2012年2月27日月曜日

ハガネのパンダ



「禁断のパンダ」はだらけたが、「ハガネのパンダ」は緊張感たっぷりだ。

「Cultivate Meisters」で書いた様に、数日前大雪の浅草で開かれた送別会で、酷い風邪にも関わらず、燕三条から駆けつけてくださった阿部工業の社長さん。「チタンのぐい呑み」に感動していると、「僕からはちょっと大きすぎたので、数日したら丸若さんより届きますので。」とかなり意味深な笑み。

なんだろう?と妻と首を傾げていたら、届いたのはかなり大きな包み。

恐る恐る空けてみると、出てきたのは額に入った一枚のハガネ。というかパンチングメタル。

「なんだ、なんだ」とグルグル廻してみると、二人揃って「分かった!」とアハ体験。以前話を聞いていたパンチングメタルの穴のサイズを利用して、様々な図柄を転写できるように開発を進めていると言っていた技術だと理解し妻への説明。横から見ると何も見えないが、前方にまわるとうっすらの図像が浮かび上がる。

中国へ行くということから、パンダによる「欢迎光临(huānyíng guānglín)」と言う訳。
ちなみにパンダは熊猫(xióngmāo)。

またしても大変ありがたい、「ハガネのパンダ」の送別品。

今年中に本場四川で、「生身のパンダ」を背景に写真を撮って送ると約束をする。

2012年2月18日土曜日

WAA DIPLOMA 2011


 「WAA DIPLOMA 2011」 のギャラリー・トークを聞きに行って来た。

せっかくなので、今は日本人の女性と結婚して東京で趣味の武道を学んでいるザハ事務所で同僚だったアメリカ人を誘って一緒に行く。一つ一つの作品をテーマ、コンセプト、敷地、方法論などを説明し、講評会のやり方などについて議論する。

彼が一時期通っていたスイスの大学では、講評会では必ず外部の建築家などが招聘され、発表をした学生はその後脇に下がって、後は指導員と他の教授、そして招聘された外部の建築家の間で議論が行われ、それを学生はただ見ているという。

基本的には指導担当の先生が、責任を持って学生を援護し、それに対して自由に他の建築家から厳しい意見が述べられ、公平な立場として建築の作品に対してクリティックが行われると言う。

プレゼンテーションについては、AAスクールは完全にぶっ飛んでいるが、世界中の90%の建築関係の学校はどこも似たりよったりで、この様なフォーマットのプレゼンだろうと、以外にシニカルな反応。

鈴木了二氏×赤坂喜顕氏によるギャラリートークに合わせるように、1,2年生や卒業生も集まってきたのか、かなりの人数に膨れ上がる会場。

トークの後には会場で簡単な食事とワインが振舞われ、今年もまた3年間の学生生活から解放された学生のほっとした表情を眺めて一年間の終わりを感じる。

















2012年2月17日金曜日

Cultivate Meisters


新潟に燕三条という金属加工に特化した職人の街がある。和釘から洋食器を経由して、今はステンレスのキッチン用品から最先端のIT端末まで金属の磨きや金属プレス加工で名を馳せる。

磨き技術が凄すぎて、泡がつぶれなく発泡酒がビールになると言われたECOカップは広く知られているこの街の特産と言っていいだろう。


以前ひょんなことよりその中のいくつかの工場を経営する社長さん達とお付き合いさせていただくことがあり、それ以来ちょくちょく連絡を取り合わせて頂いていた。


「3月末には北京に移ります。」

という連絡を入れると、「何としてもそれまでに会いましょう」と、ただそれだけの為に大雪の中新潟から遥々東京まで足を運んでくれた。間を取り持ってくれたのは、工芸とデザインの豊かなる融合を目指す丸若屋の丸若氏。


渋く裏浅草でしっぽりと。なんて言っていたら、まさかの大雪で浅草寺以北はほぼ人気無し。お蔭で、周りを気にすることなく久々の再会を楽しみながら、日本のモノづくりの底チカラを感じさせてくれる相変わらずのエネルギッシュっぷりに嬉しくなる。

あの独特の新潟トーンで、「これ送別の品ですよ」とさりげなく渡してくれたのは、長谷川挽物製作所さんが手掛けるCultivate Meistersのぐい呑み。そうチタンの匙ではなくチタンのぐい呑み。

