2016年1月31日日曜日

「世界を知る力」 寺島実郎 2009 ★★★


寺島実郎

コメンテーターとして様々な番組で世界情勢を踏まえた重みのある発言をする著者。元商社マンで世界のあちこちで培った経験を生かして、今では大学での教育などにも携わりながら、国際人として通用する若者の育成にも関わっているようである。

「日本をでて海外にいく」というのは、様々な形がありえるが、企業人として駐在員という立場で海外に行くパターンでも、歴代の駐在員が長く滞在し、数年の任期をオーバーラップしながら会社としてのネットワークと実績を広げていくなかで、様々な補助がありながら駐在するタイプもあれば、まったくゼロベースで開拓していく駐在員もあるだろうし、比較的馴染みの深いヨーロッパやアメリカの大都市に赴任するのと、文化背景もまったく異なる発展途上国に赴任するのもまたまったく違った時間のすごし方になるだろう。

また大企業のメンバーとして至れり尽くせりのサポートを受けながらのものと、中小企業の開拓メンバー、もしくはまったく個人で海外に渡る時は、それこそ頼れる人も何もない状態から自らの力で切り開いていく、そんなことが要求されて、エネルギーの費やす部分も大きく異なる。

そんな訳で「海外に行く」というのも、内容によってまったく異なる現代においては、その地でどのような環境の中で、どのような時間を過ごしたのかを見なければ、その人となりは見えてこない。

そんな時代においても、言葉の端々から、自らに対してストイックであり、会社人としてではなく、それを超えていかに自らがその場で職業人としての能力を伸ばせるか、会社の人間としてではなく、個人としてどのように現地の世界に受け入れられ、付き合っていけるか、そんなひりひりするような時間を重ねてきたのだろうと想像できる。

冒頭にある
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百数十年前の日本にタイムスリップし、休む間の無く働く女性を見かける。「この人、この村から出たことがあるのだろうか?」と思うような小さな村の中で一日が完結する生活。それが、ほんの百数十年前までの、平均的な日本人の暮らし方。
当時の多くの日本人にとって、「世界」は歩いて二帰りできるだけの範囲ー半径20キロメートルほどの広がりしかなかった。現代行動できる「世界」はぐんぐん広がっているように見える。ヒト・モノ・カネ・技術・情報がボーダーレスす「境界なし」で交流する時代。単純に、交通手段や情報環境の発達と正比例して向上するものだろうか。残念ながら答えは「否」である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
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非常に重い言葉である。「グローバリゼーション」や「フラット化した世界」が叫ばれながら、同時に「内向きの若者」や「マイルドヤンキー」といった、現状に満足し、変化や向上を得るために外にでるなどの行動を起こさないと言われる現代の日本人。ネットの登場により、「世界を知った気」になってしまう我々に対して、痛烈な言葉である。

空海を「全体知」の巨人として、
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異なる国の人たちにも心を開き、自分を相対化してみることのできる人間が「国際人」
エンジニアとしての空海
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体系として知るだけでなく、異文化の中に飛び込んで自らの身体を伴って知を吸収することの大切さを説く。

日本の文化の中に流れている中国との関係性。ネットワークという視座から見た地政学的な世界の見方。それを通して初めて見えるイギリス帝国が生み出した世界に飛び地で存在するユニオンジャックの共通点。そしてどんな場所に辿り着いても活用できる価値、技術や情報を操作するすべを身につけるユダヤの知恵。

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大量の情報にアクセスできるようになるにつれ、膨大な情報のなかから筋道を立てて体系化したものの見方や考え方をつくっていくことが、ますます難しくなってきている。
古本屋にて目当ての本以外の、それまで意識しなかった、あるいは知らなかった本が同じ棚や近くの棚に並んでいるのを目にし手にとることで、私たちに思いもかける相関の発見を促すからである。本と本との相関が見えなければ知性は花開かない
世界最大の売り場面積と書籍数を誇るといわれるフォイルズ書店 Foyles。「この問題意識を深めようとしたら、こういう本を読み、ついていかなければいけないんだな」という知的興奮が高まってくる仕掛けになっている訳
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とパソコン全盛の現代においても、本による知性の成長を保ちながら、世界に対峙する教養を磨くことを説く。

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/書を捨てずに街に出よう
大空から世界を見渡す「鳥の眼」と、しっかりと地面を見つめる「虫の眼」
身体性を有した体験がすごく大事
見聞きした意見したことに関連する文献に当たって調べてみると、そこに、みえざる地下水脈的ネットワークがあることに、だんだん気がついてくるわけである
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あくまでも、自らの体験として知識を消化し、その上でさらに学ぶことによって新たなる意味を付加していく時間の過ごし方。

