2012年9月30日日曜日

双节快乐


旧暦8月15日の中秋節は中国でのとても大きな节日。月餅を食べてお祝いすることで有名で、この時期には、日ごろ付き合いのある取引先などからオフィスに月餅の詰め物が届いたり、何かのイベントのお土産にもらったりと、街を歩いていてもそれらしき手提げを持っている人を良く見かけるようになる。「旧暦」ということで、月の動きによって毎年微妙に時期がづれる祝祭日でもある。

それにたいして、中華人民共和国の建国記念日である国庆节。こちらは毎年変わらず10月1日となり、この日から一週間ほどの長期連休が始まり、春节と並び何億という中国人が国内外を移動する民族大移動が始まる。

その二つが重なる今年は「双节」と言われ、街の至る所で「双节快乐」とお休み気分を盛り上げる広告を目にする。

せっかくなので日本に戻って・・・と気楽に構えていたら、あっという間に日本行きのチケットが法外な値段に高騰していて諦めて、オフィスのスタッフが家族で西安に行くので一緒にどう?と誘ってくれるので、妻と一緒の初の国内旅行が古都とはなかなか渋いなとチケットとホテルを手配した矢先の一連の反日運動。

慣れ親しんだ街ならまだしも、旅行者で溢れ何が起こるか予測不能な街への旅行はということで、万一の危険を考慮して泣く泣くキャンセルし、「日本に行く中国人が続々とキャンセルしているらしい」、というニュースに誘われ再度日本行きのチケットを検索するが、まったく値段は変わっておらず、報道がいかにいい加減なものなのか納得し、妻と二人で北京に居座ることとなる今回の国慶節。

そんな初日に、何時も出勤途中に自転車で通りがかる胡同に沢山の国旗が掲げられている風景を目にし、小さいときは実家の近くでも祝日ごとには必ず日本国旗を掲げている家庭が多かったが、最近はそんな風景を見ることも少なくなったせいで、なんだかとても懐かしい気持ちにさせられる。

地球の上でどんなに愚かな争いが起きようとも、母なる地球は今日も変わらず一回転し日にちを一つ進め、確実に次の季節へを歩を進めるんだということを感じさせられながら、赤の国旗の下をくぐり抜ける。

「乱反射」 貫井徳郎 ★



仕事を終えたら外は真っ暗で、襟元を立てながら駐輪場の自転車へ向かうと、前のかごにゴミらしきものが入っているのを見つける。

「乱反射か・・・」

と思わずにいられない。

「これくらいなら・・・」、
「自分だけなら・・・」、

という「些細な我がまま」。

それが交錯することで、大きな過ちにつながるのか、
それともこの世の中なんて、所詮些細なことの連続でしかないのか?


プロローグの段階で既に無意識の自己中心的な行動が引き起こす連鎖の結果として人を殺めることが明かされて、カウントダウンする章名とともに、「誰がどうやってこのあとどう話が交錯するのか?」と期待してページをめくり続けることを強いるのだが、とにかく交錯を複雑にし、各人の行為をよい誰でもやっている小さなわがまままで細分化するために必要な多くの登場人物を描くことで引き伸ばされたページ数。

どこでどう交錯するのか?を見つける新たなるミステリーのあり方なのだろうが、期待を維持して読み続けるにはやや無理のあるボリュームになってしまった感は否めない。

それでも第63回日本推理作家協会賞受賞作。

ゴミを取り除きゴミ箱に捨てて、些細な我がままばかりで構成された世界に向かって自転車をこぎ始める。

2012年9月25日火曜日

「建築が生まれるとき」 藤本壮介 ★★★


一貫して感じるのは、作者の「疑問する才能」

「○○はこうである。」と自ら立てた仮定に対して、
「ではなぜそうなのか?」とその存在前提に疑問を投げかける。
極めて数学的なその姿勢。

通常の建築家なら原因と理由、機能と形態、技術とコスト、など極めて実用的なところで終わる疑問のループを、作者はどこまでも終えることなくひたすらグルグルし、そういうているうちに回転から上昇の力が加わって、建築の実用から遡りその根源まで達そうとする煌きを放つ。そんな印象。

暫く前の建築言説では、誰も彼しもとりあえず哲学を引用し、フーコーやガタリ、ドゥルーズらの文章から建築的に翻訳できる部分を自分の解釈を被せ、パノプティコンや襞などメタファーも直截も利用しまくり、とにかく自らの建築の理論的バックグランドとして使用する。

そのジェスチャーは教養無き者にはこの建築の良さは分からない、という強固なまでのエゴイスティックな防御壁であり、一般の人との距離をとり、その距離を何故だか高さに変換する思考的錯綜が良く見える。

それが現代においては、新たなパラダイムへのヒントとなるのは哲学から大きく窓を開け、複雑系や物理、数学、科学といった様々な分野へと裾野を広げている。それは建築家の視野が広くなったのか、それとも元々社会を構成する原理原則を含んだ自然科学に学ぶ姿勢をやっと建築世界が手に入れたのか。

そしてもう一つは作者は高度な他分野の知識を学び建築に翻訳する仮定の中で、前世代建築家が好んで用いた一般との距離を取ることをせずに、逆に一般の人たちにより分かりやすい言葉へと翻訳をしていく。そのことの方がより高度でより難しいことを見てきた作者だからこそ、意図的に建築を高みの位置に置く事を避ける道を選んだかの様に。

今までと同じ道を歩んでいては、決して先には進めないけれども、それを示してくれるヒントもまた人類の歩んできた歴史の中に潜んでいるんだと教えんばかり、今まで目にすることのなかったような図書が参照され、恐らくこの本を読んだ建築学生達は図書館に駆けつけその本を手にすることだろうと創造できるが、村上龍が言うように、同じ本を読むのではなく、自分の視点で発見することが必要なんだろうと思わずにいられない。必要なのは自分の思考にオーバーラップしつつドライブしていけるような新しい引用を見つけること。

こういう建築家が同世代にいてくれることを純粋に嬉しく思える一冊。

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2012年9月23日日曜日

「天地明察 上・下」 冲方丁 ★★★



「暦は約束。明日も生きているという約束。明日もこの世はあるという約束。」
あまりにも当たり前すぎて、誰もが疑問に思うことすら忘れてしまう時間の流れ。今日が終われば、当たり前のように明日がやってくる。この世を営む超前提のルール。

「今日何日だっけ?」
何気ない会話だが、よくよく考えるとこの会話がなされるようになるまでには、恐ろしいほどの努力と常人からかけ離れた人類の英知が結晶が重なる膨大な時間が費やされたということを思わされる。

ホームボタンを押せば、デジタルの時間が当たり前のように毎秒を刻む。何もかもが生まれる前からあった当たり前の前提の様に感じるが、その前提を人類が理解できる形に翻訳する為に費やされた果てしない苦労を想像する。

