2015年5月10日日曜日

「プロフェッショナルとは何か―若き建築家のために」 香山壽夫 2014 ★★


「建築」を学ぶには様々な方法がある。

実際に建築に足を運び、どの様に空間が構成されているか、自らの身体を使って理解し、細部がどの様に設計されているのかを実物を目の前にして学ぶこと。

実務について、日々行われる様々な検討や施主や各専門職とのやり取りにおいて設計を組み立てていく方法を時間の中で学び、そして自らが描いた図面が現実の世界においてどのように立ち上がるかを現場にて学ぶこと。

専門知識を身に着けるために様々な書籍に目を通し知識を深め、実務能力の向上と共にそれらの知識の見えなかった部分が違った意味で理解できるように本での学び。

そんな「本」の中でも、学問としての建築の素晴らしさを学んだのが、学生時代に何度も何度も読み返し、線を引き、出てくる建築を別の書籍で調べた「建築意匠講義」。今でもたまに見直してみるが、その度に当時の自らの思いを嗅ぐ様な気持ちになれる一冊である。

その著者による最新の一冊。本を通して自らの職に対する「先生」と思える人に出会うことは喜ばしいことで、その人の本を読むことはまるで授業に出席するような気持ちになれるのもまた、息の長い職業に就いている上で、初心を思い出す貴重な時間でもあろう。

読み終えて改めて、改めて自分が選んだ職業に対しての責任を感じながら本を閉じることにする。


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/建築ー私の「プロフェッション」
自分の生涯の仕事、すなわち職業(プロフェッション)と決意し、そういう風に生きていくのが「プロ」です。

/「プロフェッショナル」とはどういうことか
建築設計の専門家としての能力によって、社会に奉仕する
「告白」あるいは「宣言」した人 聖職者
間違って用いられれば、社会を傷つけ壊す力を持つということを自覚する

/選ぶということ
人は選ばねばなりません。心を決めて、可能性の一つを選び、他を捨てねばなりません
何が成功か、何が失敗か、簡単には言えないのが人生なのです。
最終的に、自分の中で、自分に話しかけている、静かな、内なる声に耳を傾け、それによって、最後の決断をしている

/才能とは何か
基本的な手法を身につけずに、自由な表現などあり得ない
プラトン「君が、もし、建築や都市の設計者なろうと思うなら、先ず、第一に幅広い教養を身につけたまえ。なぜならば、様々な芸術家の中でも、建築家は、とりわけ広い知識と能力を必要とするからだ」
世阿弥は、能楽者になる為に大切なことは、ひたむきということだ

/屋根と柱
常に登るように作られている屋根に登ることは空しい。それは結局屋根ではなく床だからだ

/床と段
神道の最も古い形を示す、「磐座(いわくら)」が一段高いところを神の座とした

/大地と基壇
大地は常にうねり、隆起し、あるいは陥没し、変化しようとしている。その動きを抑え、静止さえ、そしてそこに水平面を作り出すことが、建築行為の出発点である。ではその水平面をどのように作り出すか。
方法は二つ 基壇を築くこと。
高床を築くこと
構築の基本
高床は大地から離れて空中に軽やかに浮かんでいる、それを支えている柱は、大地の力を受け止めていつも力いっぱい闘っている
伊勢の柱 コルビュジェのピロティ
基壇の上には、平安がある
基壇の上に立つ列柱には、永遠の安らぎと憩いが

/捧げものとしての芸術
大きな決断は個人を通して出なければできない。間違うかもしれないけど、最後は責任を持って自分で決断する。

/教会空間とは何か
シナゴーグが教会動画生み出される一つの母体であった
初期キリスト教の信者たちが作り出した教会堂建築、ふたつの対照的な平面形式に分類で「集中型」と「長廊型」というこの二つの形式は、人が集まる時に作り出す、二つの空間形式に対応している
前者を「囲み型」、後者を「対面型」
ゴシック様式長廊式の、一直線に信仰する空間の運動性を、一つの極点まで高めた
水平方向と、垂直方向という二つの運動性の、極度に強調された構成が、ゴシックの建築空間の特徴
会衆は祭壇から遠ざけられ
朗読も説明もほとんど聞き取れない
ルネサンスの建築家たちは、集中式の建築に注目し、それを復活させようとした
中心を囲んで集まり活広がる力と、中心に直面してそれを熟視する力をいかに統合する

