2013年6月29日土曜日

2013 National Conference – Material


先日参加したオーストラリア、メルボルンでのカンファレンスの様子が記事になってまとめられている。

2013 National Conference – Material

各スピーカーについて、結構長くコメントがしてあるので、カンファレンスを振り返るのになかなか便利であり、改めてほかっておいても多様に向かう世界の面白さに思いを馳せる。

2013年6月27日木曜日

「Towering Something 金氏徹平」 UCCA


アート関係の友人が日本からやってきたのは、知らない仲でもない芸術家の金氏徹平君の展覧会のオープニングの為。

UCCA(ユーレンス現代美術センター)

本来は昨年に開催されるはずだったが、諸事情のために一年近く延期され、無事にオープニングを迎えることになった。

かつて関わった美麗新世界の出展作家だったこともあり、昨年制作に来ていたときも妻と一緒にご飯を食べたりとしていたので、オープニングを迎えられたことは人事ながら嬉しく思わずにいられない。

「夕方からトークイベントがあるから一緒に行きましょう」

と、如何にもアート関係者らしいお誘いをしてくれるが、流石に仕事を抜けていくことは出来ず、「楽しそう!」とすっかり自分よりもその友人と仲がよくなった感のある妻は、オープニングイベントから講演会まで全て見させてもらったようだ。

やっと仕事に区切りをつけて、関係者と向かったという食事会場に合流し、久々の再会になる金氏君に挨拶と労いの言葉をかけ、とりあえず食事をいただくことにする。

聞くと今年の後半は、シンガポール、オランダと予定が結構詰まっているらしく、大学での授業も合わせてとても忙しそうである。まだ若手と呼ばれる世代に入るが、世界を舞台に活躍し、世界から望まれる作品を作り続けるその制作意欲と、どうにも合致しないような飄々とした立ち振る舞いがまさに作品にも良く現れている感じがする。

展覧会は暫く開いているというので、時間を見つけてじっくり作品を見に行き、不思議な魅力を持つ立体物に向き合うことにする。

2013年6月24日月曜日

「苦役列車」 西村賢太 2012 ★


平成22年度下半期の部門だから昨年の前半に受賞のニュースが流れていたことになる。受賞作家の経歴が変わっていて、その振る舞いも変わっているかなんかで、随分メディアに登場していたイメージがあった一冊。

直木賞、芥川賞受賞作品の一環としてそろそろ手に取ってみようと思い開いた一冊だが、中卒という作家の私小説というだけあって、なかなか毒気のある内容になっている。

安部公房の「他人の顔」のような、肉塊と化した人間の姿。それが蠢き、床を這う時のおぞましい「ヌメリ」としたなんとも嫌な感覚。

父親が性犯罪者という劣等感と、やり場のない怒りを抱え、中学卒業と同時に埠頭での日雇い仕事で稼ぐその日暮らしの5500円。食事、酒、タバコと風俗への積立金。その生活から抜け出すために稼ぐ金ではなく、目の前の欲望を解消するために費やし、金が無くなればいやいやまた家を出て5500円を得るためだけに埠頭に向かう。

欲深き生物である人間が、何を持って他の動物を区別されるかと問われたら、それはその理性によってと答えるのが限りなく正しい答えだろうと思わずにいられない。しかし自分を律し、社会の一員として必要な知識を得て、まともな大人として仕事をし、生活を成り立たせるのは誰もができることと想像する。

テレビで繰り返し放送される、「生活保護から抜け出せない人々」などの特集。それらの番組をテレビのこちら側から眺めて簡単に心に浮かぶのは、「なんて駄目な人たちなんだ」という安易な感想。それによって感じるまだ自分はこちら側にいるんだという安心感。

しかし、現代社会において堕ちるのは非常に簡単である。
しかも、一度堕ちたらなかなか這い上がれない。

恐らく身の回りにいる今まで知り合ってきた人達の多くは、相当恵まれた環境で育ってき、まともに社会人としてやっていける人ばかり。

しかしその誰にでも、こうして堕ちていく可能性はあるのが現代。
日常が一気にその風景を変えてしまう。

人間はその環境に時間の過ごし方を影響されるものであり、自分自身で本当に自分に起こっている変化を外から見るよりもはるかに小さく捕らえてしまうものである。つまり、堕ちていくことはなかなか自ら気がつかない。

理性に包まれること無く、剥き出しにされた人間の欲望。それがいかに醜いものであり、社会にとって異質なものか。そしてそれが人間の本来持っているものであるという事実。そしてそれらは社会の中にいるために、また社会の中にいることで押さえつけ、塗り固められているだけのものだという紛れも無い事実。

