2013年8月31日土曜日

「神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる」 鎌田東二 2000 ★★


ここ数年、とにかく日本の古いものが気になってしょうがない。寺もいいがやはりなんといっても神社。そして神道。

現代の様にちみちみ切り分けられた土地になんとか法規一杯にボリュームを建てて建築を競う日常と比べると、何十年と時間をかけ、自然の力が湧き出るような場所を探し出し、そこで一番良い配置計画を考える。寺の様に建物が主役となるのではなく、あくまでもその場の空気、自然の持っている力を一番感じれるようにするのが神道の建物の役割。いわば、人間と自然を繋げるデバイス。

古代から世界が小さかった原始の人間。彼らが目にした自然の驚異の風景。そこに畏敬の念を感じ、当然の様に繋がっていく自然信仰。巨石、滝、洞窟、大きな樹木。自分が生まれ死ぬ時間をはるかに超えた時間を生きている自然。その場を自分達が一時だけ借りて住まわせてもらう。そのリスペクト。

そして仲間内からとりわけ、感覚が鋭いものが出てきて、どうやって参道を配置し、どうやって建物を配置したら一番自然の力を感じやすく、受け取りやすいかを考える。その自然の力に八百万の神(やおよろずの かみ)の姿を見るようになっていく。

という原始の信仰の開始の形はおぼろげながらに想像できる。それだけ多種多様の自然が生息する豊かなる日本列島。

そしてその感覚を理解する為に、様々な場所で長きに渡って地元を見守りつけてきた神社空間、神域を巡るようにしている。多く回るほどに、神道の大よそのフレームは見えはじめ、「ここはいいなぁ・・・」なんていう空間性も肌で感じるようになってくるのだが、そうなるとより体型立てて理解したくなるのが人の常。

百万の神(やおよろずの かみ)がどうやって日本書紀に出てくる神話の世界とつながり、どういう経緯を経て社殿が建てられ、鳥居が作られ、参道が整備され、伊勢神宮、出雲大社、そして全国に散らばる様々な神社の体型が整えられたのか?そして天皇家とつながり。そこへ仏教が入ってきて、体系だった仏教の世界との距離感。それに対して古来の神道をどう位置づけていくか、神仏習合、神神習合のプロセスから近代神道への移行。

そんな基本的なところを知るのに良さそうだと手にしたこの一冊。現役の神主であり、宗教学者である著者が、高校生の息子に神道を分かってもらうようにと書いた入門書というので、自分のレベルにも合うはずと読み進める。

神道とは教えではなく道。他の宗教の様に教祖がいて、絶対的な教えがあるのではなく、ただただ神の道と神への道。その大らかな構えはどんなものにも融合し、最終的には吸収して一部としてしまう懐の大きさ。そして神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだとする。自然の力を感じる事、すなわち神道。

部分的になるほどと思えるところは多いのだが、どうも期待していた体系だった神道が理解できる一冊ではないようである。というのも、神道というのはもともと明確な輪郭を持ったものではなく、いつも境界線が曖昧にぼやけているような、つかみどころの無いものなのだからかもしれないと本を閉じた後に思う様な一冊である。

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目次
プロローグ
・尾万里にはどのような意味があるのか
・お守りの心理医学的効果
・処女の陰毛は受験合格のお守りか
・形見に託された思い
・厄年の根源的意味

第1章 神道の環太平洋ネットワーク;
1 遺伝子に内蔵された神道精神
・名状し難い望郷の念
・「奥」である沖こそ先祖のふるさと
・阿波踊りのリズムとバリ島の祭礼
・伝承的宗教の考察法
2 環太平洋文化と神道
・法螺文化とふんどし文化
・神社は資源・経験のストック
・災害も一つの創造力
・大地のコスモロジーこそ「神ウェイ」

3 近代文明の思考法との対立
・神中心主義から人間中心主義への転換
・自然中心主義は人類の遺産

第2章 日常に宿る神道;
1 外国人が感じる自然の神
・進化論的視点から見た文化的偏見
・ハーンの西洋中心主義を逸脱した心
・ハーンはなぜ神道精神を理解したか
・詩的理解こそ神道の真髄
・「となりのトトロ」の童女メイ
・自然の霊性に通じ合う

2 日常生活に浸透は生きているか
・「この空気そのものの中にいる何か」
・「台風銀座」で感じたグレート・スピリット
・「祭り」の持つ4つの意味
・「祭りの無い神道はない」
・「ハハハ」は感謝の思い
・ディープエコロジーとつながる祭りの精神
・習俗の中に見る姓名に対する畏怖

第3章 神と仏はなぜ習合したか―神道の原像と展開;
1 縄文以前から神道はあったか
・「神道」が始めて分権に出てきたのはいつか
・「縄文」土器の語源
・神道の期限は弥生時代ではない
・渦巻きは生命の循環と再生の象徴
・貝塚も単なるゴミ捨て場ではなかった

2 神神習合の段階
・日本は習合文化の国
・二つの稲作起源神話
・八百万の神は天孫降臨神話以前から やおよろず
・仏教導入は文明開化のため
・聖徳太子のシャーマン的能力
・中国と日本の律令制の決定的違い

3 神仏習合に向かう萌芽 ほうが
・神木から作られた日本最初の仏像
・神仏習合は神神習合の一ブランド

4 吉田神道の登場
・本地垂迹思想と反本地垂迹思想 (ほんじすいじゃく)
・伊勢神道の思想運動
・」神道五部書」お外宮神学
・唯一宗源神道としての吉田神道
・「加茂川の水がしょっぱくなる」
・兼倶はなぜ大嘘ともいえる芝居をうったか

5 江戸時代における神道を取り巻く思想
・戦国武将が神として祭られる理由
・日本の習合思想は「着せ替え人形」
・鈴木大拙の日本的霊性論
・中背新仏教の始祖たちの神道的感覚

第4章 神仏分離令と民衆宗教―近現代の神道;
1 ディープエコロジーへの道
・本居信長の「古事記」崇拝
・お化けの研究が明かす日本の神々
・神仏分離令がもたらした負債
・神道と仏教のあり方を問う景気に
・人者神道は宗教家?
・「エコロジー」を最初に使った南方熊楠

2 明治民衆宗教の功罪
・現人神は天皇だけを現していなかった
・明治官僚が感じた民衆宗教の脅威
・天照大御神との一体化
・大本教の世直し運動
・オウム真理教事件につながる棚上げされた問題
・隠された神の復活
・教の「自分探し」に直結する神観革命



