2009年5月31日日曜日

「向日葵の咲かない夏」 道尾秀介 2005 ★★★★

数年前とにかく話題に上がり、ものすごい勢いで売れていた本。第6回(2006年)本格ミステリ大賞候補にもなり、その大どんでん返しの展開と不可解なラストによってネットでも様々な批評を受けているということで手にした一冊。

その噂にたがわぬなかなかのレトリック。毎回物語の設定として読者の頭の中に刷り込んだ何かを、後半にて一気に逆手に取り世界観をひっくり返す。そんな手法を得意とする作者。近作はその手法が見事にはまったといってよいのであろう。

今作品では逃した本格ミステリ大賞もしっかりと2007年に『シャドウ』で第7回(2007年)本格ミステリ大賞を受賞するあたり、やはり作者の技量を伺わせる。

物語はこれも作者の得意とする日本人の多くが原風景として共有できそうなのどかな田舎の幼少時代の世界。夏休みの始まる終業式の日に、欠席した友人の家に書類を届けにいった主人公が見つけるのは首を吊って死んでいる友人の姿。

小学生が友人の自殺姿を見つけてしまうということが、どれだけ衝撃の強い体験になるかという描写もそうであるが、いつもついて回る妹のミカの存在や、不思議な存在のトコお婆さん、そして生まれ変わって蜘蛛となった自殺した友人など、現実なのか、それともファンタジーなのか、それとも何かが狂っているのかと、微妙なところで世界観を崩さずに話を紡いでいくのもまた作者の力の成すところ。

後半に一気に明かされるネタバラシ。それでも解釈が何重にでも可能なラストをもってくるところ、やはり並みの小説家でないと思わされる。これくらいサクサク読めてなおかつ、頭に刺激がある娯楽小説が日常の時間の脇にあることのありがたさを感じる一冊であろう。

2009年5月30日土曜日

「クラインの壺」 岡嶋二人 1993 ★★★ 

1989年に刊行された本とはとても思えない内容である。

幾何学と日常的に向き合っている建築家という職業についているものなら、題名である「クラインの壺」は「メビウスの輪」と同じくらい馴染みの深いものであり、そこに新しい空間の可能性を一度ならずとも思い描いた対象でもある。

「メビウスの輪」がわっか状にに繋げられたリボンの一部を切り取り、それをひねって再度くっつけることによって、わっかの外をなぞっていたらいつの間にか内側をなぞることになるという幾何学の不思議を表すものであるが、それに対して「クラインの壺」はより複雑で、如雨露のような内と外を持った立体の一部が伸び、曲がり、もともとの立体に貫入していきもともとの立体の内壁とくっついて幾何学を閉じるというもの。つまり「面」の「表と裏」の操作ではなく、立体の「内と外」が捩れるという一次元高い幾何学の不思議を表すものである。

そのタイトルから分かるように、空間の捩れを指し、コンピューターの発達によって様々なところで問われている「リアルとバーチャルの世界」の線引きとその相互貫入の問題を主題においている。

イプシロン・プロジェクトと呼ばれるバーチャルリアリティを利用した新たなゲームであるブレイン・シンドローム開発。それは人間自体がカプセルに入り、液体につかることで視覚や触覚だけでなく、それぞれの感覚を同時に仮想現実の世界に入り込ませるという設定であり、その先に訪れるのは現実とバーチャルの世界の曖昧化。

それにしても、やっとVR(バーチャルリアリティ、Virtual Reality)やのAR(Artificial Reality)が現実の世界での利用が始まった昨今から考えて、20年前にすでにここまでこの技術が発展し、その後に人類が向き合うことにある根源的な問題を主題におくとは、著者の考察の深さに頭が下がるばかりである。

小説内の象徴的な一節

「はじめのところから始めて、終わりにきたらやめればいい 」

それが示すのはまさにタイトルの「クラウンの壷」のように、一体どこかがはじめでどこまが終わりなのか?という問題。

著者の岡嶋二人は徳山諄一と井上夢人の二人の共著での著者名であるが、この一作を最後にコンビを解散してしまうことになるのが、これほどの作品を残すのは相当な関係性があってのことだろうと想像するだけに、非常にもったいないと思いながらも彼らのその後の作品も追っていかないと思わせる名作である。
クラインの壺
メビウスの輪

2009年5月29日金曜日

「天使のナイフ」 薬丸岳 2005 ★★★

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第51回(2005年)江戸川乱歩賞受賞作
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人が作る社会の秩序を守るために作られる様々な法律。社会が変わり、その中で生きる人も変われば求められる法律も変わるべきだが、性善説、性悪説と人類の歴史と同じ長さを持つ「人が人を裁くこと」への矛盾。そしてその線引きを何処におくかによる葛藤。その揺らぎによって傷つけられる人々の物語。

その社会と法律の矛盾に光を当てて、現代の抱える問題を浮かび上がらせようとする作者の試み。そのライトが当てられるのは、少年事件と少年法の問題点。

子供は純粋であるはずだ。
子供はまだ分別がつかないだけだ。
ちゃんと更正させれば、まともな大人になれるはずだ。

という性善説に支えられた思い込み。それに反比例するように頻発する少年犯罪。現代を代弁するかのようなその事件が「なぜ起きたのか?」に注目してやりだまにあげられる「郊外」や「ネット世界」。それに対して、犯罪を起こした子供に対する「刑罰」をどうするかを対処するのが「少年法」。

現行の少年法では、未成年者の人格の可塑性、つまり「更正すればまともになる。こうなってしまったのは、それまでの環境のせいだ!」という建前とも呼んでいいような人類の飽くなき願いに沿って制定されており、刑法41条によっても「十四歳に満たない者の行為は、罰しない」とされている。

そしてそれを裏手にとって、14歳まではなにをしても刑罰に処されないと開き直る子供がいたらどうするのか?

そして少年事件に巻き込まれ、妻を殺された被害者である主人公。少年Aや少年Bと名づけられた子供達。更正施設からあっという間に社会に戻され、過去を消して生きていく彼ら。その周囲で起こる殺人事件とかつての被害者の主人公の姿。そして徐々に明かされる過去の事実。

「目には目を」

ではないが、人が人を裁くことの永遠なる人類の葛藤。そして社会を構成する一員として現行の法令に縛られる自らの感情。その網の目を潜り抜けていく子供達。その矛盾を見事に描ききった傑作といってよいだろう。