2011年11月21日月曜日

「上と外 上・下」 恩田陸 2003 ★★★★★



「フリーダム」と「リバティ」の違いを学んだ中学生時代に読んでいた漫画の舞台は南米で、インカやマヤといった南米大陸の奥に忘れ去られたかのような古代文明を通して繰り広げられた物語は、若い自分に南米を十分すぎるほど冒険の舞台としての印象を与えた。

大人になってもまだまだ異国としての響きを失わない、遠い国としての南米を舞台として、中学生を主人公としてマヤ文明を描く物語となれば、何故もっと早く読まなかったのかと悔やまれずにはいられない。

「科学の進歩は必ずしも人間を幸福にするわけではない」

自然との共存のイメージとして現代文明に対して対比の位置づけで使われ古されたマヤとはまったく違った切り口で描く下の世界。

「後悔ってのは一番くだらない。人生は無為に過ごすには長すぎ、何かをしようと思えば短すぎ」

地球の裏の南米と、職人が油にまみれる日本の工場を繋げる現代のグローバル世界の描き方。

「いいか、いつも自分の手を動かしておけ。いつも動かしておけば手はお前を裏切らない。楽しようとしたり、誰かに押し付けようと思ったりして動かさなくなったら、その瞬間にお前の手はお前を裏切るようになる。自分の手を動かさなくなった奴に限って偉そうなことを言う。キチンと自分の手を動かして、なおかつそれに見合うだけのことを言っているのは相当立派な人物だと思っていい。」

アマゾンの熱帯雨林にヘリコプターから落っこちて、もの凄いスピード感で展開される新世界。生命に恵みを与える森が、獰猛な姿を見せだす夜に感じる不安を主人公と共有しながらめくるページ。

「料理というのはじっくり作るのも大切だが、時には何よりスピードが優先される時があるんだ。今にも死にそうな人がいて、一刻も早く病院に運ばなければいけない時に救急車を作り始めるバカはいない。リヤカー 担いででも運んでいかないといけない。質は悪くなってもどうしても速さを優先し、期限に間に合わせることが一番大事な時がある。何かをする時、それがどういう仕事か考えるんだ。質が大事か、速さが大事か。今やらなければならないのか、長い時間をかけてやった方がいいのか。それを常に考えていないと時間は無駄にどんどん過ぎて行く。」

こういう話を読んでいると、学校の教室で学ぶことよりも一日の冒険が与えることが如何に多いかを痛感し、冒険を可能にする舞台がどれだけ残されているのかに想いを馳せる。

「面倒がらずに自分の知っていることを説明してくれる」

描かれるとても魅力的な男たち。

「心配も喜びのうち。怒ったり、嫌になったり、そういう相手がいるっていうのも喜びの中に含まれる」

同じくらい魅力的に描かれる女たち。

「不安というのは膨れるのが速い。恐れや恐怖を吸い込み、目の前のものを何も見えなくする。」

そして何よりも中学生という最も多感で、不安定で、そして向う見ずなことが可能であった「あの時」の気持ちを見事に描き、引き込む作者。息子を持つことになったら、ぜひ中学生になるくらいに読ませたいと思える一冊。

2011年11月18日金曜日

人類史上最大の情報に晒される


インターネットがもたらしたことの最大の事象として、今まで専門家に限られていたいくつもの情報へのアクセスを一般の人に開放したということがある。そして誰でも自ら情報の発信源になれるということ。

そのことによって我々にもたらされたのは、前時代の人類が一生かかっても触れられなかった情報に一瞬で辿り着けるアクセス権。

使い方によってはそれこそ半端でない知識量を得ることができる。
願えばかなりの低年齢においてもそれが可能となる。

下手をすれば、単純に知識というくくりで比べてみると、ネットとデジタル社会と共に育つ情報処理能力に長けた若い世代の方が、圧倒的に上にいくということがそこらじゅうで起こりだしている。