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/異文化の中へ飛び込め
名もなく貧しく異文化に飛び込んで、孤独と失望の連続を体験することが必要なのかもしれない。数知れない孤独と屈辱。
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この言葉には、本当に著者がどのような思いで若い時代に海外に出て、そしてどんな時間を過ごしたのかが見て取れる。安易な環境に流されるのではなく、あくまでもストイックに、常に自らを問いただし、今ここで何をするべきか、何を得るべきかを考えて、日々を精一杯過ごしてきたに違いない。

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おわりに
ひとり異国の町に立つ機会を重ねてきた。旅愁という言葉があるが、今、この瞬間にこの街から自分が消えたとしても、この街は何の痛痒も感じることなく動き続けるのだろうという思いがもたらす寂寥感ともいえる。何人もの知人や友人がいても、自分がその町での想像や生産に関わっていない場は虚しいものだ。人間とは不思議なもので、やはりその場所と自分との関係性を実感できない限り、寂しい「ストレンジャー」なのである。人間とは社会と時代とに関与して、はじめて人間なのだと思う。
海外に生活するほど人間は愛国者になる
航空機の中で、そして列車の中で、考え込みながら生きてきたようなものであるこの移動空間は、ひとりの時間が確保できる場でもあり、沈思黙考、後にしてきた場所で目撃し、確認してきたことを整理することのできる貴重な機会である
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新しい土地に行くまでは、その土地のことは情報でしか知らない。たった数日の滞在にも関わらず、行った後にはそれが実体を伴った自らの五感を通した体験として身体に刻み込まれる。その時間はどうやっても他者とは共有できないものである。できることは、移動の時間にそこで過ごした時間、見たものを自分なりに考えてその先につなげる、そういうい地道な積み重ねが激動の現代に生きる本当の意味での国際人につながる唯一の道なのだろうと思いながらページを閉じることにする。

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■目次  
はじめに

第1章 時空を超える視界―自らの固定観念から脱却するということ
/戦後という特殊な時空間―アメリカを通じてしか世界を見なくなった戦後日本人

①ロシアという視界
/1705年、ロシアの日本語学校
/1792年、初の遺日使節
/はじめて世界一周した日本人
/幕府、北方の脅威に目覚める
/北海道と極東ロシアは瓜二つ
/ウラジオストックで見た一枚の風景画

②ユーラシアとの宿縁
/歴史時間の体内蓄積
/七福神伝説にみる日本人的なるもの
/空海ー「全体知」の巨人

③悠久たる時の流れを歪めた戦後六〇年
/歴史時間を忘却した日本人
/与謝野晶子の世界地図は逆さだった?

第2章 相関という知―ネットワークのなかで考える
/ネットワーク型の視界をもつ

①大中華圏
/広義の「チャイナ」と狭義の「チャイナ」
/大中華圏の強固な実体
/「中華民族」なる言葉の二重構造
/躍動する大中華圏のダイナミズム
/なぜ中国だけがポスト冷戦で台頭したのか

②ユニオンジャックの矢
/世界を動かすユニオンジャック
/シンガポールが持つ地政学的な意味
/情報と価値の埋め込み装置

③ユダヤネットワーク
/世界を変えた五人のユダヤ人
/基軸は国際主義と高付加価値主義
/無から有を生み出す力

④情報技術革命のもつ意味
/「IT革命」というバラダイム転換
/暗転するアメリカ、オバマ大統領の登場
/就任演説にこめられたメッセージ

⑤分散型ネットワーク社会へ
/太陽・風力・バイオマス
/グリーン・ニューディールはIT革命を超えるか

第3章 世界潮流を映す日本の戦後―そして、今われわれが立つところ
①二〇〇九年夏、自民党大敗の意味
/東西冷戦構造と55年体制
/「漂流」を始めた90年代
/脅迫概念にも似た「小泉構造改革」
/民主党政権誕生が意味するもの

②米中関係―戦後日本の死角
/日米関係は米中関係である
/相思相愛から始まった
/メディアの帝王ヘンリー・ルース
/「二つの中国」が日本に戦後復興をもたらした
/アジア太平洋は”相対化”の時代に突入した

③日本は「分散型ネットワーク革命」に耐えられるか
/二つのグローバリズム
/日本の「国際化」は後退している
/「分散型ネットワーク時代」に日本を浮上させる

④「友愛」なる概念の現代性
/冷戦形世界認識から脱却せよ
/アジアとアメリカをつなぐ「架け橋」
/オバマ登場と共鳴する「友愛」なる概念
/プロジェクトとしての「東アジア共同体」
/「大人の外交」にはシンクタンクが不可欠

第4章 世界を知る力―知を志す覚悟
/PCと古本屋
/書を捨てずに街に出よう
/agree to desagree
/異文化の中へ飛び込め
/異国に乗り込んだ「場違いな青年」
/情報は教養の道具ではない
/知ー不条理と向き合うために