第5章 神道を日常生活にいかす;
1 伝承文化の見直し
・「あらたま」は新しく蘇った魂
・年の魂が象徴化された餅
・命を表す二つの枕詞
・文化的八百万主義

2 センス・オブ・ワンダー -自然との接し方
・古語には無い「自然」という言葉
・シシガミに宿る自然感覚
・生命中心主義が共生の思想を生む
・共生を超えた属生・拠生
・「センス・オブ・ワンダー」を取り戻せ

3 神道と詩的芸術的完成
・芸術こそが宗教の母
・芸術家は一種のシャーマン
・「センス・オブ・ワンダー」の息づく短歌
・「気」のレベルでの食べ物 
・創造性に満ちた生活のために
・「センス・オブ・ワンダー」に最も近い子供の歓声
・感覚の解放こそ芸術の根源
・真のつりあいとしての祭り


第6章 これからの神道
1 神仏集合論の再発見
・日本の文化はハイブリッド文化
・神は在るもの、仏は成るもの
・神は来るもの、仏は往くもの
・神は立つもの、仏は座るもの

2 祭りの再発見と新しい祭りの創造
・祈りは個人の行為、祭りは共同体の紐帯 ちゅうたい
・振興的精神の復活
・ボランティア活動としての奉納
・世界各国の神々との結合
・阪神淡路大震災の教訓
・友愛の共同体を築くために

神道とは何か - あとがににかえて
・おめでたい人ではなくありがたい人
・宇宙は何でもあり
・自然崇拝こそ神道
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「利休 [RIKYU]」 勅使河原宏 1989 ★★★★

随分前にその脚本は読んでいたのでいつかは見ないとと思っていたこの映画。野上彌生子の原作に監督は勅使河原宏。そして脚本は赤瀬川原平となんとも豪華な顔ぶれ。

「詫び・寂び」という概念は、どんなに長く海外に住んでいても、同じ文化体験を経ていない人間に伝えるのはとても難しい。自分の語学能力の低さのせいもあるが、ほぼ無理なのではと思い始めている。

そういう時にこのような映像というメディアがあるのは非常に助かる。どんなアブストラクトな言葉よりも、暗い茶室の中で一輪の花を生け、一杯の茶碗を中心にして向き合う茶の湯。見えないものを見えるものにする茶の湯の世界。それを視覚体験でも見てもらう事はとても意味がある。

そういう意図ではないのだろうが、あくまでも最初から外に向けて深い日本の文化を伝えるようなつくりになっている。そして画面を彩るのは押しも推される名優ばかり。

その中でも千利休の三國連太郎と豊臣秀吉の山崎努。以後どんな本を読んでも恐らく自分の頭の中にはこの二人に姿が思い浮かんでしまうと思えるほどの名演。両者共に、静と動、巣晴らしい対比を見せる迫力の演技。
  
この映画の素晴らしいところは、長い一人の一生を描くのに1時間半や2時間という映画というメディアの持つ宿命として時間の束縛を受けるのだが、監督が勇気を持って十分な「間」を持たせているところ。恐らく利休という人は、本当にこういう自分の時間の流れ、ゆったりとした動作で生きた人なんだろうと思えてきてしまう。

前編にわたる緊張感。いつの世も文化と権力の距離感は難しく、信念を曲げない文化人の生き方と、文化を庇護する為に権力との距離感を保つそのバランス感覚。

ほんの少しのボタンの掛け違いから、どちらも引くことができない場所まで行ききってしまう。利休と秀吉。どちらも天下を取った人間同士。引くよりは、信念に沿って綺麗に散る。それだからこそ、人の一生と言う時間の枠を声、現代まで何百年も美しき所作として残るものを作り上げる事が出来た。

目の前の事。一生の事。そんな個人の時間スパンに縛られてしまう現代。その中でも、何かの道の上を歩き、この世に何かを残そうとする人間はどれだけ遠くを見て時間を過ごせるかと問われているような気分になれる名作。


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スタッフ
監督 勅使河原宏
脚本 赤瀬川原平・勅使河原宏
原作 野上彌生子
製作総指揮 奥山融
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キャスト
三國連太郎 千利休
山崎努   豊臣秀吉
三田佳子  りき
松本幸四郎(9代目) 織田信長
中村吉右衛門(2代目) 徳川家康
田村亮  大納言秀長
岸田今日子  北政所
井川比佐志  山上宗二
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作品データ
製作年 1989年
製作国 日本
上映時間 135分
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2013年8月25日日曜日

「オリンピックの身代金 上・下」 奥田英朗 2011 ★★

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第43回(2009年) 吉川英治文学賞受賞
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夜、家に帰ろうと駐車場から自転車に乗り込んでオフィスの前を曲がって胡同に入っていく。東京の様に夜も昼間の様な明るさを持つ街ではない北京の更に毛細血管の様な胡同の中は夜になればすっかり闇に包まれる。

そして最初の角を曲がるところで、暗闇の中にうずくまり、道に面した扉を開けばすぐにベッドが置いてあるという、なんともシンプルな家の中から伸ばされたホースの口を側溝のグレーチングに向けて、流れ出る水を使って気持ち良さそうに豪快に歯を磨いているおじさんがいる。もちろん上半身は裸。

周りを気にする様子も無く、あかたもここで歯を磨くのが、朝に太陽が昇ってくるのと同じくらい当たり前かの様にゴシゴシと音が聞こえてくるくらいに磨いている。恐らく日が昇るのと同じくして目を覚まし、この胡同内部なのか外なのかは分からないが、肉体労働と呼ばれる仕事場で身体を動かし、家に戻って夕食を食べ、日が沈んだこの時間には当たり前の様に一日を終えようとしているのだろうと勝手に想像する。

日が沈んで暗くなったら寝る。21世紀のメトロポリスとなった北京のど真ん中に置いてもその当たり前は変わらない。とてもシンプル。恐らくそういう生活なのだろう。起きて、働き、食べて、身体を動かし、一日を終えるために寝る。まさに人夫(にんぷ)と呼ばれる力仕事に従事する労働者。

プロレタリアと呼ばれることも意識せずに、不満はありながらもそれなりに楽しく一日を終えていくのだろうと勝手に想像する。マルクス主義に煽られるようなブルジョワジーとの争いを経ることなく開催された2008年の北京オリンピック。恐らく東京の時とは比べ物にならないほどの人海戦術で整備が進められ、遅れてきた大国はここぞとばかりに近代化を一気に進め国際社会の表舞台へと進み出る。

スポットライトが強烈であればあるほど、床に描かれる影もまた漆黒の闇の様に深く、多くの人夫達の献身の上にその虚構が積み上げられたのだろうというのは想像に難くない。オリンピックと言う舞台が、その時の主人公である国が何を目標に掲げているのかを照らし出す。国民が同じ夢を持つことがまだ可能かの様に「同一个世界同一个梦想」と掲げられたスローガン。

