2013年4月30日火曜日

「ほしのこえ」新海誠 2002 ★


新海誠のデビュー作らしい。

森川嘉一郎の「趣都の誕生―萌える都市アキハバラ」で書かれるように、パソコンの普及によって出現したアマチュア・スターの第一人者という位置づけのようである。勉強不足でまったく知らなかったが、同人誌業界では相当な人物のようだと、2000年以降のアニメ動向を追ってみて分かってきた。

そんな作者が監督・製作・脚本すべてをこなし、今まで溜め込んでその世界観を思う存分ぶつけたのがこの作品というところらしい。音楽もその後の作者の作品を引き続きチームを組む天門が担当し、その後の作品が納得というような世界観を作り出す。

それにしても建築批評の世界も、映画を引用する巨匠達から、小津の低い焦点に現れる風景の切り方などと映画関係者ばりの映像知識を必要する時代から、団塊ジュニア世代を育て上げたジブリ作品の世界観を考察する時代を経て、エヴァを経てたどり着くこのような作品に視られる現代の社会性などということまで重箱の隅を突かなくてはいけないのかと思うと、その苦労を想像しながらも、オタクの世界に現れるある種の無意識の現代性などと、インテリの役割として追っかけ続けるのも大変だと思うが、「こういう作品に時代的意味を見出さなくてはいけない」というある種の強迫観念も行きすぎなのではと思わずにいられない。

ガンダムをテレビの再放送で見て幼少期を過ごし、ジブリ作品とともに少年期を過ごし、エヴァを見ながら青春期を過ごしたであろう世代の作者が、妄想を膨らませて作り上げた世界観。どれだけ科学が発達していようが、お構い無しに踏み切りで電車を待つ田舎の風景。その奇異な共存が意外性を伴う不思議な世界観を作り出すというところだろうか。

何万光年も先の宇宙でガンダム張りの戦闘を繰り広げる一方で、コンビにの前でアイスを食べる中学生。

その後の作品でも何度も何度も繰り返されるようなシーン。開くまでも子供の部類に入る中学生の男女の主人公たちが、引かれながら引き離され、それでも過剰なほどに感情を起伏させるような音楽にそって自らの苦悩を言葉にしていく。

「アガルタ」や「タルシアン」といった、「いかにも」的な名称を考えるのが楽しくてしょうがなかった時代。男の子なら一度ははまる冒険やファンタジーがごっちゃになって頭の中で膨らむ妄想の世界。そこに好きな女の子との純愛が絡み、「あぁ!」とか「いけっ!」という感情を表すいかにも「アニメ的」な単純な言葉。

技術の進歩を表すためのそれらしき難しい言葉たちと、地球防衛軍に小さな少女が戦力として参加するという宇宙モノの王道の世界観。良くも悪くも一人の人間がすべてをやりきり、その人間の妄想がすべて形にされた作品。

それにしても、人をとことん感傷的にさせるような台詞と音楽と世界観。「時間や距離を越え、ただ君がいるからこの世界は存在するんだ」的にとにかく感傷的な登場人物達。

このようなアニメを見て思春期を過ごすと、それはそれは影響され、その性格も相当に感傷的になっていくのだろうと想像せずにいられない。そうして形成された過剰に感傷的な性格で、この獰猛な現代社会で生きていくのはかなり厳しいだろうと思わずにいられない。

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スタッフ
監督 新海誠
製作 新海誠
脚本 新海誠
音楽 天門

キャスト
篠原美香
新海誠
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作品データ
製作年 2002年
製作国 日本
配給 MANGAZOO.COM
上映時間 25分
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「イヴの時間 劇場版」吉浦康裕 2010 ★★★



ここ10年近くで話題に上がったアニメ作品にざっと目を通そうと調べていると、なかなか評価が高そうなこの作品。

近未来の日本が舞台で、各過程に人間型ロボットであるアンドロイドが様々な生活の手助けをするのが当たり前になっている社会。

見た目もほぼ人間と変わらず、唯一頭の上に浮かぶホログラムのような円環のみがロボットだということを示す唯一の印。

社会もその状況に対応すべく、ロボット法なるものが存在し、「人間を傷つけない」などの条項が設けられるようになる。

そうなると必然的にもちあがる、「ロボットは感情を持ちえるか?」という問題。

それは同時に「人間はロボットを人間同様な感情をぶつける相手としてみることが出来るか?」という葛藤にもつながる。

そこで選ばれるのは、感情の揺れ動きやすい高校生の二人の男子。

一人は家のアンドロイドが可愛らしい女性で、そのアンドロイドが最近命令に無い場所に入り浸っていると疑問に思いだす。もう一人は小さなころから自分の世話をしてくれていたロボットがある日を境に自分に対してなんら言葉を発さなくなり、友達だと思っていたのに裏切られた、もうロボットなんか信用しないと心を閉ざしている高校生。

そんな二人がアンドロイドが立ち寄っている場所に足を向けて見つけるのは「イヴの時間」という喫茶店。その喫茶店のルールは「人間とロボットを区別しない」という一項だけ。ここではアンドロイドもその頭の上の円環を消して、人間と同じように振舞い、他の人と交流をする。その場にいる誰が人間で、誰がロボットかすら分からない状況。

そんな表のストーリーがありつつも、裏のストーリーとしては人間とロボットが感情的な交流を持つことに対しての危機感を持つある組織が操作を開始し、その組織の動きをまた別の組織が見張っているらしい様子も描かれ、その設定や技術的背景、登場人物のつくり込みなど、なかなかの緻密さを感じさせる内容になっている。

テクノロジーが発達すれば、必然の用に日常生活の中で機械が果たす役割は増えていく。その「技術的事実」だけを描く近未来映画は多々あるけれど、それによって人の感情がどのような影響を受けるか?機械の側がどのような問題を持ちえるか?社会として何が危険視されるのか?というところに目を向けるのは、更に総合的な視点が必要で、そういう意味では未来を描く作品の中で、一歩も二歩も抜け出ている、そんな印象を受けずにいられない。

ジブリ作品など過去の作品へのオマージュかと思うくらいの既視感を感じさせる作品とは大きく違い、絵の描き方も、各キャラの設定も独特で、ズームとかカメラワークが如何にもロボットっぽく実写でもアニメでもない3DCGならではの描き方も心得ていて、非常に好感の持てる内容であり、ぜひとも次の作品も見てみたいと思わされる良作。
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スタッフ
監督・原作・脚本 吉浦康裕

キャスト
福山潤
野島健児
田中理恵
佐藤利奈
ゆかな
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2013年4月28日日曜日

「ボーダー ヒートアイランド 4」 垣根涼介 2010 ★

いわゆる「シリーズもの」。第1作の「ヒートアイランド」が2001年だから、4作で10年近くということになる。

圧倒的なインパクトを残した1作目で描かれたのは、如何にも現代らしい若者の街「渋谷」。その街を舞台に、二人の少年がそれぞれの特殊な能力を駆使し、大人たちに迎合せず、自分たちの世界を築いて痛快なスピード感から、まるで脳内で花火が打ち上がるような爽快なクライマックスで引き起こされる事件と、その後ろに見え隠れする二人のプロフェショナル。

渋谷を引退した二人の少年のうちの一人・アキが、そのプロフェッショナルに弟子入りし、裏家業の新たなる仲間として様々な技能を身につけていく二作目。裏金として世の中には決して数字として現れないものだけを狙うプロの強盗。暴力のプロを相手にするだけに、傭兵ばりにストイックで効率的な時間の使い方から確実に何段階も成長するアキの姿。