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■目次
・建築家という「プロフェッショナル」の意味すること
 「プロフェッショナル」とは何か
 いかにして「プロフェッショナル」となるか
 「いつも喜んでいなさい」
・建築家の日常と仕事
 町の家と山の家
 人生のみちしるべ
 「内田ゴシック様式」の展開
・都市に開かれた新しい門と広場
・内田ゴシック建築の上方への展開
・ルイス・カーンの教え
・フランク・ロイド・ライトの内なる対立
・空間と表現
・建築にしかできないこと 聞き手:長島明夫
・建築の経験 建築の持続
 教会堂建築とは何か
 必読指南
・若者への問いかけ、あるいは自身への問い直し
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「教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか」 尾木直樹 2007 ★

地方の学校で教員をしている友人の話によると、決して学業が優秀なわけでもなく、かといってスポーツや文化活動に力を入れているでもなく、「高校は出ておいてほしい」という親と「高校ぐらいは出ておかないと」という生徒の思いの受け皿となっているその学校では、事なかれ主義の教師達と、教師の対する尊敬を失い身勝手な行動を取る生徒と、学校や教師に対してクレームをつけることで自らのストレスを発散しようとする保護者とで、なんとも閉塞感に覆われた状態になっているという。



その学校が特殊な状況であるということもあるだろうし、それらの教師、保護者、生徒も全体から言えば一部に過ぎないのではあろうが、それでもいつ頃からか学校と言う場の風景がかつてのそれとは確実に変わってきている印象は拭えない。

いつ頃からか、ニュースで定期的に目にするようになったのが、どこかの学校の教師の不祥事。体罰、盗撮、セクハラ、わいせつ犯罪、いじめを見て見ぬふりなど挙げればキリが無い。

それがテレビの向こうの遠い世界での出来事ではなく、自らが生活を営む場所のすぐ隣で起きていること。想像するに、このような事件や事象はかつてもあったの違いないが、それが今の世の中の様にすぐにネットやニュースで一般の人の目に届きやすい環境が無かった為ということもあるだろう。

しかし、それ以上に本書で指摘されるような学校内での「評価主義」や「成果主義」により、教師が生徒から乖離してしまうこと、また「教員」という職業に対しての保護者や生徒が絶対的な尊敬と信頼を失い、下手をすれば「自分の方が優れている」と対抗意識を燃やしてしまう。そして裏サイトの様に、本来ならば自らを反省して行動を変えるべきところを、肥大化したエゴを抑えることができず匿名のネット環境にてその憂さを晴らす生徒たち。

これらのことはすべてネットが登場し、一般化していく過程に沿って広がったかのように見える。ネットの普及によって、今まで知りえることの無かった知識や情報に手が届き、同時に今まで自分の中に隠しこんでいた欲望が顕在化されたことも大きいであろう。

同時に、本来なら教師と生徒、教師と保護者、学校と家庭というある種の信頼関係と尊敬によって成り立っていた関係が、ネットを探せばそれこそ数多もの悪い情報が見つかり、自分の鬱憤を晴らすこと、そしてその方法が目に留まり、本来なら留まっていたはずの心が「ふっ」と背中を押されてしまう。「あ、他にもやっている人がいるんだ」から、「ほら見ろ、やっぱり自分が正しいじゃないか」となるには時間はかからない。

教師側も、保護者側も、学校も生徒も、皆身勝手な考えと行動が少しづつ助長され、いつからか自分のプライドを守るために相手を傷つけて関係性を壊しても問題ないというところまで到着してしまう。始めは一点だった綻びも押し寄せる水圧に屈する様に、いつの間にか当たり前の風景になってしまう。

その場での自分のプライドを守るという短期的な満足感よりも、人生という長期的なスパンでどんな人間として成長し、どの様に周囲と関係性を構築していくのか、その重要性を学校と家庭で共有して子供に教えていく、そんなことが必要なのであろうと改めて思わずにいられない。
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■目次  
序章 病める教師―教育の現場から 
①「心の病」と教師
/壊れる教師
/「聖職者」は死んだのか
/東京都教育委員会による”いい加減のすすめ”
/確実に広がっている”教師格差”
②教師が病んでしまう理由
/押し付けられる「枠の中の教育」「型の教育」
/教師を教師でなくする「評価主義」「成果主義」
/教師間のいじめ
/現場を”無視”した教育課程と教育論議
/「過労死」も危ぶまれる劣悪な労働環境
/教師は悲鳴を上げている
/一日の残業が7時間42分

