2010年12月31日金曜日

S邸 MAD 2010

















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S邸 MAD 2010
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所在地  東京都渋谷区
設計   MAD
竣工   2010
機能   住宅改修
担当  二ツ木、新井
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銀座に明治元年から営む老舗の呉服屋さん。その女将さんの御自宅の改修工事の設計をさせて頂き、なんとか年内に形になった。

少し前のカンブリア宮殿の銀座特集でも出演され、本物の着物を伝えていくというコメントそのもので、本当に質の良いものとは何かを教えていただいた現場となった。

高齢ということで、寝室を一階にもって行き、全ての生活空間をワン・フロアにまとめ、再度生活の形を見直すということで、引越したいただくことはせず、犬も一緒に居ながらの生活の中で、順々に進めていくという方式。しかも木造の改修ということもあり、壁を開けてみないと分からないことも重なり、当初予定から大幅に工期を延長しての現場となった。

宮脇檀の言葉ではないが、図面で説明しても、一般の人には何が何だか分かるはずもなく、模型を使って説明するのとあわせながら、ほとんどが実際に作ってみながら検証をするという流れになり、目線の高さや上下動の不自由さ、食器の多様さなど、圧倒的に多くの時間を重ねてきたお施主さんに、どれだけ自分の身体を投影して、数ミリの単位を決定していけるか、そんなことを勉強させていただいた、建築家として、そして一人の人間として、とても意義の大きな経験をさせていただいた。

喉の奥にひっかかる魚の骨のように、少しの不満でも残って使用していったもらうよりは、どんなねちっこくでも、どんな時間がかかっても、お施主の要望はなんとか受け入れ、さらに良い提案を出来なければいけないんだと、身にしみて感じることが多かった気がする。

生活を共有させていただくといくことで、アルバムの整理なども一緒になって生活の中に入っていくと、GHQの前で日本舞踊を踊った時の写真や、東京大空襲の焼け野原の実家に一つ残ったカップなど、本当に良質なものに囲まれた濃密な時間を過ごされてきた人たちから、様々なものを教えていただいているんだと思う。

偽りのない、肌触りの良い空間にという思いを込めて、床・壁・天井全て木で仕上げ、不純なものを出来るだけ排除しながら、大きな大きな一本の木から抉り取ったような空間を考える。一本の光として天井をなめる照明と、突きつけで強引に貼ってもらったシハチのシルバー・ハートの効果が良く出て、寺社のような優しい広がりのある天井の下にいると感じる感じの良さは、どうにも写真には写りにくいと頭を抱える。

3階の子供部屋の改修では、秘密が隠されてるような屋根裏部屋にしたく、南から暖かい陽が差し込む、白いアティックとして仕上る。足の裏の、無垢の桐のフローリングの白さにどのような時間が刻まれていくのかが楽しみだ。

あるべきものをなくし、全てを白く塗りつぶすことで、なんとなくモダンな雰囲気をだすことから距離を取り、大工さんとお施主さんと一緒になって考えて、お施主のこれからの10年を許容することができる、陰影のある空間として、よい時間を作り出す空間になればと思いを馳せる。





























































































































年賀状 > 断捨離

2010の暮れまでかかってしまった住宅の改修工事。そのお施主さんでもある80を越えるご夫婦。住みながらの工事ということで、現場にいるとその生活の一部を共有させていただくことになるのだが、年末にもなるとテーブルの上に積まれているのは400を優に超える年賀はがき。

一般の年賀はがきではなく、通常のはがきに一枚一枚丹念に墨と筆で送り先の住所と名前を達筆な字で書かれ、そしてまた一枚一枚思いを込めて選ばれたであろう綺麗な切手を丁寧に貼っていかれる姿を目にする。まるでそれが当たり前の風景のように振舞うその姿に漂うのは人生の厚み以外のなにものでもない。

