2010年9月30日木曜日

武蔵野美術大学図書館 藤本壮介 2010 ★★

















--------------------------------------------------------
武蔵野美術大学図書館 藤本壮介 2010 ★★
--------------------------------------------------------
所在地 東京都小平市
設計 藤本壮介
竣工 2010
機能 図書館
--------------------------------------------------------
電子書籍が世を席巻した今年。これからは本を持つことの意味が変わり、本の読み方も変わっていくのではと、鈴木了二先生と話していた。

本棚にある本が、既に読んだことがある本である必要はなく、日常の中に自分が買った本、読んだ本、これから読みたい本の背表紙が常に見えている生活。10年で生活が変わるというように、10年後20年後にまた読みたいと思える本にどれだけ出会えるか。生きてきた時間の投影、人生の中で何を感じて、何を見てきたかの投射としての本棚。そういう本棚を持てる人と、持たない人がはっきりと分かれる、そんな時代に入っていくのでは?というような話であった。そんな本の殿堂が図書館。様々な建築のタイポロジーが、時代の変遷・技術の革新と共に姿を失っていく中、図書館は依然、建築の王道の真ん中にどっしりと腰を据えている。

2009年が石上純也のKAITであるなら、2010年、建築界で最も注目された竣工作品と言っても良い図書館。日が暮れる武蔵野美術大学の奥、トワイライトの中に存在を示す提灯のように暖かい光に包まれそれは出現する。

基本的には開架書架を、のの字のプランで構成することで、単調に本を分類、収納するのではなく、本のゲートをくぐりながら、様々な視線で本に出会いながら、内部を散策するような建物。つまりはグルグルしながら、本の物量を感じる空間。

公共建築で必要なことは、高尚な哲学的言語を駆使しながら、批評から距離をとったり、建築以外の人にはわからないところでこの建築の良さがあるんだと、自分を守る砦をつくることよりも、シンプルで世界のどこに持っていっても通用する、言葉にする必要にない建築の力を具現化する共通言語が必要なんだろうと思う。その点では、何をしたかったのかがはっきりと分かる建築だろうと思う。

しかし荷重の問題で、上部の本棚には本を入れれない(手の届くところまで収納するということもあるとは思うが)ということで、かなり高い天井高一杯まで伸ばされ、視界の大半を占める本棚に対して、半分以下で終わる収納される本。本の物量よりも、スカスカ感の方が先にくる。加えて、美術大学ということで、建築も同様だが、そのようなジャンルでは特に本のフォーマットが大きいのだが、設置された本棚は全てが統一された標準形で、そういう大型本はどこに収蔵するのか?

ヘルツォークのバード・ネストでは圧倒的な物量の鉄に囲われる体験をさせられるが、同様な本に囲われる体験かと思うとそうでもなく、背表紙を見せるのか、表表紙を見せるのか、本には様々な面があるとういことを取っ払った一面的な捉え方によって、本棚というスケールを高さを飛ばすことで圧倒的に変えてはいるが、ただし本というモノのスケールは変わらないというところとのギャップにもうひとつ必要ではと感じずにいられない。

本棚自体が構造となっているわけではなく、間の鉄板が構造体として効いているのであれば、本棚となった柱でもなく、柱となった本棚でもなく、それはスケールを変えてもやはり建築の二次的要素としての造作本棚であるのだから、その機能を壁面以外まで染み出させるのはやはり違和感を感じずにはいられない。

外壁と一体になったガラスで囲われた本棚においても、そこにあるべき本が無く、結露の問題と共に、主体の不在を表明する負のアイコンにならないのか気になり、その横に位置するエントランスに、雨がふっていたこともあり人が混雑をし、これだけの規模の公共建築に必要なゆったりとした空間が見受けられない。

そんなことを感じながら帰り道に気通りがかった、芦原義信設計による武蔵野美術大学 アトリエ棟。グリッド上に上下二層にずらされた立体的中庭のお陰で、沢山の入り隅空間が作られ、身体で認識把握できる良いスケールの親密な空間に、多くの学生がそれぞれの領域を作り出し、アートの製作もしやすそうな、声の聞こえてくるとても良い空間に暫く佇み帰路に着く。
--------------------------------------------------------












































































































































