2015年10月28日水曜日

「萌の朱雀」 河瀬直美 1997 ★★★

--------------------------------------------------------
スタッフ
監督 河瀬直美
脚本 河瀬直美
--------------------------------------------------------
キャスト
田原孝三:國村隼
みちる:尾野真千子
幸子:和泉幸子
栄介:柴田浩太郎
泰代:神村泰代
みちる(幼少期):山口沙也加
栄介(幼少期):向平和文
--------------------------------------------------------
フランスの映画祭、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得するなど、海外にてその評価が非常に高い河瀬直美。1969年生まれでまだ若く、かつ女性ということもあり、現在の映画界の中でも非常に特殊なポジションを得ている。

そんな彼女が世間から注目を浴びるきっかけとなったのが、1997年の第50回カンヌ国際映画祭で「カメラ・ドール」とよばれる新人監督賞をこの「萌の朱雀」にて獲得したこと。

その後2007年に「殯の森」にて第60回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞するなど、確実にキャリアを伸ばしている映画監督であるが、やはりフランスの映画界で評価されていることもあり、なかなか日本での興行的にはそれほどヒットという感じではないようであるが、一部の映画ファンからは好評を得ているようである。


1992年 につつまれて 
1993年 白い月 
1994年 かたつもり 
1995年 天、見たけ 
1996年 陽は傾ぶき 
1997年 萌の朱雀 第50回カンヌ国際映画祭 カメラ・ドール(新人監督賞)
1997年 杣人物語 
1999年 万華鏡 
2000年 火垂 
2001年 きゃからばあ 
2002年 追臆のダンス 
2003年 沙羅双樹 
2004年 影-Shadow 
2006年 垂乳女〜TARACHIME〜 
2007年 殯の森 第60回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
2008年 七夜待 
2009年 狛-Koma 
2010年 美しき日本・奈良 (日本アーカイブス) 
2010年 玄牝 -げんぴん- 
2011年 朱花の月  
2012年 塵 
2014年 2つ目の窓 第12回ウラジオストク国際映画祭グランプリ受賞
2015年 あん 第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門オープニング作品


劇中に描かれる監督の出身地でもある奈良の美しい風景。「なんだか少々見覚えがあるな・・・」と思って調べてみると、やはり奈良の西吉野周辺で撮影が行われたという。丹生川上神社中社を訪れた際に通った緑深い山の風景。その所々で現れる小さな集落の美しさ。その記憶をまざまざと蘇らせてくれる映像である。

もう一つ印象的なのは撮影の行われた奈良県吉野郡西吉野村出身で、当時地元中学校で靴箱の掃除をしている際に監督の河瀬直美の目にとまり、急遽主役として映画デビューすることになったみちる役の尾野真千子の美しさ。素朴でいながら、明らかに眼に留まるその素の美しさ。現在までのその後の活躍が裏付けるように、監督の目の付け所の正しさを物語っているようである。

映像として非常に美しく、見慣れたテンポの良い映画ではなく、映画ならでもゆったりとしたリズムを描き出し、物語自体は決して派手なドラマは起こらないが、しっかりとその地に生きる人々にとって一生に一度か二度ある大きな転機に際して、人々がどのように応じ、変化していくかを淡々と描き出す。そんな監督の手法がストレートに表現されている良作である。






2015年10月24日土曜日

月の花 11月 菊


日本人にとって菊(きく)と言えば、さまざまな側面があげられる。

まずはお墓参りや葬式などでお供えする花として親しまれているのがこの花。その理由としてはさまざまあるようであるが、花が長持ちし、枯れる際も花びらがあまり散らばらず、周囲を汚さないためお供えに適していると選ばれるようになったという。また古くから漢方の世界でも薬草として使用されていたのも手伝ったようである。そのために病院などに見舞いの花として持っていくのはタブーとされている。

そして次に「菊の紋章」、天皇家の家紋である「菊花紋章(きくかもんしょう)」。これは鎌倉時代には、後鳥羽上皇が菊を好み、自らの印として身の回りのものに愛用したことから、その後皇室の紋として定着したという。

次は9月9日の重陽の節句。菊が咲く季節であるために、またの名を菊の節句といい、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりとしていた節句である。そんな菊の花言葉は「高貴」「高尚」「高潔」。これらは気高く気品に満ちたキクの花姿に由来するとされている。また異なった色の花が咲くことで、赤い菊は「あなたを愛してます」、白い菊は「真実」、黄色い菊は「破れた恋」となんとも詩的なものばかり。