読み終わったときに「一体、こういう気分の悪い欲望剥き出しの内容で、何を感じろというのか?」と少々憤っていたが、暫く時間が経ってみると、どの時代にもこうして社会の周縁で生きる人は必ずいて、現代においてのその姿を見事に描いたのがこの作品であり、こうして「まっとうな社会人」を演じている側からはなかなか見えにくい側にいる人は、恐らくかつての社会よりも、はるかに大きい割合になっているのだろうと想像する。

それがグローバル化した資本主義の獰猛な姿であり、その経済活動のなかで強者と弱者をはっきり「仕分け」し、その格差を限りなく大きくしていく現代社会の必然の姿であるからであろう。


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第144回(平成22年度下半期) 芥川賞受賞
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2013年6月23日日曜日

「神様のカルテ」 夏川草介 2011 ★★

北京で開催されている半年間の「园博会」。ガーデンの博覧会というが、半年間弱の開催にも関わらず相当な規模のものになっている。せっかくだからと妻と妻が相互学習をしている中国人の友人カップルと一緒に足を運ぶことにする。

しかし、会場が北京西部の相当遠い場所にあるから、家からたっぷり2時間ほど電車に揺られながら行くことになるのだが、早起きにも関わらず、揺れる社内で眠りをむさぼることも出来ずに、しょうがないのでとほとんど社内で読みきってしまった一冊。

「専門職」に就いている人間が、現場の現実と理想の狭間の苦悩を、自分を投影しつつ作り上げた第三者としての主人公の口を借り、世に問いかけるのはよくあるパターン。

作家としてではなく、一人の読書人として、今までの人生の文学的蓄積を存分に発揮し、「仕事」としてではなく、「喜び」として書き上げる一冊。それが感じられる、人生が濃縮されたような豊穣さを感じる。

1978年生まれという現役のお医者さんという作者。2009年に刊行されたということは、2007年には十分に書きあがっていたと想定すると、当時は29歳。順風満帆に24歳から研修医を終え数年を経たであろうその時期は、まさに主人公と同じように医者としてのキャリアとしても無我夢中な時期からやや抜け出した時期に違いない。

その年齢で医者としてどれだけの技能レベルに立っているのかは分からないが、もし建築家であるならば、社会にでて建築の実務に就くようになって6-7年。働く場所にもよって違うであろうが、まともに働く人なら、木造やRC造の住宅くらいなら一人で何とか設計から確認申請、現場監理までなんとか見れるようになっている頃かと思うが、同時に自分がどれだけ建築家として能力が足りていないか、建築のことをどれだけ知らないかを思い知りながら毎日を過ごしているころでもあるだろう。

それでも見えてくるかつて抱えていた理想と、毎日見つめる現実の風景とのギャップ。それに葛藤する気持ちと、グルグルと中々前に進まない自分のキャリアへの苛立ち。自らの職能を理系と文系の幸福なる融合を体現するものだと偏ったスター建築家崇拝に染まった教育をどっぷり受けながら、それなりに社会学や哲学なんかの文学体験も経てきているので、らしい文章は書けるようになっている頃合。

その時期に心の中を閉めつくす青臭い気持ちを建築の世界を舞台とした小説で表現するとしたら、一体どれだけ職能人としての自らの無能さを呈してしまうのだろうと感じるであろう恐怖。

しかし、職業人として感じる思いはその時々に変化して、その気持ちに向き合うことができるのは人生にその時しかないのであれば、そんな恐怖に絡められるよりも、思いに突き動かされながら言葉を紡ぐことは決して悪いことでもないのだろうと思える、心が暖かくなり、また松本城が見たくなる信州の物語。




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第10回(2009年)小学館文庫小説賞受賞作
第7回(2010年)本屋大賞第2位
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园博会 2013 丰台区 ★★



妻が行っている相互学習の中国人の友人が、「彼氏と行くのだけど一緒にどう?」と声をかけてくれて知ることになったこのイベント。中国における庭園(园林)の文化を紹介し、様々な地域の庭園を実寸で再現するというなんとも中国らしい博覧会。正式名は「中国国际园林博览会」というらしい。

よくよく見てみると、街を走るバスにもデカデカと広告が掲載されていたりと、かなり注目度の高いイベントであることは間違いなく、半年間の期間限定で、この5月から開幕ということで、今年の夏休みのお出かけスポットになるだろうということで、子供達が来る夏休みに入る前に行こうということらしい。

しかしこの丰台区。北京市の南東に位置する巨大な区で、風水的に言えば裏鬼門の方角。だからかどうかは良く分からないが、あまり発展の進んでいない区であり、そのお陰で建材の工場などが多く誘致されている地域である。

何と言っても総面積が16800km²もある北京市は、日本の四国4県とほぼ同じ面積と言われるように広大である。北京中心地を囲む4つある近郊区の一つであるこの丰台区だけでも305km²というから、621km²である東京23区のほぼ半分近くがこの区でカバーされることになる。