「冰を目いっぱいいれてもらって、そこにウイスキーを流し込んでもらえば、絶対に温くならないですよ」

と楽しそうに教えてくれる。


モノに真摯に向き合っている人は、人との出会いにも真摯に向き合っているんだと思わずにいられない特別な贈り物。本当にありがたい。

大陸に渡ってもこのぐい呑みで上手い酒を飲む時には、あの独特な新潟弁が思い出されるのだろうと一人思う。



2012年2月16日木曜日

早稲田大学芸術学校 卒業設計展 「WAA DIPLOMA 2011」


非常勤講師としてお世話になって5年目。春から北京に戻る為にしばらく学校とは距離をおくことになるので、今年が最後の指導学生となる上に、東日本大地震の年に一緒に建築を考えてきた学生達の最後の晴舞台となる卒業設計展。

社会人主体の学校ということで、昼間仕事や学校を終えてから夕方にこの学校に来て、夜遅くまでスタジオでプロジェクトを進め、また明日はそれぞれの日常を繰り返す。

大学で同年代に囲まれて学ぶ環境とは違い、学生同士でも20歳ほどの年齢の幅を持ち、多様な人生の背景を持った人が集いながら、不器用ながら建築の魅力に振り回される、そんな時間を3年繰り返した彼らがその節目に何を考え、何を作るのか。

自らの想いに沿って、自らテーマを設定し、施主も予算も何の制約もない卒業設計という夢舞台。次に誰かに作品を見てもらえるまでは暫く時間がかかることだろうから、ぜひとも悔いの残らないようにと、最後の仕上げをしている設置会場に差し入れ片手に昨晩足を運んで来た。

その展覧会が本日より開催されます。

土曜日には元・前校長二人によるトークセッションとして、各作品の解説も行われるので、興味のある人はぜひ。



早稲田大学芸術学校 卒業設計展「WAA DIPLOMA2011」
2012年2月16日(木)~28日(火) 10時30分~19時00分
※水曜休館・19日(日)臨時休館、入場無料
◆鈴木了二×赤坂喜顕 ギャラリートーク
2012年2月18日(土) 18時00分~ 
※入場無料・参加自由
会場:リビングデザインギャラリー リビングデザインセンターOZONE 7F
住所:東京都新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー内
TEL:03-5322-6500
WEB:www.ozone.co.jp
・JR新宿駅南口から徒歩約12分
・西口エルタワー前より約10分間隔で無料バス運行





2012年2月15日水曜日

アジアデザイン(DFA)大賞2011 Merit賞 賞状



「宮原邸」がアジアデザイン大賞2011のMerit賞を受賞いたことは先日お報せさせていただいたが、その表彰式が香港で開催され、もちろん出席はかなわなかったのだが、その賞状が海を越えて届いた。

建築家といて職業をしながら生きていると、もちろん最終的にこの世の中に持ち込まれた建築は、大切な人生の大切な時間とエネルギーを注ぎ込むくらいだから、自分が素晴らしいと思っているからできている訳である。

つまりどんなに意識していても、ついつい近視での見方に寄っていってしまう。

そこに少し客観的な視点を持って判断してもらう人といえば、なんと言ってもお施主さん。この人がいなければこの建築が生まれることどころか、構想されることも無かった訳で、しかも予算という大きな要素のバランスを取りながら、最終的に住い手として厳しいジャッジを下す施主。

この人が一体どう建築を評価するか、もちろん自分が欲しかった家が建つわけだから、どちらかといえば近視サイドだが、建築家ほどの厚メガネはかけていないので、生活が豊かになったと言ってもらえることこそ、建築家にとっての何よりの賞であると思う。

ではその次というと、建築家の周りの建築仲間ということになろう。これはもう少しドライ。くだらないオープンハウスに行って、使えそうなディテールの写真を何枚も納めるよりも、本当に近しい仲間の建てたものを見に行って、「いい」か「悪い」。「悔しい」か「まだまだ」か。緊張感のあるコメントをもらうのが何よりの成長の糧であろう。

さてその次となると、通常雑誌という建築メディア。しかし建築メディアが一般の読者が思うほど、健全な視点を持ち合わせているかというと、非常に時代によっての浮き沈みがあることは間違いない。

発行部数が雑誌の存続になるという現実が、建築の文化を守るという美徳を簡単に超えていく。そんな時代に生まれる建築は可哀想だが、そんな時には世の中に数多ある建築賞という視点も存在する。こちらも得てして政治の手垢がつきまとうが、それでも客観性のあるジャッジを受ける格好の場であるのは間違いない。