ある一定の時間をかけて習得するという知識のある種の年功序列制度の崩壊。

世界中のアメリカ軍の基地をグーグルマップに採集する小学生や、ジュラ紀に存在した美しい蝶を3次元モデリングして、その羽ばたく姿をアニメーションにしてYouTubeにアップする中学が現れても誰も驚かない世界。

それがグローバル社会。

これこそ人類が手掛けた史上最大の建設物。

一歩間違えれば、全てのものが既視感を持ち、今日新しいものが、明日には古びる世界。
そこには何物も新しくなく、ただただ加速するビット数の波に晒される。

人類史上最大の情報に晒される宿命にどう向き合うか、その決断を迫られている。

2011年11月15日火曜日

東京の住宅

建築を学ぶ上で、必ず一度は夢見るのは自分で設計する住宅。

何もない状態から、施主の夢を一緒に形にしていく、その喜びは格別。そしてそれは独立して長く続く小さな建築事務所時代で、とても大切な仕事となる。その為に住宅設計のマーケットがどのようになっているのかを知っておくことは、小さな建築事務所にとってとても大切なこととなる。

ひょっとして仕事自体がないのに、探しているのかもしれないし、仕事はあるのにまったく検討はずれのところでジタバタしている。そんな可能性だってあるだろう。

書店に行けば、そんな情報をまとめている雑誌などが多く売っているが、もっと手っ取り早く調べるのには国がだしている統計。


それによると、平成22年の全国新設住宅着工戸数は 813,126戸。(ちなみに平成元年は1,662,612戸で20年で約半数に減っている)
そして東京都での新築は123,996戸。つまりは日本の新築の15%が東京で起きているということ。

では東京の状況を詳しく見るためには、東京都のだしている統計をみることとなる。それが


これから分かることは
・資金面で見るとほとんどが民間資金住宅であること。
・分譲と貸家がほとんどを占めて、持ち家は15%くらいだということ。
・隣接3県の合計とほとんど同じ数の新築が東京都であること。
・市部での新築は20%ほどで、都心3区で6%。都心10区としても24%(つまり7区で18%)、都心11区で26%(つまり荒川区で2%)。つまり市部と都心11区合わせて46%ほど。
・都心11区に入ってない区は、板橋区、北区、足立区、葛飾区、江戸川区、練馬区、中野区、杉並区、世田谷区、目黒区、大田区、品川区の12区。そこで54%ほどということ。


ちなみに
都心3区とは、千代田区、中央区、港区
都心10区とは、千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区
都心11区とは、東京都住宅マスタープラン(2001-2015)におけるセンターコアエリアに含まれる、または跨る特別区:千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区、荒川区
隣接3県とは、埼玉県、千葉県、神奈川県

そして予想によれば、今後は年80万戸、つまり前年同様の推移を辿るだろうということだ。

数字として見るとなかなか分かりづらくなってしまうが、つまりはもうかつての様に街の中で至る所に住宅の建築現場を見るようなことはないし、よほど賢く動き、実力と運を縁を兼ね備えないと、東京で住宅の仕事を手がけることは難しいが、それでもやはり新築住宅は建っていくということ。

雑誌に掲載されたり、ホームページを利用したりといろいろ方法は多岐に渡るが、できるだけそのマーケットの近くに自分を置くこと。これができることが建築家にも求められる時代だということを実感する。

2011年11月14日月曜日

空洞化する技術大国

突然使っているニコンのD-60のシャッターがおりなくなり、途中で詰まるような動きをする。

敷地視察に来たのに困ったなぁと思いながら、近くのカメラ屋を検索して修理を行っているかを確認すると、「メーカーの修理工場に送るだけです」ということ。

何軒か同様の対応を受け、イライラしながら結局新宿のニコン・サービスセンターに向かう。

レンズを外して、シャッターを押すとミラー部分の動きがおかしいのは歴然なのだが、「これは工場に送ってばらしてみて、原因を確認して部品交換になります」と。

その場でいろいろ試してダメなら納得だが、何もせずにとにかくセンターへ。ということはなんとも納得がいかない。

しかも、「技術料として一律で13,500円になります」と。
そして「修理には10日かかります」と・・・・


「団塊の世代」の退職が、技術大国日本の「技術の空洞化」を招くと、随分前に警鐘が鳴らされていたが、北京 眼鏡城の様にとは言わないが、客の要望に少しでも沿おうとして、そこで何とか直そうとする専門家としてのフレキシビリティはまったく失われてしまったのか、分業化の行く先がこの世界なのかとなんだか悲しくなった一日。

