物語が展開していく。非常に限られたセッティングの中の、限られた人間関係の中で展開し完結する物語であるだけに、小説というメディアの素晴らしさを改めて感じさせてくれる一冊である。

2015年3月9日月曜日

北京空港の便利さ

空港に到着し、迎えの車を待っている。

その間にも、多くの人が到着し、同じ様に迎えの車に吸い込まれるようにして消えていく。

人が都市に到着し、ある人は電車で、ある人はバスで、ある人は自らの車で、またある人はこうして送迎の車にて都市へと吸い込まれて行く。その風景を眺めながら思う。

「空港」というのは、人がある都市に到着する、もしくは離れる時に使用する場であり、そこに留まる為のものではなく、如何に素早く本来の目的である都市へと人を運ぶことができるかが求められる機能であろう。

そう考えると、如何にスムーズに、如何に短時間に大量の人をこの場所から離すことができるか?それがその空港の能力ということになる。

道路に対して長い距離で建物に面し、同時に多くの人が送迎をすることが出来ること。
上下階で出発と到着を完全に分離すること。
他の施設と混用することなく、空港の為だけに伸ばされた専用道路に接続していること。
そしてその道路は都市の中心部へ30分ほどで接続できること。

その様に、求められる機能的要求がそのまま形態として立ち上がっているこの北京空港を見ると、それはやはりよく出来ているのだと思わずにいられない。

だがしかし、そんな機能を満足するように建物へと変換された空間に、何かしらの魅力があるのかと考えると、やはり疑問符がつくのと同時に、そんなインフラとして存在する建築に何の魅力が必要なのかという別の疑問も現れながら、到着した迎えの車に乗り込むことにする。

2014年10月12日日曜日

H26 2014 一級建築士製図試験 「温浴施設のある道の駅」

日常の生活の中で気がつかずに当たり前だと受け入れ始めていた風景の変化が、こうして試験の課題問題としてつきつけられると、「社会が変わりつつあるんだな」と改めて思うことになる。

この10年近くで地方都市に出向くと非常に多く目にすることになった新しい建築のタイポロジー。その一つが「道の駅」。そしてもう一つが「スーパー銭湯」。その二つを掛け合わせるようにして作られた今年の設計課題「温浴施設のある道の駅」。

どんな地方都市に行っても、街を出ようとすると幹線道路沿いにポンと出てくる同じような建物。看板をみずともなぜだかそれが道の駅だと分かってしまうほど、ある型ができてしまっている。スーパーもコンビニもあまりない地域においては、逆に道の駅が生活のインフラとして機能し、その為に通常の道の駅から更に発展し、フードコートを併設するなど並みのスーパーよりも充実した内容にまで変容したものも出てきている。

対して「スーパー銭湯」。こちらも訪れた街で少し時間ができたからと訪れてみると、全く知らない街に来たはずなのに、中の風景はほとんど同じ。まるでインフラと化したコンビニに来ているかのような錯覚に陥ることもある。そしてどこの街でもこの「スーパー銭湯」が流行っていないのをみたことがないほど、どこでも都市の娯楽のかなり上位に位置するようになっている。

この様に両者に共通するのは、その登場から数年が経ち、人々がそれに対してどのような反応をし、またどの様に使っていくかのやり取りを重ねながら、徐々に最適な型へと収束していった結果、こうして多くの場所で都市の見えない要求に適合し、ある一定の型として風景の一部になっていったこと。

これはある意味恐ろしいことである。かつては限られた技術や素材、工法がその土地固有の風景をつくりだし、調和の取れた街並みや心を和ませるような景色を作り出していた。しかし、現在はどこにいても瞬時に情報が共有され、人も物も境界の無くなったフラットな世界。その現代においても風景まで昇華する「型」となりうる建築のタイポロジーが生まれているということ。そんなことに思いを馳せずにいられなくなる課題文である。