「記憶力が本当に優れている者は、忘れる能力にも優れている。」
何かを生み出す為には、多くのものを吸収すると共に、自分なりの理解に沿いながら頭の中を整理して、新たなる体系を作っていくこと。忘れることは整理すること。

「一生が終わる前に今生きているこの心が死に絶える。」
退屈でない勝負を望んだ男と、その言葉を発することができた時代と努力。

「頼みなしたよ」 「頼まれました」
人生の長さと自分の役割、そして社会の為のなすべき目的をはっきり理解し、しっかりと次世代にバトンを渡すことのできるシニア層。

「なぜ凶作になると飢餓となって人は飢える?」
現象を見るのではなく、根源を探る問い。

「会津に飢人なし」
疑問する才能に溢れ、戦国から泰平へと世が移り変わる上での思想の変転を体現するように自らも役割を変えてった為政者たち。

「勝ってなお負けてなお残心の姿勢を残す」
一体どこまでが自分の果たすべき勝負なのか?そのフレームを見据えた振る舞いこそが一人の男の品位となって現れる。

第31回吉川英治文学新人賞受賞・第7回本屋大賞受賞が頷ける良作。次回の帰国で向かうべき先は会津以外に無いなと心に秘める。

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第31回吉川英治文学新人賞受賞
第7回本屋大賞受賞
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2012年9月22日土曜日

「Footnote」ヨセフ・シダー ★



footnote :脚注; 補足説明

つまり、本文中では理解されないだろうとする部分に、枠外にて補足説明を行う文章のこと。

タルムード(Talmud)とはユダヤ教の宗教的典範で、中世から現代に至るユダヤ人の精神文化を知る重要文献らしい。

Israel Prizeというのは、イスラエルで最も権威ある章で、毎年、文化や科学の分野で特筆すべき貢献を成し遂げた人に送られる賞で、村上春樹が受賞したエルサレム賞とは違うので注意すべき。

イスラエルという、グローバル世界においてもなお、異国でありつづけることのできる遠い国なので、上記の基本知識を確認して振り返らないと、なかなか理解が難しい。

それでも描いている内容は、同じ分野に生きる父と息子。堅物の父と闊達な息子の性格を反映するかのように、専攻分野への取り組みの姿勢もまったく違ってくる。

「世間に認められなくても、自分の研究はユダヤの文化にとっては大きな意義があるんだ。」という頑なな意志の下に隠されていた、それでも評価されたいという研究者としてのエゴ。それがあるきっかけによって大きく曝け出されることになる。

そしてその裏側には、父を研究者として尊敬する息子と、それでも一人の男としての蔑みの眼差しが同居し揺れ動く感情。

fortress:要塞、堅固な場所

の一言から、それこそ研究者の洞察力と直感により、決して開ける必要の無かったパンドラの箱を開けてしまい、恐らく今後死を迎えるまで、誰かに語ることも無く、ただただ一人でその猜疑心と向き合うことになるだろう老いた男の姿。

見終わってから冒頭のfootnoteの意味をどうにか探そうとするが、脚注という暗喩はどこにも見つからず、恐らく「足元に散らばった満々という紙切れ」という意味でのfoot-noteの方が正しいタイトルなんだと自らを納得させる。

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第84回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
2011年カンヌ国際映画祭脚本賞受賞
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2012年9月20日木曜日

Pierres Vives / Zaha Hadid Architects 2012




Pierres Vives / Zaha Hadid Architects

ザハ・ハディド事務所で担当していたフランス・モンペリアに位置するプロジェクトがやっと竣工したらしい。

プロジェクト・チームのメンバーには懐かしい名前ばかり。皆同じきっと似たような想いでこのニュースを見ているんだろうと想像する。それにしても写真から見る限り、非常に完成度が高いように見える。

我々のオフィスもいろんなスタッフが来てはまた去っていき、プロジェクトの完成を眼にすることは稀であるけれども、こうしてどこかでニュースを見にして、

「お、綺麗にできてるじゃないか」

とかつてのスタッフがそう思えるように、少しでも建築の質を上げれるようにと思わずにいられない。

2012年9月19日水曜日

消えたgoogleカレンダー


突然、アイフォンのカレンダーより同期してあったGoogle カレンダー達が表示されなくなる。

焦って、電源を切ってみたい、設定よりカレンダーの読み込みをオン/オフしてみたいしても、一向に解決しない。

「もしや、元から消えてしまったのでは・・・」

と、心配しPCよりgoogleにログインしてカレンダーを見てみると、そこにはちゃんと予定たちが表示されていてほっとする。

ならばなぜ・・・とネットを調べると、同じ症状が数多報告されている。

【最新版】iPhoneの標準カレンダーとGoogleカレンダー(複数アカウントもOK)を同期する方法 

safaliからの同期設定がなぜかチェックが外れてしまっていたのが原因ということらしい。

バックアップの取れないネットの巨人の手に委ねられたデータだけに、こういうことは確実に寿命を縮めるなと思いながら元のように読み込まれたデータたちを眺める。

2012年9月18日火曜日

したたかに、力強く

最も緊張感が高まると言われた18日。

家の近くのイトーヨーカドーは用心の為にと昨日より営業を取りやめ再開の目処はたっていなく、オフィスの近くのセブンイレブンも今日より営業を取りやめ始めた。

しかしオフィスで働く近しい中国人が、中国人らしい視点で今回の騒動を説明してくれる。週末より急激に増えた市内を走る大型バスは非常に統制が利いており、北京で暮らしを持つ人はそれぞれが日常の仕事で忙しいはずの、これだけの大人数の参加者がいったいどこから沸いて出てきているのか。外国人としてはなかなか感じ得ない視点で解説してくれ、最後には「個人には絶対危害は及ばないし、すぐに落ち着くはずだから心配しないで」と言ってくれる。

他の外国に住む友人からも沢山の心配するメールをいただいたが、それぞれの国で報道されている内容を考えても、この騒動で中国が失うものは我々にとってはとてつもなく大きいだろうと想像する。しかし、人が行うことである以上、誰かが、何かの目的を持ってやっているはずで、そこには必ず失うものよりも大きな得るものがあるという確信があるはず。

一見、ある秩序が守っているようにみえる世界は、それでもやはり野生であり、そこに生きる人たちは我々が思っているよりもずっとしたたかに、事象をじっとりと洞察し、戦略・戦術・戦闘を使い分け、短期・中期・長期のヴィジョンを持って自らの生存に力を注ぐ。

国家は人の集まりである以上、行き着くところ誰か一人の意志がすべての根源であるはず。それが現行のリーダーなのか、次の10年を導く人なのか、それとも彼らの視点が捕らえる先にある大国の誰かなのか、それが誰にせよ、狙うべき本来の対象をしっかりと捉え、そこに向かって最短距離のアプローチを行い、現状以上のベターな状況をつくりだす案を提案し納得させる。それが外交。もしキーとなる人間が、「やめろ」と言えば、街中で騒ぐ人々の姿や島に向かう漁船の姿はあっという間に消えていく。それがこの国。