多摩美術大学八王子図書館 伊東豊雄 2007 ★★★★


















--------------------------------------------------------
多摩美術大学八王子図書館 伊東豊雄 2007 ★★★★
--------------------------------------------------------
所在地 東京都多摩市
設計 伊東豊雄
竣工 2007
機能 図書館
--------------------------------------------------------
空想でも妄想でもなんでもいい。建築家は自分が見えているものしか設計できないと思う。

写真では絶対に伝わらない、その場に自分の身体を置いたときの感覚。その時に見えた景色。触れた時の感触。使った時の機能性。設計者が何を考え、何に悩んでその一本の線を引いたか、彼の設計過程に現れたであろう空想の中に自分もお邪魔して、一緒になって悩んでみて、そして現実に現れた空間で再確認してみる。ロールプレイングで経験値を稼ぐように、建築家は空間の体験値を稼ぐ旅に出る。その時間の濃度が設計の密度へと変換される。

という思いを込めて、月に一度テーマを持って、事務所スタッフ全員で建築を見に行くツアーを行っている。考える力の養成のために、当日の朝、それぞれが持ち寄った候補を出し合い、投票によって行き先を決める。

先日行ったのは、現代建築で図書館もしくは大学施設に絞ったツアー。訪問した先は
多摩美術大学八王子図書館 伊東豊雄 2007
神奈川工科大学 KAIT工房 石上純也 2008
武蔵野美術大学図書館 藤本壮介 2010
この数年で完成した建築的にセンセーショナルな三つの建物。

現代という枠組みの中で、比較対象を持ちながら建築を見れるのはよいことで、そこで思うのは、新しいものは0から突然10に飛ぶことはなく、積み重ねた6,7あたりから10に飛ぶという行為によって生まれるということ。そしてありそうで、無かったもの。誰かが考え付いてもよさそうだったのに、誰もまだやらなかったことを目の前にしたときに、人は感動し、そのヒントは確実に歴史の中にあるということ。

経験の差という極めて嫌な言葉だが、それが一因というのもあろうが、良質な建築を見たという高揚感を感じさせてくれたのは、やはり伊東さんの建物が圧倒的。やりたいことを押し通すコンセプトを死守する強引さも重要だが、身体に触れる部分の細かい心遣いや、全体を通しての抜き方や力の入れ方などの緊張と緩和。そしてモノとしての建築物に対する受け入れ方。

居住性を考慮し、フラットでなければいけないとレッテルを張られた床。ミース以来の近代合理性を体現する柱・梁のグリッド構成。狙いをつけるターゲットを明確にし、コンクリートのローマ時代までさかのぼる起源に迫り、アーチを経て、ゴシックにいたる空間の透明化の過程を再現するように、不均一に配置された柱より、壁梁状に伸びる横架材で、アーチの連続体のような内部をつくる。綿密な構造解析の結果か、荷重によっての応力集中を反映して配置された柱は、ユニバーサル・スペースとは違った新しい地平の上で極めて合理的な在り方をしめしているのだろう。

斜めの床にモノをおく。モノが滑る。テーブルの脚の長さが違ってくる。人がまっすぐ座れない。などの問題点でアイデアをしまいこむのではなく、面に対して法線方向に人が座れるようにするにはどうするか、そのための身体と面を接合する装置としての椅子の設置方法をピン接合の様に変更してやればよいのでは。その可動範囲は、人が斜めに活動をできる限界から導くがよいのでは、なんて極めてポジティブにアイデアを拡張し、問題を解決していく思考過程が設計の中で行われたんだろうと想像を膨らませる。

2階の書庫の荷重から導き出される1階の不均一な柱の配置。その柱が壁梁でつながれ、アーチの連続として現れる第二の揺らぎ。そして床をフラットにしないことで、歩くことによって高さ関係が変わる遠近法への挑戦。様々な問題を抱えてでも、辿り着くべきの新しい空間の良さを確信していた設計チームの覚悟。

書庫の配置という、極めて恣意性の入り込むパラメーターを入れ替えることで、最終過程がガラッと変わるであろう冗長性の中の設計。その繰り返される往復運動を受け入れ、あまたある可能性のなかで、必ず行われたであろう、これが美しい、という決定の瞬間。