さて、そんな設計条件を詳しく見ていくことにする。
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この課題は、ある地方都市の湖畔の景勝地に建つ􌓕道の駅」を計画するものである。本施設は、休憩、情報発信等のサービス施設に加えて、地域振興や地域住民の交流の場となるように、地域の特産品の販売を行う物販店舗や飲食ができるフードコートのほか、地域住民も利用できる温浴施設を設けるものとする。また、敷地に隣接する駐車場は、本施設の利用者だけでなく、湖畔を散策する者も利用することができるものとする。
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そして模範解答を見てみると、つまりは温浴で健康を維持し、フードコートで食を満たし、そして道の駅で消費をしていくというまさにワン・ストップ・サービス。コンパクトへという地方都市の流れに乗って・・・という思いもなきにしもあらずなのだろうが、へ敷地図に描かれた広大な駐車場をみると、実家のある地方都市にも広がる同じような光景が脳裏に浮かぶようである。

この点が示唆するのは完全に車社会となり、車無しでは生活が成り立たなくなっている地方の在り方。お風呂から眺める遊歩道の先に広がる湖畔の風景。それがこの施設のあり方をせめて差異化してくれるのだろうかとなんだか寂しい気持ちになりながら、今年の試験の総括を終えることにする。

2014年6月8日日曜日

空と空港の未来

空港に到着し、また次の飛行機を待つ。

空港にいる人の数もまたそれぞれの国の現状を表すようである。混み合う空港の様子を眺めていると、一体一年に世界中の空港を利用するはどれだけの数に上るのだろうとぞっとする。

世界の空港 旅客数・利用者数ランキング TOP30(2012年)

規模別の空港一覧

航空旅客数・貨物取扱量の推移 - 国土交通省

どうも世界規模での合計となると、単一空港で既に年間旅客者数が1億を越えるほどの空港もあるのには驚かずにいられない。そして単一空港での旅客者数が上位に位置する空港の多くがアメリカに位置しているのも、如何にアメリカが航空大国であり、経済活動を世界規模で展開し、都市同士を密接につないでいるかを示している。

ちなみに世界最高と言われる新宿駅の乗降者数は一体どれくらいかとみていくと、JR新宿駅だけでも一日平均で76万人。この地に乗り入れる他の東京メトロ、都営地下鉄、小田急線、京王線を合わせるとその数は一日平均で350万人にも上るという。そこから算出する年間乗降者数は12億人・・・・。まだまだ地上はとてつもなく混んでいるというのが見て取れる。

これだけの人間が駅という地上交通網のノードに一気に押し寄せる圧力を、なんとかJRの必死の努力によって、運行本数を増やしたり、正確なダイヤを実現させたりとなんとか少しでも混雑解消に努めているというところである。

その人の移動の波が確実に今、空港という新しいノードに押し寄せている。

この10年。明らかに空港で見かける人の数に変化が見られるようになって来ており、その数は航空技術の向上と、世界規模で活性化する経済活動に後押しされるように、今後も加速度的に増加するのは間違いない。既に航空交通路は人類のインフラとして定着した訳である。

そうなるとどういうことが起こりうるかと想像すると、使用頻度の高まりによりある一定の人気路線ではより密な発着陸が行われるようになり、空港ラウンジ、空港の滑走路、そして空の航空路でもかなりの混雑が起こってくる。

空港では今のままのシステムではチェックイン機能が麻痺し、しばしの混乱の後により効率的なシステムへと移行していく。

滑走路は限りがあるために、不採算路線は次々へと廃止されるのと同時に、ハブ空港においては、滑走路の拡張が続いていく。

空の上では今まで以上に多くの行き来が起こるために、航空機による環境負荷の低減を担う技術革新が起こるがそれでも追いつかず気候への影響がさらに大きくなり、不安定な気候が今まで以上に多くなる。

そして加速度的に増える飛行機の数に対して、それを操縦するパイロットの数が追いつかず、今までであれば決して操縦桿を握ることが無かった未熟なパイロットなどが安い給料にて雇われる状態なども発生しうるだろう。