「趣都の誕生―萌える都市アキハバラ」 森川嘉一郎 ★★★













多くの人にとって、秋葉原というのは、
「電気街で部品を売っているお店がたくさん集まっているけど、オタク系の人が集まる様なお店も沢山あって、ちょっとよく分からない」
というのが一般的な捉え方だろう。それを著者は
「趣味が、都市を変える力を持ち始めたのである。」
として一連の考察をスタートさせる。
秋葉原の電気街としての成り立ちは、下町だったという歴史的な要因、東京電機大学の学生がラジオの組み立て販売を始めたという電気系専門学校が近かったという地理的な要因、そして戦後にGHQによる露天撤廃令という行政的要因が絡みあってできたが、それはあくまで需要が先行した大企業的などの介在によらない自然発生的なものだった。
その後、所得倍増計画が描いていた家庭像の蜃気楼として家電販売店が中心となるが、コジマなどの郊外型の量販店の台頭により、ガレージキット専門店の集中し、街は家族連れの街からオタクの街へと変化していく。
オタク趣味の店は目立つ位置に出るのは抵抗があり、裏通りの専門店の中に隠匿されていたものが、個室空間の都市への延長として一気に都市空間の表に躍り出る。
一般の人のオタクと呼ばれる人への視線は、「退行的で社会性に乏しく、アニメから卒業できないまま大人になった。」
「対人的コミュニケーションが不得手で現実の女の子と付き合えないから、架空のキャラクターを代償にしているのではないか」という内容のものが多いのだろうが、ディズニーオタクというのは基本的に存在しないことによって、性的対象としてのアニメ絵の存在が否定し得ないことをあげる。
アニメの王道といえる「性と暴力」、つまり「美少女とロボット」が混成してできたのが、セーラームーンなどに代表される「戦闘的美少女」。2大モチーフのキメラとしての存在。その美少女の眼は異様なほど巨大化し、それは西欧文化の影響に伴う美人観の変化と、また赤子や幼児の顔のプロポーションの特徴を兼ね備える。
そして欲望を風景としてみることができるコミックマーケットは趣味が空間を分節しているのであるとし、「すべてのサークルがほぼ同じ大きさのスペースを割り当てられて並列的に並べられる。階層性のないレイアウト」の特徴を挙げる。
ラブコメ都市東京 ―マンガが描く現代の〈華の都〉ではあらゆる街がミニ東京と化した現代においては、東京ラブストーリーに代表されるように東京は、地方出身の同窓生の再会というドライな機能のみがかろうじて残されているに過ぎず、リアルなディテールに乏しいマンガの世界は、特記なき限り東京であり、特別な場所的描写がなされない場合にそこが東京なのである。として半径1kmの日常と化した東京を描き出す。
オウム真理教の山梨県上九一色村・サティアンがデザインがほとんど施されず、工場や倉庫に近い外観を呈していたという点において、宗教建築のイメージから大きく逸脱するものであったことより、その圧倒的なデザインの欠落に対してデザインされたものに対する無力感、あらゆるメディアを駆使して信者にマインドコントロールを施そうとした教団が、建築意匠をこれに動員しなかったことへの驚きをえがく。
オタクという人格類型の呼称を定着させた宮崎勤のオタクの空間感覚。我々世代が共有するテレビに映されたあの個室の異常性。
東京という首都自体が高度成長期の頃のような進歩的な活力を失ったことの事実。現在東京に建っている高層オフィスビルのほとんどはミースの甘いコピーであり、組織設計事務所がコピーし、日本のゼネコンが移植してきた風景であり、逆にル・コルビュジェのユニテ・ダビタシオンが郊外の団地郡の風景として移植された。
東京の戦後の都市風景の第一フェーズは西新宿のような60年代的な作られ方とし、第二フェーズは民主導で渋谷と池袋に代表される西武的空間。それはテーマパーク的で無印良品という西武が作り上げた総合ブランドに代表されるようにライフスタイルそのものが街のコンテンツとする。そのモデルの標的は、ディズニーランドに変わったとする。それはロバート・バンチューリの「ラスベガスに学べ」の文脈にのっとるもので、その先にくるのが秋葉原的趣味の都市風景。この一連の流れは「官」→「民」→「個」だとする。渋谷が建物がどんどん透明化するのに対して、趣味の都市、秋葉原は不透明化するのも特徴としてあげる。
韓国などはアニメやゲームを国家的戦略産業として国をあげてのバックアップ体制をとっているが、ドラゴンボールやポケモン、スーパーマリオなどの特大の外貨獲得商品をほっておいた腰の重い日本もそろそろ動きだすようだが、あくまでもサブカルとして上から目線を取り払い、すっかり韓国勢にやられた家電に変わる一大産業へと育てあげてくれることを期待する。
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目次
序章 萌える都市
第1章 オタク街化する秋葉原
2章 なぜパソコンマニアはアニメ絵の美少女を好むのか
                 ―オタク趣味の構造―
3章 なぜ家電はキャラクター商品と交替したか
            ―〈未来〉の喪失が生んだ聖地―
4章 なぜ《趣味》が都市を変える力になりつつあるのか
             ―技術の個人化が起こす革命―
5章 趣都の誕生
6章 趣味の対立
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2011年11月12日土曜日