とことん気分屋でそれでも魅力的なコロンビア人の出稼ぎ売春婦に振り回され、かつての仲間に頼り大金の強奪を画策する日系ブラジル人高木の姿を描く3作目。

そして6年ぶり描かれたシリーズ物は、あっち側の世界に行ってしまったアキに対して、その頭の良さを活かし大検から東大に入り過去を隠しながらひっそりと大学生生活を送るカオル。その同級生つながりより知ることになる、現在の渋谷でかつての自分たちのチーム名と名前をかたり、同じようなファイトパーティーを行っている偽者の存在。そして連絡を取り合うかつての仲間たち。

そんな訳でやっぱり読んでしまうのが魅力的なシリーズものであり、それはしっかりとつくりこまれた魅力的な登場人物がなせる業であり、一流な人間は何をやらせても一流なように、魅力的な登場人物が繰り広げる物語はやっぱり魅力的で疾走感に溢れる。

という訳で、とりあえずこの人物たちを描いておけばそれなりの売り上げになるのは間違いなく、ある程度読めるということだろうが、やはり一作目の圧倒的なスピード感と「ワイルド・ソウル」で描かれた圧倒的な新しさに比べると、続編の宿命を感じずにいられないというところか。

2013年4月27日土曜日

こむら返り

かつてロンドンで働いている時に、同じくAAの大学院を出て、同じタイミングでザハ事務所で勤務し始めた当時10歳くらい年上のオーストラリア人がいた。

その年齢からか、もしくは彼の経験からかわ知らないが、こちらが必死にコンペで最後の仕上げをしているのに、定期的に画面を覗きに来ては「どうなってる?」「問題ない?」「ここはちょっと直した方がいいね」などと偉そうに言ってくる役割を担っていた。

「オマエは何もしてないのに、何を偉そうに・・・」

と思いつつ、顔が似ているということで、チームの周辺にやってくる度に「ミスター・ビーンがやってくる」と皆でコソコソ言っていたのを思い出す。


恐らくその時の彼の年齢に自分も達したであろうこのごろ。

大きな大きなコンペの締切りを控えたこの時期、今の自分はオフィスの中でよく歩き回っている。

チームのメンバーのパソコンの前まで行き画面を覗き込み、印刷させてはスケッチをし、イラストレーターでの着色を微調整し、インデザインのレイアウトに使う参考写真を探してわたし、レンダリングの雰囲気を描きこむなどととにかく歩いて回る。

そのおかげでかこの数日、朝方にこむら返りになる程。

指示をして、そのスタッフが正確に意図を理解し、テイストを感じ取り、クオリティを確保でき、時間通りに仕上てくれるのなら、こちらはきっと歩く必要はないのだろう。

しかし、これだけ様々なバックグランドを持った人間がいると、それぞれの仕事への姿勢も大きく差があり、ましてはインターンという学生もチームに入っていると、どうしても誰かがこまめにグルグル回って、全体を統合していかなければいけなくなり、その作業は外から見ているよりもずっと難易度が高いものである。

「やれる、やれる」といいながら、一向に仕上がらない平面図。遠くからその作業振りを見ていると、ちょっとやってはすぐに携帯をいじっているスタッフの姿・・・。思い通りに行かないと、必要のないことをやりだしてみるスタッフ。全体を見渡す役割を担わせて見ても、ついつい一つのタスクに視野を取られてしまうスタッフ。

それが人間の性だと分かりつつ、その為には時間と経験が必要だと知りつつ、「勝てるプロジェクト」に磨き上げるために、期限内で仕上るために、明日の朝もまたこむら返りだと思いながらまた歩くことにする。

2013年4月25日木曜日

立ち位置


たった1mだけども、その立ち位置が違うと、それから進む道がまったく異なったものになってしまう。

重要なのはその違いを理解していることと、自分の立ち位置を理解すること。

20代。やりたいことや夢を追いかけて、色んな場所に足を運び、色んな人に出会い、色んな挫折を味わいながら学び、次第に自分の能力を研いてゆく。

それと同時に、今まで分からなかったり理解できなかった自分が目指していることが、一体どれだけの知識や経験、能力を必要とするかを理解すること。

やればやるほど、学べば学ぶほど、経験すれば経験するほど、その距離感を実感する。雑誌や本で見ていた憧れていた作品を作るためには、どれほど長い行程を歩いていかなければいけないか。

たった一つの図面を作成するにも、一つの線、一つの曲線、その一つ一つに意味された建材、施工方法、コストなど様々な事柄を理解し、コントロールしつつ、誰かに意図を伝える伝達メディアとして美しい図面を描けること。

社会的存在である建築が、社会の中のルールに従うための法規的要求。その把握とその条件の中でよりよい設計を仕上る能力。

建築家は建てる人ではなく、描く人であるならば、構想したものを如何に建ててくれる人に伝達できるか。そのコミュニケーション能力。

一つ一つの素材が社会で売買される商品としての側面をもつならば、その総体としての建築がどうしても背負ってしまうコストの問題。それを如何に把握し、設計の中でのバランスをとっていくのか。

その中に身をおく時間が長くなればなるほど、自分が知らないこと、できないことの多さに圧倒されつつ、それでもできるのは、一段一段階段を登り、足を前に進め続けるだけである。

その世界に身をおいた時間が少なければ少ないほど、この見えない部分が多くなり、自分の立ち位置も当然つかみづらいものである。それは当然である。

人は皆、目にしたものが世界の全てになってしまう。ということは、自分の立ち位置を相対的に測る到達点までの長さがその行程の全てとなってしまう。その時に、本当に素晴らしいもの、本当に価値のあるもの、世界でもトップのものに触れながら自分の位置を相対化し、その能力を伸ばしていくのが幸せな職能人としての時間の使い方であるだろう。

そうでなく、つまらないものに出会ってその位置を相対化してしまえばしまうほど、簡単に得られる達成感と満足感に酔いしれ、浅はかな能力にも拘らず、自分が一人前だと勘違いすることになる。

そんな訳で、見据える到達点とそこから相対される現在の自分の職能人としての立ち位置について考えをめぐらせる。

その到達点へと辿り着く為には様々な道があるだろう。その道には決して近道などというものは存在しないだろうが、その道のりの困難さは様々である。自分の人生に何を求めるかによってその選ぶ道も違ってくる。楽な道をいくものもいれば、先の見えない厳しい道を選ぶものもいるだろう。

自分自身、設計の能力があまり無いと感じながらそれを受け入れることができず、それとなく流行のものを取り入れつつ、論点をデザインに持ってこないように言葉で濁し、自らのデザイン能力に干渉されることを避けるような緩衝地を設けて世間と接する。

そういう人たちは恐らく本当の意味での自分の意見はないからだろうが、あれやこれやといかにもそこらへんに落ちていそうな言葉を拾い集め、流行の本を読み漁り、必死に理論武装することになる。問題はそこに留まらず、そういう人間が大学などに入り込み、あれやこれやと学生を洗脳するので事態はもっと酷くなる。

本当に良いものを作り続け、本人が何も語らずとも、その建築自体が雄弁に語ってくれる。それが本来あるべき姿であり、それを体験した人々が様々な意味を発見していく。

その自信が無いからこそ、自分を権威の側において何の疑問を受け付けず、「これは評価されるべきものなんですよ」と言わんばかりに世の中に「作品」を発表する。情けないことに、メディアもまたそっち側にべったりなもんで、次々と「いかにも価値のあるもの」として流布されるこれらの作品群。