外部に一つも見えてこない設備の姿や、驚くほど静かな室内の音に関する考え方にも納得し、美しい階段を降りながら、やっぱり伊東さんは凄い建築家だと思い、次の建物へと足を運ぶ。










































































2010年9月13日月曜日

「現代建築 アウシュヴィッツ以後」 飯島洋一 青土社 2002 ★★★
















9年目を迎えたポスト9/11の今年は、本を焼くことで自分達と反りの合わない思想を公開で抹殺する「図書(ビブリオ)コースト」の問題が世を席巻することになった。この顛末を見て、やはり「現代建築・テロ以前/以後」と合わせて、二冊同時に9/11に読むにはもってこいの一冊である、飯島洋一のこの作品を思い出す。

序章では、「1 列車の夢」から始まって、ホロコーストの生存者に訪れる列車画像のフラッシュバックに現れる悪夢の反復体験より、ナチは鉄道を使って犠牲者達を絶滅収容所に「輸送」していたことから、産業革命と強制収容所は不可分な関係であるとし、身近で、日常的なものであるがゆえ生まれた「歪み」で物語りは始まり、「2 時間のギャップ」では、「潜伏」「遅延」「回帰」と、「生きる為」に「忘れていた」記憶の在り方を明確化し、人類の「二つの忘却」へとつなぐ。そして「3 持続的時間の建築」で、2001に完成した『ホロコースト・メモリアル』の設計者であるピーター・アイゼンマンの作品の批評へとつなぐ。

ジャック・デリダと共同した『ラ・ヴィレット公園』コンペ案では、垂直の「モニュメント」(構築性)をまず水平に転倒させ、次に砕いてみせた「モニュメントの不可能性」を読み、ベルクソンの時間、「客体の時間」(継起的時間)と、「主体の時間」(持続的時間)の二つを織り交ぜた主観的な時間を経験させるものとしてのモニュメントを読み解く。そして「4 復古主義」では、シンケル設計の劇場『シャウュピールハウス』1821を経て、「5 メモリアルの行方」で、アドルノの発言「アウシェビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」が建築界にどのように「回帰」してきたかを見せる。

第一章では、「悪霊の列車 ルドルフ・シュタイナー」とし、「1 悪魔の花嫁」からゲーテアヌムの設計者である、ルドルフ・シュタイナーの今日的な意味を考え、「2霊的な機械」同時期に現れた未来派のマリネッティにも好まれて引用された「機械」のイメージ等に見られた同時代的な感覚を、ベルクソンの『時間と自由』で指摘される、凝固した感覚と流動的な感覚という二つの感覚と対応させ、さらに「二つの空間」に対応した物質的な空間(現実)と内的な空間(魂、霊)の表れとつなげる。

「3 魂の戦場」では、多く引用される多木浩二の『都市の政治学』より、コルビュジェのユートピアを「生の都市」とし、その対極にあるアウシェヴィッツが「死の都市」であったと引用する。「4 トランスフォーメーション」においては、再度ウィーンのアウガルテンに残るナチスの要塞の廃墟、フリードリッヒ・タムス設計による四角いレーダー塔と円筒形の砲撃等とがペアで、合計三箇所に六基の負の遺産が、そのコンクリートの厚みゆえに破壊不可能を持つことから、意味を剥ぎ取られた建築の死へとつなぎ、ハンス・ホラインの「死」1970 展覧会や、『トランスフォーメーション』に見られる、肥大化した廃墟を解説してゆく。

「庭が消えた エコロジーとアウシュヴィッツ」では、「1 気球生態系という庭」からロシア文学研究者である、ドミトリイ・セルゲーヴィッチ・リハチョフの『庭園の詩学』から、隠された象徴体系や隠されたイコノロジー的様式が意味をもたなくなった19世紀半ばに「庭が消えた」という言葉を引き、世界の縮図としてのルイ14世の「ヴェルサイユ宮殿」に見え隠れする異国趣味=異国支配の構図を読み解く。「2 エコロジーとアウシェヴィッツ」では、ナチスがエコロジーに執着していたという事実より、著者が感じるという地球生態系保護に隠される、どこか「死」の臭いを解説する。