少なくともこういう受賞という機会に乗っからない限り、竣工した「○○邸」があれあれこれこれで素晴らしいです!なんてことは、ちょっとした羞恥心と自尊心を持ち合わせていたらなかなか恥ずかしくて言い出せないだろう。

そんな訳で難産の末に生まれた建築に、日の目を浴びせることができたことに感謝して、報告できることを励みにし、また次に便乗できる機会を作り出す為に、明日も頑張ろうかと少し思う。

2012年2月14日火曜日

新しいBlogger


「デザインが新しくなりました」

というお知らせをずっと見て見ぬ振りをしていたが、引っ越しの準備と共に始めたデータ整理の一環として思い切って移行する事に。

何に腰を引けていたいたのかと言うと何より二点

「Google + との連動」



「下書き保存していた投稿を公開すると、以前は最初に下書きを保存した日付が投稿日付になっていたのが、全て今日の日付になってしまう。」

こと。

Google +はまだよく分からないが、流されながら見る風景も悪くないかと許容することにするが、日付問題は、これではライフログとしての役割から随分逸脱してしまう。

そこで困りながらいろいろ調べると、右にラベルなどと一緒に編集欄があるスケジュール。ここでどれだけでも好きなだけ過去に遡っての投稿も可能になることを発見。

つまりアルバムとして使う人にとっては、自分の生まれた時の写真をその日の投稿として保存でき、時間軸に乗ったログとして使える。

これは素晴らしい。

かつてその時代ごとのメディアに断片として分散していたログのカケラをかき集め、夜な夜な時間を遡っては、あの時の気持ちを少しだけ思い出しては投稿する。

時間は不可逆であるが、それも全部ひっくるめて自分の体験という事だろうか。

2012年2月9日木曜日

マンガ 日本の歴史




歴史というのは面白いもので、現代から遡っていくのと、過去から現代に近づくのではその理解に大きく違いが出来る。

過去が下敷きとなって次の時代が作られ、それが前提となって先に進む。どんなにあがいても、時間は一方通行であり、それが歴史の不可逆性。

だから何か今の世に無い物を作り出そうという人間にとって、どんなに大雑把にでも歴史の流れを掴んでおく事は必要不可欠の時間。

赤瀬川原平も利休の映画の脚本依頼された時に、歴史の背景を学ぶ為に手っ取り早い手段として手にするのがマンガ日本の歴史。

ワールド・ビジネス・サテライトの「スミスの本棚」でキヤノン電子の酒巻社長が勧めたのもマンガの歴史もの。

『経験も知識も重要だが、たくさん散らばっているだけではダメ。それらを体系づけた形で頭に整理させることを可能にするのが読書。そうすると、知識から知恵になり、仕事の実践の場で役に立つ。』

と。

そんな大義名分に将来子供ができたら、何気なく目にするように本棚へ・・・という思惑がプラスされヤフオクで狙いすましての落札。

暫くほったらかしてあったが、冬の寒い季節に、少し長めに湯に浸かる様になり、砂時計を2回ひっくり返す9分間で読み進めると、数日で百年ちかい時間が流れ、じわりと出てくる汗の代わりに、着々と時間の積み重ねを視覚イメージとして身体に取り込む。

メディアに取り上げられる華のある時代や人物だけでなく、地味でも通り過ごす事なく、ちゃんとその時代を見渡せる、それが包括的な歴史書のメリット。

司馬遼太郎も良いが、誰かの視点から見る歴史でなく、清盛もお江も龍馬も、歴代大河の主人公は全て登場し、その誰でも無い視点で時代をスクロールしていく。焦らずゆっくりと一年かけて追って行きたい。



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「マンガ 日本の歴史 55巻」 石ノ森章太郎 中央公論社 1997 ★★★★
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〈1〉秦・漢帝国と稲作を始める倭人
水稲耕作の伝来とともに弥生時代は幕を開けた―。日本の歴史を常に国際環境の大きな視野のなかに位置づけ、人間の精神や感性の社会との葛藤の模様を描くことにより、歴史的側面はもとより、精神史・文化史までをも再構築する。

〈2〉邪馬台国と卑弥呼のまつりごと
古代日本史最高のヒロイン、卑弥呼登場―。『魏志』倭人伝の記述を手懸りに、弥生時代後期の「倭国」が大乱から統合へと向かいゆく有様、また、弥生文化が日本列島各地域に個性豊かに定着してゆくその過程をいきいきとよみがえらせる。

