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2014年2月5日水曜日

境港マリーナホテル 菊竹清訓 1985 ★


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所在地  鳥取県境港市新屋町
設計   菊竹清訓
竣工   1985
機能   宿泊施設(ホテル)
構造   SRC造
規模   地上8階
敷地面積 4,959㎡
建築面積 1,670㎡
延床面積 6,442㎡
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凍てつける吹雪から逃げるように港境から産業道路を通り、弓ヶ浜の防風林を左手に見ながら米子市内に向かうと、右手前方に明らかに異様な建物が見えてくる。円柱の上に方形のボリュームが載り、大きなキャンティレバーを形成し見晴台の様な形をしているが、その規模があまりに巨大。

これが目的のホテルに違いないと、駐車場に車を入れ様子を伺うが、どうもホテルとして営業をしている様子が見受けられない。しかし閉じている様子も無いので、なぜか金色でピカピカに彩られら、天井は鮮やかな青色という不思議なエントランスを抜け、ロビーに入るがかなり暗く、それこそどこかのロードサイドの怪しげなモーテルの様な雰囲気。

その雰囲気は嫌いじゃないので、奥まで見に行ってみるとやはり営業は行っているらしいので、余り邪魔にならないようにとそそくさと外に出る。

さて、この建物。今回の山陰巡礼で多く見てきた菊竹清訓の作品。再度年表を見てみると

1958年 スカイハウス(30歳時)
1963年 出雲大社庁の舎(35歳時)
1965年 東光園(37歳時)
1965年 徳雲寺納骨堂 菊竹清訓(37歳時)
1968年 島根県立図書館(40歳時)
1975年 パサディナハイツ(47歳時)
1976年 西武大津ショッピングセンター (48歳時)
1976年 松見タワー (48歳時)
1985年 境港マリーナホテル (57歳時)
1999年 島根県立美術館(71歳時)

極めて工期の作品に当たるようである。宿泊している「東光園」からはまさに20年の月日が流れた日に設計が行われた作品。初期のころの作品に見られる、なんとか建築の歴史に新しい一歩をという執念の様なアイデアと、時代を反映し技術を駆使した様々なディテールへの情熱。それらがどこかの段階から作品の中から消えて行ったことが良くわかる。それは同時に建築と言う極めて個人に追う部分が多きな職能で、オフィスの拡大とプロジェクトの規模の拡大、それに建築家自身の社会の中での役割の変化に伴い、設計過程への関わり方が変化したことが最終的な建築にどの様な影響を及ぼすかをよく締めていているのだと勝手に理解しながら建物を後にする。




みなとさかい交流館 高松伸 1997 ★


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所在地  鳥取県境港市大正町
設計   高松伸
竣工   1997
機能   客船ターミナル、事務所、浴場
構造   S造
規模   地上4階
敷地面積 5,080㎡
建築面積 1,120㎡
延床面積 3,500㎡
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凍てつくような吹雪から逃げるようにして、島根と鳥取をつなぐ鉄橋を渡り、再度戻ってきた境港。まさかと思って調べるとやはり境港市(さかいみなとし)と呼ぶらしい。

ナビに誘われて到着すると道沿いに建つ明らかに風景に似つかわしくないメタリックな建物。これに違いないと駐車場に車と入れると、どうやらここが「水木しげるロード」の拠点となる場所であるようで、いたるところに「ゲゲゲ」のキャラクターの看板が見受けられる。

建物は先ほど同様フェリー・ターミナル。それに物産館や観光案内施設、なぜか公衆浴場が併設されている複合施設。話を戻すがこの境港市(さかいみなとし)。南に隣接する米子市との合併を拒否し、独自路線を歩む事に決めたのだが、モータリゼーションのあおりを受けて衰退するなか、地元出身の漫画家「水木しげる」の知名度を利用して町おこしに着手し、1993年に800mの商店街に「ゲゲゲ」のキャラクターの銅像を拝した「水木しげるロード」が完成する。オープンと同時に運行開始されたJR境線の「鬼太郎列車」の人気を呼び、山陰有数の観光スポットへと成長する。

2010年には、NHKのテレビ小説において「ゲゲゲの女房」が放映され、それが「水木しげるロード」にも恩恵を与え、その夏には観光客数は悲願であった200万人を突破するというまれに見る町おこしの成功例である。