「危機の時代の表現 マニエリスムの建築」では、マニエリスムは危機の時代の表現と定義し、「1 酸素のパフォーマンス」から、ディラー・スコフィディオの作品に見える身体の表現を見つめ、「2 空気の飢餓」で、彼/彼女の作品に見られる内的な「穴」を、現代の精神的危機の「穴」と重ね合わせようとしている態度を読み取り、「3 世界の学習の破綻」では、「呼吸」するという行為が休み無く「世界」とコミュニケーションの回路を結び合い、流通し、関係しあっている、という意味合いを明確にし、「4 強迫観念」では、コープ・ヒンメルブラウとエドゥワルド・パオロッツィの作品に見られる、「穴/空虚」を描き、「5 環境破壊と酸素欠乏」を経て、「6 「第二の地球」という妄想」」で、人工化された「第二の地球」としての、「バイオスフィア2」まで展開する。

続く「サイバーの息子 近未来都市の建築」では、「1 サイバーパンク・アーキテクチャー」として、マーコス・ノヴァク、マレーヴィッチ、シュルツェ=フィリッツからレベウス・ウッズまでをざっと並べ、「2 サイバースペース」でマイケル・ベネディクト『サイバースペース』を引き、「3 サイバー=ベルクソン」では、ベルクソンの「持続」という概念を引っ張りだし、「4 宇宙的霊魂」では、同じくベルクソンの『物質と記憶』から、現在とは「私の持続の中で形成途上にあるもの」という彼の言葉を引き、「5 進化の流れ」、「6 人類愛」、「7 スキナーの部屋」、「8 アンチ・フォルス」で、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』からオイディプス三角形から「区別する座標」を与えた影響としてのグレッグ・リンを紹介し、「9 新しい神」では「どこから」撮られているのか、距離が定かではなく、それゆえに機械である衛星が、「神」と比肩することになる、アンドリュー・ホームズ「TVXS」の作品を紹介し、「10 創造的進化」として、20世紀は「複数の時代」、「分裂と非対称の時代」、「複雑さと多様性の時代」としてこの章を終える。

「世紀末のミュージアム 「ユダヤ博物館」 と 「テート・モダン」」では、「1 世紀末の建設ラッシュ」で、20世紀末から続く世界中でのミュージアムの建設ラッシュから、「20世紀」的な事情を読み取り、「2 二つのミュージアム」で、ユダヤ人博物館とテート・モダンに見られる、20世紀とはどういう時代だったのかを21世紀へと強く伝達する構えを紹介し、「3 潜在的な建築」において、再度、多木浩二の『都市の政治学』の中のビルケナウが死の都市であり、焼却炉がこうした都市の中心をなす建築だったことを紹介し、20世紀の「負の遺産」と「正の遺産」を描く。

「二十世紀のスペクタクル 閉鎖生態系について」では、「1 世紀末の楽園」では、人類のすでにあるものを「もう一つ」つくろうとする欲望から、18世紀の温室建築、19世紀の「クリスタルパレス」を経て、20世紀の「バイオスフィア」へつなげる。

「エリック・ロメールの庭 映画の建築/建築の映画」では、「1 郊外と市内」で「ヴェルサイユ宮殿」に対して、ルイ14世が市内に整備した「ルーブル宮殿」との対比として、リカルド・ボフィールの二つの作品を並べ、続いて「2 二つの首都」で、同様に、コルビュジェがパリの郊外と市内の両方にわざわざ一つずつ計画した理想都市、「300万人の現代都市」1922と「プラン・ヴォアザン」1925を比較し、シュペーアのベルリン大改造「ゲルマニア計画」まで拡張する。「3 夢の中の庭」では、ベルナール・チュミの「ラ・ヴィレット公園」に見られる入れ子構造から、パリの構造を見て、そこから「4 シネグラム都市」チュミとロメール共通項である映画的な作品としてつなげる。