体育館みたいな都市

最近よく思うのは、東京は体育館みたいなものなんだということ。

つまりは、とても大きな体育館みたいな箱があって、「僕は何時から何時まで何番コートを」というように、事前に使用時間を申請して、皆その時間は好きなように使ってお金を払う。

その時間が朝の9時から夕方の17時の人たちもいれば、明け方の2時から朝6時までの人もいて、使う場所も、堂々と真ん中のコートで大人数のスポーツをする人もいれば、夜の遅い時間に一人でやってきて、隅っこのところに机を並べてフィギュアなどを作っているような人もいるだろう。

その風景というのは、結局その人からの風景しか無くて、全体を見ることは不可能に近い。池袋でバーを経営するバーテンの見ている東京は、同じ間に渋谷のセンター街にたむろする若者の見ている東京とも違うだろうし、その東京に登場する人物たちもまた違ってくる。

それぐらい東京というのは大きい、メガロポリスというのは掴みどころがないということであるが、これが例えば熊本や広島あたりの都市ならば、もう少し総体として、自分がこの都市のどこに位置して、どのような役割を演じているか、それがなんとなく掴めるそんな気がする。

それがサイズの問題なのか、大きなの問題なのか、システムの問題なのか、それは考える必要があると思うが、とにかく東京は大きく、いくつもの東京が内在している。

そんな体育館としての東京。壁かな?と思っていたところに、ひっそりドアがついていて、そのドアには関係者以外立ち入り禁止と張り紙が・・・・

そんな風に、誰もが自由に公平にいつでも使えると思っていた体育館の中に、大きなスペースを占領して他の人が入ってこれなくしてしまって、自分たちだけで独自のシステムを作り出しているグループがいるみたいなものだろう。

都市の自由な風通しのさえぎる厚いコンクリートの壁を立ち上げ、巨大都市の生み出す巨額の利益の大半を吸い取り、その隠された秩序が見えないようにひっそりとそこにいる。そして残ったスペースは好きなようにつかっていいよと言わんばかりに扉を閉める。

そんなことをするから、メガロポリスとしてのポテンシャルを最大限発揮して、住みよい魅力ある都市にななる可能性を秘めているのに、それを遮られ細分化され総体を失う東京。