その流れを見て再度この建物の竣工年を見てみると、バブルは弾けたが「水木しげるロード」で観光客が訪れるようになってきたまさに上り調子の1997年。訪れた観光客が立ち寄れるような施設を増やせばより収益が・・・という思惑が透けて見えるような複合商業施設となった訳である。

建物はまさに「高松伸デザイン」と言わんばかりのメタリックでガンダム的なもの。それが内部の機能や空間になんら関係性があるかといえばそうでもなく、周囲の風景に何かしらの新しい刺激や価値を与えるかと言われればそうでもない、まったく意味の分からないものになっている。

とにかくインパクト。それが求められ、それが受け入れられた時代だと言えばいいのだろうか。雪の吹きつける冷たい山陰の冬景色の中、この建物を見上げているとなんとももの寂しげな気分になってくるのは自分だけではないだろうと思いながら次の目的地へと向かう事にする。






メテオプラザ 高松伸 1995 ★



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所在地  島根県松江市美保関町七類
設計   高松伸
竣工   1994
機能   フェリーターミナル、文化施設
構造   RC造、S造、SRC造
規模   地上4階
敷地面積 16,302㎡
建築面積 3,948㎡
延床面積 5,588㎡
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美保神社から岬の付け根まで戻って来て、先ほど渡った鉄橋を超えて日本海側に抜けて暫く走ると見えてくるのがこの「メテオプラザ」。

機能的には沖の先に浮かぶ隠岐の島へ運行するフェリーのターミナルと、こんなところにそんなものが必要かと思うほどの付属施設。それを一つずつ見ていくと、かつてこの田舎の港町に小さな隕石が落ちたことから、その隕石を展示する隕石博物館。言わずもがな、その隕石からメテオと名づけたと言う・・・

そして町民ホールに海水療法健康施設までつけられて何とも複雑な機能がごっちゃになった建物という訳である。1994年に竣工なので、まだバブルの空気が残る90年代初頭に、フェリーターミナルを新設するのにかこつけて、珍しい隕石をつかって町おこしと言わんばかりに、関係各社が好き勝手に欲しいものを付け足した結果の建物と言った感じ。

これがコンペによって選ばれたというが、やはり選ばれたのは地元島根出身のスター建築家・高松伸。今回の旅でも一体どれだけ彼の作品を見て回ったことか・・・

先ほどまでやんでいた雪も再度降り出し、日本海側の激しい風に煽られ、車のフロントガラスもあっという間に白く曇り、一度外にでると横から吹き付ける雪に晒される天候に戻ってしまった。

高松から直島程度の距離感でいたが、隠岐の島まではとんでもなく遠いらしく、「あわよくば渡ってみよう・・」と思っていた企てが簡単に打ち砕かれる。駅舎空港に匹敵する現代社会の海への玄関口となるフェリーターミナル。かつて香港でのコンペに参加下ことがあるが、その動線やセキュリティなどは相当複雑なものとなる。

それだけに建築的にも通常街中で見られるような建築とはまったく違った外形を必然的に持つことができ、それだけに人々が行きかい、集う場所として様々な可能性を持ったタイポロジーであるに違いないが、内部を見ても、長い海の旅に出かける高揚感を与えてくれたり、海の揺れから開放され、がっちりとした大地に足を下ろす安心感を感じさせてくれるような、そんな都市の玄関口としての空間は皆無の様である。フェリーターミナルという特殊な機能が生み出す建築の強い表現というのもなく、徹底的に異質なものが並置されているという建築家のボキャブラリーに終始している様である。

思った以上に隠岐の島へのフェリー料金が高いのに驚き、それと同時に、雪国の冬の海の便のそこはかとなく悲しげで冷たい待合室の空間に、まるで鎌倉時代に隠岐の島に流された後醍醐天皇の姿を重ねてしまうような気持ちになりながら建物を後にする。











2014年2月2日日曜日

仁摩町ふれあい交流館 高松伸 1993 ★

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所在地  島根県大田市仁摩町天河内
設計   高松伸
竣工   1993
機能   工房
規模   地下1階、地上1階
敷地面積 63,423㎡
建築面積 258㎡
延床面積 413㎡
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開館当初は予定を上回る来館者を誇ったという仁摩サンドミュージアム。その成功を後ろ盾に、今度は訪れる人に、より積極的に体験してもらえるような施設も併設し、地域コミュニティの中核施設に発展させようという町長の旗振りのもと、仁摩サンドミュージアム竣工から3年の後に、すぐ脇の敷地に建設されることになったのが、この仁摩町ふれあい交流館。