現在やっきになって総裁選にむかって声を上げている各候補者たち。「私ならこうする」などといいながら、誰一人具体的な案すら提示しない。いっそのことそれぞれに二日間の猶予を与え、その間は他の外交ルートでは何もしないようにして、それぞれがいう「私が持っているルートや人脈」とやらを駆使してもらって、今回の騒動をどうおさめられるのか、それを見たうえで、本当の実力に投票をしてもらいたいものだ。

一人の人間として、野生の中で少しでもしたたかに、そして力強く生きていこう。

2012年9月17日月曜日

「建築の可能性、山本理顕的想像力」 山本理顕 ★



学生の時に読んでいた著者の本。若いときから独立し、社会に対しての最小単位が家族であるのか、個人であるのか、現在の社会の状況を踏まえた上で社会に直接接続されるべきは個人であるとし、その奥に家族の領域があるとする、常識をまったく覆す提案とその図式。その図式を直截的に建築空間へと置換して出来上がったいくつかの作品。

長年にわたって真摯に向き合ってきた事柄に対する一人の建築家としての姿勢と、費やされた時間に裏付けされる自信に溢れたかのような言説。

建築が理論によってどう進化するか。
理論が社会への視点によってどう発展するか。
社会が建築によってどう変換されるか。

そういうことを建築を志す学生として強く感じさせれくれていた幾つもの著書とその中の理論に裏づけされた作品達。自分の中でそのような明確な建築理論と建築作品の関係性を築くには、いったいどれだけの時間が必要なのかと、学生ながらにそこまでの距離感に愕然とさせらと同時に、だから建築が日々進歩し、変化する社会に追随するように変形するんだと、建築の楽しさを教えられていた。

そんな作者の昔からの建築理論と作品、そして最近になって規模が大きくなってきた作品郡の説明を兼ねた一冊。

ある部分、冒頭に書いた社会とその構成要因との関係をずっと考えてきた建築家だけ発することができる言葉には強い説得力がある。建築を使う人たちに私たちに何ができるか。建築空間の新しい図式をどう作り出せるか。

「細胞都市」では、すべて迷路だという北アフリカのイスラム都市から細胞の顕微鏡写真のように、最終形を持たない常に完成形であり、常に成長過程である都市。全体形を持たない都市の姿より、そんな外に開いた形の都市空間を作るにはどうすればいいかと投げかけ、横浜に計画された緑園都市がその実践として説明を行う。

著者の作品郡の中でもやはり明確のその理念を現したのが、<岡山の住宅>と<保田窪第一団地>である、有名な二つのダイアグラムに示されるように、外に開く上で、構成要素のどこが外に開かれるか?それを住宅スケールと団地という集合住宅というよい大きなスケールでの実践を説明する。この二つのダイアグラムとその配置計画はその後の建築家に大きな影響を与えることになり、建築における「社会性」の必要性があたかも当たり前の様に語られる時代をつくっていった。

しかしこの文章、「住居論」に書いてあったことと同様で、書き足しなどはあるだろうが、基本的には新たな驚きなどはないといっていい。これは他の建築家にも言えるのだろうが、それぞれの作品を雑誌に発表するときに書いた説明文や、雑誌で企画された他の建築家との対談文など、その時その時に考えられていた雑多な文を編集者にのせられてか、こういう文でも書籍としてまとめて世に送り出したいという本人の想いによってなのかは知らないが、そんな比較的薄い本が多くなっている気がしてならない。

それぞれに書いてきた文を一堂に纏めてみると、自らが歩いてきた道がはっきりと見えるようだ。

なんてことは自分のブログででもやってもらえれば良いことで、「きっと売れますから」と、新しいことを発見することができな出版社の怠慢以外の何物でもないのではないか。

長年かけて真面目に考えてきたその人の建築に向かう姿勢がもれなく現されている一冊。修行の様に建築を学び、独立してからは仕事に恵まれない中でも志を曲げず苦しみ、建築が社会に対してできることがあるはずだと、一つ一つ建築を作り続け、その中で分かってきたこと、発展させてきた理論を一言すら漏らすことなく書き綴る。たった一つのことを世間に問いたいが為に発表される作品としての著作。著者の「住居論」、伊東豊雄の「風の変様体―建築クロニクル」、芦原義信の「街並みの美学」など。数多くの建築家の生きてきた時間が透けるような至極の一冊というのは、一人の建築家が一生のうちに何冊も書けるはずが無く、また建築はそんなに簡単に次から次へとアイデアが生まれることも無いはず。だからこそ、そんな一冊に出会ったときの感動は計り知れない。

そう思わせるのは、著者の「住居論」の内容が本当に素晴らしく、それに続く作品達がセンセーショナルだったからだろう。

建築の規模が大きくなり、より複雑になった学校や巨大再開発などでは、一人の建築家の想いが反映されるよりも大きな力が働き、大きな制約の中での設計になるのだろうし、それでもこれだけ新しい図式を表現したのは頑張ったほうなんだろうとも思うが、それでもやっぱり、上記の二つのダイアグラムに見えるような触れたら切れるような危うさをもちつつも、魅惑的な建築空間を想起させるそんな新しい都市的建築の図式が見てみたいと思わずにいられない。






2012年9月16日日曜日

現状

2005年のものと比べても、緊張感としては今回の方が上であろう。そして何より2005年には無かったSNSが今回の騒動を更に大きくしている。

しかし、北京の現状は一部の地域を除いては比較的落ち着いており、個人の活動に何らかの影響を与えるようなことは起こっていないと感じる。

緊張感が高まっていることは間違いないが、心ある中国人の友人たちは、「これは国家間の問題であって、個人になんら影響すべきではない」といい、「ああいうデモに参加するのは、教養が無く煽られる形で参加し自らの鬱憤を晴らしているだけで、中国にも色々な考えを持っている人たちがいるのを分かってほしい」と言ってくれる。

日常生活で言えば事務所では唯一の日本人で、日常の中で家の外で日本語を話す機会はほとんど無く、また日本人ということに依拠して生活が成り立っている訳でもないので、これといって直接的な被害や影響が出ている訳でもない。

妻も同様で、語学学校ではもちろん学生は中国人以外であり、先生も非常に国際感覚が高い人が多いようで、今回の関係悪化に一刻も早い沈静化を望んでいると言ってくれているようである。

逆に今回のことで気がつかされることは、隣人が居て歴史があれば、様々な認識のズレは生じるものであり、同じような問題、もっと過激な日常の緊張感を持っている国々は世界中にあるであろうということ。それを感じずに今まで生きてこれた日本がイカに平和な世を謳歌していたかということ。