おわりに
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2016年1月30日土曜日

「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」 J・J・エイブラムス 2015 ★★

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スタッフ
監督 J・J・エイブラムス
脚本 ローレンス・カスダン
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レイ:デイジー・リドリー 
フィン:ジョン・ボイエガ 
ハン・ソロ:ハリソン・フォード 
チューバッカ:ピーター・メイヒュー
ポー・ダメロン:オスカー・アイザック 
カイロ・レン:アダム・ドライバー 
レイア・オーガナ将軍:キャリー・フィッシャー 
ハックス将軍:ドーナル・グリーソン 
最高指導者スノーク:アンディ・サーキス 
ルーク・スカイウォーカー:マーク・ハミル 
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人生においてあまり触れてこなかった「スター・ウォーズ」シリーズであるが、さすがにそのままにしておくことはできない事情になり、第1作から6作まで一気に観た昨年。その暮に全世界を熱狂させる最新作が発表ということで、「少々時間を空けて・・・」と思っていたが、映画館で観られるうちに観ておこうと足を運んだ一作。

今回のエピソードは、オリジナル3部作の最終章「ジェダイの帰還」から30年後を舞台に描かれているらしいが、よくもまぁこれだけ時間が入り組んだ物語を考えたものだと感心する。そして何よりも、このシリーズは、英語で字幕なしで見るにはなかなかハードルが高いと痛感・・・。恐らく8割程度の理解と言うところだろうか。

SF映画に期待しがちの、「今まで見たこともない映像世界」を見られずに少々がっかりしていたが、恐らく「スター・ウォーズ」シリーズにそれを期待すること自体が間違いで、難波和彦が「建築の四層構造 サステイナブル・デザインをめぐる思考」で言うように、「未来も汚れているということを描いた」というリアリズムと人間ドラマが、このシリーズの長年における世界的ヒットにつながっているのだろと納得する。

続編のエピソード8は2017年5月公開と決まっているらしく、それまでに再度シリーズを見直して、「スター・ウォーズ」シリーズの世界を少しでも深く理解するようにと心に決める。

















2016年1月23日土曜日

起きた事故の先にあるもの

1月15日に起きた軽井沢スキーバス転落事故。乗客のほとんどがスキー旅行に向かう大学生ということと、低予算でツアーを請け負っていた旅行代理店、ずさんな管理のバス運行会社の実情が相まって、世間の注目を浴びる事件となっている。

その後徐々に様々な情報が出てきて、当日運転を担当していた従業員の経歴や、大型トラックの運転に関する経験と技能が十分であったのかどうか、うねるような峠道が続く上り坂を上りきったあとの比較的見通しのよいゆるい下り坂における、大型バスの制御の難しさなど、具体的に事故の原因も見え始めてきている。

と同時に、メディアでは様々な角度から規制緩和による過当競争による下請けのバス運営会社が低予算にて仕事を請けなければいけないこと、それで多発したバス事故によって最低価格が設定されたりと行政側による様々な対処が行われたが、それでも現場ではやはりできるだけ安く下請けに出すことで格安を売りにして客を集めるシステムは変わるはずがなく、今回も定められた価格よりも低い値段で発注され、それを受けざるをえないバス会社の事情もあり、それが結局は現場で働く運転手などの人々の労働環境や、人材の確保へとしわ寄せが来るという図式が見えてくるだけ。

そのほとんどが大学生だったというツアー客で、いかにも大学生だから少しでも安いツアーに参加してしまうのはしょうがないという報じ方が多く見えるが、おそらく今の時代、年齢に関係なくどの世代でも同じように少しでも「コスパ」を比較し、少しでも安い方にいってしまう、それは時代の流れであろう。

問題なのはその「コスパ」という言葉が、ただ単にどこからどこにいくか、どこから出発か、どんな宿か、そして幾らか、ということに終始し、主催するツアー会社がいったいどんな会社なのか、今までの実績がどうなのか、そして実際にバスを運行する運営会社がどのような会社で、どのような技能を持った運転手が、どのような安全体制のもと運営が行われているのか、などの安全面などに関する様々な要素は知ることができないし、また顧客側もそれを知ろうともしないし、いちいちそれに時間を費やすほど現代の社会はのんびりと過ごしていけない。

とにかく効率とスピードとコスパを追求する現代社会では、「それらの安全面などは市場に出す商品として最低限の基準としてクリアしていてくれよ」という暗黙の願いとなっているが、今回それがやはり守られていないし、守られるようなシステムになっていないのが分かった訳である。

そうなると少し値段が高くても、やはり大手企業が企画するツアーに参加して、安心を買うということに回帰する動きもでるのだろうが、そこで上記の内容をどう知ることができ、どう担保できるのか?