「ベルリンはどこへ行くのか 新首都の意味するもの」では、EUのモデル都市としてのベルリンと見、、「ベルリンの 「図書館」 ビブリオコーストについて」では、ハンス・シャロウンの「国立図書館」の「記憶の重さ」と比較し、本が一冊もない図書館としてのミシャ・ウルマンの作品に潜む、「焚書事件」、つまり本を焼くことで自分達と反りの合わない思想を公開で抹殺する「図書(ビブリオ)コースト」を見て、 「うわさの起源 風説となった建築」でロラン・バルドを経由し、「ナチスの廃墟 ウィーンの要塞建築」でヒロシマの原爆ドームを覗けば都市の中に残されない日本に比べ「破壊不可能」なナチスの要塞建築と共に生きるヨーロッパを引き、鈴木了二の「絶対現場1987」に見られる、破壊の時間を意図的に遅延させ、通常の場合の壊される速度との差異を明らかにする態度を見せる。「地下は自然を排除する ベルリンの総統地下壕」においては、「自然」がことごとく排除された総統地下壕から、地下に見える排除の論理と「地下鉄サリン事件」が地下で決行されたことをつなぎ、「シンボルとなった建物 「ライヒスターク」 の数奇な運命」では、ノーマン・フォスターによる増築されたドームに宿命的な政治の臭いを被せ、「最後の建築 アルド・ロッシの遺作」では、既視感としてのデジャ・ヴュ対語としての、ジャメ・ヴュ、つまり「未視」を連想する。

「死の工場 アウシュヴィッツ以前/以後」では、「1 20世紀のビルディング・タイプ」で古代には神殿、中世には教会があったように、20世紀のビルディング・タイプとして工場を挙げ、「2 死を内包するビルディング・タイプ」でもう一つの死の工場として、アウシェビッツにつなぎ、ハイデッガーの絶滅収容所を「死体製造所」と呼んだ言葉と、ハンナ・アーレントの「死体の製造」を引く。そして、1977のポンピドー・センターでまるで工場のような美術館の出現を迎える。

「有名な機械 エッフェル塔」では、ロラン・バルト『エッフェル塔』から、「2 空虚な記号」で人間が絶えず何らかの意味を注ぎ込むある形式の役割を演ずるエッフェル塔の歴史を読み、「3 「もの」への還元」で、写真家アンドレ・マルタンの作品に、「もの」にすりかわたたただの機械に過ぎない、零度の状態を見る。

「現代アメリカを体現する建築家 フィリップ・ジョンソン」では、「1 第三の道」から「2 奇妙な傾斜」と、キュレーターから建築家として、20世紀の建築界のフィクサーとして活躍したジョンソンの変遷を追い、「3 抵抗の時代」で「ホワイト&グレイ」論争を経て、「4 ポストモダニズム」でマイケル・グレイブスの「ポートランドビル」に並ぶ世界的な意味の先駆的ポストモダンとしての「AT&Tビル」を紹介し、「5 ジョンソンとは誰か」で脱構築的な作風を経て、「ライト・コンストラクション」展覧会まで企画し、20世紀の全ての様式を一人で駆け抜けたジョンソン論を展開する。

「古代への回帰 リカルド・ボフィル」では、「1 ボフィルの複雑さ」「2 二重論」「3 古代への回帰」と、記号的な様式の折衷者としてのボフィルの作品を紹介し、その中にスペインとカタロニアというボフィル自身の二つのアイデンティティーを見出す。

「救済の行方 ロシアの建築家たち」では、「1 ペーパーアーキテクト」「2 輪廻転生」とアレクサンドル・ブロツキーとイリア・ウトキン、ミハエル・ベロフ、ユーリ・アヴァクモフの作品を紹介する。

「天と地をつなぐ階段 ライムント・アブラハム」では、「1 天と地の家」「2 天と地の再会」「3 意識の階梯」と陰鬱で終末的な雰囲気を出す、グラーツのライムント・アブラハムの作品を見ていく。