そんな様々な状況が絡み合い、より航空機の事故は多発する。それが今年に多発した航空事故が示す空の移動の未来の一部であろう。

マレーシア航空370便 クアラルンプール発北京行き

アルジェリア航空5017便墜落事故

ウクライナで起きたマレーシア機墜落事故 遠隔調査

トランスアジア航空222便着陸失敗事故

そんな妄想を膨らませながら、なんだか背筋をぞっとさせながら、やっと到着した模様の搭乗機に向かいゲートへと足を進めることにする。

2014年5月18日日曜日

「希望の国」園子温 2012 ★★

「ヒトラー 〜最期の12日間〜」という映画がある。如何に追い詰められたヒトラーが最後の時間を過ごしていくのか。最後の拠点であるベルリンまで攻め込まれたナチの幹部達がどのような行動を取っていたのか。

こういう映画をドイツ自らが作ることが出来る。それにただただ凄いなと感じていたのを鮮烈に覚えている。自国の負の歴史。それを適切な距離をとりながら冷静にそして公正に描きだす。その難しさ。様々なしがらみ。それらを超えて、これだけの作品を世に送り出すことが出来るドイツという国のあり方。そしてその対極に位置する日本という国。

2011年3月11日に発生した東日本大震災。それに伴う福島の原発事故。その後に見えてきた、様々な面でのこの国の問題点。利権を守る為に本来的に行われなければいけない決断や政策がまったく違う視点を持って進行して行く。

その後分かったのは、如何に電力会社が日本の社会の中に深く、広く入り込んでおり、関係会社も含め、どれだけ多くの人がその恩恵を受けて生活をしているのか、それがある種この国のインフラとして変更が効かない強力な構造となってしまっている事実。

原子力に対して世界基準で考えたら全うな意見を発しても、原子力が巨大な電力会社という日本を支えるインフラともいえる権力の中の属している為に、常識的な正義が通用せず、当たり前の意見が消されていく。世間が感じたのはその違和感。そして虚無感。

本質を曖昧化する為に、何が本当か分からなくする為にテレビに登場する御用学者。政府の都合の良い見解を提示することで、そこには様々な意見が存在するという形に持っていき、本質的な問題である、正確で正しい情報が公開されてないという問題から世間の目を逸らすことになる。

人は分からないことに恐怖を覚える。

もしその恐ろしさが分かれば、何が原因かを知ることができ。そうすることで対策をとることができる。しかし一番怖いのは見えないこと、情報を得られないこと。

その時には、ただただ恐怖のみが増殖していく。

結局はその状況を維持することで、権力を握る側にとって都合のよい仕組みを維持する形でなし崩しに決定がされていく。

東日本大震災と福島の原発事故を見て多くの日本人が唯一期待したことは、この悲劇を契機にして、膠着した日本の社会構造が少しでもまともに、少しでも国民の為に働く国へと形を変えていくこと。既得権益を守ることよりも、正しい情報が手に入れれ、国の今よりも将来に向けた政策が取られていく国へと、たとえ痛みを伴おうが変化をし、前へと進む国の姿。

しかし現実に目の前に広がるのは、震災以前となんら変わらない国の姿。

そんな現状の中に世に送り出されたのがこの作品。恐らく映画という様々な人を巻き込んで作り出される産業なだけに、これが完成するということがどれだけのエネルギーが必要したのかと思わずにいられない。まずは監督のその実現力に敬意を感じずにいられない。

原発事故は全ての人を当事者にしてしまい、その立ち位置や、手にする情報によって、様々な価値観、対応を示してしまう。極度に放射能汚染を恐れる為に、宇宙防護服で身を纏い日常を過ごす妊婦。その姿を冷ややかな目で見る周囲の人。その狭間に揺れる夫。

ネットと言う情報が氾濫する時代に起きたこの事故は、その後の社会における人々の対応が多種多様になるという人類史上初めての経験を現代日本は経験しているということでもある。

物語としての完成度などの問題はもちろんあるのだろうが、現在の状況下の中で、少なくとも日本人が正面から原発事故に向き合い、一般市民がどのような視線を持って生きているのかを描き出した映画が生まれたということは、日本人として喜びを感じることなのだと思わずにいられない一作である。

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スタッフ
監督 園子温
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キャスト
夏八木勲 小野泰彦
大谷直子 小野智恵子
村上淳 小野洋一
神楽坂恵 小野いずみ
清水優 鈴木ミツル
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作品データ
製作年 2012年
製作国 日本・イギリス・台湾合作
配給 ビターズ・エンド
上映時間 133分
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2014年4月7日月曜日