「一つの世界、一つの夢」

2020年のオリンピックが二回目の東京に決まりそうなそんな時期に、東京中が埃にまみれながらも、戦時中とは違った意味での「お国の為に」という国民共通の夢の中で時間が進んでいた時期の話を読む。

50年前の1964年の東京オリンピックは、戦後から復興を遂げ、国際社会に復帰する宣言の様に行われ、持てる才能を適材適所に登用しながら、東京を世界の大都市へと変貌させた国家事業。

オリンピックという、国家が大手を振って税金を湯水の様に投下できる大義名分。その流れ落ちる金の先には、数多の利権に群がる企業群。オリンピックと言う一ヶ月の祭典の為に、それまでの何年にも渡って麻薬の様にある種の思考停止に陥りながら、近代以前には決して行われることの無かった都市改造を可能にする。

その光のど真ん中に立つ東京。それは同時に、東京と地方との格差を拡大する。と同時に、東京の中でも上部構造に所属する人間が享受する利益に対し、それを支える下部構造に所属する労働者との格差を助長することにもなる。

そんな成長する国家の中での摩擦に、労働階級の兄の死を契機に葛藤しだす主人公。その怒りの矛先は、シンボルとなるオリンピック開会式。

犯人も分かっていて、手口も明らかにされている。その為に最初は「何を読まされているのだろう?」と訝しみながら読みすすむ。時間が前後するので、筋を掴みながらついて行きのに苦労するが、「もう犯人は分かってるんだろう?どうやって最終的な犯行に及ぶかをドキドキさせながら引っ張るのか?」なんて心配してしまうが、そこはさすがベストセラー作家の腕の見せ所。結局飽きることなく、その上犯罪者である主人公に感情移入までさせられながら最後まで読みきってしまう一冊。

さぁ、次のオリンピックに向けて、東京にはどんな光と影が現れるのだろうか楽しみだ。

2013年8月24日土曜日

「モンスターズ・ユニバーシティ」ダン・スキャンロン 2013 ★


言わずと知れたピクサー映画。トイ・ストーリーのカーズと合わせて、シリーズ化された人気作品。すでに3作くらい作られていると思っていたがこれがシリーズ2作目。ディズニーランドのアトラクションの印象が映画とごっちゃになっていたのかと思いながら、やはりこういうのはぜひ映画館がということで、公開日に3Dで見ることに。

前日に妻と一緒になって始めてネットでチケットを購入し、45元(700円ほど)と日本よりは比較的に手がでやすい値段ということもあり、時間があるときはよく二人で足を運ぶようになったこの頃。

内容がどうのこうのというよりも、やはりアメリカの大学の在り方がよく描かれているのが楽しめる。次の週にアメリカ人のスタッフに、「本当にあんな風なのか?」と聞くと比較的大人しい彼は気恥ずかしそうに「毎日どっかで何かのパーティーをやっている」と。

「ソーシャル・ネットワーク」でも描かれるように、本当にこういうサークル文化があるんだろうかと調べてみると、やはり映画のモチーフはアメリカの大学の伝統的なサークル文化フラタニティとソロリティという男子寮、女子寮あるいは学生のための社交団体がモチーフにされているという。

ピクサーアニメもそろそろ見慣れてきて、当初の衝撃はなかなか受けなくなってきたなと思いながら、もし将来子供ができ、留学したいと言い出したら、やはりイギリスだろうなと思いながら映画館を後にする。
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スタッフ
監督 ダン・スキャンロン

キャスト
マイク・ワゾウスキ(マイク);ビリー・クリスタルマイク
ジェームズ・P・サリバン(サリー);ジョン・グッドマンサリー
ランドール・ボッグス(ランディ);スティーブ・ブシェーミランディ
ハードスクラブル学長;ヘレン・ミレン
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作品データ
原題 Monsters University
製作年 2013年
製作国 アメリカ
配給 ディズニー
上映時間 110分
映倫区分 G
上映方式 2D/3D
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2013年8月18日日曜日

オペラ 「フィガロの結婚」 ボーマルシェ NCPA 2013 ★★


前回「ホフマン物語」を見に行った時同様に、仲良くさせてもらっているご夫婦に誘われて卵型のオペラハウスへ足を運ぶ。

何でも随分人気があるのか、通常販売のチケットは売り切れだが、どうにかならないかと売り場に足を運んだら、外にいるダフ屋らしき人物からチケットを買えたから一緒に行こうということ。

ただしそのチケットが正規のものかどうか怪しいので、当日正面玄関で待ち合わせて、チケットを渡した後、自分一人が先に入場できるか試すから、それを遠目から見ていて、問題がなかったら入ってきてくれればいいと、本気なのか冗談なのか良くわからない調子で誘ってくれる。

問題なく入場できることができ、いつもどおりに18:30分開幕なので世話しなくサンドイッチを平らげて、一番大きなオペラハウスではなく、小さい方のシアターの上階席へと駆け足で向かう。

今回の題目はボーマルシェが1784年に書き下ろした「フィガロの結婚」 。モーツァルトも作曲でもおなじみのこのオペラだが、「ピーピピ、ピピピ、ピーピピ・・・」というとても伸びやかな曲に気分も高揚する。

付け焼刃で前日に妻が予習した内容を掻い摘んで教えてもらうと、なんでもフィガロ三部作と呼ばれ、主人公のフィガロの生涯を描いた三つのオペラの第二部に当たるという。第一部が『セビリアの理髪師』。第三部が『罪ある母』。そして第二部がこの『フィガロの結婚。つまり前作のお話の続きという訳らしい。

舞台は18世紀半ばのスペイン・セビリア近郊のある伯爵邸。前作「セビリアの理髪師」で、床屋としてこの伯爵とその妻となるロジーナの仲を取り持ったのが主人公フィガロ。そのご伯爵の家来となっているが、今回は伯爵夫人、つまりロジーナに使えているスザンナと結婚をしようという場面。

問題はその伯爵がどうにも好色で、スザンナをどうにかしてやろうと思っていること。対して伯爵夫人は旦那の浮気性に困っているが、同時に伯爵の小姓でイケメンのケルビーノに迫られてもいる。

フィガロといえば、年上の女性であるマルチェリーナに思いを持たれ、以前貸した金が返せないなら結婚しろと迫られている。そのマルチェリーナと共謀するのが医者のドン・バルトロで、男爵夫人のロジーナと結婚したかったがフィガロの活躍で男爵に取られてしまったので、フィガロに復讐心を燃やしている。