東京周辺であれば、やはり湯島天神や新宿御苑が菊の名所として知られているらしいので、これらのしゃれた花言葉を意識して、深まる秋を想いに鑑賞しに行きたいものである。

1月  / 水仙
2月 梅 / 椿 / シクラメン
3月 桃 / 沈丁花 / 白木蓮 
4月 
5月 バラ
6月 紫陽花 / 花菖蒲 
7月 向日葵 / 朝顔 / 蓮
8月 コスモス / 向日葵
9月 彼岸花  / 金木犀
10月 シクラメン / 山茶花 / 金木犀
11月
12月 水仙

「かぐや姫の物語」 高畑勲 2013 ★★★


--------------------------------------------------------
スタッフ
監督 高畑勲
原作 『竹取物語』 
--------------------------------------------------------
キャスト
かぐや姫(タケノコ):朝倉あき
捨丸:高良健吾
翁 :地井武男
媼 :宮本信子
相模:高畑淳子
女童:田畑智子
斎部秋田:立川志の輔
石作皇子:上川隆也
阿部右大臣:伊集院光
大伴大納言:宇崎竜童
車持皇子:橋爪功
北の方:朝丘雪路
--------------------------------------------------------
原作を、その成立時期や作者は不明であるが日本最古の物語と言われる「竹取物語」としている本作品。少なくとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされており、その内容には現代とはまったく世界の捉え方の違い、人間というものの認識の違いがその奥底に見えるのが、文字として残り、時代を超えて読み注がれる物語の強さである。

そうして見ていくと、何かしらの罪を犯したために、月の世界から下界であるこの地球におとされたかぐや姫。しかしながら、生まれながらにして大量の黄金と、誰もが認める美貌を持ち合わせているという設定が、「金」と「美」というものが時代が変われど人間の根源にまとわりつくものであり、言葉を変えれば、人の欲望はどの時代でも同じであるという悲しき性を示している。

しかもその美しさを兼ね備えた娘には、「高貴な人」とされる裕福な貴族の妻になることが何よりの幸せだと考える翁と、それを当然の様に振舞う都の人々。つまり美しいということはそれだけで価値であり、更にその上に「教養」などを付け加え、その外見の美しさに相応しい内面を備え付けていく。人の力ではどうしようもない、生まれ持った美しさの前には、人は情けないがどうしてもひれ伏してしまう、どうしても魅かれてしまうというのは、まさに時代を超えた人類の原理原則であるかのように物語りは描かれる。

表現としては、CGではできないこと。
アニメーションである強みとは何か。

そんなことに固執して生み出したような表現が重ねられ、「見たこと無いな」と思わせるある強度を持っているかのようである。音楽では久石譲、そして声優陣には高良健吾、地井武男、宮本信子、高畑淳子、田畑智子、上川隆也などなど、「良くぞこれだけ」と思ってしまうほどの豪華なメンバーを揃え、制作側の気合の入れようと、予算のかけ方が感じられる。

満月の夜、かぐや姫を迎える月からの使者達のシーンは、この世の常識とは全く違った力が降りてきているという感情を湧かせるのに十分な演出と音楽で、相当な出来になっている。様々な宗教観すら超越した存在を作り出すために、「パプリカ」のそれを思い出させるような高揚感のある音楽。

それと対比を成すように、作品内で何度も繰り返されるのは長閑でありながら、美しく整っている日本の風景に重なる童謡の数々。子供達が楽しげに口ずさみ、田植えの疲れを紛らわせるように農民が謳うのは、四季の恵みを与えてくれる大地への賛美。そしてその自然に包まれたつつましい地上での生活の姿。

使い古された「竹取物語」に新たな命を吹き込むために何かが必要だとした時に、その役割をこの作品で託されたのは「音楽」であり、この物語が描かれた時も、そして現代においても、この日本という風景の中で響きあい、共鳴するそれらの歌に時間を越えた「日本」の姿をその音楽の中に写し出そうとしたのではと、勝手な想像を膨らませてしまう、そんな一作である。







2015年10月17日土曜日

月の花 10月 金木犀 キンモクセイ


間に合った。なんとかこの金木犀(キンモクセイ)の香りが街中を満たす前に、家のフォトフレームにその花を絵が飾るために、なんとしても描きあげなければと思っていたが、なんとか間に合った。