昨今流行っている「断捨離」なるものは、日本人が普通に行っていた年末のこういう姿に他ならないのではと思わずにいられない。年の暮れの大掃除で、身の回りを整理し、一年を振り返りながら片づけをし、それが終わったら煩わしさを感じながらも、少なからぬ喜びを感じつつ家族と一緒なって、この一年、いろんな人に出会って、お世話になった時間を振り返り、今年はあの人に会えなかったけど来年はぜひ会えるようにしたいとか、あの人は元気にしているかな、と思いを馳せながら年賀状を送る人を考え、今年はどんなデザインにしようかとうさぎのつぶらな瞳を見つめながら頭を悩ませる。

住所や苗字が変わったことの報告や、家族が増えたり、仕事が変わったりすることの連絡。自分が自宅の住所を知っている人の数の少なさに驚き、煩わしいけども、せめて宛先と一筆くらいは手の痕跡を送り届けたいと思って、毎年のように大晦日ギリギリになりながらも、腱鞘炎と格闘する。

どちらか一方が返さなければ、頻繁に住まいが変わる現代では、そのやり取りは簡単に途切れてします。だからこそ、一年会えなかった人でも、周りの大切な人には必ず一枚の便りが届くようにと筆を走らせる。

メールのワンクリックの軽さでは、決して越えることの出来ない5グラムの重さ。まだまだ薄いが自分なりの人生の厚みをもった年賀はがきの束を家族と共にポストに投函するときの清清しさを感じ、2010を締めくくる。

2010年12月30日木曜日

所沢聖地霊園礼拝堂 池原義郎 1973 ★★★

















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所沢聖地霊園礼拝堂 池原義郎 1973 ★★★★
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所在地  埼玉県所沢市
設計   池原義郎
竣工   1973
機能   神社周辺施設
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2011の方向性を確認するために、2010最後の建築巡礼に選んだのは所沢。先日の講演会でこれは今年中に見なければと痛烈に感じた池原先生の所沢の礼拝堂。2010も残り2日となった、極寒の冬空の下、航空公園を脇目にひたすらスケールのやや大きめで美しい一本の並木道を歩く。

霊園というお墓のスケールの中に、非常にモニュメンタルに大地からそそり立つ礼拝堂を眼にすると、久々にかなりの高揚感を感じられる。雨と予報されていた天気模様だったが、現地に着いたとたんに雲間から太陽が顔を除かせ、とてもよい感じに陽をさしてくれた。

年の暮れ、家族での御墓参りの人々にまぎれ、入り口の鉄を捻った門扉に興奮を覚え、雁行させながら、大地からそそり立つ丘としてのボリュームを左に、大地が裂けるように立ち上がる擁壁を右に見ながら、目の前に待つのは大地から湧き出る泉としての手水。前方後円墳のような形態の泉には残念ながら水が枯れてしまっていたが、そこまで来ると左のアプローチの先に、礼拝堂と納骨堂の二つのエントランスが、木と鉄とでしっかりと区切られ、そこに暗喩される生と死の入り口をはっきりと示してくれる。

納骨堂への非常に重い鉄の扉を開けて、石板の道を進むと、左手に触手の様に、また植物の枝のように、不整形に伸びた納骨スペースが設けられている。突き当たりを右におれると、その先に待つのはH鋼で吊られた一枚ガラスの境界線。その先はスロープ状に造成された大地と、その先にある松林によって有限から無限への世界を感じさせられる。

ガラスの仕切りの横には、礼拝堂内部へ神秘的な光を誘う、コルビュジェ風の厚みを持った開口部。そこには様々な色のガラスが嵌められ、まさに内部には参拝客が一番多いと想定された、冬の正午前後の自然光が、一番美しく注がれているのだろうと想像する。

印象としては、そのレイアウトの秀逸さ。アプローチからアイストップがはっきりしており、シークエンスの中で、常に何を見るかがつかみやすく、しかも一定の視線ではなく、上下左右に視線を振らせる操作によって、動的な空間の連続となっている。そして、聖的な空間に自然な素材を適所に配することで、土に還る場所として、落ち着いた心地よい空間が創られていた気がする。