などなど、兎に角複雑な人間関係が織り成す喜劇。一緒に観劇した博識のスコットランド人によれば、フランス革命前夜のフランスで、多分に貴族階級への風刺を込めたオペラとなっているという。奥深い・・・

その説明を聞きながら、「しかし初夜権(しょやけん)とは凄いことを考えるな貴族達は・・・」と思いながら、第一幕の開幕。妻に耳打ちされながら、誰が誰かを少しずつ把握していく、と同時にのびやかな音楽にアルファ波も解放され次第に睡魔に誘われていく・・・

うつらうつらしながらも、断片的に物語を追っていき、連続で演じられた第二幕が終わったところで15分の休憩。既に一時間半も経っているのに驚きながら、外の通路で先ほどの食べかけだったサンドイッチを頬張り、中に戻ろうとすると事務所のスタッフとバッタリ会ってしまう。「オペラ好きなの?」と聞くと、たまに来るらしい。

こうした場所で思いもよらない人に会うのは、なんだかまったく知らない一面を見るようでなんだか嬉しくなる。オペラ観劇なんていうのは、まさに大都会の特権。文化的娯楽が享受できるだけの規模を住んでいる都市が持っていることは何とも有り難い事である。

そんなことを思いながら気合をいれて残りの二幕に集中する。喜劇らしいドタバタの展開で、会場から笑いが起こる場面も何度もあり、誰でも楽しめるような内容になっている。押し寄せるアルファ波に流されそうになりながら、なんとか足を踏ん張り最後まで耐えて外に出ると既に10時前。

「今回のチケットは宝くじみたいなものだからお金はもらえない」と頑なに拒む友人に、何とか正規料金だけでもとお金を渡し、次は9月のヴェルディの仮面舞踏会(A Masked Ball)のチケット入手を頑張ろうと約束し家路につく。

2013年8月17日土曜日

人は今の自分を肯定しないと生きていけない

人は誰でも今の自分を肯定しない限り、とてもじゃないが生きていけない。

「では何故肯定しないといけないのか?」

それは人が100%の満足感を得ながら生きていくのは無理な生物であるからであろう。動物であれば、食が足り、危険を避けることができ、快適な暮らしがあれば問題ないのかもしれないが、「悩む生物」である人間は、人生のどんな段階においても何かと悩みを抱え、それを自分なりに処理しつつ生きていく。

大きな会社で働く人間にとっては、小さくとも自営で自分の好きにやっている人間が羨ましく見えるだろうし、逆に自営でやっている人間にとれば、安定した毎日が送れる会社員が羨ましく見えるものだ。

結婚している人間にとっては、独身は気を遣わなくて自由を謳歌しているように映るだろうし、独身の人間にとっては誰かと過ごす時間がある所帯持ちが羨ましく映るもの。

知的労働をする人間にとっては、肉体労働者が直接的な労働でストレスが少ないだろうと羨ましく思い、逆は肉体的苦痛を伴わなくていいなとやっかむ。

つまりは、人間はどんな場所で、どんな風に生きていようとも、必ず社会の中での自分の立ち位置を直視し、他の人の立ち位置を眺め、どうしても比べてしまう。そして自分が持ってないものを羨ましく思うものである。

しかし立場立場によって、羨ましいと思えるものもまた変わってしまう。

つまりは、一番大切なのは何を羨ましいと思うかではなく、今の自分が持っているものをちゃんと知り、その価値を理解することである。そして自分の人生にとって何を肯定すべきなのかを再度見つめることであろう。

安定なのか、
刺激なのか、
収入なのか、
家族なのか、
やりがいなのか、
名声なのか、
生活なのか、
羨望なのか、
嗜好品なのか。

全てを得られない訳でもないが、優先順位がつまりはその人の人生。

「誰か」の価値観で肯定をするよりも、自らの肯定を積み重ねていくことが必要なのだとつくづく感じるこの頃である。

「パッチギ!」井筒和幸 2004 ★★★

塩谷瞬
高岡蒼佑
沢尻エリカ
真木よう子
小出恵介
オダギリジョー
ケンドーコバヤシ
桐谷健太

その後、まぁ様々な方面で世間を騒がすことになった俳優人達の若き出世作と謳われてはや数年。在日朝鮮人をモチーフにしたヤンチャ青春映画で、後々騒がれることの多い芸能人が多く出ているためによく引用されるだけの作品だろうと毛嫌いしていたが、ふと見てみようと思い立って見ることにする。

これが予想を大きく裏切る形の良作で、後半に向かって感動が押し寄せる。良い歌と純粋な若者のコラボレーションは間違いないと再認識。強く故郷を思う歌、自分の感情を歌うのではなく、民族としての思いを託された歌にはそれだけの力がある。

その思いを若さを使って必死に演じる若者達。その後、色が着いてしまった役者達ではあるが、なんとも純粋な演技で心を打たれる。

自分の無力さを感じ、それでもラジオで「イムジン河」を歌うシーン。様々な人の、いろんな感情がわーーっと押し寄せるクライマックス。それを見ながら、不覚にも泣いてしまう。

いいじゃないかと。

60年代後半の京都を舞台に、在日朝鮮人の女子高生に一目惚れした日本人高校生が、その恋を実らせるためにギターを持ち、彼女達にとって特別な曲である「イムジン河」を引き、朝鮮語を覚えて彼女のハートを掴んでいく。

なんともまっすぐで、なんとも清清しい。

なんでもこの話、発売禁止になった「イムジン河」を歌ったザ・フォーク・クルセダーズの作詞を担当した松山猛による実体験をもとにしているという。

日本がまだまだ荒く、ほこりっぽかった時代。その中に若さとエネルギーを持て余して毎日を必死に感情の赴くままに生きた若者の姿。テレビで偉そうに踏んぞりかえっている姿しか見ていなかった監督の作品だが、実に心を洗われる気持ちになれる一作。
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スタッフ
監督 井筒和幸
脚本 羽原大介・井筒和幸


キャスト
塩谷瞬 松山康介
高岡蒼佑 リ・アンソン
沢尻エリカ リ・キョンジャ
楊原京子 桃子
尾上寛之 チェドキ
真木よう子 チョン・ガンジャ
小出恵介 吉田紀男
波岡一喜 モトキ・バンホー
オダギリジョー 坂崎
キムラ緑子 アンソンとキョンジャの母
ケンドーコバヤシ 東高空手部大西
桐谷健太 近藤
出口哲也 安倍
笹野高史 チェドキの伯父
余貴美子 康介の母さなえ
大友康平 KBSラジオのディレクター大友
前田吟 モトキの父
光石研 布川先生
加瀬亮 野口ヒデト
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作品データ
製作年 2004年
製作国 日本
配給 シネカノン
上映時間 117分
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2013年8月16日金曜日