小さいころにはその名前からなんとなく天体を想像させ、宇宙的な広がりを感じさせてくれたこの樹木は、どこにでも咲いているがその花のイメージは決して思い浮かばないような地味な木であるにもかかわらず、秋が始まるこの季節、いきなりその強烈な匂いを持って存在感を前面に出してくる。

その匂いの強さのために、汲み取り便所が主流であった時代にはその近くに匂い消しとして植えられたことも多かったという流れより、現代でもトイレの芳香剤として広く親しまれているのもこの金木犀。

その名前の由来は樹皮の様子が犀(サイ)の皮膚に似ていて、金色の花を咲かせるから「金の木の犀」つまり金木犀と呼ばれたという。その花言葉は「謙虚、謙遜、真実、真実の愛、初恋、陶酔」。いくつかは「ぜんぜん違うじゃないか・・・」と突っ込みたくなるが、ほとんど納得できるものばかり。

そんな金木犀の陶酔させるような匂いが不意に襲ってくる嗅覚の体験を楽しみに、秋の街歩きを心待ちにすることにする。

1月 / 水仙
2月 梅 / 椿 / シクラメン
3月 桃 / 沈丁花 / 白木蓮 
4月
5月 バラ
6月 紫陽花 / 花菖蒲 
7月 向日葵 / 朝顔 / 蓮
8月 コスモス / 向日葵
9月 彼岸花  / 金木犀
10月 シクラメン / 山茶花 / 金木犀
11月 菊
12月 水仙




2015年10月12日月曜日

「ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか」 香山リカ 2014 ★

一時期の盛り上がりはなりを潜め、Facebookに定期的にアクセスしている人は仕事で使っている人か、それとも食べた物や子供の写真などをアップしリア充アピールに余念が無い人たちばかり。

SNSの枝分かれはまるで生物の進化の過程を見るかのように分化を早め、Twitter、Instagram,Facebook,Google+にLineとメジャーどころの面子がほぼ決まりつつあり、Twitterで呟いて、Facebookで「いいね」を押して、そしてInstagramに画像を上げる。なんてことをしている人はよっぽどのスーパーマンか暇人かというところであろう。

このタイトルが多くの人の目を惹きつけるのは、世にあふれるこれらのSNSは自分が望まなくてもどうしても自分の日常に他の人の様子が目に入ってきてしまう。目の前で実在として存在する人間として発せられるのではなく、パソコンのモニターを前に、他の人がどう思うか十分に考えを巡らせた末に自らのイメージのプロモーションとしてアップされる様々な言葉や画像たち。

「他者」の様に、自分は皆よりも賢いんだと覚めた考察を語ってみたり、毎日いろんなところへ出かけては様々な人に囲まれる幸せな日常を語ったりと、それが視界に入るこちらとしては、「身の回りで承認欲求が満たされるなら、わざわざそれをこうしたパブリックな場に向けて発しなくてもいいのに・・・」と誰もが思ってしまう。その気持ち悪さに完全に覆われた現代の社会。

--------------------------------------------------------
「つながり」のメディアが生まれれば生まれるほど、他者の気持ちをいっさい慮らず、「私がこういったり行動したりしたら、他の人たちはどう思うか」という想像ができない人たちが増えている

SNS上にはいつも無数の意見、批判、見解などが渦巻いているので、探そうと思えば必ず自分の考えに近いもの、あるいは自分から見て言語道断だと思うものが見つかる。
サイバーカスケード

人間には本質的に多重な感情や欲望があると主張する。地理的・身体的・社会的制約により抑制されていた多重化への欲望が、コンピュータやネットの出現でその分陰を解かれた。ネット上の多重人格者たちは、テクノロジーの力を借りてその欲望を実現した人たちと言うことだ。

「私のことが問題。他の人がどうなろうと、知ったことではない」というウルトラ個人主義

大学生の4割が一日の読書時間ゼロ、平均27分 本は全く読まずに、スマホを一日5,6時間いじっている

「感動した」「いいね!」が感染症の様に広がる社会。文章はどんどん圧縮されて短くなり、さらには言葉ではなく、スタンプや画像でやり取りをする。果たしてSNSでつながることで、コミュニケーションが深まっていると言えるのか?それとも私たちは何かをなくしつつあるのか?
--------------------------------------------------------
人は現在の自分を肯定しなければ生きていけない。自らを否定し絶望の中で生きることは相当に辛い作業である。その為にどうにかして、「自分は幸せである」と思い込ませる必要があり、その為には自分の中である基準を設けて幸せを感じる絶対的なものと、それとは別に周囲の人や他人と比べることによって相対的に自分が幸せだと判断すること。

