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2018年1月29日月曜日

情報の過剰摂取

食事でも取り過ぎは身体に良くない。
「もう少し・・・」
と欲をだせば、ぐったりと動けなくなる。
腹八分。なんでも、適度が一番。

同じように現代社会では多くのものが身体に入ってくる。
その中で近年加速度的にその量を増やしているのが「情報」。

仕事、テレビ、新聞、ラジオ、ブログ、スポーツ、バラエティー、読書、習い事・・・・

意識をしなければ、一方的に増えるだけ。
食べ過ぎた後にぐったりしてしまうのと同様に、
これだけの情報を無意識に身体に入れ込んでいれば、
身体が、脳がいったいどうなってしまうのか。

情報の断捨離。
収納と同じく、スペースに3割ぐらいの余裕を持たせることを理想に。
情報をフィルターし、しっかりと棚の中に片付ける。
その為に、中華新年を機に、どれが必要で、何が要らないのか、
仕分けをしっかりして次の一年を迎えることにする。

栄養過多にならないこと。
それを目標に過ごす一年にしたいものである。

2015年5月9日土曜日

対話の相手を持つ幸せ

年齢に応じ自分が話したい相手を、自分が思うように受け取り、対話が可能な相手がいることは幸せな歳の重ね方なのだと改めて思う。

人間、歳を取れば取るほど、色々なことを経験し、色々なものを学び、色々なことを考えてくるものである。当然、その過ごした時間によって、自分の意見や考え方もできてくる。真面目に生きていれば生きているほど、自分が過ごした時間とその間に考えたことを今度は誰かに語って聞かせたくなるものであろう。

その聞かせる相手というのは、学校で先生と生徒という関係であったり、会社で上司と部下という関係であったり、家庭で夫婦や子供との間であったり、または友人間でのやり取りであるかもしれない。

もっと多くの人に聞いてもらいたいと思う欲求を向ける先は、現代であるならば、ブログでつづる文章になったりすることもあるだろう。

しかし、もっと多くの人に読んでもらいたいと思う人、もしくは周囲からその貴重な知識や考えを世の中に広めるべきだと声がかかる人には、やはり今までの様に、講演や書籍という形でその考えが世に広まっていく。

歳を重ね、社会的地位が高まれば、自分が考えていることを本という形で世に出すことがより容易になっていく人もいるのであろうが、本当に幸福なのは自分が伝えたいという内容を、自分が伝えたいと思う相手、もしくはそれを正しく受け取ってくれるであろう相手に向けて発することが出来ることだろうと思わずにいられない。

そのタイトルに引かれ手にとった本も、読んで見ると「これをわざわざ世に発する必要が本当にあったのか?本にする必要が本当に重要だと著者が真剣に考えていたのか?」と思うような内容の本に出くわした時の失望は相当に大きい。

夫婦でも、職場でも、友人でも、自ら年齢を重ね、自ら積み重ねる経験や知識に比例して、思考する内容を共に共有し、対話を重ねることのできる相手が身近にいる。そんな歳の重ね方をしたいものである。

2014年3月4日火曜日

断片がいつかクオリアに繋がる様に

追われる様に増えていく書くべきブログ。
それによってストレスを感じるならなぜ続けるのかと自問自答。
いっそのこと書かなければいいのにと思う。
時間の無い中大量に整理する事があるので、
必然的に内容の薄いつまらない文章に。
それらを精査し、幾つかの重要項目だけに集中し、
書く必要のあることにシフトしていけばいい。

と思うが、指の間から零れ落ちる体験や色彩を、
後ろ髪を引かれながらやり過ごすのは、
それはそれでまたストレスの溜まる時間であろう。

恐らく40歳近くになった時、やっと散り散りになっていた、
断片的な体験や考えが、タグの糸に紡がれて、
やっとそれぞれに何かしら物語を醸し出すのではと予感する。
それが恐らくクオリアと呼ばれるもののヒントになるのであろう。

今は少々辛いが、臨界点を迎えるまでは、
なんとか叱咤激励をしながらできるだけこぼれるものを少なくし、
断片がいつかクオリアに繋がる様にと書き続けることにする。

2013年12月22日日曜日

絵を完成させる

年末だと言うのに、今年の干支の木彫りも終わらず、読み終えた本などのブログも大量に残っている。この状況は、自分にとって今年一年過ごした時間がある種の絵を描くとしたら、その至る所に多くの穴が空いているようなもである。