第一章 教師力は落ちたのか 
①「問題教師」はどこにでもいる
/生徒におびえる教師
/「わいせつ教師」も身近な問題
/自覚なき無責任
②「学校の常識」は非常識か
/「敬語を使えない」教師
/「身内に敬語」外部の人に隠語の使用
/互いに「先生」と呼び合う不自然な習慣
/当たり前の「気遣い」ができない
/本を読まず、言葉を知らない教師
/教師に「人間力」を
③ダメ教師の現実
/「生活科」「総合学習」に戸惑う教師
/失われた「板書」と、頼られる「マニュアル」
/流行で方向転換する「指導方針」
/「塾講師」に教え方を学ぶ教師
/子供を叱れない教師と「体罰の基準」
/「教師」を名乗れない教師
/絶対的存在ではなくなった
④教師格差拡大
/学校現場と「2007年問題」
/教員採用試験の競争率低下の意味

第二章 「逆風」にさらされる教師 
①教師と親の終わりなき闘い
/教師は「聖職」ではなくなった!?
/「困った親」の困った要求
/”ダブルモンスター化”する親
/「給食費」を払わない親が激増!
/教師をバカにする親
②時間との闘い!教育委員会との闘い!
/「セブンイレブン」と呼ばれる教頭職
/”調査漬け”にされる教師
/”いじめ隠し”報道が生み出す悲劇
/教育委員会は学校の見方か、敵か
/授業意外にも教師たちには仕事が一杯
/教師の人間関係を壊す「評価システム」
/学校の「組織改革」が教師と子供に与える影響
/現場教師の「切実な声」
/それでも、教師はやめられない
③子供を教師から奪う改正教育基本法
/教師は”法令執行人”か
/求められるのは、子供の”調教力”か
/”新たな足枷”はもういらない

第三章 教師の条件 
①教師と言う仕事
/「学校教師」と「塾講師」の違い
/「校務分掌」の大きな役割
/見直すべき「学校力」
②教師像の現実と理想
/「いじめ自殺」と教師の姿
/教師がいじめを招く
/親たちが教師に期待すること
/好きな先生の条件
/緊張感あふれる関係
/「同僚性」「共同性」崩す、目標管理型評価
/「企業ごっこ」の学校現場
/”現場離れ”の不任期評価システム
/学校現場は「教師の大学院」
③何が教師に求められているのか
/理想の教師像
/子供の目線
/こんな先生が好きだった!
/こんな先生は嫌いだ
/子供が認定する「不適切教員」
/今、学校と教師の役割を捉えなおす時

第四章 「教育再生論議」に見る、教師の未来 
①動き始めてしまった!教育再生会議
/誕生と共に見えてきた、教育再生会議の方向性
/教育再生会議が示す「提言」と「緊急対応法」
/世論とのギャップ?
/教育再生会議の方向性
②「教員免許更新制」の問題点
/早急に必要な「問題教師の排除」
/教員免許の更新性への疑問
/「問題教師」=「指導力不足教師」とはならない
/莫大な税金投入への「見返り」とは
③「いじめ問題」への処方箋
/教師同士がいじめ解決の相談をしない理由
/成果主義は「教育現場の財産」を奪う
/いじめの「第三次ピーク期」
/いじめの「隠蔽体質」を育てた元凶
/「いじめ問題への緊急提言」とは
/教育再生会議の「緊急提言」に対する筆者の緊急提言
/国家レベルの会議から説教、注文
/後退する「国民の教育権」
④「学級崩壊」「ゆとり教育」への誤解を解く鍵
/教職員団体と”同僚性”の相関関係
/「学級崩壊」を防ぐために必要な”同僚性”
/「授業時数アップ」に関する誤解
/「子供抜き」で語られてきた教育論
/教育現場の「絶望的状況」を救うもの

第五章 「教育再生」への提言
①ビジョンが見えない「教育改革」の扉
/教育再生に「対症療法」はない
/「失われたビジョン」を求めて
/国よりも明確な「親の子育てビジョン」
/「競争」ではなく”共創”を
/現場教師による「子供の学寮」の受け止め方
/作られた?「親たちの不安」
/「学力向上」という大目的
②現実に押し寄せる「教育格差」
/「家の経済状態」と「学力」の関係
/”上流層”の教育観
/「習熟度別学習」の問題点
/習熟度別学習は「差別」と「指導力低下」をもたらすか
/「学校選択制」への疑問
③「教育再生」は必ずできる
/「教育改革」に求められるものは
/教員志望者がいなくなる?
/「現場のパワー」を活かす条件整備を
/国と教育と予算の関係
/教育は「商品」ではない