大きな会社や大きな組織という、日本を支えるシステムの中で自らに対して保障される範囲を大きくとりながら、「世間に対しては社会が変わらないと!」と声を上げながら、自分達はそれでも将来が安泰の年功序列システムが変わることは望まず、その為に職能を磨く時間よりも、そのシステムを安泰させることに心血を注ぐことになる。

そこそこの大学を出て、そこそこの会社に就職し、そこそこの生活を保障される。それが一番安心の時間の過ごし方。その過程でやっぱり人から「凄い」と褒め称える機会があれば、それに越したことは無い。

システムの中に身をおき、システムに守られる。守られ続けることで今度は失うことの恐怖を知る。どんなことがあっても、保障される給料、地位、生活レベル。それが無くなることへの恐怖。

少しだけ立ち位置が違うだけでも、少しだけその線を跨いだところで生きているだけで、何かあった場合には全て自らの責任で生き残っていくことになる。誰も守ってはくれない。大きな病気などしたものなら、あっという間に生活が吹っ飛ぶ。甲冑も着けずに弓矢の飛び交う戦場を駆けるかのように。

その恐怖。そしてその緊張感。

誰もができることなら避けて生きるべきその道。近代国家はその様な不安定な人々をできるだけ少なくすることを目的とし、様々な社会保障を成し遂げてきた。

現行のシステムはその線の向こう側で動いている。良い大学を卒業しても、設計の良し悪しという曖昧模糊な基準で勝負しなくて良い世界。それでいて世間に対して高い地位と大きな保障が得られる官庁へ行くのが一番。

その次は、どれだけやってもデザインというセンスが関わる世界では、その高い学歴だけでは特急切符にはならず、長い下積みと努力をし続けなければいけないということで、デザインで勝負したいと言いながらアトリエ事務所には足を運ばずに、様々言い訳を見つけて自分を納得させる手続きを踏み、エンジニアというどちらかというと時間がそのまま経験に転化され、その経験が能力に適切に反映され、問題と解法、そして解答が比較的一直線に並びやすい世界に足を踏み入れことになる。

組織設計事務所やゼネコンなどの大きな組織の中で大きな保障を得て、何年後の自分の姿をおぼろげに見据えられ、収入面でも安心して生活ができ、人生設計も同級生に劣ることなく計画しながら、アトリエではできないアプローチでデザインに取り組んでいるという風に自らのプライドも満足させる。

システムのど真ん中に位置する組織なだけに、どこかの大学で講師などをするツテも多かったりし、大きな仕事に関わっているという体で学生にも話をし、雑誌社などにも組織のつてなどから執筆する機会も出てくる。

誰かがシステムを保持する役割を持つことは必要である。これは決して悪いことではない。自覚的に自らを手厚い保障の中に身をおきながら、自分の心のどこかに引っかかる部分を残しつつ、それを必死に押さえつけ、あくまでも自分の努力で手に入れた地位だとし、職能を問われるような場局面には足を踏み入れずも、危険を冒しているかのようなそんなジェスチャーをすること。声だけ大きくなりつつも、足元を見るとしっかりとその線の向こうへとは踏み出そうとしない。

社会が成熟すればするほどその線のあっち側で物事は決まり回っていく。しかしその時間が長くなればなるほど、そのシステムは硬直し、前に進む力を失う。その時に必要なのが線のこっち側で何か分からないが、多様性の中で新しいことをやりだしている人々。そのエネルギー。

切れ目のこちら側とそちら側では、似た風景を見ているようでも、その過ごす意味はまったく違うこと。それを忘れずに、自分の立ち位置を再度確認しながら時間を過ごしていこうと心に思う。

2013年4月24日水曜日

「完全なる首長竜の日」 乾緑郎 2012 ★

あまりにも前評判が良さ過ぎたので期待値が上がりきってしまったというのは否めない。

相当な前半で敷かせる最も大きな布石「胡蝶の夢」。

人が蝶になった夢なのか?それとも蝶が人になった夢を見ているのか?

現実と夢。
あるいは二つの現実。
意識と無意識。
自分の意識と他人の意識。
その二つの時間を行き来する。

そんなテーマは様々な人物の想像力を刺激し、色んな物語としてこの世に生み出された。

「インセプション」
「パプリカ」
「エクサバイト」
「シックスセンス」
「千年女優」
・・・

「胡蝶の夢」でも扱われた、
そんな人類に取って恒久のテーマである意識を扱うだけあって、
物語の途中部分でそのネタは大よそ分かってしまう。

「ひょっとして、これは主人公自身が寝たきりなのでは?」と。

それが分かった後で、どうやって引っ張るか?
その先に行くもう一つの仕掛けがあるか?

といえば、上記の物語を超えては行かなかったようで、
わざに溺れたように、ダラダラと惰性で進む後半部分はかなりしんどい。

意識の問題に対して我々人類は「胡蝶の夢」のからどれだけ先に進んだのだろうと想いをめぐらさずにいられない。


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第9回(2010年) このミステリーがすごい!大賞受賞
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2013年4月23日火曜日

コンペ

現在、コンペが進行中である。

内容といえば、500m超の超超高層ビルを含んだ複合開発のコンペ。

建築事務所にとって、コンペというは非常に大切なもので、一年に何度かコンペの時期が来るのだが、これまたいつもどおりに締切りの一ヶ月程前からチームは異常な状態になってくる。

朝から晩まで休みなく、とにかくまずは「強い案を作ること」。そしてその「案を仕上ること」。そして「プレゼンとして纏めること」に追われることになる。

二ヶ月近くチームが必死に過ごした時間も、コンペに「負ければ」一抹の泡となり消えることになる。しかし、毎日実務の中で必死の思いで戦っている建築事務所の仕事の中でも、コンペほど明確に「戦場」だと感じる場はない。相手があり、要望があり、限られた時間があり、勝敗がはっきりと決まる。

仕事を獲るために作るのではなく、自分達の信念を形にした案で勝負する。それが如何に素晴らしいか、クライアントが納得できるように案を深化させる。どこかで見たことのあるような、最先端の技術とそれらしい形状を合わせた案では、とてもじゃないが提出できない。

自分達がやることで生まれるオリジナルのアイデアを持った新しい高層ビルの在り方を問うプロジェクト。他の誰かが作れる案ならやる意味がないと信じて、毎日自分達の限界に挑戦する緊張感ある時間。

見返りが保障されない仕事だけに、かけられる時間と労力も限界があり、如何に最小の仕事で最大の効果を挙げることができるか?それを必死に考えながらチームを操作していくことになる。ちょっと目を離すと、スタディという名の下に、際限なく集められる参考プロジェクトとそれに色をつけたダイアグラム。同時につくられる方向性を持たない数々の「オプション」・・・。

プロジェクトを理解するための最低限の参考資料。それを見てから探る高層ビルの新たなる可能性。そこから導き出される「手」をつかったスケッチ郡。その中で輝きを放つ少ない方向性を見つめ、敷地、プログラム、日照などの諸条件に照らし合わせてプロジェクトに適応させていく。箱からこぼれそうな砂の山を、「トントン」と軽く叩きながら箱の中に収めていく作業のように、徐々にある一方向に収束していく案。

違う人間がやす作業だけに、どれだけ丁寧に説明してやってもらっても、やはりイメージ通りのモノには仕上がらない。それをまた「トントン」と叩きながら、少しずつ方向修正を施していく。

あと2週間。この時間が「生きる」様に、全力で頭と手を動かすことにする。

2013年4月22日月曜日

物凄いインターン


毎週月曜日は、HRの担当者と共に国内外から届くインターンへの応募してくる学生のCVとポートフォリオを10から20通近く見ることになる。予め担当者が選別をしているから、現在進行中のプロジェクト・チームに入ってチームの助けになるような能力を持った人材が中心となる。