パソコンの画面では決して感じることの出来ない、手触りや風の流れ方。図面の中に自らの身体を置いて、何を見、何を感じるか考えに考えた結果の有機的なプラン。そした生身の肉体としての自らの身体を現場に置き、作る過程で投影する手の感触。建築は大地から生えていることを再確認させてくれる傑作。

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2010年12月28日火曜日

「建築の詩情」 池原義郎講演会 

先日、毎年恒例の早稲田大学芸術学校建築週間のイベントとして、早稲田大学名誉教授でもある池原義郎先生の講演会が開催された。教え子でもある鈴木了二先生との掛け合いもあり、興味深い講演会となった。

82歳とは思えないほど背筋が伸びて一つ一つ言葉を大切にしながらも、詩を詠むように感情豊かな設計手法を語られ、今井謙二先生の研究室での日々や、チラシなどに描かれる今井先生のスケッチから建築へと展開していく過程など話され、それから4つの作品を中心に話を展開された。

白浜町立白浜中学校 池原義郎 1970
オリンピック・万博と続いた70年代。学校建築まで手が届いてなかった時代に、10万円/坪で作る房総半島の先端に立つ小学校。予算は無いが、この場の景観は一級だとして、それを借景として、学校の中に取り入れようとしたスケッチ。防風林としての松林を、各教室から見えるよう地形を直し、当時流行の兆しを見せた標準設計に真っ向から対決し、時間のロスは情熱でカバーするのが教育だと学校関係者を説き伏せ、100Mの距離を二本の直線で結ぶ移動空間が卒業後の思い出になるはずだと主張する。有限から無限のものを作るのが建築で、運動場に配された支えるものを持たない柱は、実は青空を支え、そこに空間が出来て、生徒一人一人に違った空間を与えてくれるはずだと。建築の詩情というタイトルそのものの設計手法に感銘する。

所沢聖地霊園礼拝堂 池原義郎 1973
こちらも白浜から引き継がれる雑木林を永遠に昇華させる借景の建築への導入。そして何度も語られる大地の考え方。目に見える張力として緊張感を空間に持ち込み、大地から沸いてくる泉のイメージとしての手水によって人々の手と心が清められ、大地の壁としてそそり立ったコンクリートの壁はその中の空洞部にもしっかりと泥を詰める拘りっぷり。1973年日本建築学会賞受賞作。

酒田市美術館 池原義郎 1997
もともと大名不在の酒田地方には、頼朝による討伐によって、藤原京より逃げ落ちた侍達が住み着いたのが発祥という町。農家の家が能舞台として使われ、500年の歳月をかけて受け継がれてきた黒川能。日本海を通って直接京都へのルートを持った当時の豊かさを感じさせる山居倉庫。現代建築の名作「土門拳記念館 谷口吉生 1983」。そんな話で町の紹介をされて、「4つの壁」と表現されるとても美しい平面図。安田侃 の彫刻と鳥海山への眺望に誘われて、さりげなく動線の誘導をしてくれる壁に沿いながら自然に一回りできるよい美術館のように思われた。

富山県総合福祉会館 池原義郎 1999
最後に話されたのは、希望のアイコンとして何度も歴史に登場する船を想起させる形態をもつガラスの方舟。規模が規模だけに、所沢や酒田で感じられるひしひしとした手触りのようなものは感じられなかったが、やはり大胆で気持ちのよいプロポーション。


その後、鈴木了二先生の作品を見て、対談という形になったのだが、作品をじっくりと説明したいただき、感じるのはコンピュータでは絶対にできないそのレイアウト。なんとも不思議な平面形と、手触りが感じられる植物の様な平面図。散歩が大好きと仰られたように、とことん身体と感情を駆使して空間を作り出す建築家なのだと改めて認識をする。