これだけのグローバル化した時代でも、やはり国家としての枠は残り続け、ある国との摩擦が高まることもあるだろうが、決して見逃せないこととして、その国に住んで生活を持っている日本人も居るということ。その緊張感はその人たちの日常をまったく違うものにしてしまうこと。

日本で生活する中国人は恐らく襲われたりする心配はしないだろうが、現状の報道の様子を見ている限り、中国で生活を持つ邦人はそんな心配はないだろうと思いつつも、やはりいつもより少しだけでもアンテナを高めて日常を生きることになる。

コミュニケーションで捩れた問題は、やはりコミュニケーションでしか解決しないのであれば、世界に納得してもらい同じようなことが二度と起きないような方法で、両国の国民を傷つけない着地の仕方を一刻も早く模索してほしいと願わずにいられない。

2012年9月15日土曜日

「フィッシュ・タンク」アンドレア・アーノルド ★★★


ベネフィット・クラス。

2011年の夏にロンドンに訪れた時に起こったライオット。貧富の差が広がることに対しての自らの日常に対する鬱憤を晴らすように、SNSで拡散したその乱痴気騒ぎ的騒動の空気を実際に体験することになった。

その時に街で見かけた10代中ごろと思われる少年達が昼間からフラフラと街をたむろする様子。何か目的がある訳でも無く、ただただ持て余した時間をどうしてよいか分からず、未来に希望も持たないだけに何をするか分からないという予想不可能な雰囲気を醸し出しながら、こちらを見てくるじっとりとしたその視線は未だに忘れられない。

ロンドン滞在でお世話にならせてもらった、日本人とスペイン人の建築家カップル。彼らが教えてくれたのが冒頭の言葉「ベネフィット・クラス」。日本で言えば生活保護受給者層ということになるようだ。働くよりも手厚い保護を受けられるということで、労働に対する意欲を失い、それでも暮らしていけるために持て余す時間。若いカップルにできる複数の子供達。決して高まることも、向上心も教えられることの無い子供達の生活のスタンダードは親のそれそのもの。まさに貧困は遺伝する。その子供達が中心となり起こしているのがこのライオットだと、イギリスの現状を知った、イギリスに住む人の言葉に驚いた。

出来ることなら、少しでも楽をして生きていきたい。それが人間の本性であり、大多数の人がその欲望を抑えるだけの理性を身につけることなく一生を生きていくのが社会である中で、手厚い社会保障が施行されれば、必然として起こりうる事態。それが世代を超えて新たなる社会の根底を形成していくという事実。

自分とはまったく違う常識を持って生きている人が横にいるという恐怖感。

そのベネフィット・クラスの現実を描いたような映画。

イギリス映画に多くある、社会の弱者とされる家庭の日常を淡々と描いていく。ケン・ローチ的な誰もが知っているが、誰もが語ろうとしない、社会の膿の様な部分をしっかりとしたリサーチに基づいてリアリティを持たせて世界に見せ付ける。そんな映画。

ドロップ・アウトするということは時間を持て余すことで、何に時間を費やしたらいいかという対象を持ち得なかった人間には、更に孤独感を加速させてしまということと、母と姉妹二人の家庭に絶対的に欠けている力強い父親の存在。その二点を強く印象付ける作品。最初の30分はなかなか入り込みにくいが、子供と大人の間としての15歳のミアが、娘として、女として、子供として揺れてもがいて行くリアリティに引き込まれるのにそう時間はかからない良作。

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2009年・第62回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞
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2012年9月14日金曜日

「藤本壮介|原初的な未来の建築」 藤本壮介 ★★


「弱い建築」という言葉と共に、颯爽と現れた新時代のヒーロー。

今までの言説とはまったく違う、現代の時代感覚から生まれるような特殊でそれでいて魅惑的な数々の言葉を建築の世界に引き込みながら、建築の根本的な部分に向かって挑戦をし続けて、そのアプローチは極めて東洋的な趣を見せる。

コルビュジェやミース、カーン達が見ていたであろう建築の根源の問題。そこに向かってひたすら石を投げ続け、その姿勢を変えることなく、あっという間に日本のトップ建築家の一員になったかと思えば、さっと世界で戦う土俵に主戦場を移し始めている。その浮遊するような、飄々とした軽さ。その建築の持つ軽さは、一世代前に叫ばれた「軽さ」とは根本的な違いを持つ。

これほどまでに短期間に世界まで羽ばたいていった日本の建築家はいまだないのではないかと思うが、言語に依拠しないその建築への姿勢と建築言語は、空間という本来、言葉に置き換えることができないものの本質を捉える為には、言葉に頼らない分かりやすい図式がより適しており、当初より非常に戦略的に組みたれられたであろうその一連の作品発表の仕方を見ても良く分かる。

兎にも角にも、どこの大学でも学生達に課題を与えればあまた出てきていた、ちょっと前の「妹島的な作品」が、今では恐らく「藤本的な作品」へと変貌しているのだろうと創造するが、闇雲に既存の建築の常識を疑い、壊していくだけではその高みには到達できないと同時に理解する学生はそうそう多くはないだろう。

という訳でこの現代建築家コンセプト・シリーズ。若い建築家が今までどういう風に建築を考えて作ってきたか、そして作っていくか。その一連のコンセプトをその建築家なりのプレゼンの仕方に沿って世に見せるという形で、非常にざっくり、キャッチーな形で門外漢にも分かりやすい形式に纏められている。

主な内容は以下の10点。

① 巣ではなく洞窟のような
② 5線のない楽譜/新しい幾何学
③ 離れて同時に繋がっている
④ 街であり、同時で家であるよう
⑤ 大きな樹のなかに住むような
⑥ あいまいな領域の中に住む
⑦ ぐるぐる
⑧ 庭
⑨ 家と街と森が分かれる前へ
⑩ ものと空間が分かれる前へ

ゼロ年代前に語られていた建築の言説は、できるだけ門外漢を引き入れないようか知らないが、どこかから哲学の言葉などを引用してきては、ある知識を共有した人にしか分からない様なジェスチャーをすることによって、大文字の建築に隠れた自分の地位をより特別なものにしようとし、建築という空間やデザインで世に問うことを放棄し、ただただ言説による知的ゲームに終始した。そんな排他的な雰囲気を醸し出す建築が数多いたが、恐らくそれに違和感を感じ、恐らくそれらの建築家よりも膨大な知識を持ち、真摯に自分が建築に何ができるかと考え抜いた末に、建築関係以外の人にも分かる形で説明する言葉を得たのだろうと想像する。

膨大な知識と、膨大な時間に後押しされてはじめてできる分かりやすい言説。

学生がその分かりやすさだけをピックアップし、これなら自分もと、前段階の膨大な研究や知識の蓄えの時期をすっ飛ばして、美味しい果実に飛びつこうとする。そんな浅はかさを持つ学生は、その頂の高さを感じることすら無く建築から離れていくことになるのだろうか。