思うのはそのレベルの高さ。中国人ならほとんどが海外の大学に留学しているか、国内でも良く耳にする有名大学で、英語が出来るのは当たり前。CADが使えるのは当然で、ライノも必須。Mayaがついてくればなお良く、Grasshopperも最近では標準となってくる。

ポートフォリオでAdobe関係のソフトとMaxwellなどのレンダリングスキルも問われ、設計事務所の中でどのプロジェクトでも手助けになれると判断したら返事を出す。

外国人はより各大学などの傾向が強く反映されており、コロンビア、サイアーク、コーネル、MITなど各大学が今どんな教育をしているのかが良く分かるようになっている。

学生を終えて実際に所員として働き出すまでの期間に経験を積むために来るものが多く、ほとんどの人間が既にどこかの事務所でインターンシップの経験がある。

確かにここで過ごす4ヶ月の間に、みんな英語も流暢になっていくし、Ecotect、Grasshopper、Gecoなどのソフトまで使えるようになっていく。学生としてそれだけの能力あれば、さぞや面白いプロジェクトを学校で作るのに役立つだろうと想像する。それは驚くべきことである。

結局学生時代に身につけたものがその後の建築家人生の基礎となり、その後いくら頑張っても概念を理解してないものをいきなり覚えるのは無理であることはこの10年で十分理解できた。

バージョンアップや同じ分野の新しいソフトの出現には対応できるが、スクリプトに触れてこなかったら今のアルゴリズム系のソフトへの理解はほとんどが無理であろう。

もし今の自分が学生ならインターンへの応募も断られてしまうかもと思うと改めて現代の学生の出来る事の多さに改めて凄いなと思う。

また同時に、このようなインターンシップを経験する事がない国の建築学生。そこに日本も含まれるが、どれだけ自分が同年代の海外の学生に比べ、知識や能力に差がついてしまうか?それを実感せずに、ただただ学生時代の作品をまとめたもので、毎日必死に戦い続ける建築事務所が戦力としてみてくれて、雇いとってくれると思うのか?

就職が戦線であるように、限られた数のポジションしか無いのであれば、他の人間よりも力があると証明しなくてはならず、毎日朝から遅くまですべてが吸収するべき内容に触れる数ヶ月を過ごし、それを踏まえて自分の足りてない部分を補いつつ、残りの大学生活を過ごしてきた人物とそうでない人物とを比較すれば、大学卒業時には大きな差となって現れるのは必然だと思わずにいられない。

もちろんインターンはずっとこの場にいる訳ではなく、目的があって仮の居場所として数ヶ月ここで過ごすだけである。彼らもそれを理解し、確実に自分が自分の将来のために必要なものをできるだけここから身につけ、十分にしたたかにしっかりと持って返っていく姿を見ると、どうしてもただ目の前のことに夢中になっていた純粋無垢な自分の学生時代と比べてしまうし、それ以上にのほほんとしていた日本で教えていた学生たちの姿を思い起こさずにいられない。

建築なんて息の長い世界に飛び込むのだから、決して焦ることもないのだと思う一方で、こうして緊張感のある時間を学生のうちから経験し、建築家としての日常が実際にどんなものなのかを感じて自分の将来を決定していくプロセスがあったのならば、きっと今とは違った現在が自分にも存在していたのだろうと想像し、できることなら少しでも多くの学生がこのようなインターンとしての時間を過ごしても、その将来にマイナスにならない教育制度に一刻も早く変わっていってほしいと切に願わずにいられない。

2013年4月21日日曜日

リーダーの国民性

かつてパートナーから言われた言葉。

「チームというのは、自分の手が沢山あるのと一緒なんだ。それを如何にスムースに動かしてより効率的に仕事をこなしていくかは、頭となるべき自分たちにかかっているんだ」

様々な国から来ている人間と一緒に仕事をしていると、それぞれの国柄というか、国民性によって適した仕事の役割というのが見えてくる。

その中でも圧倒的に人を使うのがうまいという印象を受けるのが、アメリカ人と中国人。人を使うのがうまいというか、人に指示をすること、チームをまとめて一人では出来ないことを成し遂げていくという、リーダーとしての役割を自然と意識して仕事をする姿勢を感じる。全員が全員という訳ではないが、明らかに何人かの人たちはそういうリーダーとしての役割をこなして成長してきたのだろうと感じずにいられない。

恐らく両国共に、教育システムの中、もしくは育ってくる環境の中で、優秀な人であれば、同い年、同じ地位の中でも、チームとして目的を把握し、各メンバーの特徴や適正を理解し、適切なタイミングでやることを指示をして、締め切りを与えて進み具合をチェックし、全体のバランスをとっていく。そんなことを誰かがやらなければ組織として成り立たないし、それをやれる人間が上に立っていくんだと身体で理解しているかのようである。

そういう意味でいったら日本人はまったくダメだと思わずにいられない。

同じ立場であるのに、でしゃばるように自分が前にでて、指示をして、決断をしていく、ということは、集団の和を乱すことだし、まずなによりも自分にその権利があるなんて誰も言ってくれない。その代わり、上の立場の誰かが「お前がこの集団をまとめていけ」と皆の前で立場の違いをはっきりさせてくれればやりますよ的な態度に留まる。

またその国民性からも来るのだろうが、大きな絵を掲げるよりも、自分の世界をできるだけ閉じて人からの干渉をできるだけ小さくしたなかで、職人の様に細かい仕上げにひたすら神経を研ぎ澄ましその精度を上げていく。言われたことはまじめに、正確に、そして時間通りにやり遂げる。それがどんなに困難であっても、我慢して、ストレスに耐え切って、文句も言わずにやり遂げる。もっと評価されたいと願っても、決して言葉には出さずに、「見てくれている人は見ているはずだ」とどこまでも謙虚。

恐らくドイツ人も同じような傾向をもっており、正確な指示を出してあげるとそれに比例するように正確な仕事をやり、報告をあげてくる。仕事を処理していく段階ではこれほど嬉しい「手」は無いわけである。

それぞれの立ち位置から見える風景は違って、その風景によって見据える目的地も変わってくる訳であり、集団を率いるならば、集団の中にいて同じ風景を見ていては旗を振れない訳であり、少しでも先を見渡せるような高い位置を探して首を伸ばし、どこに行けばいいのかを必死に見つけること。そんなことを訓練をすることなく自然に身につけていく国民性。

誰にどんなことを思われようとも関係ない。自分で考え、その考えをいろんな場所でいろんな人に伝え、相手の話を聞き、意気投合し相手の信頼を勝ち取り仕事に発展させる。自分で手を動かすのではなく、その仕事をやり遂げるチームを組織し、やるべきことを明確にし、チームを動かし、プレッシャーとモチベーションを与えながら、仕事を仕上げさせてそれをお客さんに届ける。

そういう能力はある年齢になった自然に身につくものではなく、生きてくるうえで、成長していく過程で徐々に身体の一部になっていくものであり、大人になって急に「学ぼう」としても本当の意味では身につかないものだと実感する。

国際人や国際化が叫ばれる現代日本だが、国際舞台で仕事をするだけなら、英語や中国語などのツールとプロフェッショナルとしての技能をしっかりと見につけていれば十分に活躍できる人材は多く出てくるだろうが、国際社会の中でリーダーとして突出していくためには、今の日本の社会の中からは相当な突然変異体で無い限り厳しいのもまた事実であり、今度の日本はこの問題をどう解決していくのだろうかと想いを馳せることになる。