つまりは「遠い」ということ・・・

「日曜日に打ち合わせに出ないといけないかも・・・」というと、「あっそう・・・」と明らかに不機嫌そうな返答を返してくる妻の機嫌を獲るために、無理して土曜日に仕事を終わらせなんとか一日フリーになるようにと調製して向かえた日曜。早朝から準備をしてバスと電車に揺られること1時間半。「東京なら十分箱根あたりまで行けるだろう」と思いながら到着する地下鉄14号線の园博园駅。

話には聞いていたが初めて会うことになる妻の相互学習相手の中国人の女性は元々妻が通っていた中国語学校の先生で、日本人相手に教えることも多いので、日本語をしっかりと学習したいということで数ヶ月前から相互学習を行っている。人の良さそうな彼氏も一緒にシャトル・バスに乗り込んで見所が多いという5号入り口へ。

中国政府主催で、丰台区の活性化の起爆剤になることを期待してのイベントと見られるだけあって、相当な規模。まだ夏休み前というのに、噂を聞きつけてか、老若男女問わず、相当数の来場者。博覧会日和と言っても良い暑い日差しも手伝って、これは相当体力を奪われるな・・・と思いながらチケットオフィスへ。

「博覧会と言えば・・・」思い浮かべるパスポート風のチケットは通常のものよりプラス10元。それをもって各展示会場でスタンプを集める。どこの国でも同じなんだなと思っていると、友人に誘われ妻も購入してくる。

強い日差しの中、全部を回るのは無理だからと興味深そうなところをピックアップして集中的に回ることにする。中国の各地方ごとにパヴィリオンが建てられて、その一部として庭園が設えてあるという設定。よくよく見ると、かなり雑なところは見えるのはさすが中国だが、それなりに雰囲気は味わえるようになっている。

いくつか外の独立パヴィリオンを見て回るが、強烈な日差しの下で体力も奪われるので、大きな建物の中にある、庭園の歴史などを紹介するパヴィリオンへと足を運ぶ。これが意外と興味深く、先日足を運んだ杭州や无锡の庭園や、北京でちょこちょこ足を運ぶ庭園などもカバーされており、その由来や設計手法などについても解説がしてある。

故宮についても説明がされており、屋根の四隅を護る四神である青龍、朱雀、白虎、玄武などの模型もおいてあり、「おおー、これはあの動物ね」と見ていると、今まで比較的無口だった中国人の彼がここは自分のテリトリーだとばかりに、まくし立てるように説明をしてくれる。我々三人はまるで授業を受ける学生のように、「ほぉー」などといいながら聞きいる。なんでも、高卒らしいが、自分が興味がある分野があると何冊も本を買い込んで、一気に詳しくなるという性格らしく、歴史や地理は特に好きな分野だという。今は友達とカスタマー・サービスの会社を立ち上げているというが、凝り性なところが仕事にも活きているだろうと勝手に想像する。

そんな訳で、その後何かのポイントで一気に噴出すような彼の説明も楽しみの一つに加えて先を進み、ところどころでスタンプを集め、再度外のパヴィリオン巡りに戻る。

やく2時間かけて猛暑の中、幾つかのパヴィリオンを見て回るが、やはりテーマパーク感は否めなく、巨大なオブジェのような入り口ゲートと、その横のメインの展示会場を見て最後とし、後はひたすらスタンプ集めに興味が移る。

まだ完成していないヨーロッパ部門を横目に結局駅に一番近い一号門までやってきて外に出る。閉演が15時だと聞いてなぜだろうといぶかしんでいたが、この暑さですっかり納得。クタクタになって、足を引きずるようにして駅に。

行きと同じく1時間半をかけて市内に戻り、また何かのイベントで一緒に行こうと約束をして彼女達と別れる。

建築界では博覧会は既に死んだなんてよく言われるが、それでも行けば楽しく、行った事で興味が深まり、次回旅行に行ったときに思い出すのがこういう博覧会なんだと改めてその魅力に想いを馳せる。


































2013年6月22日土曜日

「龍神の雨」 道尾秀介 2012 ★★



ミステリーを展開する上で自ら設定した物語の前提。

それをどこまで崩すか?