おそらく少なからぬ人が体験があるだろうが、大手レンタカーではない、新規参入のレンタカー業者で借りたレンタカーが何年も型落ちの車で、バックモニターがついてない、カーナビの地図が古くてナビがうまく機能しない、ましてやカーナビがうまく設置されておらず、運転中ゴロゴロと外れて危うく事故りそうになるなんて経験があったりと、結局やっぱり名の知れたところに戻ることになる。

引越し業者も同様で、ネットで比較し少しでもお得なところにと頼んだ中小の業者で、当日やってきたのはいかにも経験のなさそうな中高年の派遣作業員。現場で誰が指示を出すのかもはっきりせず、家具や壁への養生もずさんで、かつ運び方も慣れておらず、家具を角にガンガンぶつける始末。これでは大変なことになると自分で指示をし、最後に業者にクレームを入れると、「正社員の担当者が急に現場にいけなくなり、大変ご迷惑おかけしました・・・」と。

こうなると想定したサービスを受けられる金額はいったい幾らなのか?それを判断する能力が今後はより求められることになる。

と同時に、今回のバスの事故は、「即日配達します」など売りにする、さまざまなネットショッピングのために、数年前に比べ比較にならないほど多くの配送の需要があり、トラックとその運転手が必要とされるようになっている。

そこに押し寄せたのが、近年の「爆買い」に代表されるようなインバウンドの外国人旅行者。個人でくる若者に対し、ほとんどの外国人はツアーに参加し、大型バスであちらこちらへと送り届けられる。そこでも大量に確保されるトラックと運転手。

そんな時代の要請を正面から受けるようになったのがこのバス業界。人材確保と、車体確保が非常に難しくなり、そのためにできるだけ仕事を回していかなければいけないし、その為にできるだけ低価格でも仕事を請けることにつながり、大手で競争にも勝ち抜け通常価格で仕事を請け、従業員の労働環境を担保できる企業に対し、安い価格で受注することがダイレクトに従業員の労働環境の質低下に直結する企業に二極化していく。

この図式は、他に目を向ければ様々なところで同じ様相が見えてくる。たとえば航空業界。こちらも数年前に比べれば恐ろしいほどの人が、都市を越え、国を超えて移動するようになった現代。今まで飛行機に乗ることもなかった人々が、当然のようにして空の交通を利用する。

その需要にこたえるために、大手だけでなく、様々な新規参入の企業が航空機と、それを運行するためのパイロットの確保に躍起になる。路線を確保するためには、客が集まらなくても飛ばし続けなければいけないだろうし、その為に質の悪い労働条件で働かなくなる人もでるような二極化が起こるのは容易に想像つく。昨年から世界の各地で頻発する飛行機事故もこの流れの一環なのだろうと想像すると、LCCをどう選んでいくかも今後の世界では重要な能力となっていくのであろう。

こうして想像を膨らませていくと、起こるべくして起きた事故はこの世の中に多くあふれており、その先にあるのは、規制を強化するだけでは簡単には変わりそうもない構造的な問題。今のところ自分たちでできるのは、どこに危険性が潜んでいるかと想いを馳せる想像力を強化して、その選択には効率やコスパだけでない視点を盛り込んでいくことだろうか。

2016年1月13日水曜日

「GA Japan 138」寄稿

現在発売中の「GA Japan 138」の特集:[今日のデザイン輸出事情 ~Bye Bye Nippon !] のなかで、現在の日本と世界の建築業界についてインタビュー形式で寄稿しております。

GA Japan 138

[今日のデザイン輸出事情 ~Bye Bye Nippon !]
01 早野洋介/MADアーキテクツ
[アジアから文化的境界を変換、そして実現する]

ページ数も十分にいただいて、現在行っているプロジェクトや、外から見る日本の建築業界についての思いなど述べております。もし書店に足を運ばれることがありましたら、ぜひご一読いただければ大変嬉しく思います。

2016年1月10日日曜日

「四月は君の嘘」 新川直司 2011-2015 ★★★★★


この数年、いろいろなところでその噂を目にすることの多いこの漫画。とにかく評価が高いのと、既に完結していると言うことも手伝って入手して読んでみることに。

なるほど確かに凄い漫画だと納得。今までの漫画のフォーマットを飛び越えて、音楽を使ってすばらしい時間やリズムの感覚をコマ割の間に挿入してくるその方法は、多くの高評価を得ているのも十分にうなづける。

漫画で描かれるすべての要素が濃縮されたそんな物語。ピアノコンクールという多くの人に馴染みの無い世界での熱狂を、リズム、スピード、そしてゾワゾワする感じを駆使して描きながら、その舞台に立っている主人公たちも、普段の生活では普通の中学生であり、その年代の子供たちが感じるどうしようもない恋の気持ちに振り回されながら、一日を棒に振り、誰かと一緒にいても、本当に好きな誰かがはっきりしてしまっている、そんな気持ちにうまく向き合えないままに日々を過ごす。

そんないくつもの物語が非常に良いバランスで複層されており、ショパンからラフマニノフへ、そしてチャイコフスキーへと曲とともにテンポを変化させながらページをめくっていく体験を強いられる。

なんとも独特な音楽を、時間の感覚を伴った漫画体験。人気に推されてズルズルと引きずらず、11巻でスパッと終えたのも、曲の長さには適切な時間があるのだと言わんばかりの心地よさを感じることになる。