2013年4月17日水曜日

「サクリファイス」 近藤史恵 2010 ★★


世の中には、その世界で生きている人でないと分かり得ない事柄が沢山ある。それに少しだけでも触れる事が出切るのが読書の醍醐味でもある。自分でネットや本で調べてこの分野にたどり着くことはないけれど、何かのきっかけで手にとった一冊の中で展開される物語を通して少しだけその世界に足を踏み入れることができるのは、何とも言えない幸福なことだと思わずにいられない。

「ロードレース」なんてまさにその未開の世界の一つ。

はじめて補助輪無しで走れた日の喜びから、歩くよりも圧倒的に広がった自分の風景。辛い思いをしながらも、腰をあげて身体を左右に揺らしながら登り切った坂道の向こうに待っているジェットコースターの様な下り坂。頭を下げて恐怖と戦いながら、ブレーキをかけずにスピードに乗ることの気持ち良さ。自分の中では立派なレースを繰り広げる小学生時代。

深夜のテレビでアルプスの山々をダンシングしながら越えて行き、一日に何百キロも走りながら、最後の最後で集団から飛び出すスプリント勝負に全てをかけて、最終的にはパリの街で熱狂的な歓迎を持って迎えられるツール・ド・フランスの存在を知り、毎年出てくるニューヒーローと圧倒的に王者の戦いに夢中になった中学生時代。

そんな熱もその後は更に高くなることなく、大人になってロードサイクルにはまり、休日には100キロ以上走るという友人の話を聞いても、テレビで山の神と呼ばれながらお尻をフリフリ登って行くイタリア人選手に熱い視線を投げていたあの頃の気持ちを思い出すこともなく、世間一般の日常のちょっと便利な移動手段としての付き合いしかしてこなかった。

そんな中で手にしたこの一冊。大藪春彦賞受賞という言葉とロードレース+サスペンスというのに引っかかったのがきっかけだが、エースとアシストというチームプレーとして描かれるロードレース世界はなかなか興味深く、そのスピード感同様にあっという間に坂をおりきるかのように読みきれる。

自分が素人のせいかしれないが、ロードレースの世界に関しての記述があまりにきちんと描かれており、それが相当なリアルティを感じさせ物語に心地よい緊張感を与えてくれる。その部分がしっかりしていればしているほど、サスペンスの部分の作り込みが甘く感じてしまうが、それでも次に自転車に乗る時は、子供の時のように「アウト・イン・アウト」などと心の中でつぶやきながらコーナーを曲がる事になりそうだなと少なからずのワクワクを感じることになるだろうと思わずにいられない。

2013年4月16日火曜日

筋肉痛

急な出張で上海にやって来る。

朝の5時起きで北京から杭州へ飛び、プリツカー賞を受賞した中国人建築家の代表作である美術学校を見学し、西湖を横目に無錫市まで車で移動し傑作を言われる中国庭園寄畅园を見学し、渋滞の高速を上海に向かって東洋とモダンを絶妙に融合した空間を都市の中で作り出す事に成功しているあるホテルを見学する。

皆もクタクタと見えて、かつてのオフィス・メンバーと合流しての上海料理の夕食が終わったら、流石に解散となり、せっかくの機会だからと上海で広告の仕事をしている大学時代の親友に連絡をいれてみる。

突然の連絡なので厳しいかと思っていたが、仕事が終わり次第ホテルまできてくれることに。同室のイタリア人スタッフも同じく友人夫婦に連絡をとり軽く飲みに行くというので、せっかくだから一緒に出かけることにする。

クライアントとの食事中だったという友人は22時過ぎにホテルに到着し、久々の再会を喜び合う。大都会の西北で、昭和の香りに絆されながら、村上春樹に影響を受けて過ごした大学時代。夏になる度に18切符で一緒にあちこちに行く中で、電車で一緒になったアメリカ人旅行者と拙い英語で会話をしたいたのを本当に懐かしく思いながら、何の苦も無くイタリア人達と英語で会話をする彼の姿を見ていると、互いに意味のある時間を過ごしてきたのかもなと思わずにいられない。

その当時電車の中で「筋肉痛」が英語でどういうのか分からず、とりあえず「マッスル・ペイン」と自信無しに言っていたけれども、今ではそれも確信を持って笑いあえるというのもこの年齢になった自分達へのご褒美だと思わずにいられない。

上海で建築をやっているという彼の年下の友人も駆けつけてくれて、テーブルの半分はイタリア語、こっち半分は日本語と思い思いの時間を過ごしながら、北京では考えられない屋外テラスで心地よい湿気を含んだ風に頬を撫でられながら、どんなに頑張っても今では増やすことのできない学生時代の友人のありがたさを改めて感じ入る上海の夜。

2013年4月15日月曜日

質問事項

普段は大体パートナーのマ・ヤンソンが、オフィスを代表して依頼されるレクチャーやイベントの出席するのだが、前持って予定していた参加イベントとのスケジュール調整がどうしてもうまくいかないというので、5月末に開催されるオーストラリア建築協会主催のシンポジウムにオフィスを代表してレクチャーに行く予定になっている。

レクチャー内容もシンポジウムの内容に沿って考え始めないとと思っていると、イベントのスポンサーでもあるオーストラリアの建築雑誌よりシンポジウムに合わせた号で掲載する様に簡単な質問に答えて欲しいと20の質問が送られてくる。

お国柄かと思えるくらい、「カジュアルに楽しんで答えて頂戴!」という言葉と共に送られてきた内容はなかなかウィットの効いた内容で、簡単に終えられると思っていたが、結局一日頭を悩ませて書き上げる事になった。

「なぜ建築家になったのか?」

というような質問から

「自分にとって一番大切な所有物は?」
「高校時代の一番好きな科目は?」
「ベッドサイドにおいてある本は?」
「一番の景色は?」
「一番の建築ホリデーの行き先は?」
「建築家になってなかったら何になっていた?」

などとなかなか抉られており、普段の生活をしているとなかなか思いを巡らせる事ができないような、しっかりと立ち止まって、時間を流れに任せず、落ち着いて自分自身の本質に向き合わないといけない様な内容。

自分の今、立っている場所、見ている風景を改めて実感するよいきっかけになったが、仕事が人生の一部であり、毎日過ごす時間というのはその人が選択し、何に興味を持って、どんな風景を日常の中で見ているのか?そんなことを喉元に突きつけられているような気がする。

「仕事が忙しくて・・・」

なんて言っていて時間を垂れ流すような時間の使い方をしていては、とてもじゃないが興味深い様な生き様は期待できないということだろうか。しっかりと自覚を持って時間を過ごしていかないと、流されるままに人生は終わっていくのだろうと改めて感じることになる質問事項。

2013年4月14日日曜日

鎖国

国際競争と多様なニーズに応える中でイノベーションが行われるグローバル世界。

その対局にあるのが、一般性を省みず、とことんある一部の需要を満たし、外部との接触を断ちながら独自の価値観に磨きをかけて、新しい価値を創造する。

イヴの時間」、「ベクシル」、「雲のむこう」など最近そんな内容の近未来の日本を描いたアニメを立て続けに見ることなった。

かつて世界第二位の経済大国まで上り詰め、緻密さと質の良さから持て囃されたメイド・イン・ジャパン。極東という文化の河の最果てに位置することから、ひたすらに蓄積し自ら更新してきたその文化的土壌も助け、世界からも高い評価を受ける様々な文化遺産。