おわりに
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2015年5月9日土曜日

対話の相手を持つ幸せ

年齢に応じ自分が話したい相手を、自分が思うように受け取り、対話が可能な相手がいることは幸せな歳の重ね方なのだと改めて思う。

人間、歳を取れば取るほど、色々なことを経験し、色々なものを学び、色々なことを考えてくるものである。当然、その過ごした時間によって、自分の意見や考え方もできてくる。真面目に生きていれば生きているほど、自分が過ごした時間とその間に考えたことを今度は誰かに語って聞かせたくなるものであろう。

その聞かせる相手というのは、学校で先生と生徒という関係であったり、会社で上司と部下という関係であったり、家庭で夫婦や子供との間であったり、または友人間でのやり取りであるかもしれない。

もっと多くの人に聞いてもらいたいと思う欲求を向ける先は、現代であるならば、ブログでつづる文章になったりすることもあるだろう。

しかし、もっと多くの人に読んでもらいたいと思う人、もしくは周囲からその貴重な知識や考えを世の中に広めるべきだと声がかかる人には、やはり今までの様に、講演や書籍という形でその考えが世に広まっていく。

歳を重ね、社会的地位が高まれば、自分が考えていることを本という形で世に出すことがより容易になっていく人もいるのであろうが、本当に幸福なのは自分が伝えたいという内容を、自分が伝えたいと思う相手、もしくはそれを正しく受け取ってくれるであろう相手に向けて発することが出来ることだろうと思わずにいられない。

そのタイトルに引かれ手にとった本も、読んで見ると「これをわざわざ世に発する必要が本当にあったのか?本にする必要が本当に重要だと著者が真剣に考えていたのか?」と思うような内容の本に出くわした時の失望は相当に大きい。

夫婦でも、職場でも、友人でも、自ら年齢を重ね、自ら積み重ねる経験や知識に比例して、思考する内容を共に共有し、対話を重ねることのできる相手が身近にいる。そんな歳の重ね方をしたいものである。

2015年5月8日金曜日

身勝手な運転と分銅

この国の運転マナーは本当に酷い。「悪い」というレベルではなく、「自分以外にも運転している人がこの道路にはいる」という事実を全く無視したかのように、「この道路は自分しか使っていない」と言わんばかりの運転が本当に多い。

運転していると突然横の車線で走っていた車がウインカーを出さずに車線変更をしてくるなんていうのはざらにある話である。その際に後ろの車がどんな速度で走っているか、どの様な動きをしそうか、などという気遣いなどは皆無であり、ただただ「自分が車線変更をしたかったからした」というレベルの行動である。

走っていた車線のさらに外側に路上駐車してある車がいて、それを避けるために自転車用車線を走っていた自転車や電気自転車が車道にはみ出してきたからそれを避けるために急遽車線変更をせざるを得なかったのかもしれない。

若しくは、さらに外側を走っている車がこれまたウインカーも出さずにいきなり車線変更してきたからぶつかるのを避けるために否応なしに車線変更をする必要に迫られ、ウインカーを出したり、後方確認をする余裕がなかったのかもしれない。

そんな「・・かもしれない・・・」と希望的観測に立った捉え方をしてもそれが何十回続けば「そんなことはなく、ただただ自己中心的な行動なだけである」という結論に達するには十分である。

自分の身勝手な行動が、他の人にどれだけ危険な目にあわせたり、煩わせたりするかは全く考えない。それがここの基本のようである。

そんな身勝手な行動が、周囲の車を危険に併せたり、煩わせたりするだけではなく、局所的に不必要な渋滞を生じさせ、それが積もりに積もり全体的な慢性的渋滞に繋がっていく。各自が少しだけ「どうぞどうぞ」と周囲に気を遣うことができれば、全体としてなんとかバランスを保つことができるのだろうが、誰もそんな献身的な心は持ち合わせていない。

そんな訳で自分勝手な運転で、周囲に迷惑をかけ、それを省みない様なドライビングを見ると、なんとか報いを受けてほしいと思ってしまう。真面目に生きている人間が馬鹿を見る社会はやはりおかしいはずである。