2016年1月9日土曜日

「35歳のチェックリスト」 齋藤孝 2014 ★★


この本の存在を知ったときにはすでに35歳を過ぎてしまっていたが、「念のために・・・」と自らの今までの人生の過ごし方とこれからの時間のために「人生の棚卸し」をどうするかの参考書として読んでみる。

好きな友達と遊んで、興味のある異性とデートを重ね、自分の時間とお金を自分の好きなように使える時期から、結婚をし家族ができて自分のためだけではなく、誰かのために、誰かを守るために人生を生きるようになってくる35歳。そんな時間の過ごし方の変化は、そのまま今までの人生の過ごし方を何かしら違いを求めることになる。

「誰と過ごしているのが一番楽しい時間ですか?」と問うのは、今までどおり愚痴を言い合いストレスの発散目的だけの楽しい時間を過ごす生ぬるい友人との時間ではなく、「5年後の自分にわくわくした喜びを与えてくれる」を基準にして、自らの周りで誰がその刺激を与えてくれるのか、その人と時間を過ごすことがどう自分の明日に活力を与えてくれるのかを基準とすることとする。

これは分かっているけどとても難しい。誰もが働き盛りとなる40代に向けて、昨日よりも今日、今日よりも明日の自分が職業人としてどう向上するか考えて日々過ごすのであるが、それと同時に毎日やるべきことはたくさんあり、終われるようにして目の前の業務をこなし、それに付随するさまざまな人間関係、ストレスに追い詰められ、そんな中でどうにか息抜きと気の置けない友人とあーだこーだといいたくなるのもまたこの年代の求めるところ。

「自分の出身大学を話題にすることはありますか?」では、社会にでてすでに15年近く経った今、それでも出身大学の話で自らのプライドを保とうとするのはすでに賞味期限が切れており、それよりも社会に出てから今まで自らの実績は何かをもとに人間関係を構築すべきだと釘を刺す。フロイトを引用し「人間は生まれつき、快を求め、不快を避けようとする快楽原則を本能的欲求として持っています」という高きから低きに流れやすい人の惰性に苦言をさす。

「ツイッターやフェイスブックを頻繁にチェックしていますか?」では、誰でも日常的に友人や人生で一瞬すれ違ったような人の日常を否が応でも見せ付けられるような現代のSNS漬けの社会。その中で、自らのアイデンティティを誰かとの比較、相対的に位置づけるような過ごし方をしていれば、いつまでたっても「つながっていないと不安だ」「自分の存在感を示すために発信せずにはいられない」ということに陥りやすくなると。

「知的好奇心にブレーキをかけない」では、「何かに対して興味、好奇心が持てないと、人は閉じていきます」と著者らしい言葉で読者を煽り「知的好奇心を失った時点から、老け込んでいく。年寄りくさくなります」とばっさりと切って捨てる。「本を買うことに我慢しない」では、「知的好奇心とは、何かを吸収したいと言う意欲を持てているかどうか。知的体力は、若いころの差よりも、むしろ35歳以降をどうすごしていくかでどんどん差が開いていく部分。読書量。それから何かを習う。学ぶこと、自分へ投資し続けることをやめてしまうと、人間、頭打ちになってしまいます」とたたみかける。誰もが分かっていながらも、疲れていたり、子供の相手で忙しかったり、ネットの動画をついつい見てしまったりと、読書というある種の時間と集中力と身体の拘束を必要とする作業よりも、現代社会で他に幾らでも無料で得られる受動的で享楽的な時間の過ごし方についつい流れてしまうことを反省する。

「目から鱗」のことは決して多くはないが、35歳と自分の将来を心配して本気で自分の毎日の過ごし方に対して苦言を呈し、怒ってくれる人がいなくなる年頃にとって、こうして耳が痛いと思う言葉を胸に刻んで先の人生に向けて、今までの、そして現在の自分の日常の過ごし方を振り返る良いきっかけとなる一冊であろう。

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■目次
はじめに

【第1章】人は35歳で大人になる
1)35歳で何が変わるのか?
2)35歳は「大人」になる最後のチャンス
3)「35歳から」をデザインしよう
コラム あの人の35歳をチェックする 池井戸潤/堀江貴文/タモリ

【第2章】不安を自信に変える作法
1)人生の収穫期への準備をしよう
2)今の会社で「攻め」の姿勢を貫こう
3)30代の仕事力チェック
4)35歳、「できる人」と言われるには
5)できる人ほどポリバレント
コラム あの人の35歳をチェックする ビートたけし/安藤忠雄/奥山清行

【第3章】人生の迷いを吹っ切る技術
1)20代と30代で「幸せ」は激変する!
2)あなたが本当に「急ぐべき」リアルな理由
3)幸せを更新しよう
コラム あの人の35歳をチェックする ヤマザキマリ/菊間千乃

【第4章】35歳からの心技体の整え方
1)ビジネスマンにとって体力とは何か?
2)「疲れさせない」技術
3)ビジネスは「対人体力」で決まる
4)知的好奇心にブレーキをかけない
5)35歳で「真の花」を咲かせよう