他のいくつかの著書や作品集を見ているが、若い時期から悶々と考え続けてきたことがどんどん具体的な形を持って世の中に送り届けられていて、それと併走するかのように沢山の言葉達が頭から溢れてきている。そんな無限の広がりを見せる文章が多く見て取れ、読んでいてもとても感動的である。

しかしこの現代建築家コンセプト・シリーズ。作品集や自らの建築論を出版するまでいたっていない若手の建築家が何を考えいるのかをさらっと知るにはいいのだろうが、著者のように他の著作や作品集が充実してきている今では、はっきりいって位置づけが曖昧すぎて、手にする意味がよく分からなくなっている感はいなめない。
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目次
・藤本壮介とは何者か?-I
「弱い建築」からの脱皮 伊東豊雄
・藤本壮介とは何者か?-II
直角のない幾何学 五十嵐太郎
・藤本壮介 原初的な未来の建築
・人工の建築、自然の建築
対談 藤森照信×藤本壮介
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2012年9月11日火曜日

社長探し

先日のクローズアップ現代で、多くの日本企業が次世代の社長となる人材を探しているという。グローバル経済の波にのみこまれ、遠い国の関係ないような業種の事態が、自社の業績に影響を与えるかもしれないという、多様な関係性の中でしか存在しえないグローバル経済の中で、不測な事態を読み、臨機応変に対応できる人材。それが社内にいないという。

ある企業では、次世代の社長候補を育てる為に、人事のプロと呼ばれる人を招聘し、若い世代からリーダーの素質があるスタッフを選抜し、世界の様々な支社に勤務させ世界で通用する世界観を植え付け、さらに様々な業態を経験させることで、ジェネラリストとして大きな視点を養うという。

ほう、なるほど。

と思う反面、そんな温室のような環境で優しく守られて育てられるのは、この厳しい世界に対してあまりにも甘くないか?と思わずにいられない。

毎朝通っている語学学校では、沢山のスペイン人の姿を見かける。自国の経済が大変な状況で、自らの将来を生き抜くために、今何ができるのか、どう行動するのか、何を身につけるのが一番いいのか個人として必死に考えた結果ここにいるのだろうと想像する。

会社の経費で語学研修として1ー2年、十分な生活の保護を受けながら悠長に学ぶ人もいれば、世界の情勢を見ながら、自分のこれからの人生 キャリア チャンスを考え、どんな能力が必要か、自ら動いて身につけ、どんなチャンスを掴み、競争して戦って、傷ついて苦しんでも、必死生きていく。「大変だよ」といいながら、十分な給料が保証されている身と、自腹を切ってこれで結果を出さなければ生きていけないと思って過ごす時間の濃度の差は歴然。

バーで知り合ったフランス人は、精神科医の博士号を取得中に北京に移り、自分の好みのフランス料理レストランが無いから、それならと自らお店を開き、それと連動するように様々なイベントを企画しているという。その彼と一緒に席を囲むのは、ワイン会社を営む中国人で、ワイワイ話しながらもフランス料理にあうアイスワインがあるんだと売り込みをかける。

20人の部下をもつのと、20人の社員を抱えるのでは何が違うのか。それはその人の人生に責任を持つかどうかでしかない。その責任はその人の時間の過ごし方を必死にさせる。

生きるために必死に時間を過ごしてきた人材で無ければ、会社を生き残らせることができないのは当たり前で、必死に生きるだけの環境が日本にあったかどうか、これからあるのかどうか、それを考えることの方がよっぽど重要だと番組を見終わって思わずにいられない。

「360」スティーヴン・エリオット ★★


なんだかタランティーノとベルトリッチを足して2で割ったような、荒廃した社会の路地裏の雰囲気。

交錯する人間模様がつながっていき、そこに人がいるからこそ起こる悲しみや苦しみを抱えて、地球上のすべての場所、360度どこでも、人が生きる現実と、それでも生きる人々の姿だけでできている映画。

ウィーンので売春を生業としていく若い女性とその妹。ロンドンから出張でやって来て、商談がうまく行ったのでとその売春婦に予約を入れるビジネスマン。歯科助士のスタッフが好きで好きでたまらなくストーカーまでしてしまいながら、イスラムである自らのアイデンティティと既婚者である彼女の立場から悩むパリの男。お互いそれぞれのパートナーとの心の隙間を埋める為に、やめなければいけないと分かりつつも辞めれない関係を続けるロンドンの男女。不安を抱えながらも社会に戻されていくことになるコロラドの刑務所の服役囚。パートナーの浮気の為に地球の反対側のブラジルに帰る女。飛行機でその隣に座った、かつて行方不明になった自らの娘を探す為に、身元不明な同年代の女性の遺体が発見されると現地まで確認に向かう老人、雪の為に足止めされたデンバーの空港で出会う二人・・・

これだけ多くの人が頻繁に移動しあう現代社会。すれ違った人たちがまた移動した先で出遭った人達が、また移動した先で出会う人たち。その人たちの動きを重ねると、あっと今に地球が覆われてしまう。そんなイメージの決して明るい気分になる訳でもなく、何かしらの問題提示をするでもない、たんたんとした現実を描く映画。

なるほど、これではなかなか日本の映画マーケットでは受け要る余地がなく、上映予定が無いわけだとなんだか納得。
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Director: Fernando Meirelles
Writer: Peter Morgan
Stars: Rachel Weisz, Jude Law ,  Anthony Hopkins
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2012年9月10日月曜日

老師節


重陽の節句の翌日、9月10日は老師節と呼ばれ、学校の先生などに感謝をする日として定められている。

カードや花などを手渡し、日ごろの感謝の意を表す日ということらしい。

通っている語学学校の現在の担当の先生は非常に生徒想いで、とても熱心に各生徒に対応してくれている。語学学校だけに、各生徒のレベルには開きがあり、語学習得に対する意欲にも差があり、授業に出てくる態度もバラバラ。そんな中でどのように皆にストレスがかからない様にうまく授業の舵を取りながらも、生徒からの受けも良いというのはなかなか簡単にはできないだろうと思う。

会社に行く前の一時間しか授業に出れないこともあり、通常午前の3時間のパックで授業料を払うところを、一時間の割高料金で払っていることもあり、出来があまりよろしくない生徒が多くて進みが悪いときには、わざわざSMSで携帯に「明日の授業はあなたにはあまり意味が無いだろうから、来なくていいですよ」などと連絡をくれたりする。

一つの教科書が終わり、次にどのような教科書を使うかと言うときにも、ちゃんといくつかの候補を絞って各生徒に内容を確認して、クラスの総意として進めようとしていく。なかなか素晴らしい。

ジョガーズフットを患って早朝ジムを暫く控えていることもあり、いつもよりやや早めに学校に行き授業の準備をしている先生に、「老師節快乐」と伝え、授業の進め方が素晴らしいと感謝の気持ちを伝える。