下手くそがやるジグゾーパズルのように、部分部分に白い部分が残ってしまい、何とも全体像を結べない。「ぼやぁ」としてなんとも気持ち悪いものである。

そんな凹凸だらけの穴に、一つ一つ絵の具を詰めていくように、時間がかかっても丁寧に消化し、外部化し、穴を埋めていく。

そうしておけば、何十年経った後も明確に自分にとっての2013年という絵を見返すことが出来るのだろうと自分を励ましてまた一つ絵の具を埋めていく。

2013年9月21日土曜日

動き出す時間

一週間以上もジムに行かないと、どうも身体のあちこちにポツポツとにきびが出来てくる。明らかに通常の生活では新陳代謝が十分に成されておらず、強制的に汗をかいて内部から押し出してやらないと身体の内部にどんどん不純物が溜まっていく。

それと同じく身体の中に溜まる膿。

足を運んだ場所、そこで目にしたもの、そこで感じた空間。それらについて何かしら外部化していかないとどんどん身体の中で腐っていく。本来なら時間をかけてその場でスケッチを描き、見たものを平面化してみて、そこで新たなる発見として日常に持ち帰る。

それが出来れば一番良いのだが、それほど余裕のある生活を送れるほど何かを成し遂げても居ないので、とにかく修行の身として出来るだけ多くのことを目にし、見たものから興味を得、それを少なくとも知識として仕舞っていく

体内で腐敗を起こさないように、出来るだけ自分の言葉で見たものを纏め、簡単でもいいが体系立てて理解をする。その作業の中で自分化を行っていく。その為にとても役立つのがこのブログとういメディア。

そんな訳でやっとまとめ終えた100を超える寺社の訪問記。別に誰かに頼まれているわけでも、誰かが喜んでくれる訳でもないが、それでも自分なりにしっかりと今をこなして行く為にちゃんと時間を消化する一つの基準。

ただし時間は待ってくれないから、「今」はすぐに「この前」に変わり、なんとか「かつて」になる前に定着しようと試みる。その為に、どんどん「今」から偏差しながら「この前」の「今」を言語化することになる。チクタクと進む時間との闘い。その間もどんどん増えていく「今」が更におざなりになっていく。

「この前」の「今」を消化するために、別の膿が身体に溜まっては本末転倒もいい所で、なんとかドォッと吐き出す様にまとめては、やっと「今」に追いつく。

歪んだ時間のイメージが「カチリ」と動き出す。

それと同時にすっかり「かつて」に属するようになってしまった、本や訪れた建築。ほったらかしにされて、すっかり記憶も陳腐化してしまってはいるが、カレンダーから掘り起こしてはその時のメモを見返して、「今」の言葉ではなく、「その時」の言葉で外部化していく。

再度の読書体験と共に、自分の記憶のあちらこちらで「カチリ」「カチリ」と様々な時間が動き出す。

2013年7月17日水曜日

記憶の整理

読書をする時は、読みながら気になる部分に蛍光ペンで線を引く。
読み終えた後に、再度1ページ目から捲っては、線を引かれた文章をパソコンに打ち込む。
箇条書きになったそれらの文章を元に、自分の言葉でその一冊の読書体験を纏める。

3度その本と向き合うことで、なんとか消化していく。読んだだけでは、ほとんどのものが数週間もすれば忘れてしまい、読んだかどうかもあやふやに。しかしこうして消化しておくと、少なくとも海馬に痕跡を残すのと同時に、ブログとグーグル・カレンダー上に検索できるアーカイブとして残っていく。

恐らく人間の脳なんでそんなものだと思う。

見たものや経験したもの。その時は強烈な印象として記憶するが、その色彩を持ちながら記憶の中に留まるのはせいぜい数週間。如何にそれらを血として肉としていくか。

まずは、気になるところをマッピングする。城や神社、名勝や建築。自分の興味にひっかかるかで、随分フィルターをかけることになる。

そして旅程を決めた時に、マッピングの中の選択。事前に余計な偏見を入れないようにしつつも、ある程度の背景をしるためにざっくり調べる。そのリサーチと選択の過程で再度海馬に叩き込まれる。