胡同のおじさん


オフィスからの帰り道。暗くなった胡同の中を自転車で抜けていく。

そうすると、夏の風物詩であるランニングシャツを脱ぎ捨て、上半身裸で道端で涼むおじさんが沢山いる。別に何をするでもなく、ただただ道端にたって、行きかう人を観察している。

例のごとく、「ジィッ」とこちらを眺め、フクロウの様に首だけを回転させてこちらが走り去るのを眺めている。夕飯を食べ終わり、家の中は風が流れないから暑いので、外で涼みながら同じように溢れ出てくる近所の老人連中と井戸端会議でもする途中なのだろう。

その姿を見ながら、この人たちはきっと今の自分よりもある意味幸せなんだろうと思う。

住んでいる場所の環境はそんなに良くはないかも知れない。衛生的に綺麗だとはいえないかも知れないが、生きていくのに問題ない家があり、気の置けない近所の仲間がいる。

旅行をしたり、外食をしたり、服を買ったりするような収入は無いかも知れないが、心配することのない貯蓄と年金があり、住まう家があり、家族がいる。

文化的な娯楽に触れたり、新しい考え方に接したりすることは少ないのかも知れないが、毎日心を「ギュッ」と掴まれる様なストレスは決して感じることはないだろう。

そんなことを考えながら、こちらは代われるものなら代わってみたいと思うけど、あちらは絶対にお断りだろうなと思いをめぐらす。

グローバル化で止め処なく格差が広がっていく現代社会だが、人としての豊かさはその二極化とは決してオーバーラップしない。それが如何にもそうだと刷り込まれるのは日本のメディアの原罪。

そんなことを考えながらも、例え数日代わってもらったとしても、おじさんが根をあげる前に自分自身が「一体自分は何をやってるんだ?」と思い返し、やっぱり建築を考える毎日に戻ってくるのだろうなと妄想を膨らませ暗い胡同を抜けていく。

2013年8月15日木曜日

お世話になりたくない職業


世の中にはできることならお世話になりたくない人たちがいる。

その代表格は、警察、医者、やくざ、弁護士。

そういう職業の人は、世間が「できることなら関わりたくないな・・・」とあなたに対して思っているということを考慮にいれて、世の人と接するべきであると思う。

何気ない言葉一つでも、ネガティブなイメージを抱いている人にとっては、更に疑念が膨らむばかり。それを払拭すべく、余計なこともできるだけ丁寧に説明してあげることが相応しい。

では建築家はどうか?
世の中の建築家に対するイメージは一体どんなものか?

そう思って友人と話していると、「建築家で悪い人を見たことがない」という。
「では、悪かった人の職業はなんだった?」と聞くと。
「うーん、銀行員、金融関係、会計士」などと結構あがってくる。

確かに建築家になるためには、長い専門教育を受けることになる。その中で本当に実務に必要なことは教えればいいのだが、教えることなく、それよりも建築が社会の中でどういう意味を持つか?建築が社会を良くするにはどのようなことができるか?それでは、現在の社会の問題とは何か?なんていう社会性を嫌と言うほど聞かされるからであり、そういう考え方が建築をやっていく上で大切なんだと刷り込まれる。

そして社会にでたら、人生のある種の成功を空間と言う形に変換しようとするクライアントとバチバチやりながらも接していく。決して人生に疲れて、出口が見えなくてどうしようもなくなっている人と接することもなく、またお金という直接的な価値を追求するようなタイプの人間に接する機会も少ない。

ある意味温室育ちの職業人ということになるのだろうが、そこから培養されるのは、「都市空間を如何によくすることができるか?」
「この街が100年先も生き生きと人々をさせられるためにはどうしたらよいか?」
「世界的なエネルギーの問題に対して、建築が今何をすべきか?」
なんていう問題を日々考えながら生きていくことになる。

もちろんその中には、「如何に自分が有名になるために、お金を稼ぐために、どのように振舞ったらいいか?」を考えて狡賢く生きる建築家もいるが、比較的少数派であるだろうと思われる。

しかしそんな純朴な建築家は、狡猾な他の職業に比べたら社会的報酬は世のイメージに比べ遥かに少なくなるのも事実。それでも「お世話になりたい職業」としていられることを喜びと感じながら生きていくのが大切なのだと再認識することを経験する一日。

「風の歌を聴け」 村上春樹 1997 ★★★

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第22回(1979年) 群像新人文学賞受賞
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かつて「ロンシャンの教会」を見に行った時に、たまたま訪れていた日本人の女性と一緒になった。話を聞くと仕事でパリに住んでいる旦那さんを訪ねに来たついでに、昔からいつか訪れてみたいと思っていたこの建物を見に来たという。

興奮した様子で、「何年も前に見た雑誌の、その時想像した日の光と影と樹々の緑と吹き抜けて行く風。その想像通りの空間がここにある。その中でこの建築を体験できて本当に幸せだ」と言っていた。

それを聞きながら若い建築学生は、一人心の中で感動を抑えられずに涙を流しそうになったのをよく覚えている。心の中を「ブワッ」と風が吹いて行ったような気がした。

「この世の中には、この人の様に素晴らしい感受性で建築を経験してくれる人がいるのか」と、その事に感銘を受け、そして「自分にもいつか誰かを、そんな風を感じさせてあげられる可能性があるのだ」ということに心が震えた。

あの日の自分は間違いなく風の歌をを聴いたのだと思う。

29歳の時の処女作。流石だと思うのは、ウィットに飛んだ表現や、自由気ままな登場人物に振り回されるような話の流れだが、最終的には一つの物語としてちゃんと着地してしまうところ。これが趣味で文章と戯れるのとは違う文章を職業とする人のなせる業なのかと唸ってしまう。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

そんな言葉で始まる物語。様々な人物に出会い、徐々に人生を生きていく自らの思想の基礎を作り上げる20代。10代最後の夏が何か少し甘酸っぱい味をさせるように、20代に築いた言葉達を持ってこれから社会と対峙していく後戻りできないような20代最後の夏はまた違った味がするものだ。

「今、僕は語ろうとしている。」

「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分とを取り巻く事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」

20代最後の夏までに積み上げた頭の中を浮遊する言葉達。その言葉達に一本の筋道をつけ、物語を紡ぎ始める。頭の中から溢れ出る言葉を書き留めるために語るのか、靄のような曖昧な目の前に浮かんでいるものをつかめるようにするために語るのか。


「真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だから。市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういうものだ。夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫をあさるような人間には、それだけの文章しか書くことが出来ない。そして、それが僕だ。」