それが少子高齢化という人口減少の波に揉まれ、それでもかつての繁栄と謳歌した時間を忘れられず、負の遺産を抱えながらも新しい国の姿を見出せられずにいる日本。

アトムやガンダムといった想像力とそれを可能にするテクノロジー。更に加速する近年の技術進歩を一方で目にし、またある一方ではこれだけグローバル化が叫ばれながらも、かつての繁栄が足かせになって、周辺ではどんどん進む国際化に乗り切れず、またそれでもどうにかなるかと思っているかの様な現状。

ちょっと外に出ると、世界を見渡し自分がどう生きたいかによって一番合った場所を選び住まう場所を決めて行き、世界の動向を感じながらしたたかに自分の能力と価値を高めながら生きるグローブ・トロッター達。

それに対して国境が本当の身体的な境界線として存在してしまう日本。

今の教育システムではその境界線を跨ぐ為には、個人として大変努力をするのと同時に、跨がずに国内に留まっていたら得られる様々な安心という甘い果実を捨てることになる。

もしくは、格差社会の上位に位置する両親に連れられ幼少期より国際性と馴染みながら成長するかだが、それでもその中から本当の意味での国際人、つまり国際舞台の舞台で一個人として競争力を持ち、求められる人材として自分の足で立つことができる人がどれだけでてくるだろうか。

休みを利用して日本に足を運んだ外国人の友人は帰ってくると皆揃って興奮しながら口にしてくれる言葉達。街は綺麗でシステマチックっで、清潔でディテールも完璧で、なんて素晴らしい国なんだ日本はと。

外から訪れる彼らには、そこに存在する境界線が見えてない。それは中の野菜を守るビニールハウスの様に、さまざまな外部からの刺激を遮断する。と同時に隔離する。

国際企業として成長した幾つもの巨大な日本企業として様々な国に進出する流れは今後一層加速するであろうが、世界の他の国でみられるように、個人がチャンスを求め、より快適な環境を求め、より自分にあった職場を求め大陸を移動する流動性のなかに、当たり前の様に日本人が含まれるには一体あとどれくらいの時間が必要なのだろうか。

そんなことを考えていると、そうして世界の流れに乗っていくのも一つだが、きっと日本という国柄、そしてその国民性を考えると、世界から忘れ去られたガラパゴスではなく、意識的に外部との交渉を断絶し、その中での差異化によって自らの価値を高めていく現代的な積極的鎖国の方が、きっと日本らしい未来の社会をつくっていくのかもと思わずにいられない。

その時に、「またかつてのように経済大国に・・・」などど願わずに、人口1億を切る社会に相応しい、中央と地方のバランスの取れたゆったりとした風景の中で、世代のバランスの取れた暮らし方ができるような、大きな都市計画の変革が必要だろうと想いをめぐらす。

2013年4月13日土曜日

「雲のむこう、約束の場所」新海誠 2004 ★



「ほしのこえ」の新海誠が挑んだ長編アニメ。

個人製作から大きなチームでの製作に移行し、その規模も世界観も作画の緻密さもより一層向上した様である。

一見なんのこともない青森の風景だが、実は戦後に津軽海峡を南北にして国が分断され、青森から見える北の風景にはすっくりと聳え立つ一本の巨大な「塔」。その直線が自然を背景にした中でどう人工性を描き出すかは言わんまでもないが、また同時に様々な人にとって目的地や思い出など、様々な意味を持つ「塔」の効用を良く描いている。

ローカル線を待つほのぼのとした風景や、木造校舎の中学校などのレトロな雰囲気と、位相変換を行い異宇宙との接合を行うような科学的発展の異種勾配がつくりだす異様な世界観は前作同様で、そこに中学生であった主人公達の揺れ動く感情が重ねられる。

乗り物のデザインや建物のデザインなど、前作よりも独自性が見えてきているように感じられるが、つっこみどころ満載のストーリーはあまり作りこまないという作者の意図も感じられるが、同時にその感傷的でナイーブな世界観もまたより一層加速されているようである。


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スタッフ
監督 新海誠
原作 新海誠
脚本 新海誠
キャラクターデザイン 田澤潮
絵コンテ 新海誠

キャスト
吉岡秀隆 藤沢浩紀
萩原聖人 白川拓也
南里侑香 沢渡佐由理
石塚運昇 岡部
井上和彦 富澤
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作品データ
製作年2004年
製作国日本
配給コミックス・ウェーブ
上映時間91分
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希少動物

妻のかつてのクラスメイトで、家族ぐるみで仲良くさせてもらっている夫婦がランチ・パーティーをするからといって誘ってくれた。

その彼女はスペイン人の弁護士で、旦那さんはドイツ人の建築家ということもあり、たまに食事に出かけては、建築談義に花を咲かせたりしているのだが、春めいてきたので、共通の知り合いなど20人近くを自宅に招待し気持ちのよいテラスなどをつかって思い思いの午後を過ごそうということらしい。

大きなコンペが進行中で、週末も関係ない生活に入ってしまっているので、当然のごとく、ワインを片手にワイワイと日差しの気持ちのいい午後を過ごすなんてことはなかなか難しいのだが、そういう場にはできるだけ二人で行きたいという妻の意見も聞き入れて、30分だけだがお邪魔することにする。

「あらあら、これはお洒落なおうちだね。」と足を踏み入れた瞬間に分かるセンスの良さ。インテリアに関しては建築家である旦那さんが主導権を握っているらしく、かつてスペインで自分の事務所をやっていたというだけあって、大きな打ち合わせテーブルと椅子はジャン・プルーヴェの作品。壁には去年のアートフェアで購入したという日本人作家のアート作品。ドイツ人らしく無駄なものが一切見えてこない綺麗な配置。これは我々も住空間に対する感受性を少しは高めていかないと・・・とやや反省。

そんなこんなしているうちに、顔見知りの友人もちらほらやってきて、一緒に来ている友人を更に紹介してくれる。

現在進行中のコンペの仕事がまったく終わりそうにも無いので、当たり前の様にこの週末も出勤して作業に当たらないといけないので、滞在できる時間は30分と短く、少ない時間の中で、できるだけ多くと食事をほうばりながら紹介してくれる知り合いと話を弾ませる。そんな中の一人にこんなことを言われる。

「中国人も海外に行くとそうだけど、日本人は北京に沢山いるけれど、皆自国民同士で固まってしまっているからなかなか出会う機会が無い。だからこうして出会えるのは結構希少な機会だと思う。」と。

なるほどと思う。仕事の忙しさと、そのスケジュールがあまりにも読めないこと、そして日本企業ではなく外国人の沢山いる中国の会社という環境と合わさって、昔からの知り合い以外の日本人ではほとんど知り合いと呼べる人もいない現在の我々夫婦。

それでも何人かの気の合う外国人の友人がいてくれるので決して寂しい思いをすることはないのだが、仕事や語学学校、そして知り合いの外国人の友人に誘われていく食事会やパーティーなどでも出会うのは沢山の国籍の人間がいるけれど、確かに日本人の人にそういう場で出会うことは今まで無かったなと改めて気がつかされる。

中華街を作って海外でも外から分かる形でコミュニティを形成する中国人と異なり、その場その場に浸み込むように馴染んで見えなくなるように生きるのが日本人だとかつて読んだ本に書いてあったが、ここでも日本人は希少動物ということだろうか。

こんな北京でどこかで同じ様な日本人に出会いたいと思いながらも、漂うようにして時間を過ごしている日本人に会えるといいなと思いながら、時間オーバーということで、妻を残して事務所に向かうことにする。