授業終わりに学校を出ようとすると、入り口で沢山のプレゼントが用意されていて、次から次へと老人がやってきては、身分証明書を見せて名前を記入し、一つ一つプレゼントを受け取っているので、「老師節のやつ?」と聞くと「そうそう」と答えが返ってくる。

そんな先生がまだ尊敬を持って受け入れられている社会を目にして、かつて自分が受け持った学生達は今頃どうしているのかなと想いを馳せる。



2012年9月7日金曜日

健康的な世代構成


今週は強化週間かと思うほど打ち合わせが多い。一度の打ち合わせに各関係会社から3-4人の参加で多いときは30人程になるものだから、とにかく疲労困憊する。

しかし救われるのは、どの打ち合わせも大体メインで参加しているのは30代か40代の人ばかり。皆、脳内活動が活発で、流動的に変化する状況にも臨機応変に対応し、すぐに電話で確認をとったり、最新の機器でデータを変更したりと、とてもアクティブに物事が進んでいく。

ホストとなるクライアントのトップもふんぞり返っているのではなく、施主として精一杯建築の各分野のことを自分の言葉で理解しようとし、各プロフェッショナルを尊重し、それぞれの知識を掛け合わせ一番よい方法を見つけようとしている。

そこには偉そうにふんぞり返っているかつての功績に胡坐をかいているおじさんはいないし、自分の保身の為に本音と建前を使い分け偉いと思われる人の顔色を伺う人の姿も無い。

非常に健康的な打ち合わせの姿だと思う。

十分経験も積み身体も思うように動かなくなってきた50代に入ったら、社会を動かす大変な責務と責任はアクティブに動ける若い世代に引渡し、自分は孫と一緒に過ごしたり好きな趣味に時間をかけたりと、若い自分とは違う時間の過ごし方をしている、そんな老人の姿を街のいたるところで目にする。

経済を動かしたり社会を牽引したり、いつまでも重要な地位にいることでしか自分のアイデンティティを確認できない、そんな人にはきっと無理な時間の過ごし方だろうと、早朝の公園で水に濡らした筆で地面に達筆な文字を書いている老人の姿を見て思う。

既得権益を握り締め、どのような世代構成が社会にとって一番いいのが、自分の立ち位置が見えないことは、その人だけでなく社会すら不幸にしてしまう。そして何よりも見苦しい。

社会の中心となってハンドルを握る為には、経験すべき時に必ず経験しておくべきことがあり、それ経験を上の世代のエゴにより握りつぶされ経験できず、成熟することなくダラダラと歳を重ねていく。そんな状況によってもたらされる社会的不具合が、噴火寸前のマグマのように至るところからグツグツ噴出している、そんな雰囲気の今の日本。

なぜそれができないのだろう?と考える。

一つには働かなくなっても生きていけるような社会的システムが整っていないからだろう。社会的地位が向上するにつれ、盲目的に上げられてきたその人の生活水準。会社という枠の中におさまっているからこそ維持できたその贅肉だらけの生活を、いきなり必要十分に変化させるのに耐えられない。また、現行の年金システムで支えられる生活水準と、まっとうに生きてきたと自ら信じる人々の生活水準との間にある乖離を埋められずにいる。

では、思い切って生活インフラと生活必需品の値段を下げる。なんていえば、デフレ加速と槍玉に挙げられること間違いなし。そこで手詰まり。

それなら、とっとと都市部における土地所有をやめさせて、現役以外の世代はできるだけ都心部から離れて暮らせるようにすることと、またそれを推進していくような、少々強引な手も必要になってくるのか?などと考えずにいられない。

噴火をする前にスッと身を引いて、遠目から若い世代を暖かく見守る。

そんな上の世代がちゃんと幸せに生きていける社会にならないと、今度の火山灰は相当酷く都市機能不全を引き起こしそうだなと想いを馳せる。

2012年9月6日木曜日

一言

今週もまた新しいメンバーがオフィスに参加した。

インターンだけで5人。ハンガリー、タイ、カナダ、アメリカ、中国。そして新しい所員として一人アメリカから。

それぞれのメンバーのCVを再度確認し、誰がどのようなことを得意としているか理解し、進行中の各プロジェクトのプロジェクト・アーキテクトと話をし、どのような人員がどの部分の仕事に必要か確認をする。

リストを持って各人を回ってそれぞれの顔写真を撮影し、どのプロジェクトに参加するのか説明をし、

「Welcome to MAD」と伝える。

その顔写真と一緒にそれぞれの個人情報を連絡帳にデー化し、出身国や出身大学、そしてどのプロジェクトに配置されるかをタグで管理。

顔と名前と特徴を把握し、暫くそれぞれのプロジェクトでどのようにパフォーマンスを発揮できるか見ながら、必要に応じて配置換えをしていかなければいけないので、少しでも早くメンバーとして自分の海馬に認識させるにこしたことはない。

以前書いたが今は様々な国でも夏休みということもあり比較的多くのインターンがオフィスにやってくる。以前から来たいたインターンと新しく参加してくるインターンの移行期でもあるので、総勢17人のインターンとなっている。

若いときに建築事務所で所員として働いている時にそうだったが、自分よりシニアである人やチームリーダー、ダイレクターやボスからどんな風に自分がやった仕事内容が評価されているのか、どこをどういう風に伸ばせばより優秀な建築家になれるのか?少しでもいいから話をしてもらい、一言を貰いたかった。

しかし、その一言をくれる人、プロジェクトの切れ目切れ目で時間を費やしてくれる人というのはなかなかいないもので、皆自分のステージが上がるごとに自分の視界で精一杯になり、昔の自分の視点などは振り返っている余裕はなくなってしまうものである。

「オフィスは学校ではない」のは当然であり、学ぶ環境やモチベーションをこちらが用意してあげる必要はなく、オフィスの毎日の活動の中でどれだけでも学べるところは見つけられるはずである。

しかし、自分の青春を捧げ、これからの人生を共にする職業としてそれを選ぶかどうかまだ定かでないインターン達。想いをもってこの事務所で建築が生まれる現場を経験したいと応募してきて、二十歳そこそこでは大変な思いをしながら、住む場所を変えて住まう環境も違う場所に飛び込んでいく、その調整を踏まえてやってきたこの地。

そこでボスの一人がかけてくれた一言は、一人の建築家としてその後そのインターンが歩む道にどれだけ大きな影響を与えるのか。恐らく今はそう思わなくても、いつかきっとその意味が芽を出す日がくるのだろうと思わずにいられない。

建築は楽しいんだということを少しでも感じられるように、また建築家として生きることが豊かなことだということを思えるような、そんな接し方と一言を彼らの心のどこかに残せるように、遠目からそっと見守ることにする。

2012年9月5日水曜日

20分

夜の19時過ぎ。やっと自分のデスクに座ることができた。

かと思ったら、修正部分についての打ち合わせをしようとアモイで進めているプロジェクトの担当者がやってくる。そうだった・・・と思いながら、再度気を奮わせて打ち合わせに。