アイフォン片手にメモを取りながらの読書だが、さすがにこの分量だと左肩が痛くてしかたなくなりつつ、9年前の9/11に想いを巡らす。

2010年9月9日木曜日

「光のドラマトゥルギー―20世紀の建築」 飯島洋一 青土社 1990 ★★★★★
















9/11の近づくこの季節になると、どうしても飯島洋一を思い出す。
15分の間をおかれて、全世界にライブされることになったツインタワーの破壊。そこから、エッフェルのシュミレーションから、アウシェビッツ、シュペアーの光のドームと常に死と破壊というテーマを反復しながらも、近現代の建築史を読み解く一連の建築批評を継続的に世に出す人物。
タイトルのドラマトゥルギーというのは、ドラマの製作手法、作劇論、演劇論という意味で、つまり光がどのように20世紀の建築のドラマを演出するのに使われてきたか、という内容になっている。
1章では、エッフェル塔の建設現場二階から打ち上げられた花火は、エッフェルが先端部の形態をシュミレートするために行ったのではという仮設から、エッフェル塔の完成は〈電気照明〉時代の幕開けの象徴であり〈火の時代〉の終焉でもあり、(太陽の死)すなわち近代の始まりを象徴するものであるとする。
具体的に明確な目的を持たないエッフェル塔が100年を越えて現存しえたのは、それがメッセージを持たないメディアとしての建築物であった為であり、エッフェルが設計した三つ建造物〈塔〉〈温室建築〉〈鉄道橋〉に近代建築の全てが集約されていたと発展する。
そのエッフェル塔のコンペの第二等案であった、建築家ブルデ の《太陽の塔》は、ただ一つの光源でパリを照らす、人工的な新しい〈太陽〉の創出を求めるもので、そこには昼と夜に区別がなくなり、つまり旧式の時間の概念を一挙に廃止する意図を読み取る。
〈温室建築〉の出現に、世界のミニチュア化と時間の征服を読み、〈鉄道〉というテクノロジーの存在によってもたらされた、時間・空間の新しい知覚。そして、光という〈速度〉で一つに都市全体をすっぽり包み込み、旧式の時間の概念を喪失させるとつなぐ。
《鉄道橋》に現れる、パノラマ的な水平の力学から、画面の多視点的特徴。そして〈映画〉はまさに多視点的な大衆文化の象徴とし、〈車窓〉の窓からの眺めは以前とは異なる知覚の形式をもたらし、鉄道の車窓から見える光景、風景は全て飛び散ってしまい、〈奥行き〉は完全に失われ、身体的なかかわりを絶たれ、遠近感をもまた失う経験を人類にもたらす。奥行きのない、平面化された画像は〈表象性〉のドラマであり、その後の〈映画〉を予告したとする。
《エッフェル塔》 《太陽の塔》 《温室建築》 《鉄道網》 《鉄道橋》 《車窓》 《映画》と見てきて、20世紀の中心的な建築が〈メディア〉だったとし、近代の出発点でもあるペーター・ベーレンスの《AEGタービン工場》は〈装飾性〉と細部が完全に消滅し、「猛スピードではディテールは目に入らない、シルエットしか目に入らない」というベーレンスの言葉を引用しながら、近代文明の〈速度〉の獲得こそ、建築から一切の装飾物を剥ぎ取ってしまったのだ結論づける。そして建築は、やがて四角い無装飾な箱へと作り変えられることになり、次第に〈虚構メディア〉と化してしまう。
そして第2章では〈透明〉の発見とし、レオナルドとレントゲンのX線写真の発見から、生きながらにして自らの頭蓋骨を見た人類は、新しい〈われ=我〉の発見を体験し、それは建築における鉄骨による軽やかな骨組構造〈シカゴ・フレーム〉への移行を促す。X線は透明でないものを透明としてみることによって、〈透明性〉というものを認識することが出来たとする。グロピウスを経て、透明性には多様性と同時性、時-空間の概念つまり対象の裏面、側面までを同時的に知覚し、遠近法への反逆をもたらす。同時的に見ること、対象を〈透明化〉させることは対象を同時的に移動して見るからである。
そこから加速度的に訪れる時間と空間の技術的な征服。ドイツ的な神秘性・山岳的なイメージを経て、〈山岳〉を好んだナチズム。1934、チェッペリン飛行場の党大会のシュペアーの〈光のドーム〉と次第にナチ論へと繋ぐ。
そして第3章では、〈破壊〉の意味とし1914に人類が初めての体験した近代戦争によって、もたらされた〈戦争〉と〈映画〉・〈現実〉と〈虚構〉の相似的状況。それが、人々に〈反都市とユートピア志向〉を植え付け、「確かなものは何一つない」というアポリネールの言葉を引く。