2013年4月8日月曜日

「ベクシル 2077日本鎖国」曽利文彦 2007 ★


何百年後ではなく、数十年後の近未来。

一見現在と変わりないが、よくよく見ると生活の様々なところに明らかに変化がでていて、それを可能にしているのが最先端のテクノロジー。

そんなのが一番説得力のある未来の描き方ではないかと思う。そしてその近未来の社会の姿は現在のテクノロジーから十分に予想がつくものであるはずである。

そんな訳で50年後ほどの未来の世界をモーションキャプチャーを使って描いた3DCGの作品。ジブリ作品に見られるように、あくまでも2次元を主体としたジャパニメーションの中ではやや異端の位置に属するであろう作品だが、ロボットの質感や動き方など実写にどれだけ近づけるかを見せながらも、芸に溺れずしっかりとアニメだからこそ描けるものをしっかりと描いているのは好印象。

バイオテクノロジーとロボット産業の分野で圧倒的な力を持つ国際企業「大和重鋼」。国際社会が規制を求めるが、国家すらも支配に置いたその企業は、国際連盟から脱退し、物理的にも情報面でも一切の国外と交渉を持たないハイテク鎖国を開始する。

それから10年。日本国内の様子がまったく分からない国際社会。不穏な動きをキャッチしたアメリカ軍特殊部隊SWORDは日本への極秘侵入を試みて、その一人であるベクシルが日本国内のレジスタンスと協力し「大和重鋼」に立ち向かうというシナリオ。

もちろん細かいつじつまの合わないところや、気になるところは沢山あるが、大きなプロットとしては十分に魅力的な流れであると思われる。漫画原作や小説の映画化ばかりの現代の日本の映画界で、これだけオリジナルなプロットをつくったというのは相当なことであるだろう。

恐らくハリウッドでこんな企画書が持ち上がったら、軍、IT、ロボット、政治、企業、傭兵、医療など様々な分野の専門家が集い、プロットの内容を細かく検証し、それぞれの分野の最先端の技術とこの先に予想される技術的革新を踏まえて現実味のある精緻なプロットへと昇華させていくのであろうが、さすがに今の日本とこの作品のおかれた立場ではそこまで理想的なバックアップは望めない。

兎にも角にも、少なくとも近未来の日本の姿を描いた作品であり、それは限られた分野にすべての力を集中させて、外部との交渉を一切絶ち、自ら信じる価値を高めることで国際的な存在力を維持していく。多様性の中から生まれるイノベーションよりも、隔離の中で発生する純粋培養の可能性。こうして書くと近隣の国の姿が思い起こされるが、想像力は未来を見るための道具であり、そうして始めて未来に向かって薦めることを改めて教えてくるような作品であろう。


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スタッフ
監督曽利文彦
脚本半田はるか

キャスト
黒木メイサ
谷原章介
松雪泰子
朴路美
大塚明夫
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2013年4月5日金曜日

「星を追う子ども」 新海誠 2011 ★



00年代からのアニメ業界がどんな動きになっているのかをちょっと調べてみると、そこかしこで目にするこの作者の名前。賛否両論はあるものの、一過性のものとは思えないほどに、間違いなく時代の一プレイヤーとしての地位を得ているようで、これは「見ておかないといけない作品」のようであると判断しての鑑賞。一番洗練されているであろうということで、最新の作品から遡ることにする。

ネット上ではいろいろと言われているようだが、それはともかく、以前の作品に比べてもちゃんとストーリーも練られていて、黄泉の国と地下世界と古代文明という分かりやすいテーマに少年少女の恋というアニメの永遠の主題が加わって、それなりに最後まで見れるし、作者のかつての作品でもでてくる「アガルタ」という言葉が世界観をもって描かれて、その風景もそれなりにスケールの大きさが感じられるようになっている。

言われるような既視感は拭えないが、一部で圧倒的な支持を受けているというのも確かに分かるような一作。


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スタッフ
監督・原作・脚本 新海誠
音楽 天門

キャスト
金元寿子
入野自由
井上和彦
島本須美
日高里菜
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作品データ
製作年 2011年
製作国 日本
配給 メディアファクトリー、コミックス・ウェーブ・フィルム
上映時間 116分
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一周年

春。

日本人にとっては、「春」というのはやはり一つの区切りの季節であり、区切りから流れ出した時間が、一週間、一ヶ月、三ヶ月、半年・・・と小さな区切りを刻み始める開始点でもある。

その小さな区切りを迎える度に気持ちを引き締め、緩慢と日常化していく様々な事象に対して、慣れることは肯定しながらも、惰性を否定することを繰り返す。

そんな訳で今年の春は、北京に居を移してから一周年となる区切り。昨年のカレンダーを見直すと、新しい環境に対しての様々な葛藤や悩みが綴られているのと同時に、新しい生活と、その中での自分への期待も同じく描かれる。

非日常である新しい環境が、徐々に日常へと変わっていく中で、目標や思い描いたことが後に置いていかれて、日常で目の前に立ちふさがる事柄に追われていきながら日々を過ごすことになる。

人は誰でも自分を肯定しないと生きていけない。

とは、よく言うものだが、区切りに立つたびに、出来たことと、出来なかったことを秤にかけることになる。

そしてどう考えても、出来なかったことの方が圧倒的に今の心の中を占めることになる。

恐らく出来たことや達成できたことも少なからずあるはずだが、それよりも遥かに多く自分に期待をし、また周囲からも期待をされていればいるほど、区切りで感じる挫折感は巨大化する。

目の前のことをこなしていく事は、恐らく誰でもできることであり、問題は「なぜ、それをしているのか?」をしっかりと考え、理解し、自分なりの方法で、より効率的に前に進んでいくことができるかどうか?

「人生は無為に過ごすには長すぎ、何かをしようと思えば短すぎる」

恐らく人生で本気で成し遂げようと思って費やせる時間はそんなに長くは無いはずであり、一つ一つの仕事を対極的な視点を持ちつつ、かつそれを終えるまでの具体的なイメージを持ってことに当たれるようにすること。

苦しみを糧とし、日々の葛藤を血として、本質的に仕事に取り組み、根源的な意味での成長へとつなげていくこと。それが次の区切りまでに自分に課す課題なんだと改めて振り返る二年目の春。

2013年4月4日木曜日

清明節

清明節と書いてQingming jieと呼ぶ中国の春のお休み。

日本風に読めば清明(せいめい)と読み、24節気の一つであり、春分と穀雨に挟まれた季節の変わり目ということである。

太陽の動きに合わせた季節の移り変わりにより沿った形で進行する旧暦を24分割して季節を表すだけあって、現行の太陽暦に慣れた身体にはやはり旧暦の方が季節の移り変わり合っていて良いのでは?と思わずにいられない。

清明。季節的には万物がすがすがしく明るく美しいころという。

安部晴明もその名前を「清浄」を現す「清明」に改名を願い出たということから、如何に一年のこの季節が人々にとって、「希望」や「暖かさ」を意味していたかがよく分かる。

そんな清明節。中国では祖先の墓を参り、掃除をするということもあり、「掃墓節」と呼ばれている。これは中国語の教科書でもよく出てくる話で、春もうららかになり、お墓の掃除ついでに草原を散歩するという意味もこめて「踏青節」ともいう。

それら全てが納得してしまうくらい、年明けから続いた激しい大気汚染が嘘のように、晴れ渡り、眩いばかりの青空が目の前に広がる。

大地から溢れ出すかのようなエネルギーを少しでも身体に取り込むためにと、妻と一緒に久々にマスクをせずに街に出る。

「ツナグ」 辻村深月 2012 ★★★★


読み終えて妻に聞く。

「もし、生きているうちに一度だけ死者に会えるとしたら、誰に会う?」

よくよく考えてみても、なるほどよくできた設定だ。「一度だけ」だと分かっているから、「この人にその機会をつかってしまって大丈夫だろうか?」なんて悩むことが無意識の中で想像されて、その葛藤を踏まえての決断をしてきた登場人物達の話だということが前提になる。さすがは2012年の直木賞作家というところか。