20代、あれやこれやと悩みぬいた青年にとっては、果てしなく真実であろうこの言葉。芸術の持つある種の特権性。自分の明日が見えない人間が、他人の未来を照らす芸術を作り出せると言うのか。

「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」
「金持ちであり続けるためには何も要らない」

現代において特権的である為に必要な経済性。その経済的優位性が、同時に芸術的優劣に投影されなくなって久しい時代。豊かさが細分化し陳腐化していった先に、特権階級の社会的、芸術的責任がないがしろにされている時代。

「人間は生まれつき不公平に作られている。」

誰の言葉だろうと関係なく、夢を追い求めては悔しい思いをする若者には紛れも無く事実である言葉。それを嘆いている間はまだ若いという証明なのだろうか。

「文明とは伝達である。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。」

伝えること、それが人類が誇れる数少ない発明であろう。如何に伝えるか?その為に様々なイノベーションが行われてきた。では、何故伝えるか?何を伝えるか?それに目を向ける時代に入っているのは間違いなく、伝えられる側がそれを望まなくなった時代にどう新たなる伝達が可能かを真剣に考えていく時代になるだろう。

「街にはいろんな人間が住んでいる。僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、思い出のほとんどはそこに結びついている。」

街というのは、多様な人間の、多様な生き方を写し取る巨大なノートの様な物で、どんな物語の舞台にもなりうる。必要なのは多様な登場人物達を抱え込み、都市という舞台環境を与えておけば、勝手にドラマを演じ始める人間達。その中で想定していない様々な感情を生み出し、傷つき、喜び、そして去っていく。これもまた人類の成した大きな功績に数えられる。

「あらゆるものは通り過ぎる。誰もそれを捉えることはできない。僕達はそんな風にして生きている。」

この世の全ては「流れ」の中に存在する。その「流れ」がどのような時間のスパンに属しているかは様々だが、留まることは淀むこと。淀むことは死ぬこと。自分のことをまだ「僕」と呼ぶ20代の最後。自分では決してコントロールできない「流れ」の中で、「流される」のではなく、自ら「流れる」ことに向かって生きていく。

ニーチェの言葉としている「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」の引用で幕を下ろすひと夏の物語。そんな言葉をニーチェが言ったかどうかはどうでもよく、それもまた「僕」が聴いた風の歌の一部であろうと思うこと。

人生にそう多くは吹かない大切な風の歌を、できるだけ耳をすませて聴いていく。それが「流れ」の中で「流されず」に生きていくことにつながるのだろうと思わずにいられない。

2013年8月14日水曜日

所作

学生相手に建築の考え方を指導している時期に一緒にユニットを担当していた教授はその昔、自分もお世話になった建築家の先生。

ある日学生に参考の為に、パドヴァにある教会の話をしていたら、「たしかスケッチブックにプランがあったはずだけど・・・」と鞄の中から取り出したのは分厚いA5サイズの良い感じに色あせた皮のカバーをかけられたスケッチブック。

その中からは溢れんばかりの陽に焼けたベージュの紙に書かれた幾つものスケッチとメモ。それらをペラペラめくりながら、「あ、これこれ」と取り出したのは、ポーチ部分が前面道路に対応して歪んだ教会堂のプラン。

それを見ながら、この先生は、心に残ったものをスケッチし、メモを取り、この一冊のスケッチブックにスクラップしていくとうい作業を何十年も変わることなく続けていたのだと理解し、その繰り返された行動とその結果生み出されたこのスケッチブックは何者にも変えがたい美しさを放っていると感じた。

積み重ねる時間の中で、徐々に収束する一番適した自然な動きを身に着けることが所作だと思う。この先生のスケッチブックもまたその所作の一つであると思う。

その人の生き方に対応した所作を身につけている人は美しいと思う。

決して回りに流されること無く、乱されること無く、どんなにスローであろうとも、淡々と自分の時間の流れ方を知っている。誰もが乱すことができないその所作。

茶道などはその最たるもの。人一人が人生をかけて身に着けるその所作。その身に着けたものを更に次世代へと受け継ぎ、何代にも渡ってより高い極みへと昇っていく。

逆に言えば、職業人として如何に早くその所作を身に着けられるかが重要である。何十年と続く職業人としての時間。その中で経験や知識と共に過ごし方が変わるのではなく、職業人として土台を作るのと同時に如何に所作を身に着け、循環の中で向上を手に入れていくか。

所作が身についたものほど、日常の仕事から受けるストレスも少なくなり、自分のペースで仕事を進めることが出来る。やるべきことをリスト化し、カレンダーに項目化し、一つ一つスケッチによって視覚化し、スタッフとコミュニケーションし、上がってきた資料を確認していく。

建築家としての所作を身につけ、ぞれぞれの所作をより精密化しながらも、その組み合わせで目の前の問題に対応していく。そう頭を巡らしながらも、心を整え新しいスケッチに向かうことにする。

2013年8月10日土曜日

「オブリビオン」ジョセフ・コジンスキー 2013 ★★


2013年を代表するSF大作であるのは間違いない。やはりトム・クルーズが出るからには、下手な映画は作れない。

映画という創造力が生み出す世界においては、重力や経済性など現実の世界で足枷となる要素を考慮することなく世界を構築することができるので、あまりにトンチンカンなものにならないように、専門家がしっかりとしたアドバイスを与えながら構築されたものは、かなり刺激的な「未来」の世界を見せてくれることになる。その中にある建築の姿もまた、関わったデザイナーか建築家が思い描く未来の技術を持って作り出された進歩した建築の姿であり、それを見ることはSF映画を見ることの楽しみの一つである。

難波和彦が言うように、ピカピカするばかりでなく汚れもする未来を見せたスター・ウォーズの後に、エイリアンが提示したドロドロした液体をもった未来を見せられた人類がたどり着いたのは、アバターが描いたより自然に近くなり、共生を志向した未来。

その世界観の後に人類はいったいどんな新しい未来の世界観を描き出す事ができるのか?そんなことを思いながら既に数年が経ったなかで作られたこの映画。しかし新しい世界観が展開されること無く、あくまでもピカピカした無菌室の様な、コントロールされた「宇宙への旅」の様な未来観の延長上にある世界。

すべてが「つるん」とした印象で、建物も乗り物も全て丸みを帯びた流線型デザイン。流体力学がこの世の答えだと言わんばかりに、まさにプロダクツ・デザインの精度が建築も都市も呑みこんでいく未来像。

そのツルツルピカピカの世界はプロダクト・デザインの延長であり、カー・デザインの延長。人間工学と流体力学のというのは、人の手を介さないシュミレーションによってもたらされる「最適化」のデザイン。自然界の様々なパラメーターを高度なコンピューターによって同時に解析し、その中で負荷を最適にする。