IFC Competition Final Presentation


国際コンペのプレゼンテーション。

ましてやSOM (USA)やGensler (USA)といった世界的巨大設計組織が参加してくる巨大な都市計画のコンペとなれば、関係者も非常に多くなり、政治、経済、交通、インフラ、建築と様々なスペシャリストが審査員として召集される。

このコンペの為に、半年近い時間を毎日必死になって、新しい都市はどうあるべきか。新しいモスクワはどのような都市空間を提供するべきかを考え続け、協同するロシアのアラップとなんどもテレビ会議を重ね、案を作っては練り直し、壊しては作るを繰り返してきた時間。

その中で考えてきたアイデア、建築的回答、都市空間を伝える機会がこの最後のプレゼン。紙媒体の資料ではなかなか伝わりにくい、重要なコンセプトとその建築的表現。それを限られた時間の中で、明確に伝えるためにはなんどもプレゼン資料を手直しして、しゃべる言葉を選択していくことになる。

プレゼン会場はクライアントでもある銀行の巨大会議室。ステージの前には長いテーブルに白髪の混じったいかにも専門家といった老齢の白人がずらりと並ぶ。事前に用意できるプレゼンは滞りなく進むのだが、問題はその後の質疑応答。

それぞれの分野の専門家が、それぞれの観点から提出案に突っ込みを入れてくる。経済性の観点から、一期にそれだけのボリュームの建物を持ってくるのは現実性があるのかどうか。交通ハブとなる駅舎をプロジェクトの中心から話して配置することの意味は。主題となる緑化空間がどれだけ多様性をもっているのか。等々。

この最終審査の為に招待されてやってきている審査員。なのでコンペの途中でクライアントとやり取りしている内容については把握していないと見れ、すでにクライアントとのやり取りの中で話し合われた内容や、質問者同士でも矛盾が出るような質問があるが、やはり離れしている専門家として、かなり厳しい質問が浴びせられる。しかも英語とロシア語の同時通訳で行われるので、質問の内容を正しく把握することに注意しながらチームの中で誰が回答するかを分担しながらなんとか乗り切る。

そんな訳で会場後部に張り出してある他のファイナリストの提出案をしっかり見ることもままならず次のプレゼン者の為にさっさと会場を追い出される。

8 Finalist's proposal

近くのコーヒーショップに入り、一緒にプレゼンに臨んだロシア・アラップのチームとビジネスプランを作るコンサルタント、そしてランドスケープ・アーキテクトとともに、プレゼンの総括をする。

都市計画というあまりに巨大なプロジェクトだけに、クライアントがどこに重きを置き決断をするか、多くの審査員の中で誰の意見に一番耳を傾けるのか、とにかく明日にでも発表されるという結果を祈って待とうということで、ともに費やしてきた長い時間を労うことにする。

2013年10月5日土曜日

「ネット帝国主義と日本の敗北―搾取されるカネと文化」 岸博幸 2010 ★★

今世界中の人が毎朝オフィスでパソコンを開くたびに頭を抱えているのだろうと想像する。

その視線の前にあるのは、「もうすぐiGoogleのサービスが終了します」のメッセージ。

水や電気と同じように日常を支配するインフラとしてのネットの、一番のベースが覆されるようなものである。まさに一大事。箱に詰まった砂をトントンと叩きながら慣らしていくように、長年をかけて徐々に自分の身体に一番あったホームページとして培ってきたiGoogleをあっさりと「終了します」と終えられる・・・

ネット世界の巨人、Googleに染まって生きる生活を選んだ以上、こういうことは不可避だと理解しながらも、ネット上に溢れる代行サービスのページを試しながらも、未練がましい男の様に、未だに毎朝画面に現れるメッセージに心を痛めつけられる日々を送る。

そんなサブリミナル効果からではないと思うが、たまたまブックオフの100円コーナーで見つけたテレビでお馴染みの経済学者の関連書籍。誰もが気がついているが誰もが声にして言ってこなかったことだと興味を持って手にした一冊。