その絶妙な設定もさることながら、誰にでもある些細な、しかし絶妙な心情の描写が素晴らしい。

高校生の小さな嫉妬 。若いからこそのプライドと、その為に陥る自己嫌悪。絶対に誰にも言えない様な自分の「嫌な感情達」。それを小説というメディアを通して、非常に正直に描かれている。

ドラマチックなこともない、どこにでもいそうな、なんてことはない人達。その人たちをなんて活き活きと描くのだろうか。

「死んだらどうなるのか?」

という誰もの考える問題から一歩進んで、

「死者は誰の為にあるのか?」

という設問に昇華させる。


「人間ってのは、身近なものの死しか感じることも悲しむこともできないんだよ。」

「今、思い出した。目を閉じると、懐かしい匂いがした。音も匂いも、それが身近にあるときには一度だって意識したことが無いのに、間を空けて戻ってくると、こんなにも一気に記憶が巻き戻されていくものなのか。」

「御園のためじゃない。自分が楽になりたいだけだ、と気づいてしまう。」

「病気を変化と捉え期待してさっきまでの自分を思い出し、恥ずかしくなる。」

「会ったことで忘れられてもかまわないから、それでも会いたい。」

死者という「あっち側」の人に触れるということは、自分の中にこっそりと仕舞いこんでいた感情の蓋を開けることのメタファーに違いない。その時に発せられる言葉に見える、その人たちの生きてきた時間。


「記憶を攫むみたい。曖昧なところから連れ出してくるんだなって言う印象。あの世から呼び出すっていうよりも、この世に残っているその人の欠片や記憶をいろんな場所からかき集めて、どうにか一人分の形にするように、見えた。」


死者と使者。同じ読みだがその意味はまったく変わってしまう。しかし両者とも生者を「ツナグ」存在であるのは変わらない。とてもよい一冊である。

「千年女優」 今敏 2001 ★


演じることは時間を飛び越えることなんだと改めて思い知る。
それはある種のタイム・トラベルに違いない。

一人の女優の生き様を彼女の人生と、その中で演じてきた役の人生を横断しながら、ドキュメンタリーとして客観的な第三者を介入させる。その後に展開する監督の夢と現実の横断を先取りするかのようなストーリー。

「彼女が追い続けた男は誰か?」
「どこに行ったのか?」

という軸では、次から次へと変わる設定が「またか・・・」の繰り返しに陥るのを避けられるかと言えば少々辛い印象。「演じる」ことが「タイム・トラベルなんだ」という軸に匹敵するくらいのもう一つ大きな軸が必要だった気がせずにいられない。


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スタッフ
監督 今敏
原案 今敏
脚本 村井さだゆき

キャスト
荘司美代子 藤原千代子(70代)
小山茉美   藤原千代子(20~40代)
折笠富美子  藤原千代子(10~20代)
飯塚昭三  立花源也
津田匠子  島尾詠子
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2013年4月3日水曜日

旧国地図



寺社や公園、名湯や昔ながらの風景を残す街並みなどを目的地としてマッピングしていくと、地図の中に密度をもったある種の分布図が見えてくる。

それを見ていると、東京や大阪を筆頭とする現代都市の勢力図と比例しない、明らかに昔に現代と異なる勢力をもった都市や街があったのだと思わずにいられない。それが奈良や京都といったかつての都がおかれ権力の頂点に位置する都市ならまだしも、そうでない高密度な場所に見えてくるある種の共通項。

出雲、伊勢、伊豆、志摩、近江、土佐、佐渡、豊後・・・・

その多くが旧国名が冠された地名であり、かつての日本で各地方において堂々たる地位を確保していた場所である。自動車や鉄道といった高速陸路移動手段をもとに、近代に東京を中心として再編された都市分布。経済効率性ともともとの地勢とのバランスをとりながら、徐々に新たに浮き上がってきた地勢は次第に現代国家の基盤として定着していく。

日本全国にその地方地方の中心が存在し、多中心な地勢を誇っていたかつての日本。資金も労働力も必要とする建築が中心に閉める寺社。その歴史の中でも、権威を誇り、他より立派な建築物を持つに至った寺社には、やはりそれ相応のバックグラウンドが存在するはずである。

アースダイバーとは違うが、そんな寺社たちを一つ一つ訪ねていくことで、現代人の様にみみっちく貯金を貯めて土地を購入し、ささやかな家を建てるというプロセスを踏まなくてよく、気が良さそうだ、と思える場所を探し出し、かなり自由に建築を作ることが出来ていた、古代の日本人達が、この日本という地形にどのような気やゲニウスロキを感じ取ったのか?それが見えてくることになるはずである。

そしてそれは、国家としての統治をより効率的にするために敷かれた都道府県という境界線よりも、多中心の重なりのなかで生き生きとグラデーションを見せていた旧国での地図の方が、より日本人の歴史の中での地形の読み取りに対応しやすいのであろうと考える。

そんな訳で現代の都道府県地図に対応するような、旧国地図をネットで探してみるが、どうにも分かりやすいものがないので、折角だからと自分で作成してみることにする。

変わらない国家という外形線の中、一つ一つ旧国の境界線を引いていき、一つ一つ旧国名を入れていく。始めは東山道がなぜ東北地方と、群馬、長野、岐阜などを一緒くたにしてしまっているのだろうかと頭を悩ませていたが、これは京都が都として君臨していた永きに渡る日本の歴史の中で作り上げられて地図なのだと理解すると、後は比較的すんなりと頭に入るようになる。

都から伸びる数々の道。火山列島である地形の中心に位置する都から、各地に向かうには中央を走る山脈の北側をいくか、南側をいくか、それとも山の中を進んでいくかに分かれていく。

都から東に向かい山の中をいく東山道。
都から東に海を眺めながら進む東海道。
都から北に陸路を進む北陸道。
都から西に陽のあたりやすい南側を行くのが山陽道。
そして北側をいくのが山陰道。
南に向かって海に沿っていくのが南海道。
西に向かって海を行くのが西海道。
そして都を抱え込むのが5つのエリアからなる畿内。
この7つの道と5つのエリアを合わせて「五畿七道」。

こうしてマッピングだけでなく自ら地図を作っていくと、小説などで度々遭遇する近江や摂津、肥後や備前といった旧国表記がいまいちぴんと来てなかったが、ようやく少しながら場所と実態を持った場所として頭の中に浮かび始める。

それぞれ小さな中心として地形を読み解きながら長い時間をかけてつくりあげられてきた旧国は、地形だけでなくその土地の気候や風土をより色濃く反映されたものであり、それは同時にその土地に住まう人々の性格や考え方の基盤をつくっていくものである。

現代に育った自分たちですら気がついてない自らの性格のもとをつくった地域のDNA。それを読み解くためにも、現代を旧国と重ねてかつてあったであろう風景を想像しながら日本を歩くこと。

島根、宮崎、三重といった、経済性が上位に位置せざるを得ない現代日本においては、なかなか一線に躍り出ない場所たちが教えてくれる日本の源泉。一生つきあうことになるこの国に生まれた自分だからこそ、この国で多くの人たちが見守ってきた多くの風景を見ながら少しでも多くの道を歩くことができるようにと、ワクワクしながら自らの地図眺めて想像を膨らませる。