〈3〉興亡する倭の五王と大嘗の祭
さまざまな神話と伝説とに彩られた三世紀後半から五世紀末―『宋書』倭国伝にみえる「倭の五王」が宋への朝貢を挺に日本全体を統合していくさまを、前方後円墳という墳墓様式の伝播と王の守護神への服属祭儀としての大嘗の祭の形成とを軸に描く。

〈4〉王統譜を編み上げる大和王権
大和王権は中国や朝鮮半島の情勢と連動しつつ、諸豪族を糾合しながら超越的な権力へと発展していく―。一方、渡来人や帰化人によってもたらされた仏教が豪族を崇仏派と排仏派とに分かつなか、王権はさらなる飛躍に向け、選択を迫られる。

〈5〉隋・唐帝国と大化の改新
超越的存在に成長した王権中枢部は血で血を洗う暗闘の場であった―。初の女帝推古天皇と摂政聖徳太子は積極的に国際社会へ乗り出しながら国内の改革を大胆に推進する。

〈6〉律令国家の建設とあらがう神祇
大化の改新に始る急進改革は社会に次第に大きな歪みをもたらし、遂に古代最大の抗争「壬申の大乱」が勃発。大乱に勝利した天武天皇は、本格的な律令国家建設への途を歩み出す。

〈7〉大仏開眼から平安遷都へ
大仏造立を果たした律令国家を専権する仲麻呂・道鏡を抑え天皇親政の道を模索。

(8)密教にすがる神祇と怨霊の祟り
桓武親政と密教により王城の地平安京を造る朝延は、怨霊に悩み藤原氏が擡頭する。

〈9〉延喜の治と菅原道真の怨霊
九世紀末、宇多天皇は能力・識見ともに群を抜く菅原道真を側近に抜擢、藤原北家の反撥は道真の配流事件へ発展する。続く醍醐天皇の国制改革はめざましい成果をみせるが、支配力の強化は没落勢力の鬱念を顕在化させ、「道真の怨霊」を呼び覚す。

〈10〉将門・純友の乱と天暦の治
東国では平将門が菅原道真の怨霊を掲げて朝廷に叛旗を翻し、西国では海賊藤原純友が乱を起す。国衙支配の強化に在地勢力や有力農民らが一指導者の下に結集したのだ。この過程で発生した「兵」たちを内側に取込みながら王朝国家は成熟へと向う。

〈11〉王朝国家と跳梁する物怪
「この世をばわが世とぞ思ふ」と謳歌した道長の摂関政治を華麗に描く王朝絵巻。

〈12〉傾く摂関政治と地方の社会
あらゆる世代の支持を得て「万画」版日本史古代篇完結。忠常の乱、前九年の役を通じ武士は確実にその地歩を築き、歴史は中世へと転回する。

〈13〉院政と武士と僧兵
朝廷に強訴をかける寺社、朝廷警固をきっかけに王権の武力中枢を蚕食する武士―。諸勢力が乱立し社会的成長を遂げるなか、後三条天皇以来の親政の継承・展開を狙う白河天皇によって日本独特の王権の形態「院政」が生れる。

〈14〉平氏政権と後白河院政
摂関家・近臣・貴族を巻き込んで拡大していった鳥羽法皇派と崇徳上皇派の対立は、鳥羽法皇の死歿を機に武士が主役となる武力衝突に発展した―。この保元・平治の乱を経て平清盛による初の武家政権が成立、平家一門は全盛を誇る。

 (15)源平の内乱と鎌倉幕府の誕生
史上の名キャラクターが万画から生き生き立上がる。伊豆に挙兵した源頼朝は平氏との争乱に勝ち抜き、ついに東国に幕府を樹立する。

(16) 朝幕の確執、承久の乱へ
尼将軍といわれた北条政子に代表される「女人入眼」の時代に生きた源実朝の悲劇。巨匠による大人のための「万画」日本史。

〈17〉蒙古襲来と海外交流
高麗を降したモンゴル皇帝フビライは次の狙いを日本に定め国書を送る。しかし幕府と朝廷はこれを無視、執権北条時宗は西国の御家人に“異敵”の襲来に備える指令を発した。日蓮の批判が現実化した蒙古襲来から得宗専制の時代は「旅の時代」であった。

〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ
北条専制が進むにつれ、幕府への反発から、荘官、地頭、農民、僧をはじめ権力機構の末端の御家人たちまでもが「悪党」化し、その力は新しい時代の幕開きの原動力となった。そんな動乱の時代に屹立する強烈な二つの個性・後醍醐帝と足利尊氏。