ネットが完全に日常に入り込んだ現代の生活。歯を磨くのと同等の無意識でネットを利用する現代人にとっては、それは「無料(フリー)」であるというのが常識になっている。そのネットはインフラ、プラットホーム、コンテンツの3つのレイヤーから構成されており、ネットビジネスが混沌期からある種の秩序を持ち始めた今改めて見てみると、真ん中に位置するプラットホームを提供する企業、グーグル、ヤフー、アマゾンなどだけが一人勝ちの状況を呈しているという事実。

それは同時に「コンテンツはフリー」という状況を作り出し、それがネット以前までに培われてきた「文化」を浸食し始めている。これも大きな問題だが、更に大きな問題はそのプラットホームのビジネスを牛耳っているのはアメリカの企業だという事。

そうだよね・・・

と感じてはいたが、改めて振り返って考えてこなかった問題点を整理してくれているので、ある種の心地よさを感じながら読み進める。

インフラを牛耳ることは、その国の文化まで見えないうちに牛耳る事になり、同時に全ての情報を好きなように使用できる事になる。それが一国の企業によって全て成されているという事が異常事態だと映っていないことに警鐘を鳴らす。

確かに今全世界でグーグル以外の独自の検索エンジンがシャアを誇っている国といったら、恐らく「百度」を要するこの国以外にないのではないかとゾッとする。恐ろしいほどフィルターがかけられているといわれているが、それでもこの本を読んだ後は少なくとも他国にプラットホームを牛耳られているよりはよっぽど国として健康的なのかと思わずにいられない。

そうかそうかと読み進めるが、ふむふむと思っている間に読み終えてしまう。目次を見て上がった期待値が、「ならば現状打破するにはこうするべきだ!」と明るい提案があるものばかりと思っていたがそうではなくて、極めてさらっとした内容。

さてプラットホームの巨人との付き合い方を考えなければいけないなと思いながら、11月からパソコンのホームページをどこにしようかそろそろ決めようと思うのに丁度よい一冊。
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目次
第1章 
ネット上で進む一人勝ち
/ネットがもたらしたプラスとマイナス
/ネット・バブルの歴史
/ネット上のサービスの構造


第2章 
ジャーナリズムと文化の衰退
/新聞の崩壊
/音楽の崩壊
/社会にとってのマイナス


第3章 ネット上で進む帝国主義
/米国の帝国主義を助長するエコシステム
/プラットフォームの米国支配の問題点


第4章 米国の思惑と日本が進むべき道
/グーグル・ブック検索
/米国の戦略と野望
/ネット上のパラダイムシフトの始まり


第5章 日本は大丈夫か
/プラットフォームを巡る競争の激化
/ジャーナリズムと文化をどう守るか
/日本はどうすべきか

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2012年12月27日木曜日

新しい時代にあった飛行機の乗り方

年末年始。様々なところから家族で過ごす故郷に向けて、いろんな人が移動する時期。

北京からKLまでの6時間強のフライト。3人がけの席の後ろに陣取ったのは、夫婦と小さな女の子と赤ん坊。チケットが必要な年齢に達していないためか、その席の横にはもう一人若い女性が陣取って、3人がけに5人が座るという事態になり、航空会社のスタッフが「これはありえない」となにやら揉めている様子。「この子達は2歳に達してないから。」という夫婦の説明によって、なんとか横の女性が我々の座る席の間に移動して落ち着く。

そんな訳で、その夫婦、早速空いた席に上の子を座らせてスペースを確保するが、飛び立ちもしないうちからその上の子が泣き叫ぶ。周囲の乗客(正月を国で過ごすと思われる、マレーシア人や正月休暇をあったかい場所で過ごそうとしている外国人)も、さすがに子供だからと、みな困ったなぁという視線は送るがそれ以上何も要求できずという状態。

せめてあやして泣き終えるようにするとか、何かしゃぶるものを与えるとか、少しは周囲に迷惑がかかってしまって申し訳ない的な行動を取るのかと思っていたが、心の相当強い夫婦なのか、それともまったく社会性をどこかに置いてきてしまったのか、それとも自分たちだって困っているんだと開き直ってしまったのか、それとも子供を持つ親というのは大変なんだという方向に行ってしまったのか、とにかく何らかの対応を取る気配はない。