おわりに――なぜ35歳なのか。
あとがき
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2016年1月1日金曜日

「ジョゼと虎と魚たち」 犬童一心 2003 ★★★


犬童一心
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スタッフ
監督 犬童一心
原作 田辺聖子
脚本 渡辺あや
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恒夫(つねお):妻夫木聡
ジョゼ(くみ子):池脇千鶴
香苗(かなえ):上野樹里
幸治(こうじ): 新井浩文
ノリコ: 江口のりこ
ジョゼの祖母:新屋英子
現場主任:板尾創路
近所の中年男:森下能幸
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そのタイトルのせいで、きっとお洒落映画に違いないとなかなか手を伸ばすことなしに10年以上経過してしまったこの一本。CMディレクター出身の監督・犬童一心。その後「メゾン・ド・ヒミコ」や「のぼうの城」を撮ることになるということは、やはり能力のある監督であり、そのキャリアの初期に位置づけられるこの作品。

いかにもどこにでもいそうな大学生の恒夫役の妻夫木聡。雀荘でバイトし、大学でもほどほどに講義に出て、女子からもそこそこモテてなんら問題のない生活を送っている。そんな恒夫がバイト先の雀荘で耳にした噂。乳母車を押した老婆が昼時出没すると。「そんなことあるのか・・・」と思っていると、坂の上からものすごいスピードで下ってくる乳母車。かけられた毛布の下には、包丁を持った若い女。ヒロインで下半身に障害を持つ池脇千鶴演じるくみ子であり、彼女は自らのことをジョゼと呼ぶ。

そのジョゼの面倒を見るのは彼女の祖母。その祖母から「壊れ物」と呼ばれながらも、祖母が拾ってくる本を丁寧に読み込むジョゼの姿や、毎食簡素ではあるがしっかりとした食事を取る2人とともに時間を過ごすにつれて、今まで普通だと思っていた日常の世界の捉え方が徐々に変化してくる恒夫。

上野樹里演じる香苗は大学でも活発で男女から人気のあるマドンナ役。恒夫が好意を持つがどうもいまひとつ決め手にかけると思っていたが、いつの間にか障害者の女性に男を取られたと自らのプライドを保つためにジョゼと向き合い叩き合う。そこでも強気にやり返すジョゼに、世間が障害者に持つイメージを覆させられる。

ジョゼに惹かれながらそれが絶対的に自分が手を貸したり、与える側でいるという心理的な施しの思いがそれに拍車をかけているのか分からないままに、ついに結婚を前提にということで両親に紹介するために地元まで車で旅行に出かける。

海辺でジョゼを背負いながら、後に自ら「逃げたんだ」というように、障害者を妻として一生こうして手を貸しながら生きていくことを現実問題として捉え始め、今まで美しい面しかみえてなかった自分に生活をしていくなかでの手触りを持った負の部分を捕らえ始める。

そして結局は実家に向かうことなく、2人は別れ、その後恒夫は香苗と付き合うことになり、ジョゼは自分を壊れ物と罵りながらも、温かく見守りともに生きてきた祖母が亡くなった後も、一人で淡々と生きていく姿で映画は終わりを迎える。いわゆるハッピーエンドではない終わり方。いかにもそれが現実だ、それがお前たちが結局は選ぶ普通の生活だろ。と言わんばかりに。











「つくし世代 「新しい若者」の価値観を読む」 藤本耕平 2015 ★★



数年に一度、如何にも現在社会を短いキーワードで言い表していますよという言葉が出現するようになって随分久しい。

ゆとり世代 さとり世代 つくし世代 負け犬 婚活 マウンティング スクールカースト・・・

結局どんな世界でも短いキーワードでキャッチーなコピーを持つことはマーケット的にも非常に有効なのだろうし、キーワードが定着してそれがじわじわと世間で当たり前なこととして認識を広めていくのだろう。

それにしても結局こうして、新しい言葉をある種強引に生み出すことによって、社会の中に、若者文化のマーケットの中で、何かしら新しいことが起きており、その最前線に自分はいますと世間に対してのアピールであり、その問題の第一人者としてコメンテーターとしてテレビに、講演として企業に、そして何より著書が世間に売れるようにと、仕事につなげようとするなんとも胡散臭い意図を感じずにいられないが、それでも毎日何時間もかけて現在の若者がどういう生態を持っているのか向き合っていることは事実だろうし、自分が同じように時間をかけられる訳もないので、現代の若者の動向を理解し、その彼らが主役となる社会の形をするうえでもやはり目は通しておかなければいけない一冊となろう。

「ゆとり」の次に「さとり」が来て、その後だと著者が定義する「つくし」とは、「自分たちのフィーリングで、コスパを徹底しながら、つくし、つくされ、みんなでハッピーになろうとする」だとする。