綺麗に納める能力よりも、心の届く空間の詩情を持つことがいかに大切か、それを感じに、何とか年内に所沢には足を運ばないといけないと、楽しみを増やして会場を後にする。

グーグル浴

ガスや水道、電気。そんな生活を支えるインフラストラクチャー。ネットというよりも、グーグル自体が現代のインフラストラクチャーになりつつあるのでは。

そんなことを思い、昨年のこの時期に,何冊かクラウド・コンピューティング関連の本を読み、一足先の断捨離とばかりに、一気にウェブ関連をグーグルに移行した。いろんな場所でパソコンにアクセスする生活だと、ローカルに保存する様々な情報を常に同期できるか頭を悩ませていたので、10年スパンで考えて消えることがないであろうネットの巨人の傘に入ることを決意。

ブラウザはクローム、Gメールを使い前時代的なアウトルックから全ての連絡先をそちらに移行+アイフォンへの同期、グーグル・カレンダーにスケジュールと共に、読書・映画・建築メモとしてアイフォンのスケジュールと同期させ、グーグル・ドキュメントでプロジェクト管理をし、グーグル・ブックマークに必要最低限のリンクをまとめ、グーグル・マップに行きたい建築・場所・レストラン等等をまとめて、そこからスケジュールへ貼り付け、虚空につぶやくよりもとグーグルのブログ・ブロガーで気になったことを綴る。

それまで使っていたクラウドとしてはエヴァー・ノートのみで、しこしこと建築のカテゴリー別にアーカイブしていたが、圧倒的スキャニング能力を誇るグーグルの世界をアーカイブとして使用する事でライフ・ログとして蓄積していくために、エヴァー・ノートに続くフリーミアムとして容量アップの為に課金をする。

ネット書籍が世を席巻した今年は、今までのアナログ書籍のデジタル化のビジネス旺盛とよく聞くが、クラウドの世界に入国するにはやはり自分の生きてきた時間と同じだけのとっちらかったアナログデータをどうにかグーグルの雨に浸してやらなければいけない。そんな作業にやっとなれてきたこの一年。

信用というよりも前提として存在すべきインフラストラクチャーだからこそ、それが失われた時は無力な身体を感じさせられる。今年起こった某大国と一企業であるグーグルとの摩擦。その為、現在でもなお大国国内では、グーグルで検索をするとすぐにアクセスできなくなったり、もちろんブロガーへのアクセスは全くできない。その代わりに西の横綱・バイドーは比較的スムースに動くのだが、二重国籍を取得するわけにはいかず、冷戦時よろしく、某国内に滞在するときは、息を潜めるようにひっそりとローカル環境の生活を送る。

そんな時間に書き溜めたことを日本に帰ってブログにアップする時に生まれる時間のギャップと時間軸の錯綜。それを受け入れることで、逆にゆっくりと考える時間を与えられると自分を納得させ、新しい一年を迎えることにする。

2010年12月27日月曜日

「ノッティングヒルの恋人」 ロジャー・ミッシェル 1999 ★★★★★
















I'm also just a girl, standing in front of a boy, asking him to love her.

「ラブ・アクチュアリー」と並んで、クリスマスに見るにはもってこいの一本。恐らくジュリア・ロバーツが一番可愛かった時代の作品。どんなことをしても、スターの風格が漂ってしまう彼女には、やはりスターの役が一番合うのだろう。

サヴォイ、リッツ、ビッグ・ベンといった、いかにもロンドンらしい風景もそうだが、ところどころできっちりとアイ・ストップとして風景を締めてくれるジョン・ナッシュの建物に、やはり絵になるロンドンの街並みを思う。「ロンドン―地主と都市デザイン」の作者・鈴木博之もきっと楽しんだであろう、これぞロンドン。