一体何をする施設かというと、ガラス工房を設置し、そこで訪問者が実際にガラスの制作を体験できるというもの。配置もミュージアムが埋められている丘の、アプローチとなる階段脇の断面に馬蹄形の建築を挿入し、丘の上からは馬蹄形をした水面の上を歩いて中心の螺旋階段から建物内部に入っていくというなんとも月9のトレンディドラマの撮影地になりそうな仕掛けである。

二階吹き抜けの空間には階毎に工房とショップが入っているが、螺旋階段で下りてくると、流石に背の高いガラス張りの吹き抜け空間ということもあり、完全に暖房された暖気が上に上がってきてしまい、上手く換気が行われていないようで上階では少々息苦しさを感じる。

訪れる前にはまったく違う敷地に二つの施設が建っているとばかり思っていたが、同一敷地の違う場所に同じ建築家による作品が3年という短い期間の中で二つも建てられたとても稀有な例であろう。それはいうなれば、発注側である町および町長からの建築家への厚い信頼の証でもあろうし、最初の建築の設計に対して、発注側がどれだけ満足したかの証左でもあるだろう。

時代によって求められるものも変わっていくのが社会と密接な関係を持つ建築の宿命。それでもその時々に敏感に時代の流れを感じ、施主の満足する設計を提供する建築家の手腕を評価するべきだろうと思いつつも、世代を超えて残っていく建築の持つ時間の長さから、見つめるべき時間のスパンもまたどれだけ延ばさなければいけないのかを思わずにいられない。







仁摩サンドミュージアム 高松伸 1990 ★


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所在地  島根県大田市仁摩町天河内
設計   高松伸
竣工   1990
機能   美術館
規模   地下2階
敷地面積 63,423㎡
建築面積 1,084㎡
延床面積 1,124㎡
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何で日本の文化施設はこうも早く閉館するのかと、9:00-17:00(受付終了16:30)という開館時間に恨みを吐きながら、スピード超過で捕まらないようにと気をつけ先を急ぎ、道を挟んだ側にある駐車場に車を停めて駆け足で階段を駆け上がり、なんとか受付に到着したのが16:25分。肩で息をしながらチケットを購入する。

「町おこし」のため、と掲げて作った施設であるなら、せめて完全に日が落ちるまでは開館しているべきではないだろうか。欧米の観光地では、日が長いのも寄与してだが、夜の21時まで空いている文化施設なんてざらである。大人が夜の闇の中で美しい照明に照らされた文化施設で優雅に観光をする。

それがどんな仕事の仕方をしていても、当たり前の様に税金にて給与が払われ、定刻に当たり前に閉館して家路に着く受付で働く地域のおばちゃん。文化施設と銘打つのであれば、少しでも訪れてくれる客に対して有意義な観覧をしてもらおうという姿勢があってしかるべきだと思うが、と訳の分からない八つ当たりが頭の中で渦巻くのを感じ、やはり時間の余裕が無いと人は品位を落とすなと自分を戒める。

さて、1990年に竣工なので1991年に弾けたバブル景気の真っ只中に計画・建設が行われたことになるこの作品。バブルの後押しを受けた建築業界の好景気。日本中で煌びやかな商業施設や後に「ハコモノ」と呼ばれる行政施設を設計しまくった建築家が何人か存在する。建築という経済に左右される宿命を持った職業だけに、それが良いか悪いかは別にして、「スター建築家」として青天井の予算で自らの設計思想を具現化する為にポストモダンの旗の下、なんでもありの建築を行っていたバブル期の建築家達。

建築家が建築物の計画構想を立ち上げるわけではなく、もちろん最初は行政などが色々と検討し、他の例を参考にし予算を獲得し、その計画のもと建築家を選定していく。その計画にそって設計を行った建築家が悪いかのように言うのは少々酷であるのは間違いない。

バブルという実体が伴わない景気に日本中が浮かれ、数十年後にはこの国の景気が後退し人口すら減っていく縮小社会に突入するなど想像して、その時代の社会も想定しながら建築計画を立てるべきだというのは流石に厳しすぎるだろう。

しかし山陰の小さな街で、なんら特別な産業があるわけでもなく、日本中から人を呼べるような観光資源がある訳でも無い街が、今後何十年に渡ってどのように街として存在していくか。それを真剣に考えたら、近くの浜の砂が「キュキュ」と鳴くような音がするからこれを使ったミュージアムを、地元出身の「スター建築家」に膨大な予算を元に全国から観光客が押し寄せるような目玉スポットを設計してもらえれば、後々まで語り継がれるような「町おこし」になって、この街がより活性化するだろう、とはなかなか考えられないと思う。

では何が背中を押したのか?