それならばいっそ外に出て広い草原を走り回る、それともその壁を皆で壊してしまう、そんな選択肢もあるんだと思う人も出てくる時代も遠く無さそうだ。

2011年11月10日木曜日

点と線として東京

東京に住んで、学んで、働いて、遊んでいても、その総体としての都市を掴んでいる人というのはほとんどいないと思う。

皆、住んでいる場所、働いている場所、よく遊びに行く場所と、それが時間とともに、「かつて・・」というのがそれぞれに増えていく。それとそれぞれをつなぐ通勤・通学経路。つまりは極めて局所的な点と線として東京をそれぞれが認識している。

どこかに行くとしても、地図の中の東西南北がある場所としてでなくて、下車した駅の○○口からという認識しかない。そんな個別の場所の積み重ねでなんとなく総体を理解した気になってしまうし、それしか方法がないようにも思える。

そんな部分としての「私の東京」「僕の東京」が無限に共存して、ふわふわした不定形の総体が現れる。それが東京。

そんな雲のような不定形の風景に唯一そそり立つのは、六本木ヒルズでも、スカイツリーでもなく、東京タワー。私小説の舞台としてのではなく、一次元上の総体に位置することができる雄一の記念碑。

そんなタワーが存在して、面としてしっかり総体を持つ都市に生まれ変わった時、おそらく東京はもっと面白い街になっているだろう。

MAD サイト リニューアル

共に主宰するMAD Architectsのサイトがリニューアルしました。


直感的に分かりやすくようにスッキリと生まれ変わっています。
日本からでも問題なく見えるように、軽量化しております。

来年にはちゃんと日本語版も作りますので、ちょっとお待ちください。


2011年11月9日水曜日

ガラパゴスに失礼だ

先日法事で実家に帰ったときに親戚の叔母に向かって母親が言っていた。

「私、こんなに太ってしまって、トドみたいでしょ」

と。それに対して叔母が、

「あなたと比べられたら、トドに失礼よ」

二人でケラケラ笑っていた。


そして先日、ドコモが同時通訳のサービスを発表した。

これだけガラパゴス化が危惧される現状で、それを加速させるサービス以外の何ものでもないのではないか?と思わずにいられない。

言語を身につけるということは、その言葉を話す人とのコミュニケーションだけが目的な訳でなく、その言葉で考えられた文化、文学や習慣など全てを含めたその言語世界に触れるということだと思うのだが、楽な方、楽な方へと流される現代の日本人に対して、その入り口を完全に閉ざしてしまうことになるとしか思えない。

まさに、目の前の自分達の利益を追求し、日本という総体をダメにする典型だろう。

今後、小中学校で英語を学ぶ子供達に先生達はなんと言えばいいのだろうか?
苦労して単語を覚えることを、どう説明すればいいのか?

ガラパゴス化と簡単に言われるが、ガラパゴスに住んでいる動植物だって、その日を必死に生きている。自分達は何も悪くはないのに、押し寄せる世界的な環境破壊の影響を甘受して、それでも時間をかけて、環境に適応し、自らの進化につなげていく。

「ガラパゴスに失礼だ」

そんな言葉が聞こえてきそうな今の日本。



2011年11月7日月曜日

語学学習

完全に飽きてきた。

汉语会话301句上・下で計40課。今やってる初级汉语口语1で25課まであり、その中の17課まで終了。毎日1課を日課としているから、既に50課以上、つまり50日以上やり続けていることになる。

これは飽きてくる。

というわけで、冷静に語学学習を分析してみることにする。

そして語学を学習するということは、つまりところは以下のことだと理解する。

① 言いたいことを表現する為の言葉、文法、表現を知る (つまりは語彙を多くする)