それどころか後ろをチラッと眺めると、泣き叫ぶ二人の子供はほったらかしに、ウトウトと眠りに落ちる夫婦の姿が目に入る。しかしこの子供達は更に激しく泣き叫び、まさに阿鼻叫喚の様。しかもそれが日本人というオチ。

用意しておいた耳栓を奥まで詰めても、アイフォンに入れておいた激しい音楽を最大ボリュームでイヤホンに流しても、その声は鼓膜まで届きBGMとして成り続ける。どうせ眠ることは無理そうだからと激しい音楽を聴きながら、この問題について考えをめぐらせる。

年末年始、ネット上でこの問題に対してあーだこーだと問題になるが、子供は泣くものだとか、子連れでは飛行機に乗るなとか、泣く子供連れならビジネスに乗れとか、逆にそれだとより高いお金を払って苦痛を感じずに旅をするはずのビジネスシートの意味が下がってしまうとか、子供を持った親じゃないとこの苦しみは分からないとか、その場の感情論的な意見は多々あるが、恐らくこれは時代が変わりインフラがその変化について来れていない歪の現れである。

昔の親は子供が自制が効くまでは、このような空間を他人と共有する行動はしていなかった。泣いてしまう子供がいるのなら、時間がかかっても車で高速道路を使って里帰りし、車内で泣いてしまう子供でも、家族としてその時間を受け入れていた。それに比べて今の親は、公共性や他の人に気を遣わず、便利であることだけで公共交通を利用して、迷惑の押し付けが多すぎるという意見も聞く。

しかし、やはり公への気の遣い方のモラルハザードはあるとしても、グローバル化が進んだ世の中において、どうしても個人で所有できる移動手段では辿りつけないほど、家族と自分たちの住まう場所の間に距離ができてしまったことは間違いなく、そうなると公共交通手段に依存をしなければいけなくなるのはしょうがない。

だからといって、「私も大変なんですよ。困ってしまっているんです。だから文句は一切受け付けません」的な雰囲気を醸し出す親たちの姿が正しいのかといえば、それもまたそうとも言えない。

そうならば、そういう抵抗することのできない社会の変化に対応すべく、公共のほうもシステムの在り方を柔軟に変化させていくほかない。数年前に「女性専用」という摩訶不思議な車両を東京の鉄道会社が導入し、世界に日本の異常性を見せ付けたが、今こそこのような空での時間の過ごし方に対して、独自の対策を採用する航空会社が現れるべき時代に入ってきているのだろう。

それなら何が可能かというと、やはり子供連れの乗客にはある一定のシートを「優先して」割り振り、他の乗客と距離をとって空間を分離する方法しかなくなってくるように思える。KLで宿泊予定のホテルも、明確に「12歳以下の子供はお断り」とうたっているように、これは「差別」ではなく「区別」であり、たとえ自分の子供が泣かなかったとしても、同じ子供を持つ親としてそのリスクを共有し、その空間を共有すること。そんなことを実行する航空会社がでてきてもおかしくない時代に来ているのだろう。

後部の座席は子供連れが座るようにして、前に来るにつれて、ところどころに防音の良く効くカーテンで仕切っていく。泣いた子供をあやす姿を横の親が「大変ですねぇ」という言葉にも、これならより一層の重みが加わるというもの。

グローバルに展開する世界では、如何に「差異」化するかが生き残りの道であり、その中では逆に子供連れの乗客はお断り、という航空会社が出てくるかも知れない。そうすれば、子供連れもOKですというチケットはもう少し安くなって差異化が加速し、後は顧客の「選択」次第ということになる。リスクを知り、自らが「選択」をした結果であれば誰も文句は言えないが、「選択」が与えられない中で、ただ「偶然」に乗り合わせてそれを強制されるよりははるかに納得感が増えることになる。

自分の立場によって意見がブレまくるこの問題だが、時代の流れを考えると、上記のような勇気ある航空会社が現れるのもそう遠くは無いなと確信する。

どんな時代に入っていっても、公共性というココロを失うことはしたくないなと心に誓う空の上。