それこそが昔なつかしの「ふるさと創生事業」。当時の首相・竹下登の指揮のもと、1988年から1989年にかけて地方交付税交付団体となっている自治体に均一に使い道を自由とした1億円が交付された事業。まさに「ばら撒き」と揶揄されてもしょうがないとんでもない税金の使い道である。その竹下登の地元もこの島根県。何たる縁と思わずにいられない。

しかし、全国にばら撒かれた1億円がどのように使われたかを30年近く経った今となってはあ、その使い道の結果を見ることで、当時の各地方自治体とその首長が一体どんなビジョンをその自治体に持ち、どんな幸福な未来を見つめていたのかが良く分かる。


村営キャバレーを造ってしまったところもあるようなので、決してこの「サンドミュージアム」を構想した町長が政治家として悪かったということはなく、むしろ少しでも将来につながる地元の観光地を残す方向で税金を使用としたことは評価に値するだろう。

延床面積が1,124㎡なので、総工費がその「ふるさと創生事業」の交付金である1億円で賄えたとは思えないので、総工費が合計でどれだけになったかは定かではないが、間違いなくこの「ふるさと創生事業」の交付金の存在が「ゴーサイン」を出すことに寄与したのだろうと想像する。

さてこの街出身の高松伸。バブル期に京都の街中に多くの奇抜な設計を残した建築家でもあるが、この仁摩町出身と言うこともあり、地元出身の大建築家ということで山陰地方には多くの高松作品が残されている。その設計を廻っていくと、時代と共に大きく作風が変わっていくことが良く見て取れる。

さてさて、このサンドミュージアム。ルーブル美術館を思い出させるようなガラスのピラミッドが丘の上に鎮座し、その中の最大のピラミッドの内部には、全ての砂が落下するのに1年かかると言う世界最大の砂時計が展示されている。

まさかとは思ったが、その構想のヒントとなったのは、エジプトの3つのサイズの異なったピラミッドが呼応する風景であるという。「なんと直裁な・・・」と思わずにいられないし、「なんでエジプトのピラミッドがこの山陰の地に関係が・・・」と思わずにもいられないが、それがポストモダンだったんだといわれてしまえばそれまでなのだろうか。

兎にも角にも、建築家にとって、この山陰の地に必要なのは、強烈なシンボリズムを持った建築だったということだろう。

昨年、新国立競技場の国際コンペの結果について、その規模が今後の東京の社会に相応しいものかどうかを問う誠意と勇気のある建築家の声が社会を動かした。世のほとんどの建築家が、自己実現の為に得られる機会はできるだけ利用し、与えられた条件を受け入れてその中で自ら求める、そして目指す建築を設計する。その中でその前提条件に対して疑問を呈すことは相当に難しいことになる。

ただし、バブルに踊り、社会の不良債権を残した前世紀の日本の姿を見て育った我々世代の建築家は、数十年と言う長いスパンでその社会を眺め、本当にどんな公共の場が必要であるのか、こんな小さな街にこれほどの施設をどうやって維持し、使いきっていけるのか、身の丈にあった、コミュニティに適した建築とプログラムとは何なのか、ということを常に問い続けていかなければいけないのだろうと思わずにいられない。

『私と建築』、『私と建築2』など素晴らしい建築に対する言葉を紡いできた高松伸。素晴らしい建築家の眼差しを感じ、学生時分の自分も大いに影響を受けた著書。それらを読む中で、「こんな世界なら自らの一生費やしてもよいのでは」と十分に若者の心を掴んだものである。

優れた理論家が優れた設計をするとは限らないのが建築の難しいところであり、それでも優れた理論を振りかざす建築家が力を持つのもまたアカデミズムとして存在する建築の宿命である。そんなことを考えながらも、夕日に照らされた3つのピラミッドの風景もまた、この地で育つ子供達の原風景となっているのだろうかと思いを馳せる。