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2014年5月22日木曜日

担当者と同化する

良い建築に足を運び、必死に建築を見ることは、設計に時間を費やし、自分の情熱も時間も全て捧げてきたその事務所の担当者と同化することと同じである。

建築ではどんなに小さな建物でも、通常一年以上かかる設計を経て、行政からの許可を得てから工事を開始し、様々なことが起こり、それを解決することが求められる現場の監理。そんな訳で少なくとも2年ほどはかかる行程の中で、事務所の中で進行する全てのプロジェクトを統括しなければいけない代表に代わって、最前線でプロジェクトに向き合い、全ての関係者との間に入り調整をし、やりたいこととやれることの中で自分の経験を総動員しながら、足りない知識や経験は学びながら全身全霊を傾けるのはその担当者。

プロジェクトの規模にも拠るだろうが、大学を出て何年か実務を経験し、一人でプロジェクトを統括できるようになってきた時代にまかせられるのが担当者。その担当者がどれだけの情熱や思いを持って向き合うか。そしてその過程でその担当者が何に悩み、何を苦しみ、何を学び、何を決定してきたか。その全ての時間と全ての苦難の結晶が、目の前に建っている建築である。

一つ一つのディテール、素材、照明、目地、サッシ周り、足元のデザイン、アプローチ等々、全てがその担当者がこの世の中で一番時間をかけてこの建物に向き合い、彼が一番良いと判断して事務所の代表のOKを取ってきたものの積み重ねがその建築である。

予算、法規、施行可能性、施主の要望、機能性、事務所の方向性等々、様々な要因がありながらも、やはり担当者の好みや個性が必ず出てくるのが建築。その必死に過ごした時間の結晶からは多くのことが学び取れる。

どうしてこの納まりはこうなっているのだろうか?
なにがその決定を後押ししたのだろうか?
そんなことを考えながら一つ一つその背景を読み解いていく。
建築を見ることは、ある種その設計過程を読み解くミステリーの様なものである。

しかも、その設計者の手を離れ、実際に使われるようになってから分かってきた様々な不具合。つまり設計者が想定しきれていなかった自然との折衝。それが生のものとしての、人間を相手にする建築の宿命。そのような「設計以後」の状態も見ることが出来る。

恐らく多くの設計者が、そして担当者が竣工後に月日を重ねて見えてくる現象に、不具合ではないが使われていく中で「ああ、あそこはああしていれば良かったな・・・」などと思うことがある。実際に使われている建築を見て、その「ああ・・・」という担当者の思いまで想像することで、更に設計能力を向上することが出来る。そうした未来に繋がる発見こそ、一番学ぶことが出来る部分である。

そんな担当者が血の滲むようにして過ごした何ヶ月、何年の月日を余すことなく出来るだけ吸収してしまうこと。掻っ攫ってしまうこと。一生の中で実際に設計に携われる物件の数は必然的に限られてしまう。しかしこういう見方を持って訪れることが出来る建築の数は、交通の便が向上した現代においては人類史上最も建築体験をすることが出来る時代に入っている。

つまり、古代から現代に至るまで、様々な人々が設計してきた建築を体験し、そこに蓄積された人類の英知を全て吸収してしまうことが可能なわけである。

その為にはその建築の前で、自分ならこの敷地条件においてどう設計を始めるか。どうボリュームを置いて、どう機能を解いていくか。どう動線を配置し、どんな素材を採用し、設備はどうしたか、その設計過程を想像してみることが必要になる。

設計の中で何処が難しかったのか。担当者としてどこがチャレンジをしている部分か、どこで悩み、苦しみ、先輩に聞いたのか、それに思いを馳せることが必要である。

いくら若いスタッフといえども、建築という道で学び、そして自分の人生をかけている人物が一年以上もの時間を必死に向き合ってきた設計。その力は凄いものがあるはずである。それを全部吸収してしまうことは一体どれだけの価値になるのだろうかと思わずにいられない。

その担当者が犯してしまったミスから学ぶこと。
人のミスを自分のミスとして悔しがること。
なぜ設計の過程でその要因を見ることが出来なかったのか。
今の自分は見えないなにを今見なければいけないのか。

そうして過ごす時間が建築家としての職業的能力の向上を加速させる。

コルビュジェから学ぶこと。
雪舟の視線を奪うこと。

彼らが感じた「しまったなぁ・・・」ということを感じること。

離見の見(りけんのけん)から更に先へ。
歴史の先達の視線を借りて、その先に何を見ていたのか、
その境地の先にあった更なる世界を見ること。

建築巡礼の旅に出て、数多の歴史上の建築家の視線と同化し、多くの担当者の時間を垣間見る。そうして戻ってきた時には何倍もの経験値を身体の中に蓄えるような旅を建築家は人生の中で何度も繰り返すべきである。