ヒトラーに見られた自己と救世主キリストとの同一化という劇的効果と、第一次大戦を再現、第二次大戦のシュミレートする〈光のドーム〉は〈メディア〉であり、〈別種の時間〉の中で生き始める人類の姿を描く。
ヒトラーの描いた第三帝国の建築は現実に見合う寸法から大きく逸脱したものばかりで、肥大により威圧を与え、ベルリン、リンツ。ニュルンベルク、ミュンヘンという総統都市を実現させる為に〈戦争〉と〈破壊〉を行使したとする。そして、ヒトラーが生きていたのはメディアの中であり、《意思の勝利》、《民族の祭典》に見れるナチの方法は、まず建築物をつくり、そしてそれを映画におさめた上で大衆にアピールする。それは、メディアは〈速度〉によって物理的な距離を越えてしまうからである。
ここから第4章・宇宙からの〈視覚〉とし、〈車窓〉によってもたらされた新しい近くと同様に、宇宙からの〈視覚〉は新しい管理のまなざしであり、それこそがヒトラーが欲しがった〈眼〉であるとする。その映像を見た人類は、インターナショナル・スタイルを創成し、遠く隔たったいくつもの地域に、同じデザインの建築が発生することになった。それは、同時的に起こり、同時的に知覚しうるメディアであるとする。こうして生み出される大量生産の根のない建築。
人類で始めて大気圏外から肉眼によって地球を眺めたガガーリンの「地球がよく見える。地球は青い。美しくて気分は非常に良い」の言葉に表されるように、宇宙からの視覚を得た人類は、地球を映像としてみてしまい、それは人々の認識を大きく揺るがさずにはいなかった。それはついに〈人間の無限化〉を獲得するに至る。建築においても、ピロティは〈移動〉可能なものとして建築を改定し、ミースによって均質空間がつくりだされる。
5章はテレビジョン・シティとし、テレビの映像によってもたらされた、意識をものから引き剥がし、イメージへと推し進める、〈内容〉から〈形式〉の時代。テレビの中の無時間性と、イメージという被膜メッセージで世界全体をくまなく梱包しようとする、世界の梱包化。
そこから生まれたポストモダニズムは、〈表層〉だけが、日々生きてゆくうえで最も価値のある世界をもたらし、表層=パッケージ(形式)とし、モダニズム建築を〈メッセージ〉で包み込み、占領してしまうスタイルだったと定義する。
原子爆弾を経て、核時代の逆説へと入り、近代建築が工業化によって、建物を現場でなく工場で作り出しはじめたという現象がもたらした、一切の〈無限化〉こそが近代の結末だとする。そして〈無限化〉にいかに抵抗するか、新しい〈土着性〉をどのように獲得するか、それがこれからの課題とする。
6章は〈CG〉からの風景とし、コンピューター、CG、幻覚的体験の世界、サイバネティックスと経て、ニューロンは生物体の中のシナプスは機械の中のスイッチ装置に相当するシナプスによって、触していない隙間を持ちながらも別のニューロンと繋がっていく様子を描きながら、生物のアナロジーへとつむぎ、これからの建築は生物=機械のアナロジーとして語られるべきとする。それは、自然と共生し一体化する有機的で生態学的なアプローチを期待する文にて本書を終える。
--------------------------------------------------------

2010年9月3日金曜日

「イニシエーション・ラブ」 乾くるみ 文集文庫 2007 ★★★



まずこの作家、「乾くるみ」という名前で、恋愛小説と来たら、どうしても「女性作家」だと連想してしまう。が、実は「男性」。そんなところからも、作家のややひねくれた性格が見えてきそうな気がする。

そして、作家は国立大学の数学科卒業という経歴の持ち主。そこからもロジカルに構築された繊細な世界観がしっかりと作品の中に落とし込まれていてとても安心して読み進められる作品を世に送り出してくれている。

そんな訳で、最後の最後に大どんでん返しが待ち受けるこの恋愛ミステリー。映画で言ったら「ユージュアル・サスペクツ」レベルの衝撃といっても過言でないだろうが、数学科卒業というとこからか、明快な種明かしが行われないまま物語が終わってしまうのもまたなかなかの趣向というところ。

ミステリー好きの数学家として暖めてきた構想だったに違いないと思われるが、これから数学に精通したミステリー作家として、より緻密に、より歪んだ作品を期待したい