ポートベロー・マーケットは、ロンドンに生活を持った人なら、必ず一度は訪れたことがあると思われる超有名マーケット。一時期やたらと真似をしたAAスクールの教授が着ているような、味のあるレザー・ジャケットを探しに何度も足を運んだことを思い出す。

夏の終わりに開催される、ヨーロッパ最大級のストリート・フェスティバルと言われる、ノッティングヒルカーニバル。たくさんのサンバ隊が街を練り歩き、カリブ独特の太鼓のリズムが鳴り響き、淡い色で塗られたテラス・ハウス同様に、一日中街が賑やかに彩られる。

そんな街にぴったりの、いかにもイギリス人ぽくいちいち物言いがややこしいヒュー・グラントと、彼を取り巻くいかにもイギリス人らしい仲間達。数人でも、このように気の置けない友人と、辛いことも、楽しいことも、何気ないことも全部共有しながら時間を重ねて生きていく。そんな当たり前の時間を持つことが、一番幸せだと教えてくれる一本。
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ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラント、リス・エバンス、ジーナ・マッキー、ティム・マッキナリー、エマ・チャンバーズ、ヒュー・ボネビル、ジェームズ・ドレイファス、アレック・ボールドウィン、ミーシャ・バートン
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2010年12月26日日曜日

川越・小江戸 ★★















クリスマスも終え、今年もあと数日となった暮れのある日。半日ほど自由な時間が出来たので、山か建築かで迷った挙句、山登りの格好で建築を見に行くといく着地点で納得し、ざっと読み終えた内藤廣のちひろ美術館・東京をさらっとみて、日本でなかなか見かけないターミナル駅を持つ、小江戸・川越へと一人、足を運ぶ。

通過点でも、乗り換え点でもなくて、電車が一方向から入ってきて、溜りのできるターミナル。ロンドンのパディントン、セント・パンクラス、ウォータールーや、ニューヨークのグランドセントラル、ローマのテルミニなど、線路が行き止まりになっている頭端式。日本では高松駅など限られた場所でしか見られないが、大きな旅行カバンを抱え、自分の電車が入ってくるのを待つバック・パッカーや、キスやハグで出会いと別れを繰り返す人々。そんな場所を優しく覆ってくれるターミナルの大屋根。

せめて、東京駅くらいはそんな絵になる駅に戻してもらえればと思わずにいられないが、そんなターミナルのある街・川越。上記の世界の駅には遠く及ばないが、どんな溜りの場所があるのだろうかと浮つく心を抑えながら到着する西武の本川越駅。そこにあるのはなんともしょぼくれた駅空間・・・。終着駅は逆から見れば、始発駅で、日々、通勤と帰宅を繰り返す関東圏には劇的空間などは存在する余地はないんだと肩を落としながら駅前をそそくさと抜け出す。

初めて訪れる街では、なによりも歩くのが一番スケールが分かるというので、日も暮れた駅前から確実に参拝時間を終えているだろうと思いながらも、日本3大東照宮という仙波東照宮へ足を向ける。人口30万強というから、典型的な地方都市のサイズ通り、駅前を抜けるとすぐに住宅地へと入り、街灯も少ない道を行きかうのは、シャカシャカと音をさせるライトをつけた自転車ばかり。

まったく人気のない夜の仙波東照宮の階段を登り、ちらっと中を覗き見して、その横にある喜多院へ。恐らく川越に生活を持つ人は、後数日後の大晦日にはここに初詣に来る人が多いのだろうと思える広々とした境内。夜だが、開放された境内でお参りをして、一番街へと向かう途中に現れた杉張りの感じの良いボリュームの成田山別院を写真におさめ、寒空の下を暫く歩き、暗闇にライトで照らされた頂部のみが闇夜に浮かぶようにした現れる時の鐘に少なからぬ興奮を覚え、その先の一番街の街並みで、夜の散歩が報われたことを実感する。