② ①を覚える

③ どういう言い回しや文章なのかを覚える

④ その単語をどう発音するかを覚える 

⑤ 他の人が発音しているのを、その意味だと理解出来るようにする

⑥ 本やテレビ、映画でより多くの状況の中での使い方を覚える

その為に、まずはテキストを見て、それを文章と発音記号で文章化して、アイフォンなどで音声と一緒に持ち歩き、ひたすら海馬に遭遇させて覚えさせる。

次に遭遇して理解できたものは素通りして、忘れたものは再度文章化して海馬にぶつける。この繰り返し。

そして、徐々に複雑な内容に上げていきながら、書いてあるものがすべて自分で打てるようにしていく。

できるだけネイティブとの会話で実践を重ねながら、徐々に使える範囲、聞き取れる範囲を広げていき、脳と身体に余裕をもって対応できるようにしていく。

後は定期的に検定を受けて、上達を定量的に測定して学習のフィードバックを得て、また内容を微調整していく。

パソコン・ネット時代だからこそできる効率的な学習なのだろうが、やはり最後は地道な日々の勉強の積み重ねだということを理解して、しぶしぶ再度テキストを開くことにする・・・・

2011年11月6日日曜日

東京の行方 

先日、中国人のパートナーも参加したCREATIVE TOKYOフォーラムを拝聴してきた。

CREATIVE TOKYOとは、経産省主導で進められる東京をアジアのクリエイティブ・ハブとする構想で、産官学と街が一体となりクリエイティブ産業の育成、多様な関連イベントの実施、広報・宣伝活動、関係者の人的・知的交流、環境整備等を行うことで、アジアの創造的な人材や情報、資金を誘引し、日本に新たな産業と経済の可能性を開く試み、ということらしい。

「クール・ジャパン」の次は「クリエイティブ・ハブ」として、マンガやゲームなどのサブカルも産業として取り込んでオール・ジャパンで頑張っていこう。ということらしい。

朝から会場に行って、第一部で松岡正剛さんの話を興味深く聞く。

藤原三代もバサラもさびもコスプレも全部日本だとして、日本には様々な日本があって、それはJapan(s)として存在している。それを海外に伝えていく努力を戦後我々は怠った為に、海外の人にとって平泉の意味を理解するのは非常に難しい状況を生み出してしまったとして、これからは行政と一緒になってそれらのJapan(s)を伝えていく。そんな話から「あわれ」と「あっぱれ」が同じ言葉から派生している事や、あれやこれやと話が進む。

二部はかつてシドニー・オペラ・ハウスの代表をされていて、現在はWest Kowloon Cultural District Authorityの代表をされているマイケル・リンチ(Michael Lynch)さんらが登壇し、建築界にとって注目の開発地区の話をされる。ぜひMADも招待されたいと願う。

パートナーのマ・ヤンソンが3部に参加するので、3部はじっくり聞かせてもらう。

モデレーターは森美術館館長の南條史生さん。

激しい色彩が特徴のインド人のファッション・デザイナーである、マニッシュ・アローラさん。

「日本は上品すぎるのをやめるべきだ」というチームラボ代表の猪子寿之さん。

家具デザイナーで神戸育ちのレバノン人ナダ・デブスさん(Nada Debs)。

アーツ千代田3331を統括し東京ファクトリーとして東京の新しい可能性を探るアーティストの中村政人さん。

気候区分で日本を見たときに、特産品として家の可能性を探るデザイナーの原研哉さん。

ザハ・ハディドやSANAA、西沢大良など国内外のクリエイティブな建物を担当されて、エンジニアリングのクリエイティビティを追求される構造エンジニアでARAPの金田充弘さん。

20歳で渡仏、25歳で自らのレストランをニースにてオープンし、ミシュラン一つ星を5年連続で獲得し、東郷神社に建つRestaurant-I 総料理長の松嶋啓介さん。

シナスタジア(共感覚)理論などで音楽と映像を融合させるゲームクリエイターの水口哲也さん。


国が本気になって考え出したイベントに、恐らく多くの候補の中から選ばれた人だけあって、それぞれにとても面白い話であった。まさにこの人々がある一面、今の最先端の東京ということでもあろう。

中でも原研哉さんが言っていた様に、現在の東京は超過密都市だけど、それは一時の現象で、今後日本の人口は減少して2050年には9,203万人に達する予測がでており、その時に東京の在り方、住まい方というのはまったく違ったものになってくるだろうと。