(19) 南北朝動乱のなかの京と田舎
時に荒々しく、時に繊細に流れる歴史の旋律が聞える。社会のあらゆる階層に深い亀裂が生じた南北朝動乱の時代相を劇的に描き出す。

(20) 足利義満、「日本国王」となる
寇の猖獗に悩む東アジア世界を背景に公武統一権力を目指す「日本国王」義満。日本の歴史の向うに世界が見える、新しい発見の愉しみ。

〈21〉土民、幕府をゆるがす
有力守護大名による『宿老会議』の結果、くじ引きで六代将軍となった足利義教。しかし、飢餓と悪疫が流行する社会不安のなかで、日本開闢以来初めての土民蜂起がおこる。本作品は一九九七年度アジア漫画大会で漫画アカデミー賞大賞を受賞。

〈22〉王法・仏法の破滅―応仁の乱
西暦一四六七年五月二六日、京に始った応仁の乱。以後十数年に亘り、西国のほとんどの地域を戦火に巻き込み、栄華を誇った京の都を焦土と化したこの大乱を新視点で把える。本作品は一九九七年度アジア漫画大会で漫画アカデミー賞大賞を受賞。

〈23〉弥陀の光明をかかげて
宗祖親鸞により主に農村中心に普及し、本願寺八代法主蓮如の出現で全国的発展を遂げた一向宗と、町衆と結んだ法華宗の「一揆の時代」を描く。一九九七年度アジア漫画大会で漫画アカデミー賞大賞を受賞。

〈24〉自立する戦国大名
明応の政変で十数年間を不遇な異国の旅に費す足利義材。その間全国的に権力の地方分権化が顕在化し、時代は戦国大名相互の国盗り合戦に。

〈25〉織田信長の天下布武
今川義元を破り、独り立ちの戦国大名としての第一歩を踏み出した織田信長。「万国安寧」を目指して上洛を果たしながら、志半ばにして本能寺に斃れたその四十九年の生涯を描く。

〈26〉関白秀吉の検地と刀狩
京・大徳寺で行なわれた信長の葬儀で、信長の大業を継承することを天下に知らしめた秀吉は関白にまでのぼりつめ、惣無事=平和令によって全国の平定を進めて行く。

〈27〉桃山文化と朝鮮侵略
聚楽第完成と九州の戦勝記念の宴として催された盛大な「北野大茶会」から、厳戒のうちに行なわれた寂しい「醍醐の花見」へ。天下人秀吉が描いた対内外政策の挫折。

〈28〉徳川家康の天下統一
天下分け目の戦を勝ち抜き泰平の世の扉を開いた徳川家康。巧みな人心収攬と堅実な戦略で徳川幕府三百年の礎を築いた「天下殿」の深謀遠慮。

(29) 江戸幕府と朝廷
東照神君の陰で徳川幕府を磐石にする将軍秀忠の布石。幕府はいかにして朝廷の権力を超えたか。江戸時代を築いた“律義者”の静かな闘い。

 (30) 鎖国
「生れながらの将軍」家光が完成させた鎖国政策の実態、幕閣体制を整え強力な将軍権力を行使した寛永時代、幕府は島原の乱に狼狽する。

〈31〉大開発の時代
寛永の大飢饉を経て小農民の維持育成等の勧農政策が幕府により推進されるなか、戦争がなくなり恩賞による知行地拡大が望めなくなった領主たちは、新田開発や用水工事等、自己の領内を開発することで実質的な領地拡大を図っていく。

〈32〉忠臣蔵と生類憐み
「犬公方」綱吉の、力による刷新により、屈折した戦国の遺風「かぶき者」が一掃された元禄時代に赤穂浪士の仇討ちが起る。一方、井原西鶴の草子、近松門左衛門が戯曲を書いた人形浄瑠璃や歌舞伎、松尾芭蕉の俳諧など町人文化が花開く。

〈33〉満ちる社会と新井白石
富士山大噴火の一年後に将軍綱吉がこの世を去り、六代将軍には家宣がついた。将軍親政を意図する家宣を新井白石と間部詮房が支える。「生類憐み令」が廃止され、社会は商品流通の発達で活気を帯びていく。

〈34〉米将軍吉宗と江戸の町人
紀州藩主時代から賢侯ぶりが世評に高かった将軍吉宗。「米将軍」と呼ばれた吉宗は、米価の調整や新田の開発に力を入れ、幕府の懐を潤した。これらの米政策に加え、質素倹約などを進めた「享保の改革」は、幕藩制国家を再建充実させた。