ガードレール無しの石畳の道。車道は両側一車線づつ。ゆったりとした歩道を挟んで、感じの良い街灯が並べられ、土地所有の残余としての空虚のない、面としての壁による街並み。基本的に二階建てに揃えられ、ところどころ面に高さが与えられる。昼と夜、反射光か透過光か。日本建築は昼の建築だと言われるが、黒壁で覆われて、土間の奥まで透ける面の街並みでは、室内が舞台の一シーンのように浮かび上がり、声が聞こえるくらいの調度良い距離を歩ける、日本では稀に見る歩いていて楽しい道。

感じの良い路地や、面を壊さないプロポーションの良い洋館建築を見ながら気分良く駅前に向かうと、徐々にしょぼくれた商店街へと変わっていく。歩くのも、見るのも、なにも楽しくないシャッター街に残念さを感じながら、その最たるものの駅ビルに再度戻るのも忍びないので、天国の看板を脇目に、西武で来たら東武で帰ろうと川越市駅へと足を向ける。
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2010年12月25日土曜日

「永遠の旅行者」 橘玲 上・下 幻冬舎文庫 2008 ★★★★★
















「夜のピクニック」ではないが、読み終えて、もっと早く、少なくとも大学生あたりに出会ってれば、違った方向に人生が振れていたのかもしれないと思わせてくれる悔しさを感じさせるほど濃密な一冊。

名を明かされない作中の町。海に浮かぶドーム型の水槽と、内海に開放されたイルカの背が月明かりに照らし出される。その描写に、自分が足を運んだことのある場所だと気づくと、突然小説の中の風景が一変する。そんな場面が何度も登場する、とても不思議なお話。

世界にひかれた不可視のラインによって分けられた国家の境界線を、そよ風のように軽々と飛び越えて、元弁護士となることで、非居住者として納税の義務からも逃れ、「人生に意味があるとかないとか、そんなのうんざりだ」、といいながら海の見える場所を旅するPE:永遠の旅行者。

トランク一つに入るもののみが自分の必要十分な所有物だと思える軽さを持った生活に、誰もが一度は憧れを感じると思うが、それを実行するには、目に見えない国家や法といった多くの境界線をも越えていかなければいけないということを教えてくれる。

「自由な個人集まる社会は、必然的に巨大な国家権力を要請する。人は、自由になればなるほど、不自由になる。」

楽園の瑕、水族館の夜、廃墟の天使、ビッグアイランドの雪、悪徳の街、永遠の午後。と、各章のタイトルもくすぐったくなるほどのセンス。

ゾロアスター教の開祖の名前をドイツ語表記したニーチェの著書の中の言葉を借りながら世界を見つめ、「ロスト・イン・トランスレーション」でどうしようもない落ち目のハリウッドスターが人妻とプラトニック・ラブを繰り広げる某ホテルで、主人公が新宿駅の売店で買ったという本を読みながら、イギリス人作者が現代の道徳の崩壊を嘆き、現代にアリストテレスの知恵を蘇らせるべきだというのに対して、「どのようにすれば、古代ギリシャの哲人がこんなしょぼくれた時代にやってきてくれるというのか」という、とんでもなくスパイスの効いた眼差し。

大学時代を過ごしたという高田馬場。シベリア帰還兵が過ごした外モンゴル・ウランバートル。市の政策として、国・州・市から援助を受けて運営される簡易宿泊施設・ホームレスシェルターの現状を描くニュー・ヨーク。南国に雪を降らせると約束したハワイ。そして東京。

「天使を助けてくれ」と始まり、
「天使に手をだすな」と脅され、
「天使に会いに行く」と海の見える街に向かい、
「天使を助けた」と褒められ、
「天使に助けられた」と認識する。

「この世でもっとも恐ろしい真実は、過ぎ去った時は取り戻せないということ」

各分野を横断する総合知を持った作者だからこそ描け、なおかつディテールもしっかりしているからこその深みを感じることができる作品。2010の最後に至極の一冊に出会えたことに感謝する。