20時過ぎに打ち合わせを終えて振り返ると、結局今日一日自分のデスクでモニターを前に過ごしたのは20分足らずだったと驚き、そんな日は脳への負担も大きいはずだと、帰り道には十分気をつけようと自転車を飛ばす。

ハルビンで進めているオペラハウス。

建築家としての一生でオペラハウスを設計する機会があるというのは、実に稀であり、またとても幸せなことだと思う。ロンドンで働いていたザハ・ハディド事務所にとっても、オペラハウスはカーディフからの念願で、やっと中国・広州にて実現した思いの強いビルディング・タイプである。

オペラという視覚と音響の芸術だけあって、建築に求められるのは美しさとともに、素晴らしい音響空間を作り出す楽器としての要素。

朝の9時から施主、施工図担当の設計院、内装設計会社、アコースティック・コンサルタント、舞台音響のコンサルタント、舞台音響の専門家達経ちがオフィスに集まり、現状の音響設計の説明と、建築意匠の説明を踏まえて、如何に世界で一番の音響空間を作れるか、舞台音響の専門家達がそれぞれに意見を出し合う。

新彊のあのホールは低予算だったけど、音響空間はあれあれ、これこれでよくできているなどや、719やyamahaがどうのなどの専門用語が飛び交う中を、想像力でピースを埋めながら話についていき、とにかく舞台音響コンサルが一番ベストな設備情報をこちらに提供することで会議が終了。

既にお昼時で専門家達は施主達とともにランチに行くが、こちらはサンドイッチを頬張りながら午前中に溜まったメールの処理をする。

内装設計会社の担当者と、舞台音響のコンサルタント、アコースティック・コンサルタントに残ってもらい、具体的なスピーカーの処理の仕方、大きさ、向き、角度などを準備してあったファイルを元に一つ一つ質問し、それぞれにとって一番良い解決法を議論する。

舞台音響にとっては、でかい穴を壁に開けて、どんな風にでもスピーカーの角度を変えれるようにしておくのが、それはそれはベストとなるだろうが、できるだけ建築側のデザインを踏襲しながら、かつ1600あるどの席にも主なスピーカーから直線で音が届く事が必要で、さらにそのエリアをカバーするスピーカーが必要となってきたりと、大空間に大人数が一つの劇を音の到着するまでの時差を考慮しながらもベストの状態の音環境を作り出すには、それこそコンマ何秒を追いかけながら、見えないものを設計することが必要となる。

施主とのランチで思わぬ量のビールを飲んだからなのか、それとも毎日大音量のスピーカーに囲まれているからなのか、あきらかに自分の声量のコントロールのタガが外れ、こちらの鼓膜を痛めるような声量で話続ける舞台音響のコンサルタントにちょっと黙っててもらい、現状のデザインをもとにした設計からの質問および調整事項を説明し、それに沿って舞台音響の提案をやり直してもらうことにする。

打ち合わせが終了し、更にあがってしまった声のボリュームの舞台音響のコンサルタントから逃げるように、今度は外装材のアルミパネルを最適化してくれているBIM・コンサルタントとの打ち合わせに。

そのコンサルは、Gehry Technologies通称GT。

ゲーリーはもちろんFrank Gehry(フランク・ゲーリー)からきている。3次元曲面を多用するゲーリーの建築を解析するべく奮闘していたリサーチ・チームから発展し、世界的に広がった自由曲面の建築を解析し、最適化して建築材に落とし込むことに特化した別会社として立ち上げられた BIM・ コンサル。

このオペラハウスもその複雑な外形を最適に解くために、GTの手助けを借りているのだが、それでもなかなか進まないオプティマイゼーション(最適化)の為、担当者チーム3人をこちらのオフィスに送ってもらい、一週間の駐在としてもらって一気に作業を進めるようにしているので、その進行状況をチェックする打ち合わせが毎日行われる。

コンピューター上に存在する複雑な3次曲面を現実の世界に存在する建築を構築する一部材とするために、様々な要素を考慮しながらも一番デザインをより良くするであろう方法で分割線を決定していく。

中国での施工レベルと、3次曲面の現場での施工性、如何に誤差を目立たなくすることができるか、どうやったら全体のデザインコンセプトとかち合わないか、オランダ人のプロジェクト・アーキテクトと中国人のプロジェクト・マネージャーがそれぞれの意見をぶつけ合わせ、ほとんど喧嘩の様になってくる。

どれが一番ふさわしい方法かと必死に頭を捻りながら、言い合う二人の姿を見て、そこまで熱くなるほど、少しでもこのオペラハウスを良くしようと夢中になっている証拠だなと、なんだかハッとさせられる。

とりあえず意見を取りまとめ、考えられる方法を3つほど試して明日再度確認することにして、今度は構造材から防水層、断熱材、サブストラクチャーを考慮した700mmのセットバックが最新の構造模型を入れていくと、ところどころで問題があるということをGTが見つけ出し、どう処理するかの打ち合わせに。

クラディング、壁、床。それぞれの部分でどこが問題か3次元ですべて確認し、それぞれ施工図から断面、平面を確認し、担当構造コンサルに確認し、ファサード・コンサルタントに確認する。納まりの変更で対応できるのか、それとも外装の形状を変えなければいけないのか、またしても喧々諤々の議論になり、いくつかは構造とファサードのコンサルと踏まえてでないと結論が出せないとのことで、急遽明日の打ち合わせを打診して、GTが駐在できる今週中に目処をつけれるように段取りをする。

議論のほとんどが中国語で行われ、時々分からない言葉は隣でオランダ人のプロジェクト・アーキテクトに通訳をしている中国人スタッフの言葉を右耳で聴きながら全体を補い、それで中国語で質問や議論はしなければいけないので、かなりの集中力を要求され右脳も左脳もごっちゃになって打ち合わせが終わるたびにクタクタになる。

やっと戻ってこれた自分のデスクで溜まったメールにがっくりとうな垂れていると、アモイで進めているプロジェクトの担当者が呼びに来てくれ、気合をいれてクライアントのトンでもない要求により提出したSDも、掘り出した現場も関係なく変更を余儀なくされたデザインの更なる修正と、金曜日に迫ったこちらの構造コンサルのARUPに渡す基本平面図について話し合う。

どうやったって放り投げることはできない中で、如何に楽にできるかを考えると、それはできだけの自分自身の時間と効率のオプティマイゼーションしかなくて、その為にも少しでも早く完璧な中国語がかかせないなと思いながら、家に帰ってからの中国語の宿題に頭を切り替え、語学は右脳か?それとも左脳かと考えながら月の照らす夜道を飛ばす。