現代の建築界を脅かすこの動き。環境デザイン、サステイナブル・デザインと呼ばれる、あたかも絶対的な正であるように見えるその設計手法は、デザインしないことで、最適化する方法。

そこから剥奪される、漂白されるのは人の感性。何をもって美しいと思うかのクオリアの問題。自然界の中の様々なパラメーターを通して最適化された形は、それ自体がある種の自然の摂理を体現し、自然がそうであるようなある種の美しさを持ち合わせる。しかしそれだけでないのが建築の美しさ。不条理なところを持ち合わせる人の温もり。決してコンピューターだけでは辿りつけない何かがあるはずだ。

そんな問いを突きつけられるような思いをもって見終えることになる。

タイトルである『オブリビオン(oblivion)』とは聞いた事のない英語であるが、その意味は、「(世間などから)忘れられている状態;忘れて[ぼんやりして]いる状態, 無意識の状態」だという。

地中が核戦争によって不住の地となったあと、宇宙空間に新しい居住地を求めた人類。そして地球を監察する役割となった主人公が最後に気づくトリックを理解すると、タイトルの意味もなんとか理解できるのだが、それにしても全編に渡って展開される様々なSF映画から切っては貼ってきたようなコラージュを感じさせるシーンはある種の懐かしさを感じさせずにいられない。

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スタッフ
監督ジョセフ・コジンスキー

キャスト
トム・クルーズ;ジャック・ハーパー
オルガ・キュリレンコ;ジュリア
モーガン・フリーマン;ビーチ
メリッサ・レオ;サリー
アンドレア・ライズボロー;ヴィクトリア
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作品データ
原題 Oblivion
製作年 2013年
製作国 アメリカ
配給 東宝東和
上映時間 124分
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「ひとり日和」 青山七恵 2010 ★★★

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第136回(平成18年度下半期) 芥川賞受賞
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こういう女性と言うのは、比較的短いスパンの時間で生きているのだと思わされる。それは生活と言うものに根源的な責任を負わないからこそ可能なんだと思う。

自分がどう生きていくかを考えることも無く、ただただ「東京で住みたい」という思いだけで始める遠縁のおばあちゃんとの同居生活。家賃や食費がかからなければ人が生きていくにはそんなにお金がかからないのかもしれないが、それは誰かがその部分を負担してくれているのと、将来や生活を変えるために必要となる資金を貯めることが無いから可能なのだろう。

暇を持て余すように始めるバイト。時給がいいのと、家から近いから。そこでできる「気になる男の子」。好きな人によって見える風景が変わり、関係がうまくいかなくなると、その日を生きる気力も無くなる。すぐに「死にたい」と口にし、同居人にも当たり始める。

彼と別れてしまうと、それまで続けていたバイトも辞めてしまう。男なら流石に出来ないことが女ということで可能になる。一つながりではなく、ぶつ切りにされる時間と季節。そして違う職場で、まったく違う仕事を始め、そしてそこでもまた「気になる人」ができて、気分が華やぐ。新しい時間の始まり。

長いスパンで物事を捉えることが出来ず、生きる気力が弱く、その場その場でふわふわと周りの流れを受けて受動的に漂う様に生きていく主人公。「スープ・オペラ」を思い出させる設定だが、主人公の生き様はまったく違う。

これと言って好きなことも、やりたいことも無い。「こういう子って、沢山いるだろうな・・・」と思わずにいられない。女性だからと言うわけではなく、人生をぶつ切りで生きていく若者。今自分にあるものの中で、なんとか生きて、それなりに満足できる。

生活が半径1キロ圏内で完結してしまうから、東京という大きな海を端から端まで使いきることなく、大海原に浮かぶ小さな島のようなところで生きていく。その子にとっては、東京とは総体ではなく、その生活圏の世界。

平凡な日常が、平凡な登場人物によって繰り返される。だた淡々と。

渋谷などに足を運ぶと、その日の楽しみを得るためだけに刹那的に生きているような若者の姿を見る。そういう姿を見ると、「この子達はどうやって生活が成立しているのだろうか?」と思わずにいられない。それでもそれなりに何とか生きていけるのが現代の日本なんだろう。渋谷でたむろする子達も、この小説の主人公も、結局は同じ生き方なんだと思う。

結局のところ生きていくことがどれだけ大変なことかを理解せず、甘え、叫び、それでも決して自分では現状を変えようと努力はしない。それでもなんとかなっていってしまう。それが今の日本か。

「秒速5センチメートル」新海誠 2007 ★

相変わらずの物凄いセンチメンタルな世界観。見ていてクラクラしてくるその妄想感。

東京と地方。その距離を繋げるのは手紙とメール。前作までの様に、一見普通に見えるが、少しずつ何かがおかしいという設定。それはノスタルジーに満ちた良き過去を象徴する昭和感に、テクノロジーの進んだ未来感を並列することで生まれる既視感と違和感の融合。そんな手法をとることなく、ただただ現代を生きる自分達が共通に持つ「少し前の・・・」時代描写。

ISDNと書かれた公衆電話ボックスや、今の様に増えきっていない地下鉄の路線図など、直球で勝負する為の世界観の裏づけにかなり時間が費やされたのが目に取れる。

そして秒速5センチメートルだという桜の葉の落ちるスピード。本当かな・・・と思いながらも、なんとなく信じてしまいそうなその速度。そのスピードを頭の中で再現してみると、同じように見えてくる景色が舞う雪の風景。当然の様に使われる雪のシーン。

思春期を迎えた多感な男の子が夢に見るような純情な初恋の相手。こんな情熱的な初恋がしたかった。こんな純情で可愛い彼女が欲しかった。こんな美しい出会いがしたかった。そういう純粋な妄想がアニメという表現を借りて映像化されたようなもので、途切れ途切れに紡がれる台詞は「後悔」「僕の」「心」「痛いほどの」などというセンチメンタルな自分語り。

「ケケケケケケケ」という蜩の鳴き声は田舎の山奥の代名詞で、匿名的な電車の中のシーンは都会の孤独を表現する。山崎まさよしの「One more time, One more chance」と共に、「これでもか・・・」と細切れにカットインを繰り返される最後のシーンは、眩暈を覚えずにいられない。

こういう世界観を持ちながら、現在進行形で今を生きていく。こういうセンチメンタルな世界観に影響を受けて思春期を過ごす今の中学生達は、ある種大変な時代を生きているんだなとある種ぞっとする。

この世界観を心の中に持ちながら大人になるというのは、恐らく非常に傷つきやすく、また適応することが難しく日々を生きることになるのだろうと思う。「ナウシカ」や「ラピュタ」と共にあった思春期が希望や前を向く力を現していたのに対して、あくまでも後ろ向きな、過去への視線。そんな思春期を過ごしてきた大人が社会の中心を占めていく今後の世界。一体どんなフラジャイルな社会になっていくのだろうかと思わずにいられない。