「努力が自分のためになるとは限らないし、まじめに頑張れば頑張るほど馬鹿を見ることもあるため、ほどほどに頑張って、ほどほどの生活ができればいい」という空気に覆われた世代だという。

なので「さとり世代」との定義の差異化をどう図ろうとしているかというと、コスパにとことんこだわりながら、欲望を収縮させながらも自分らしさを求めつつ、何よりも常に身近な誰かへの意識が幸福度や行動原理に組み込まれている若者たちということらしい。

その思考経路を決定付けているのは、物心ついたときから当たり前に身近にあったネット環境であり、常に誰かとつながっているという意識ありきの行動を行っているためだということか。

電通、博報堂に告ぐ大手広告代理店であるADKのマーケティングを行う著者だけに、自らの企業が行った「1本満足バー」のCMを画期的なものだと自らの著書で紹介する場合はせめてそれを手がけたのが自社だと宣言しておくほうがいいのではと思わせるところがあったり、様々な意図が隠されているのはしょうがないと思いながら、ビッグデータを活用できる巨大企業だからこそ見える様々な若者の現在進行形を知るために一読しておいて損はない一冊かと思われる。
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■目次
【序章】さとっているだけじゃない 今時の若者は何を考えている?
/広告で若者を動かすことが難しい時代
/流行や文化の作られ方が変わっている
/「チョベリバ」と「激おこぷんぷん丸」
/若者研究のスタンス
/若者たちと一緒に行う若者研究
/1992年というターニングポイント
/若者たちの「波及力」をどう活かすか?
/「ゆとり」「さとり¥だけではない、若者たちの特徴
/本書の構成

【第1章】チョイスする価値観
/若者関連事象からの分析
/なぜきゃりーぱみゅぱみゅなのか?
/「下着コーデ」「メギンス」-常識にとらわれず生み出す新しい流行
/ユニクロ+ユザワヤ
/「自分ものさし」で世の中をはかる
/お酒の飲み方も常識にとらわれない
/「個性尊重教育の第一号世代」
/クリスマスより二人の記念日
/自分らしさを「強調」よりも「協調」したい
/「世界に一つだけの花」と「ありのままで」
/ブランド感の押し付けを嫌う若者たち
/「スキマづくり」の成功事例
/一人一人に「ブランド・ベネフィット」を表現してもらう広告

【第2章】つながり願望ー支え合いが当たり前じゃないからつながりたい
/若者にとっての「宅飲み」
/スーパー銭湯とバーベキューの復権ー手軽な非日常感
/「カラーラン」「エレクトリックラン」-フォトジェニックという要素
/恋愛よりも義理よりも「つながり感」
/「街コン」と「狩りコン」の盛況
/「つながり」に関する意識の変化
/「リア充」と「ぼっち」の二極化
/「一人カラオケ」と「ぼっち席」-つながりからの開放と孤独感の解消
/つながりをサポートする「いじられ役」
/シェアしたくなる動画「バイラルムービー」という手法
/「SNSにアップしたくなる商品」という発想

【第3章】ケチ美学ー「消費しない」ことで高まる満足感
/お金をかけたいものがないから貯金になる
/「レンタル高級品」ー買わずに借りる
/「カーシェアリング」「相乗り」「シェアハウス」-見栄のための消費を嫌う
/「ハイボール」「ストロング缶」「センベロ酒場」-同じ酔うなら安く酔いたい
/「イエナカ消費」「弁当男子」「水筒男子」-外でお金をかけたくない
/消費意欲が芽生える中学時代からデフレ
/納得してお金を払う「イイワケ」が要る

【第4章】ノット・ハングリーー失われた三つの飢餓感
/物質的にもっとも満たされた時代に生まれた世代
/出会いがありすぎて「一期一会」にならない
/「ときメモ」と「ラブプラス」の違い
/「ウィル派」「三平女子」「女子会男子」-ドキドキよりも安心がほしい
/なぜ不良が減ったのか?
/「何でもあった世代」でも見たことがない新しさ
/情報過多の時代に存在感を示す工夫

【第5章】せつな主義ー不確かな将来よりも今の充実
/社会の恩恵を享受したことがない世代
/「若者ボランティア」の流行が意味するもの
/尋常ではない「若者の献血離れ」
/「即レス願望」をマーケティングに活かす手法

【第6章】新世代の「友達」感覚ーリムる、ファボる、クラスター分ける
/日本における「デジタルネイティブ世代」
/大学の入学式前から学生同士が知り合っている
/友達をクラスター分けする意識
/「リムる」「ファボる」-つながりの最小化
/「リツイート」か「リプライ」か
/なぜツイッターを連絡ツールとして使うのか?
/「つらたん」「やばたん」-タイムライン上を汚さない配慮
/つながりから解放されるための切り替え術