2012年9月4日火曜日

堕ちるのに時間はいらない

圧倒的弱者である幼児を相手にニュースにとても嫌な気分になる。

宮崎勤の事件で見せられた、ワンルームに溢れる欲望の嵐。一見雑然としたその風景に秘められた欲望の秩序。VHSという淘汰された媒体の助けを借りることでこの世に現れた欲望の風景。

かつてはエロ本を一冊購入するにもそれなりの出費が必要だったが、現在ではモニターの前から動かずとも、ワン・クリックだけで無限に自分の欲望を満たすものが飛び込んでくる。

それは誰にも制御されることなく、インターネットによって加速させられる欲望空間。

ゆとり世代やゆとり以後という安易な言葉ではくくれない、誰も制御してくれない肥大化するだけの欲望に、どう折衷していくか教えられることなくその身体を晒されてきた世代。

たとえ同居していても、ワンルームという境界の裏で、モニターというブラックボックスに入れられて、インターネットのクラウドの先に隠さた、親からも見えない世界で密かに、そして確実に大きくなる欲望たち。

社会との接点は煩わしいものではある反面、人間一人では保つことができない理性を繋ぐか細い線として機能する。しかし、無意識のうちに現代人はその糸を一つまた一つと切ってしまう。そして現実と自分の妄想の中の欲望が乖離していくのに気づかないまま、誰も注意をできることなく、現実の世界を朦朧と漂うことになる。


「堕ちるのに時間はいらない」


酒鬼薔薇聖斗事件で社会が感じだ背筋がゾッとする理解不能な猟奇的感覚。しかし今度は違う。これはインターネットと個人主義によってもたらされた、誰にでも、そしてそれはあっという間に訪れうる欲望の穴。クラウドの先から、モニターには納まりきらず、果たしてワンルームから飛び出し街に溢れる欲望空間。

日の光に当たるべきでない蠢くような腫れ物が、一気に外に解放される。
それはあまりに自由であまりに危険。

ぜひ、容疑者の部屋とそのモニターの中に隠された欲望を社会に曝して欲しいと願う。そこに広がるのは恐らく整然とした白く漂白されたような空間だろうと創造する。

2012年9月3日月曜日

ジョガーズフット

体重増加が甚だしいので行き始めたジム。

望みとしては、歯を磨くくらいの日常としてランニングをして筋トレをしたいと思うタイプなので、毎日それが可能な時間をどこで捻出するかを考える。

事務所に出る前に一時間だけ語学学校に通い、夜は仕事の関係で帰りの時間がまちまちで、ご飯を食べた後は学校の復習をしなければいけないので、必然的に取れる時間は更に早い朝の時間ということで疑問は無く、仕方が無いので7時前に起きては30分のランニングと一部所の筋トレをなんとか終わらして、急いで家に戻って果物メインの朝食をほお張り学校へ向かう。

そんな一ヶ月を過ごし、どれくらい歯を磨いたかと確認してみると、一ヶ月のうちに24日走った様で、これならプライマリー・バランスはなんとかクリアだと思っていると、なんだか最近足の裏の内側とかかと部分に鈍痛を感じるようになってきた。

嫌な思い出もあるので、ちょっと心配してネットでいろいろ調べてみると、「ジョガーズフット」などという呼び名で、同様の症状が報告されている。つまりは足の筋肉が炎症を起こしているということ。

不思議なことに一日なんとも無かったのに、夜にベッドに横になると痛みを感じたり、朝起きたら痛みを感じたりすること。悪化させたくはないのですぐに馴染みのマッサージ師に相談して状況を説明すると、「心配することはない」とマッサージをしてくれ、「毎日これを入れて足湯をしてみればいい」と、漢方らしい薬をくれる。

しかし一向に収まる気配の無い痛みと、再度上昇の気配を見せる体重にヤキモキしながら、

「痩せるために走って、体重の重みで足を痛め、痛みの為に走れなくて、走れないために体重が増えて、増えた体重の重みがまた足を痛める」

と、なんだかどこかの国のデフレ・スパイラルにそっくりだな・・・と一刻も早い脱却を願う。

2012年9月2日日曜日

今日変わった

今日、秋になった。

朝外にでると、ひんやりとした空気を肌で感じ、季節が一つ変わったことを感じる。

そんな明確な境界線としての一日が、短く暑い夏を終えたロンドンには確かにあったなと思い出す。そんなことを思い出させる一日が北京にもやって来た。

昨日までの強い日差しはどこに行ったのかと思うような、しっとりした空気に感じるひんやりとした肌触り。空気の質が変わって、空気の粒子一つ一つがそれぞれ幾分温度を下げた感覚。

こういう季節の境界線は、いつも懐かしさと次の季節への期待を抱かせてくれて悪くないなと思いながら自転車を飛ばし、そういえば東京ではこんな感じは無かったかもなと思いを馳せる。

ダラダラとスプロールする東京の街並み同様に、東京の季節はダラダラと繋がってしまい、気がついたら季節が変わってしまっていて、その変化を感じさせるのは台風や梅雨の水たちか、それとも色を変える木々の葉達。

きっと昔の東京や江戸にはそれでも「今日変わった」と思える一日が存在していたのだろうと思うが、それを感じさせるために必要な自然と人工物のバランスが既に存在しえないのと、またそれを受け取るための人のセンサーが弱まっているのだろうと思わずにいられない。

2012年9月1日土曜日

「ジョン・カーター」アンドリュー・スタントン ★★★



まったく期待せず、何も考えずにただただ受動的に刺激を受けるのにちょうど良さそうだという意図で見始めたが、普段このようなアクションモノは比較的避ける妻も途中から興味深そうに見ていたように、意外と見入ってしまった一本。

重力のガルが変わってしまった空間で、もし1Gである地球上での筋力を維持することができたなら、それはいったいどれくらいのスーパーマンになるのか?

そんな計算を科学者に頼んだのであろうが、あくまでも1Gを基礎とした進化の過程で形成された人類の骨格が、重力場の違う世界でも同じような形態をしているというのには一切の説得力を持たないが、そこにリアリティを持たせようとする相当奇異な人類が現れてとてもじゃないが共感を持つことができないだろうという判断だったのだろうか。

未来でもなく過去でもなく、まったく違う科学の発展を成し遂げた世界を描くことの難しさ。地球の1Gの世界を元にした科学物理とは違う原則にそってあちらの世界の科学物理は発展するはずだろうが、それが一体どういう世界をもたらすのかに具体性がなく、ただただ砂漠の中に突然現れる近未来都市という、荒野と技術との並列という姿と、それでも空を自由に飛ぶ移動手段というどうにも使いまわされたイメージの混在。

そこかしこで首をかしげることになるのだが、それを差し引いても脳に刺激を与えずに、純粋に楽しめるアクション映画。
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監督 :アンドリュー・スタントン
キャスト :テイラー・キッチュ,リン・コリンズ,サマンサ・モートン,マーク・ストロング
,アラン・ハインズ
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原題 :John Carter
製作年 : 2012年
製作国 : アメリカ
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