かつて学校の理科の実験で使った秤。それに乗せる精密分銅。

それを大きくして、あたかも「キング・ザ・100トン」な巨大な鉄の錘が空から降ってきて、身勝手で周囲に迷惑をかける運転をした車を「自業自得」と「くしゃり」と潰していく。そんな妄想を膨らませることでなんとかこのストレスを自らの脳内で消化することで、なんとか心のバランスを取ることにする。

2015年5月6日水曜日

「ルーズヴェルト・ゲーム」 池井戸潤 2014 ★

さすがに売れっ子作家といえども、毎作毎作フレッシュなアイデアが浮かぶはずもなく、それでも作品を出し続けるにはやはりある法則が必要となってくる。そしてそれがこの作家の場合は

①中小企業ながら非常に高い技術力を持っている
②プロフェッショナリズムを失い、数と規模の力を振りかざす大企業に攻撃される
③経営、職場、家庭など異なる場面で同時に危機が訪れる

と言ったところだろうか。

「社会人野球」という一年のある時期に必ずスポーツニュースで流されるその存在。ほとんどの人にとってはそれはあくまでもテレビの向こう側の存在で、自分の会社にテレビで聞くような強豪野球部を持っている企業は少ないのではないか。

そんな自分には全く接点の無い世界だが、同時に自分の働く会社に、時間の余裕のある週末に「自分のチーム」として応援に行ける、そんな野球部がある。そんな生活も悪くないだろうと思ってしまう。

そんな多くの人からの絶妙な距離感にある企業における社会人野球を切り口にし、「一番おもしろいゲームスコアは、8対7だ」というルーズベルト大統領の言葉をタイトルにして、中堅電子部品メーカーが社員の結束力と技術力を武器に大企業を最終的にはやっつける。

十分キャッチーな要素を持ち、さらに「半沢直樹」の大ヒットの後に同じ作家の作品とすれば、テレビ局はどうにかしてドラマ原作として使いたくなのだろうか。

しかし企業野球部員の会社における存在の在り方や、企業にとって収益を生み出さない野球部を抱え続けるのはどれだけの費用となるのか、どんなところでもより良い条件に移っていく人がいれば、条件を超えた何かで残る人間がいることなど、十分すぎる人間ドラマは散りばめられているが、やはりパターンを知った読者にそれを超える驚きと喜びを与えるにはいたっていないというのが多くの人の感じるところではないかと思わずにいられない。

2015年5月2日土曜日

ひたすら繰返される締切

アメリカで進めている美術館のプロジェクト。大きな建築プロジェクトではプロジェクト・マネージメントが非常に厳しくスケジュールを管理するアメリカ方式にそって、基本設計の締切が近づいている。

その為に毎日毎日、多くの締切がのしかかって来る。建築という仕事の性質柄、図面を描き始めるまでの調整作業は恐ろしいほどの手間と時間を奪っていく。クライアント側の要望、現地組織事務所との調整、ランドスケープとの調整、構造、設備、消防、行政、周辺施設、交通、雨や雪対策、安全、管理、等々。

そしてそれらの調整を踏まえた上で平面図、断面図等々の図面の調整と、3次元模型の修正となり、議論された部分すべてのポイントに対してその意図を反映した図面の変更が行われているかどうかのチェックをすることとなる。

何人もがそれぞれの担当パートの図面を描き、それぞれに相違の無いように綿密な内部でのコミュニケーションを図り、各自が主観的に理解した修正内容を図面という客観的なメディアに反映する作業で発生する認識の齟齬を潰していき、内部にて意思統一のできた図面に仕上げるためにはそれだけでもものすごい時間と労力が必要となる。そしてその為に最も必要なのは繰返すチェック作業。

それを各協力会社に送り、今度は外部との齟齬をなくしていく作業。もちろんその調整作業の中で、前日決めた内容が変更になるなんてことはざらであり、何の惜しげもなく再度の修正が必要となる。先ずは修正をしない限りこの更なる問題点は浮かび上がってこず、その為に無駄をなくすために図面の修正を減らすことはどうしてもできないという訳である。

そんな訳で、CD、SD、DDと呼ばれる各設計ステージ毎にどうしても避けられないこの永遠に続くと思われる修正の繰り返し、チェックの繰り返しの時期が訪れる。体力も疲弊し、精神も磨耗するこの期間。必要なのは一つのミスも見逃さない注意深さ。できるだけ心を落ち着かせ、嵐が去るのを待つように日常を過ごすようにと心がける。