(35) 田沼の政治と天明の飢饉
賄賂政治として悪評の高い「田沼時代」の実像に迫る。年貢増徴策から商品生産・流通課税策への政策転換が新たな社会不安を呼ぶ。

 (36) 花ひらく江戸の町人文化
儒教の絆から解き放たれた町人が形成した〈通〉の世界。宣長・源内・大雅・蕪村・南畝ら多彩な文人が開花させた宝暦・天明期の文化。

〈37〉寛政の改革、女帝からの使者
青年宰相松平定信は、士風の退廃を立て直すため内政改革を性急に断行、幕府主導の商業政策を展開し、農村復興に務める。欧米列強との緊張が高まる中、ロシアからの使者とともに漂流民・大黒屋光太夫が帰国し、異国見聞を伝える。

 (38) 野暮が咲かせた化政文化
馬琴・一九・写楽・歌麿・北斎・広重・南北ら個性豊かな才能が創る庶民文化。

〈39〉飢饉と兵乱と
徳川家斉の時代は商工業の技術革新が少しずつ進み、工場制手工業の萌芽が見られるようになった。しかし幕府の経済政策は破綻し、天保の飢饉が人々を苦しめた。このような状況を悲痛な思いで見つめていた、元与力の大塩平八郎は謀反を起こす。

〈40〉内憂外患と天保の改革
長期に渡って政権に君臨した徳川家斉がその生涯を閉じ、老中首座についた水野忠邦は、内政を立て直すために天保の改革を打ち出す。清の国がイギリスに全面降伏するなど、外患が深刻になる中、国政を憂える渡辺崋山に蛮社の獄が襲いかかる。

〈41〉激動のアジア、日本の開国
次々と訪れる外国船の対応に悩まされる老中・阿部正弘。そんな中ついにアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる“黒船”が来航し開国を迫る。強力な武力を持った米国艦隊に対し幕府は抗う術がなく、日米和親条約の締結と横浜開港を認める。

〈42〉倒幕、世直し、御一新
西郷隆盛・高杉晋作・桂小五郎といった「草莽の志士」たちが、維新の時代に活躍するが、坂本竜馬と中岡慎太郎は、新しい時代を見ることなく、刺客の手によりこの世を去った。そして最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還により新しい時代が始まる。

〈43〉ざんぎり頭で文明開化
廃藩置県で中央集権官僚体制の基礎が固まると、岩倉具視を特命全権大使とした使節団が米欧に派遣された。岩倉使節団訪米後、政府はさまざまな封建的規制を廃止し、近代化を目指す新政策を矢継ぎ早に打ち出した。文明開化の到来だった。

〈44〉民権か国権か
ゼロから出発した明治の社会が次の段階を迎えようとした時、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が相次いでこの世を去った。維新の三傑時代の終焉は、政治が個から組織の時代へと向かう暗示だったのか、この後、民権運動が激化し、憲法発布へと続く。

〈45〉旧石器人の登場
長野県野尻湖は春三月に水を落とし、湖岸の一部が干上がる。その一帯から数十頭のナウマンゾウと十頭近いオオツノジカの骨、さらに石器、骨角器などが発掘された。旧石器人達がこれらの動物を捕え、解体した場所“キルサイト”といわれている。

〈46〉縄文時代の始り
およそ一万二千年の昔。地球上の気候が、寒冷な時期から温暖な時期へと転じる。ちょうど同じ頃、縄文土器の出現によって画される縄文時代が始まる。温暖化した気候のもとで、安定した食料採集に依存し、定住生活を送る日本型の新石器時代である。

〈47〉縄文社会の繁栄
4500年前の新潟県の遺跡から、口のあたりが火の燃え上っているように飾られた豪壮・雄渾な“火焔土器”が発掘された。この頃、縄文文化は山野・海川からの豊かな食料に恵まれて最高潮に達し、東日本では、想像を超える大型住居も生まれる。

〈48〉縄文時代の終末
土器の様式や人生の節目に行われる抜歯の風習、婿入婚と嫁入婚など、東西二つの文化圏に分けられる縄文晩期。北部九州に到達した渡来人がもたらした水稲耕作技術は、食糧事情を一変させ、やがて収穫物をめぐり人が人と戦う時代へと向かわせる。

〈49〉明治国家の経営
明治23年、東洋初の憲法の下での最初の衆議院議員総選挙が実施された。選挙の結果は反政府派の民権派議員が過半数以上の議席を獲得。帝国議会は、打倒藩閥政治を叫ぶ民党と政府が正面衝突し対立を繰り返した。その両者が歩み寄る機会となったのは、明治27年に開戦を迎えた日清戦争だった…。