実際現地で目の前にして感じ、体験し、写真に撮る。

撮った写真を選別し、水平をそろえたり、センターを出したりと編集する。

再度詳しく訪れた場所の来歴などを調べる。

その内容と写真を元に、記憶を辿りながら自らの言葉で体験を纏めアップする。

この6段構成。正直言って手間が掛かるし、しんどい。しかし効率の先に近代を超えるヒントがるのもまた事実。

読み散らかしの子供じゃあるまいし、建築を生業とするものとして体験を言語化し、記憶の中に整理しておくことの重要さは身に沁みて分かっているつもりなので、こんなことを書いては自らを納得させようとし、再度纏めの作業に戻ることにする。

2013年3月26日火曜日

恣意性

行ったり、見たり、読んだりした事を、自分なりの整理をして言葉やスケッチなりに身体の外に出しておかないと、それは便秘の様なもので精神の為には非常に良くないことであるはずだ。

溜まって行くデータを横目に、それならいっそと客観的なデータと写真だけを機械的にアップしてしまおうかと思いがよぎるが、いやいやそれにはそれほど意味は見いだせないと思いとどまる。

情報があふれる時代だからこそ、何かしら自分なりの恣意性を与えて外部化しておくことに必要性があり、それで始めて自分にとっても意味を成す。

成長していく過程で出会う脳に対してのなんらかの「刺激」を、その時々の自分の「言葉」で「恣意性」を加味していく。それはきっと薄い薄い一枚のレイヤーでしかないのだろうが、いつかきっと大きな玉ねぎになっていくのだろうとまた気を奮い立たせることにする。

2013年1月21日月曜日

引き出しに仕舞う


「仕舞う」:終りにする。片付ける。入れ収める、殺して始末をつけるの意味も。

仕事場でも、家でもそうだが、物に溢れた現代社会で生活をしていると、その空間はすぐに物で溢れ、ぐちゃぐちゃと秩序のない状態に陥ることになる。適度に整理整頓をして、捨てるものは捨てて、必要なものは分類して仕舞っておく。そうしないと生活が成り立たなくなる。

テレビでよく映される「ゴミ屋敷」。あんなによく溜め込めるな・・・と思っているこちら側の我々も、ちょっとしたきっかけで止め処なく押し寄せる情報量と物量に押しつぶされ、自らを律する意思があっさりとそれらの波の呑み込まれ、一見したところは違うが本質的にゴミ屋敷という状態になんてあっという間に陥ることになる。

それと同じことが情報社会に生きる我々の頭の中でも起こっている。

経験したこと、考えたこと、見たことなどをは通常整理されることなく、やりっぱなしのぐちゃぐちゃに散らかっている状態でほったらかしにされている。デジカメで加速度的に増加するデータは、秩序立てることなくパソコンのHDの容量の上限という限界に向けて、ただひたすら無秩序に保存されるだけ。

ぱっと見ただけで分かるような、散らかりっぱなしの家に住んでいる人が、何かを出そうとしてもすぐに出てこないように、頭の中でも知識や経験への回線は混線状態。
自らが経験し、見て、聞いて、感じたこと。自分の過ごした時間を自分のだけのものとして変換してくれるはずのそれらの要素を、一度立ち止まり、それを手にとって、どんなことをその時に考えたか、を再度考えながら、一つ一つ自分で考え、その考えに言葉を与えていく。そのものをもう一度別の視点で眺めて、その時に見えなかったものを見つけ出し、自分自身で理解し、消化していく過程。その一つがブログにという言語化と視覚化の作業。

それは一つ一つを整理整頓して、引き出しの中に仕舞っていくことと極めて似ている。

ぼーっと無策に忘れていくのではなく、いつでも引き出せるように、思い出せるように整理をしてから一度忘れておく。それが重要。

引き出しがあるだけでなく、それがどの様に分類され整頓されているか、独自のシステム構築も同じくらいに重要度を増してくる。その分類と検索システムがしっかりしている人と会話をすると、知識と記憶が極めて正確に引っ張り出され、しかも情報を組み合わせることが次から次へと新たなる会話を紡ぎだしていく場面に出会う。

その心地よさ。

加速度的に増加する情報、その波に溺れるのではなく、白旗を揚げるのでもなく、出来る限り自分の身体と脳を守るために、しっかりと仕分けをして仕舞っておくこと。それが現代を生き抜く鍵であろう。