そんな話を聞きながら、20、30代の我々は何て大変な時代に生きることになるのだろうと思わずにいられない。

バブルに象徴される好景気時期を経験することなく、そのツケといわんばかりの様々な歪を抱える現代に、窮屈ながらも肩を寄せ合いながらけなげに生き続け、これから生まれ人口1億以下の社会で予想される、空間にも時間にもゆとりをもった社会生活を享受する世代の中心になることなく、その基盤をつくる大変な役割を担わなければいけない。

そんなことを思いながら、結局クリエイティブ・ハブとはどんな場所だろうか?と思う。

いつの時代になっても、音楽やアート、建築を志しロンドンやNYを目指す人が絶えることがない。中国であれば、これだけ経済的に発展した上海という大都市があっても、それでも90%以上のアーティストは北京に集まってくる。

才能のある人がより大きなステージに向かうことができる場所。

若い夢を持った人が、国境も関係なく住みたいと思って集まり、限られた経済事情でも豊かな制作環境と人的環境を得ることができ、都市に刺激が満ちている場所。

そんな魅力がある場所がそうだろうと思う。それが今の東京にあるとはとても思えないし、これからそうなるかとも創造しがたいのが実情だろう。

日本のクリエイティブ産業の問題は、各世界において頑張っている人がいると、すぐにメディアが飛び付いて、あれやこれやと自分達の分かりやすい形、扱いやすい形に調整をし、そこそこの経済的豊かさを与えて消費し、次の商品はないかと使い捨てる。社会に分かりやすい、伝わりやすい形に調整をかけられ、そこそこのお金を手にする人は、不自由さを感じながらもどんどん丸く、社会に馴染んでいってしまう。そのプロセスでメディアが捕らえる社会というのは、日本国内のみしか見ていないので、馴染む社会もどうしても国内仕様となってしまい、結局はガラパゴス化を加速させ、国内での満足の構図、海外に通用しないという構図にしてしまう。

東京はとても大きく、本質が見えにくい街だからか、その危機的状況もまた見えにくい。

根本は目先の話題や、ヴィジョン無き消費合戦を傾倒するメディアの功罪は否めないだろうが、ここまで来たら小手先の治療ではジャパン・パッシングは止められない。その為には、5人くらいの本当に優秀な30代40代にシナリオを書いてもらって、世界から優秀な若手クリエイターに1億くらいの報酬を渡して東京に何年か住んでもらって、逆に優秀な若者を50人くらい選出して各国のクリエイティブな現場に送り込む。それくらいの思い切った手術が必要だと思い知らされた一日。

2011年11月5日土曜日

「ロンドン縦断―ナッシュとソーンが造った街」 長谷川尭 ★★★★
















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建築に携わっていなくても、それでもやはりロンドンという街は魅力たっぷりに見えているのだろうと思う。

どんなに新しい都市や最先端の街並みが現れたとしても、それでもやはり世界の文化都市としての大きな中心であるのはロンドンだろう。そう思わせてくれるくらい、新しくて、古くて、洒落ていて、大人で、複雑で、活気があって、落ち着きがあって、緑溢れる街・ロンドン。その街で、建築を学ぶことができたことは、建築家としてとてもありがたいことだと実感させてくれるロンドンの魅力に詰まったこの一冊。

ジョン・ウッドから、ジョン・ソーン、ジョン・ナッシュ、ジョン・ロブ、ジョン・スメドレー。とにかく素敵なものを生み出すたくさんのジョンが住む街。ウッドからソーン、ナッシュは、イギリスで建築を学んだ人にとってはとても特別な意味を持つ人々。

そんな中から、建築家の仕事をとは?に極めて的確な答えを示す著者の言葉を。

<都市住宅>
建築家はその<枠>のなかをいかに論理的に構成し、しかも独立した要素としての各部屋の単なる分割と連結に終わらないような、柔軟で流動性のあるプランニングを実現することができるか