2013年11月22日金曜日

忙しさとストレス

誰でも出来ることなら忙しい日々は送りたくないものである。しかし生きていくということは、非常に大変なことである。生きるためにお金を稼がなければいけないし、その為には働かなければいけない。働くことが楽しいばかりではないのは世の中の誰もが知っていることであるし、ほとんどの仕事は毎日苦難が大半を占めるのもまた同様。

そればかりではなく、生きていくうえには家庭に関する様々なこともこなしていかなければいけない。掃除、洗濯、料理、片付け。収入と家庭の将来計画に沿って月々のやりくりをしなければいけないし、現代社会で生きていく上の様々な必要なやり取り、保険、年金、光熱費、通信、様々な手続きは増えるばかりで上手く正確に処理していかなければいけない。

子供ができれば、自分で自分の世話ができない子供の為に多くの手間をかけてやり、親が高齢化すればまた大きな世話を引き受けていかなければいけない。それほど現代社会で生きていくのは大変なことである。

誰もが「あーーーーーーーーー」と叫びたくなるような物凄い量のやらなければいけないことを抱えながら、それと比例するストレスを脳に与えながら生きている。もちろん誰もがそれに耐えられる訳でもなく、その忙しさとストレスの最前線から一線を引き「ニート」や「引きこもり」という鎧を纏う人もいれば、なんとか楽をして生きようとする人もいるだろう。

その為には親の手厚い保護が必要だし、それも永遠に続く訳ではない。それ以外で考えると物凄い資産家の家に生まれるか、もしくは特殊な金儲けの手段を手に入れているか、もしくは週に数日だけ働いて十分に稼げるような芸能人のような特殊技能を身につけている必要があるし、そうでなければ自ら起業して自ら関与しなくてもいいようなシステムをつくっていくしかない。そのほかで考えれば、株などの金融商品で労働無き富を得ていくという方法もあるだろう。

が、一般的に生きていれば、到底そんな生活は望めるべくも無く、誰もが忙しさの中ストレスを抱えながら日々を生きていくことになる。

その「忙しさ」だが、例えどんなに忙しくても、心がギュッと締め付けられるような「ストレス」を感じない仕事の内容、例えばその場に居ることが重要であり、何かを考えたり、何かを解決したりすることを期待されず、ただただこなしていけばいい「量」の「忙しさ」であれば、恐らくその負担が身体に与える影響は物凄く違った意味を持つのだろうと思わずにいられない。

現代社会である程度の責任のある職務をこなしていくとなると、そんな仕事を求められる訳ではなく、自ら職業的能力を発揮し、日々止め処なく発生する問題を会社の利益を考慮しながら限界まで精神を追い込まれながらもなんとか処理していく、そんなギリギリのストレスのかかる仕事がほとんどとなってくるはずである。それをこなしていくからこそ、その人の職能も向上し、更に上の職責を与えられ、できることも拡大していく。

「頑張ったけど出来ませんでした。次は上手くいくように努力します。」で、「大丈夫、大丈夫。なんとかなるから気にしないように」とカバーしてもらえる大らかな仕事の在り方は既に望める訳も無く、その凶暴性をむき出しにした国際競争時代の現代では、「あなたができなければその地位を望み、その為に努力を惜しまない多くの人間が待っている」というなんとも過酷な時代になっている。その中でも、競争に勝ち、より上で勝負を望むのであれば、過酷な「ストレス」伴う「忙しさ」を日々、涙を呑みながら享受していかなければいけない。

なぜそんな過酷な「忙しさ」と「ストレス」を日々受け入れて生きていくのか?それは自分一人の為であるならば、相当な高い自己実現への野望を内に秘めていなければならないだろうが、多くの人間がそうではなく、やはり「家族」の為だからこそ、受け入れられるのだろうと思わずにいられない。そう思うことでのみ、日々への意味づけが成されることになる。

こんな時代だからこそ、今まで別々に「忙しさ」と「ストレス」に向き合ってきた大人二人が生活を共にしていく現代の結婚というのは今までとは違った意味を持ってくるのだと思わずにいられない。

二人が共に生きることで、二人とも全方面に「忙しさ」と「ストレス」を被るのではなく、この部分はこちらが担当し、この部分はもう一人が引き受けるという役割分担することによって、一人ずつで生きていたときよりもお互いの負担、感じるストレスを少なくしていける。それが現代社会における結婚の大きな効用でもあるだろう。

自分の為ではない、家族の為に生きること。それが行動の判断基準になること。それが大人になるということであり、結婚して共に生きていくことだと改めて思う。如何に自分よりも家族を上位において物事を捉えられるのか?そんなことを思うのも今日が「いい夫婦の日」であり、結婚記念日であるからだろうと思わずにいられない。