【第7章】なぜシェアするのかー「はずさないコーデ」と「サプライズ」
/「複数の自分のチャンネル」を持っている
/「はずさないコーデ」-自分らしさを消す方法
/「コミュ障」「自己満」「リア充撮り」-空気を読みあう意識
/テレビ番組の話題は「それ見てない」で終わってしまう
/「サプライズ」ーつながり感を高められる最高のネタ
/「チュープリクラ」「双子コーデ」「○○会」-つながりの確認作業
/若者たちが「シェアしたくなる」仕掛けを作る
/「推し面メーカー」はなぜ若者たちに受けたのか?
/「制服ディズニー」「コスプレディズニー」-非日常体験をする口実づくり

【第8章】誰もが「ぬるオタ」ー妄想するリア充たち
/8割近くが「オタク要素を持っている」と自覚
/サブアカ、趣味アカが生み出した新しいオタク像
/熱気が生じやすい「趣味コミュ」
/「初音ミク」「カゲプロ」とのコラボで成功した事例
/クリエイター心を刺激した「1本満足バー」のCM
/商品を「擬人化」させるキャンペーン
/バーチャルで妄想させる仕掛け
/「みんなはどう思っているんだろう?」を視覚化し、共有する

【第9章】コスパ至上主義ー若者たちを動かす「誰トク」精神
/使えるお金の減少=満足感の減少ではない
/「い・ろ・は・す」が若者に受けている理由
/ネットワークを活かして情報を駆使する
/「お得な情報」をシェアして感謝されたい
/「2ちゃんまとめ」「Naverまとめ」-情報収集も効率重視
/iPhoneが若者たちに普及したきっかけ
/なぜ、「読モ」の彼氏・彼女まで紹介するのか
/グルメガイドの変遷ー「顔が見えるユーザーの情報」が求められている
/「雪マジ!19」のヒット要因ー明確な「誰トク」を提示する
/年齢でセグメントする広告が効果的なもう一つの理由
/サンプリングも若者ほどシェアされやすい
/若者たちを動かす「友トク」精神

【第10章】つくし世代ー自分ひとりではなく「誰かのために」
/「自分以外の誰か」が意識されている
/「自分ごと」の範囲が広がっている
/「つくし世代」とは何か?
/冷たく合理的な時代だから「GIVE」が感動を生む

【終 章】若者たちはなぜ松岡修造が好きなのか
/「ボスとリーダー」の違い
/若者たちに共感を伝える「それな」マインド
/若者にもっとアウトプットの機会を!

あとがき
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ジョッキー・クラブ・イノベーション・タワー(Jockey Club Innovation Tower) ザハ・ハディド(Zaha Hadid) 2014 ★



夜の便で香港を離れるまでに時間があるので、空港に直結したセントラル駅で市内チェックインを済ませ、身軽になってむかったのは香港理工大学(The Hong Kong Polytechnic University)のキャンパス。

九龍側の目抜き通りである彌敦道(ネイザンロード)から東に向かったところに広い敷地を持ち広がる香港有数の大学である。古い建物が立ち並ぶキャンパスは新年を間近にして学生の数もまばらであるが、大学独特の若者があちこちでグループでまとまり何か活動をしている姿がかもし出す賑やかしい雰囲気に包まれている。

未来に希望を持つ若者が集まる場所というのはどこの国でもいいものだと思いながら先を進むと、落ち着いたキャンパスの雰囲気とはかけ離れた未来的な建物がいきなり視界に飛び込んでくる。が、引きがない空間とその高さのために頂部までは視界に捕らえられず、かなりの圧迫感を持って迫ってくる感じである。

この建物はジョッキー・クラブ・イノベーション・タワー(Jockey Club Innovation Tower) と呼ばれ、2007年に行われたコンペによってザハ事務所が一等を獲得した大学のデザイン学部の新しい施設である。限られた敷地に対して、様々に変化する社会情勢を踏まえて、大学としても要求される機能が増加し、その結果1万5千平米という延べ床面積を76mという高さの建物として収めることになったようである。

76mということで、70mとなっていた東京でのザハ事務所による新国立競技場の規模がいかに大きなものだったのかとこちらのタワーを見て理解する。また敷地も大学キャンパスの端に位置し、既存建物との間の空間も余裕を持って取ることができなかったのか、水平に配置されている古い建物郡からこの新しい縦に伸びる棟の間になんら横から縦へとつなぐ空間は設置されておらず、かなり唐突に、そして視線をブロックするようにいきなり建物へと出会うことになる。

内部に入り学生の作品の展示などを見ながらサッシ周りなどを見ていくが、先ほどのパシフィックプレイスに比べて、施工精度はかなり落ちるようである。これが斜めになった壁やガラスなどからくる難易度の高さからなのか、それとも設計を実物に落とし込むための図面のクオリティなのか、それともそれを単に施工会社やLDIの質の問題なのか、などと思い悩みながら再度外にでて見上げた外装材は、完成から2年もたっていないが、やはり相当に汚れが目立つ部分も多く、複雑形状をもった建物のモノとしての難しさと着地点をどこに目指すかの問題を改めて理解して大学を後にすることにする。