後者にとっては楽しげな写真をアップし、周囲から「いつも充実してていいね」、「毎日楽しそうだね」と言われ、思われることが何よりも自らの幸せを実感させてくれる承認作業となる。

そして薬やお酒と同じように、一度得た承認欲求はより強いものへ、より多くのものへと増加するのみ。「もっと褒めてほしい」、「もっと認めてほしい」と。

人が誰でもその心のうちに秘めていた様々な欲望。それらがネットという世界の出現により、様々なうちに背中を押され、加速され、増殖されていった。100年後くらいには「ネットが出現し、社会インフラとなった30年で、それ以前には見られなかった犯罪や社会現象が何だったのか」ような分析が、しっかりと統計立ててされるのだろうと想像できるくらい、恐らく今までとは全く違った質の欲望が身体の外、社会の中に渦巻きだしているのだろうと思わずにいられない。

そんな時代に自分を見失わずに生きるには、欲望としっかり向き合い、退屈とうまく付き合って日常を生きるしかほかにない。

----------------------------------------------------------
----------------------------------------------------------
■目次
序章 ソーシャルメディアへの違和感
・不思議な「新型うつ」
・「本音を隠さなくなった人たち」のうつ病?
・「つながり」がはらむカン違い
・不自由なツイッター
・東日本大震災とSNS

1章 「SNS疲れ」という新たなストレス
・「スケスケ下着」に「分娩台」なう」
・SNSでぜんそくの発作が! ?
・心のエネルギーの大量消費
・24時間自分をさらけ出し続ける、『トゥルーマン・ショー』の世界
・「出会い系」のサクラは男!
・会えないほど、純愛度数が高まる法則
・出会い系の驚愕のシステム
・増加する「ネタ消費」
・木嶋佳苗に見る「ウソ」と「盛る」の境目

2章 ネットで人はなぜ傷つけあうのか
(1)非抑制性と匿名性という“魔法"
・広島LINE殺人事件
・「社会的手がかり」の伝わりにくさ
・なぜ「ネット世論」は極端に走るのか
・サイバーカスケードでよく起こる二者択一
(2)自分で自分をだます人たち――ネット多重人格の出現とひとり歩き
・「女装の精神科医」の顛末
・大阪の「子ども放置」事件
・ネットのなかの「こうであってほしいもうひとつの現実」
・ブログに書いた内容に、自分でも心あたりがない
・ネットで「悪意」が解放される理由

3章 ネトウヨが生まれる理由
・「ネットde真実」の女性たち
・何をもって「真実」を判断するのか?
・『アンネの日記』破損事件についてのネトウヨの反応
・「陰謀論」の生成プロセス
・陰謀論に陥った家族を救う方法
・「大きな物語」が終わったがゆえの「自分さがし」
・グローバル化と「新型うつ」の関係
・東日本大震災が復活させた「大きな物語」
・安倍総理の頭のなか

4章 SNSとプチ正義感
・「ゆがんだ平等主義」と「いびつな正義感」
・わかりやすく、攻撃しやすいものに向けられる怒り
・正当な抗議とクレーマーの境目
・「過剰な道徳」をめぐるふたつの問題
・他人に対してだけ道徳的な人たち
・ネット空間を逃げ出した「リベラル知識人」たち
・浅田彰氏のSNS論
・ニューアカの旗手たちに「見捨てられる」不安
・ネトウヨ暴走の責任は誰にあるか

5章 ネット・スマホ依存という病
・「ネット依存」が引き起こす事件
・治療が必要な「ネット依存」の基準
・依存を狙う、「餌付け」ビジネスモデル
・依存症治療に効果がある「動機づけ面接」

6章 SNSは日本人をどう変えるか?
・「自分らしさ」の虚しい内実
・「実は自由ではないのに自由に見せる」ことほど疲れる
・JR九州・新幹線CMのどこが「日本的」なのか?
・「感動した」の広がり方は、まるで感染症
・「いいね! 」によって、何が失われていくのか
・文章だけでなく、思考もスカスカになっていく
・「文字なしの画像」の世界
・画像は文字のおかわりになるのか?
・バイトテロ問題――悪事5分拡散の法則
・ネタ作りのために“放火"する
・「画像で自分を伝える」ことの危うさ
・主流になりつつある「一か八か型コミュニケーション」

終章 SNSがつくる「1・2の関係」の世界
・「携帯電話がなかった時代」は文化人類学の研究対象! ?
・小此木氏が予見した「1・5」の関係
・電話してくるのは困った人
・限りなく自分だけの「1・2」の関係へ
----------------------------------------------------------