〈50〉大日本帝国の成立
日清戦争後、列強の利益獲得競争は清国ばかりでなく韓国にも及び、特に日本とロシアがしのぎを削った。独立自衛のための生命線確保を目指し、大陸への膨張政策をとりだした日本にとって、ロシアの南下政策は大きな脅威となっていた。そうした状況下、日本はロシア牽制のため、英国との同盟を模索する。

 (51) 大戦とデモクラシー
政党内閣か超然内閣か大戦の狭間で動揺する国内政治。政党が成熟し護憲運動が盛り上がる日本は大戦と革命という世界変動に直面する。巨匠による大人のための「万画」日本史。 -

 (52) 政党政治の没落
満州事変から二・二六へ、政党政治の挫折と軍部独走。テロリズムがモボ・モガの時代を揺るがし国際連盟を脱退し日本は世界で孤立する。

〈53〉日中戦争・太平洋戦争
1937年中国蘆溝橋に響いた銃声は日中全面戦争に拡大。大東亜共栄圏構想を展開する日本の武力行使で、英米との対立が激化する中、日独伊三国同盟が結ばれた。1941年、日本が英仏蘭に宣戦布告。拡大する戦火はアジア諸国を日本と欧米との戦場とし、日本は国家総動員体制のもと太平洋戦争に突き進む。

〈54〉占領から国際社会へ
1945年8月日本が無条件降伏をし、蘆溝橋事件から八年、満州事変から数えれば十四年に亘る、総力戦の名のもとに国民を駆り立てた「戦争の時代」が終わった。日本は、最高司令官マッカーサー率いる連合国軍の軍事占領下に置かれ、民主化と非軍事化を柱に憲法改正をはじめとする占領政策を実施される。

〈55〉高度成長時代
米ソ冷戦の結果として安保体制を代償に、日本は講和独立を獲得。国家的自立の道を歩み始めた。だが1960年、“日米安全保障条約改定”を機に、安保反対闘争が一気に激化。岸内閣は国会に警察官を導入、強行裁決を行なった。この未曾有の騒動に内閣は総辞職、代わって池田内閣が成立。以後日本は、急速な経済成長を遂げ、大きく社会変貌していく。

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2012年2月7日火曜日

決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。

よく車のナビで目的地の方角に向けて一本の線が表示される。現在地の道が、それとは全然違う方向に進んでいても、最終的な目的地は分かっていますよよと言わんばかりのそのライン。

そのラインを思い出されてくれたのが昨晩の「NHK プロフェッショナル 仕事の流儀」の中で、獣医師・齊藤慶輔さんが挙げていた言葉。

食物連鎖の上位に位置するが為にオオワシが鉛中毒で続々と死んでいく中、調査の為にサハリンに渡る。悪路を進む為に乱れる予定。

そんななか、「ロシアは予定通りに事が運ばなくて大変だね」と声をかけた運転手が発した片言の英語での言葉だという。

「目標さえ見失わなければ、必ず道は開ける。いつもどうかたどり着ける道はないかな?と道を探していた。しかし、道なんてはじめからなく、目的や行き先があって初めて道ができる。だから道をつくればいい。」

まだまだ青年期真っ只中の自分には圧倒的なインパクトを与えてくれる。

「決まった道はない。ただ行き先があるのみだ。」

一歩間違えると猪木に聞こえそうだが、ブレない行き先を見据えていれば、いくら遠回りになろうとも必ずいつかは辿り着く。

それさえ分かっていれば、そこさえ見えていれば、どんなに苦しくても道を作れるし、どんなに暗くても光が射すのを知っている。

誰かに決めてもらうのではなく、ちゃんと自分の中から湧き上がるそんな行き先をしっかり捉える、そんな一年にすると再認識する。

2012年2月6日月曜日

ひたすらに面白いことを

知り合いの先輩建築家の事務所に久しぶりに伺い、一つの話題で盛り上がる。

その人が非常勤で教えている大学の卒業設計展を見に行った感想で、最近の学生はあまりに可哀そうだと。

20代の一番元気のある時に、本当に自分が楽しいと思える事に情熱と時間を費やすべきなのに、今は社会がどうのだとか、収縮の時代だとか、震災復興や死にどう接するかなど、あまりにも暗いテーマばかり。