家を合理的に、論理的に分解し、同時のそれを新しい状況にあわせて総合的に組み立てなおす能力、という近代建築家にまず最初に求められた能力

過密都市として、都市問題に向き合った当時の建築家達とその出した答え。それを再度しっかりと見つめて、現代の問題への解決策の糸口にするか、それが現代の建築家に求められることだろう。

2011年11月3日木曜日

CREATIVE TOKYO フォーラム

文化の日。かつて日本国憲法が公布された日。

毎年、この文化の日前後に合わせて開催される東京デザイナーズウィーク。そのイベントの一環として「CREATIVE TOKYO フォーラム」が明日の11月4日に催されます。

そのイベントに、一緒にMADを行っている中国人のマ・ヤンソン(Ma Yansong)がゲストとして招待され出席します。


キーワードは「クリエイティビティが未来をつくる」ということで、様々なジャンルから国内外様々なゲストを交えてのセッションということで、ぜひ興味のある方は会場まで足を運んでもらえればと思います。

2011年11月2日水曜日

10 x 1 < 1 x 10

「脂肪肝の恐れあり」

と脅されたからというわけではないが、できるだけ朝晩どちらか近所をランニングすることにしている。

それが先日流行りもののRSウイルスを患い、気がついて「ナイキGPS+」の履歴を見てみると、あっという間に走っていない日が10日ほど続いていることに。そんな訳で久々に走ってみると、3キロ過ぎであっという間にアゴも息も上がってくる。

もともと日常生活で必要な運動以上の負荷を与えているのだからしんどいのは当たり前だが、それでも毎日走っている日々よりも再開した日の辛さはひとしお。

5:00/kmとなんとかペースを守ろうとするが

「辛いんだったら、もう歩いてしまえばいい。」 「もう、止まろうか。」

そんな悪魔のささやきが聞こえてくる。が一方で。

「いや、ゆっくりでもでもいいから、例え5:45/kmでも6:00/kmでも歩かずになんとか走ろう」

という天使の声も聞こえてきて、なんとか足を前に進める。

そんな時に実感するのは、

10日休んで、一日10キロ走るよりも、10日間、一日1キロでも走り続ける方が、その意味たるや遥かに大きいのだということ。

つまりは

「10 x 1 < 1 x 10」

2011年11月1日火曜日

会いたい職業

推理小説など読んでいると、つくづく今まで自分が出会ってきた人というのは、社会のほんの限られた範囲の職業の人なんだと実感する。

時効間近の因縁の事件を追いかける刑事に場末の酒屋で酒を酌み交わすこともなければ、これだけ性風俗が蔓延する現代日本なのに、嫌われ松子のように意志に反して転がっていってしまう女性に出会うこともない。

そんなことを思いながら、今まで出会った人の職業を思い浮かべてみていると、今の時代の子供たちは恵まれているなぁと結論づける。

自分の将来を決めるのにある決断ポイントがあるとしたら、その時点までに知識として頭にはいっていない職業になる可能性は極めて低いだろう。それが今の時代なら、ネットでちょっと検索すれば、出るわ出るわ様々な職業ガイド。一日一職業を追って行っても、一年はかかるそのリスト。

職業の解説だけでなく、どういう人が向いているか、どうやったらなれることができるか、そして収入や勤務体系はどういう風かまで解説してくれる。中学生くらいではまればさぞや楽しかったことだろう。

そんなことで時間を費やしていると、職業ガイドで見つけた「サンタクロース」。
それによれば、

勤務時間は短くクリスマスの一日だけ。
夜から深夜にかけて活動することが多いそうです。

「サンタクロースのなり方」
不明。
一説には、お父さんやお母さんになれば、そのチャンスが与えられるとの話も。
子どもや恋人など大切な誰かがいれば、その時はやってくるそうです。

そして
サンタクロースの報酬は大切な誰かが喜んでくれる笑顔。
それが何よりの報酬となります。

と、なかなかユーモアのある解説に少々ホロッとさせられる。

そんなリストをスクロールさせながら、

「あぁ、こんな職業の人に出会って話を聞いてみたいな」

なんて思える「会いたいリスト」を心の中で作って年末を迎えることとする。