2015年10月11日日曜日

H27 2015 一級建築士製図試験 「市街地に建つデイサービス付き高齢者向け集合住宅」

建築家として日々実務に追われていると、どうしても目の前の仕事だけに視界を覆われてしまい、日常手がけている内容の範囲にだけ頭を奪われ、その他の多くの分野に関して知識や技術を得ることなく過ぎてしまいがちになる。

そんな避けがたき日常にある楔を打つためにも、現在国がどの様な知識を求め、どのような新しい事象が浮かび上がってきているのか、それを知るためにも一年に一度、国家資格である一級建築士製図試験の出題問題と、その要求されている機能の内容、そして模範解答を見てみるのは、非常によい勉強になるものである。

という訳で今年は問題はというと、「市街地に建つデイサービス付き高齢者向け集合住宅」。超高齢化社会の現代日本において、これ以上は無いんじゃないかと言える現代の社会問題を内在した出題。

設計課題の内容を見てみると、今後はこのような高齢者向けの施設が、建物の中でも住宅と一体化したり、また郊外のひっそりとした場所に隔離されるような存在になるのではなく、街の中で包括していこうという、そんな大きな意図を感じ取ることができるようになっている。

機能室を見ていくと、デイサービスにおける機能訓練質や機械浴室など、家庭の中で介護が必要な家族がいる人には、馴染みとなっているスペースが高齢者な要介護者の動線を考慮して配置されている。この様な施設に対する要求は今後より一層増えていくことが容易に想像がつき、と同時に、これらのことを全く知らずに設計に関わることを避けるためにも、それらの求められる機能と、解答に見られる配置方法を見ながら、今後の日本の風景を想像することにする。

2015年10月8日木曜日

富士御室浅間神社里宮(ふじおむろせんげんじんじゃ) 699 ★★


--------------------------------------------------------
所在地 山梨県南都留郡富士河口湖町勝山
主祭神 木花咲耶姫命
社格  旧県社
本殿の様式 一間社母屋造り
別名   小室浅間明神
創建   699
機能   寺社
--------------------------------------------------------
世界遺産
--------------------------------------------------------
河口湖に向けて設けられた参道の遥か先には、富士山が鎮座し、その吉田口登山道の二合目に鎮座するのがこの神社の本宮という。そちらもあわせて参拝したいのだが、時間の限りの為に、今回は河口湖の存在をひしひしと感じるこちらの里宮だけの参拝としておく。

本宮は富士山山中に最初に勧請された神社で、富士山最古の神社として長く信仰を集めていたが、富士スカイラインの開通のお陰で、吉田口登山道の衰退に伴いこちらの里宮に本殿が本宮から移されたという。それを知れば知るほど、次回はぜひとも二合目までいって本宮へと参拝を心に決めて心地よい境内を後にする。












ほうとう不動 ★★


お腹が空いたということで、河口湖畔まで車を飛ばし、名物のほうとうで身体を温めることに。前回訪れた保坂猛によるコンクリートのドームは橋を渡って湖の南側だが、今回は湖の北に位置する本店の方へ足を伸ばしてみると、広い駐車場には乗用車に混じって観光バスもかなりの量。どうやら中国人の富士山観光に地元の名物としてうまく組み入れられているようである。







河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ) 865 ★★★★★


--------------------------------------------------------
所在地 山梨県南都留郡 富士河口湖町河口
主祭神 浅間大神
社格  式内社(名神大)論社,旧県社
本殿の様式 流造
創建   865年
機能   寺社
--------------------------------------------------------
世界遺産
--------------------------------------------------------
ここは凄い。参道の左右に立ち並ぶ大杉は、幹周りが手が回らないほどの大木で、奥に向かって深い影を作り出し、聖域としての結界を張るのに十分な役割を果たす。背の高い木々に縁取られた視界は、その奥に佇む光に包まれた拝殿へと否応無しに注がれる。

拝殿にたどり着くと今度はその奥を覆うようにして存在する広大な社叢の存在に圧倒される。しかもその社叢を構成する木々も「七本杉」に代表されるように、巨木ばかり。その社叢に更に奥に意識を向けられるのは、圧倒的な富士山の存在。この国の特別な場所。そしてその神聖さ。同時に、その巨大な力への畏怖の念。古代の人がなぜこの場所に社を建立したか、時を越えて理解できるそんな特別な場所である。