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スタッフ
監督 新海誠
原作 新海誠
脚本 新海誠
絵コンテ 新海誠
演出 新海誠

キャスト
水橋研二 遠野貴樹
近藤好美 篠原明里(少女)
花村怜美 澄田花苗
尾上綾華 篠原明里(成人)
水野理紗 花苗の姉
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作品データ
製作年 2007年
製作国 日本
配給  コミックス・ウェーブ・フィルム
上映時間 63分
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2013年8月6日火曜日

「王様ゲーム」 金沢伸明 2009 ★★


ここ数年ずっと店頭で平積みされているこの本。帯には「中高生にバカ売れ」という触れ込み。

飲み会でやられるゲームを、高見広春の「バトル・ロワイヤル」のような無茶な設定に置き換えて繰り広げられる殺し合いミステリーだろうと、対して深い設定もトリックも無いんだろうなと毛嫌いしていたこの一冊。

日本から戻る際に立ち寄ったブック・オフで100円になっていたので記念的に買ってみたがやはり時間を無駄にしたと後悔する様な一冊。

「バトル・ロワイヤル」でもそうだし、貴志祐介の「悪の教典」もそうだが、学校の1クラスという設定はクローズド・サークルとしても成立するのと同時に、不思議なくらいに35人前後のクラスには社会の縮図のような様々な性格の子供が集まる。

そこに社会がある。と言ってもよいくらい社会を構成する全てのタイプの人間がいるようにも思える。

真面目でリーダー格の男子。
派手で性格のキツイ女子。
お調子者でおっちょこちょいの男子。
実はクラスのマドンナ的な女子。
オタクで気持ち悪がれる男子。
2,3人で群れて男子に文句を言う女子。
金持ちの息子でいじめられる男子。
寡黙で友達もいないミステリアスな女子。

それぞれのタイプにあった、それぞれの殺し方を設定してやれば、それなりにページ数は稼げるが、根本的な設定がむちゃくちゃすぎるこの一冊。週刊のマンガを読む小学生の様に、「今週はあいつがこう殺された」と全体見ずに局所しか見えない子供には短いスパンの楽しみや恐怖は与えられると踏んだのだろうか?

しかし、これが売れて、映画化されて、続編が作られる。上記したクラスものミステリーと比べたら雲泥の差があるにも関わらず、なんともさもしい時代になったものだと思わずにいられない。

2013年8月3日土曜日

「月と蟹」 道尾秀介 2010 ★★★★★


誰にでもあった少年時代。世界が今よりもよっぽど大きく、そして毎日は冒険に満ち溢れていたあの頃。

たわいの無いことが友達の間のとても大切な守りごとになり、仲間内だけでしか分からない遊びが流行ったりする。

決して裕福とはいえないシングルマザー家庭で、祖父と同居する主人公の慎一。
彼と唯一仲のよいクラスメイトである春也は父親からの暴力を受けている。

そんな二人のどうしようもない日常を特別なものに変えてくれるのが、浜辺で捕まえたヤドカリを裏山の上まで持って行き、ライターで炙っては殻から出して、粘土の台座においては焼き殺しながら願い事をするという儀式。

鶴岡八幡宮で行われる鎌倉まつり 。
日本で最初の禅寺である建長寺。
その裏山にある唸る十王岩。

海があり、裏山があり、ハレの場としての境内がある。
規模は違えど、日本の原風景に違いない。

しかし今では、それらが残っている地方は幸せな地方だとよく分かる。海も消え、川も消え、山も消え、現れたのはイオンモール・・・

ある日見かけた風景。誰か知らない男の人の車の助手席に乗り込む母親の姿。それ以来母が自分の知っている母ではなくなってしまったような思いを抱えて生きる慎一。

家庭のこと。少し仲良くしている女のクラスメイトのこと。子供にとっては精神状態を揺るがすようなそんなことをなじる手紙が教室の机の中に入れられる。

そんな日常の中、唯一心から楽しく思えるのは春也と過ごす時間。

「互いに本当は知っていながら、黙っている何かが、もっともっと欲しかった。」


「何にでもきっと理由ってのがあんだ、世の中のこと全部にな、ちゃんと理由がある。結局は自分に返ってくるんだ。」という祖父の言葉。

「叱られたとき、もうそれ以上叱られないようために口にする謝罪と何も変わらなかったからだ。どうしてこんな言葉しか返せないのか、慎一はつくづく自分が厭になった。」

「その夜慎一は、血の色をした蟹がハサミを無造作に持ち上げて、何か薄い、大事そうな膜を乱暴に突き破る夢を見た」


身体と同じく、感情も未熟であるからこそ、とても直接的に外部の世界に晒されることになる子供の精神世界。その過程で自らどう防御をするのか見につけていくのだが、家族のまなざしがなければ、時にそれはあまりに残酷な仕打ちとなって押し寄せる。


「見えない手で頬の筋肉を掴まれているように、顔から笑いを消すことが出来なかった。」

「何かがじりじりと自分を包囲していくのを、慎一は感じていた」

「感情に苔が何重にもまとわりついたようなぼんやりとした間隔」

「春也は口にいれてしまった不味いものをなかなか飲み込めないというように、咽喉のあたりに力を入れて唇を結び、じっと凹みを見下ろしている」

「諭すような口調で言ってやった。そのほうが、いっそう相手を傷つけることができる。いっそう恥ずかしい思いをさせられる。慎一は相手の心臓をのこぎりで挽こうとしているような、残酷な興奮を感じていた。」

「苔に覆われた感情の中心で、何かが声を上げていた」


どうやったらここまで細かく、そして繊細に子供時代の感情を描けるのだろうかと思わずにいられないくらいの表現たち。子供だからこそ、あまりにダイレクトに、あまりに隠すのが下手なこの時代の世界との接し方。だからこそその凶暴さはむき出しにされる。

そしてそのことは、子供だけでなく大人も同じように、社会性というベールに隠されて入るが、その薄膜一枚下では、子供時代となんら変わることの無い、ドロドロしそして恐ろしいまでに残酷な感情を抱えながら毎日を過ごしていること。

相手が何を考えているかは、本当に意味では知ることは出来ない。それが気になるからこそ「ちらり」と視線を投げてしまう。

そんなことを思いながら、何を考えているんだろうと椅子に足を乗せながらパソコンの画面を見つめている妻の横顔を「ちらり」と眺めることにする。


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第144回(平成22年度下半期) 直木賞受賞
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