どうしようもないことは、どうしようもない世界にしてしまった大人が尻拭いすべきで、せめて大学の最後の時間を捧げる卒業設計くらいは、コンセプトや理論なんか破綻してしまっていても、底抜けに明るく、自分だけでもいいから楽しく、なんだかわからないけどカッコよく、今は誰も理解できないがとてつもない可能性を秘めているのではと思えるもの、誰もがそんな作品を見たいと思っている。

それを時代の空気がそう言わせないだけで、その空気が学生を押しつぶしている。外の世界に出れば、否が応でもその空気の中で生きていくのだから、せめて大学の敷地にはその悪しき空気が入り込まない様にしてやるのが、せめてもの教員の務めなんだと。

鼻息荒く捲し立てるその建築家に、自分が楽しいと思えないものにどこの誰が素晴らしいと共感してくれるのか。そんなことを再認識させられ、否定するよりもより面白いものを考え、考え込むよりは手を動かす。そんな時間の過ごし方を積み重ねようと再決意。

2012年2月5日日曜日

ホキ美術館 日建設計 2010 ★★★★

















室から線へ。

美術館という建築は、各展示室という部屋に細分化されて、その部屋をテーマに沿ってたどっていく。それが現在見られるほとんどのタイプであるのは間違いない。

なぜなら、展示する側が展示の規模やテーマをコントロールしやすいからで、今回は作品数が少ないから、半分の部屋だけで完結する展覧会というのにも対応できたりと、最大公約数的な考えからくる解答である。

それに対して、ホキ美術館は美術館を部屋という単位で捉えるのではなく、作品を見ながら歩く距離という考えだけを手掛かりにまったく新しい美術館の在り方に辿り着く。

各部屋をグルリと周り、その次の部屋に移動してまたグルリ。その繰り返しとしてグルグルしている線分を一度まっすぐに伸びしてみる。

それが美術館の体験。

今度はそれをできるだけ少ない回数で折りたたみ、敷地から取れる最大の直線に当てはめる。

まっすぐだけでは体験に芸がないので、先が見えないくらいに、ゆったりと湾曲させる。

その最大線分をたどることとして、できるだけ作品以外と正対していない時間を省く。

写実の世界に没頭できるようにと、、今度は展示空間にも作品と自分以外のものを排除する。それは展示空間における凹凸をできるだけ消去する作業となり、手すりなどに見えるように、入り隅のないシームレスな納まりが影の落ちない空間をつくり、ニュートラルに作品に向かい合える時間を提供する。

目的がはっきりしているから方法も明確になり、後は余分な要素を排除する作業をどこまでも徹底する。

フレームレスで待ち受け、マリオンも失った一枚もののガラス開口。

壁の目地も消され、ピクチャーレールも消され、ただ白いレスの壁に浮かぶ作品。

展示室そのものが構造体となることで可能とされた恐ろし程のキャンティレバー。

チューブの中を散策する体験が単調にならないように、平面方向にも断面方向にもずらされたそれぞれのチューブの関係が見え隠れする配置と、狭いところと膨らんでいるところをつくることでの場所性の操作。

そして内部を包む素材、身体に触れるものすべてが柔らかく、余分な音を吸収する。

それらの要素を個別に思いつくのはおそらく可能であろうと思うが、発注者がいる建築という職能のながで、そのすべてのビジョンを発注者に納得させる設計側の熱意と力量。それを生み出したのが大手設計組織である日建設計という現実。これがアトリエ系と呼ばれる建築事務所の作品でなく、この仕事を成し得るために居るべき場所に居たのが彼らで、成し得る為に必要な技術を確かに持っていたのも彼ら。技術は頼るのでも、使うのでもなく、目的のために利用するのだと厳しくも教えてくれる。

学生時代に教えられた傑作と言える建築の一つの共通点は、一筆書きだということ。単調ではなく、空間を楽しんで歩き回るって気が付くと、最初の場所に戻っている。そんな建築的プロムナード。それを実感したのが、学生時代に見に行ったロッテルダムに建つOMAのクンストハル。

そのクンストハルに匹敵する現代の傑作美術館と言って間違いない、ある種の正解としての建築。

こんな建物がハウスメーカーの建売住宅が並ぶ凡庸な住宅地の中にそっけない顔をして建っている。後方部のダイナミックな表情が前面に出てきても何ら問題のない、それくらい豊かな街並みが日本にあればと願わずにいられない。

この美術館を見た後に、個人の設計事務所はいったいどんな美術館を想像するのか、間違いなくそれが問われるような、喉元に切っ先を突きつけらるプレッシャーを感じながらで日々を過ごす必要があるのだろう。