2005年1月10日月曜日

サーフェイス・ライフ


多言語を習得するということは、いろんなことに気がつく機会を与えてくれる。

言語はもちろん同じ数の単語があるわけではなく、例えば日本語は動詞の数が少なく、副詞で「しとしと雨が降る」などと、雰囲気を補う言葉が発達している。逆に英語は名詞の数が多いのではと思う。道と歩道の段差の角を指し示す言葉があったりと、細かく世界を表記していこうという意思が感じられる気がする。

しかし最近思うのは、多言語習得は根気よくほんとうに細かいところまで気にかけて実につけないと逆に母国語のが手薄になるという欠点を持っている気がする。

他の人が母国語でいろいろな本を読む時間に、他の言語の基本単語を勉強し、他の人がいろいろな言い回しや、高次の思考を発展させているときに、日常会話を身に着けているということになる。しかも得てして雰囲気で覚えることが多く、それが実際何をさすのか、細かい発音や意味を飛ばして身に着けることとなる。つまり多言語を話す子供のようなものだ。

これがまずい。

論理的議論を交わすような場面で特にそれが顕著に現れる。表面的な教養はある場面で簡単にめっきをはがすと言うわけだ。

ちょっとまじめに勉強しなければ。と思い、インターネットを検索し、批評のページなどにアクセスするが、またサーフェイス。

コピーして読んだ気になっている。

ああ恥ずかしい。