もちろん、前提が堅強であればあるほど、それが崩れたときの驚きは大きい。しかし、インパクトを狙うあまりに、なんでも崩してしまう前提でいいのかといえば、それでは読者との信頼関係が構築できない。

どこまでの破壊を良しとするか?
その絶妙な駆け引き。

それが許せるギリギリの境界線で成り立っているからこそ、ある1ページから以降は、今まで見ていたと思っていた風景が一気に「ガラッ」と変わってしまう。そんな印象を受ける、その1ページの存在。

その1ページから失踪するように暴かれる様々なボタンの掛け違い。文字によって、作者の意図に操作され、読者の頭の中で構築された世界が、実は大きく偏差してしまっていたと徐々に気づかされる。その楽しむかのような騙しあい。

登場するのは共に兄妹。
共に不幸を身に纏い、
共に近くて遠い家族への疑惑を抱え、
共に本当の世界が見えていない。
共にやまない雨の中で生きている。

雨の日に恐怖で見えたと思う龍の姿。
そこに恐怖を感じるのも、もしくはその後の希望を感じるの、
受け取る自分の気持ち次第。

「雨さえ降らなければ」と過去を見つめて生きるより、
「雨のせいで見えなくなってしまったものがある」ことを理解し、
「雨の後に覗く日の光」を信じて前を向く。

前半での伏線の仕掛け方、読者の思考の操作、複数の登場人物の交差の仕方、そして後半にて一気に回収される伏線達など、ミステリー作家としての作者のテクニックが確かなことが良く理解できる一冊。ではあるが、だからこそか読み終えた後に何か物足りない気分にも陥る一冊でもある。



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第12回(2010年) 大藪春彦賞受賞
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「アサッテの人」 諏訪哲史 2010★


ギアが合ってない。そんな時がある。

スタッフにあるプロジェクトについて説明していたら、引きつるような顔をしているので「どうした?」と聞いてみると。

「ヨウスケ。中国語で話していますよ・・・」と。

彼女は韓国人でまだ中国語が出来ないので、通常は英語でコミュニケーションをするのだが、オフィス内での中国語でのコミュニケーションが60%近くになってきたこと、また自分の中国語のレベルがある程度自由が利くようになってきたことから、時間が無いときなどはこういうことが起こる。

そういう時は頭のギアが合ってなく、空回りしてしまっている。「申し訳ない」といいながら、英語で再度同じ内容の説明をする。

「吃音」では無いが、母国語を含まない多言語環境にいると、頭の中で想起したイメージや内容を意識を持って引っ張ってくる学習した言語に乗せて身体の外に出さないといけない。それは時にうまくイメージと単語の選択がうまくかみ合わず、非常にもどかしい時間を過ごすことになる。喉の奥まで言いたい内容は上がってきているのに、どうしてもうまく言葉とマッチングしない。そんな感覚。

吃音(きつおん)や吃り(どもり)。

「ポンパッ!」や「チリパッハ」と言った、理解不能な響きを発し、アサッテの世界に入り込まずにいられなかった叔父への回想。叔父の書きとめていた日記から、最愛の妻を亡くし、ならに自らのアサッテの世界に閉じこもることになり、最後は突然消えてしまった叔父の頭の中ではどんな世界が広がっていたのかを追っていく主人公。

「ピンイン」という表音記号で表される中国語を学んでいると、「あー、なんとなくこんな感じのピンインだったんだけどなぁ・・・」と手探りの感じで音にしてみて、それを耳で確認しながら、「なんか違うなぁ・・・」と一人でやることが多々ある。

そんなことを繰り返していると、ミーティングで理解できなかった単語などが出てくると、無意識のうちに、「チュイジィ、チュイジー・・・」などとブツブツしてしまうことがある。それと共に、意味は分からないけど非常に耳にしっくり言葉などに出会ったときに、それを何度も繰り返したりしてしまう。

そんなことを思い出してみると、現在の環境はある種の吃音環境でもあるのかとハッとする。小説の中でも様々な国の辞書から見つけてきた響きから、その意味を剥ぎ取り、そして表象するものを無くし、ただ虚空に漂うだけの存在にされてしまったその言葉を、泉から溢れる水のように、身体の中から溢れてくる感情と共にアサッテの世界に投げ入れる。

音がまだ意味を持つ前の瞬間の戯れ。
音が言語としてこの世に定着する前の瞬間。

そんな風に理解しながら、なかなか面白く読み進めた前半部。できればその方向性で物語を発展させてくれればより好感触だったが、後半は作者の高尚なる文学的知識をどうにも物語の中に入れ込まなければ気がすまなかったのかは知らないが、どうにも様相が変わってくる。

小さな頃から本に囲まれたという叔父の言葉を借りることによって、なかなか周囲に理解し会える友を見つけられず、自ら身体の中に溜め込みすぎた文化的芳醇が一種のフラストレーションとなって噴出するかのように、物語の芯とは違ったいわゆる文学的戯れ感が顔を覗かせるのはやや残念。


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第137回(2007年度上半期) 芥川賞受賞
第50回(2007年) 群像新人文学賞受賞
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2013年6月21日金曜日

凄い脳


オーストラリア日本と忙しなく過ごしたここ数週間。

異なる場所で、様々な人に会い、色んなことを話して聞いてと、移動に伴う変化の中で時間を過ごしていると、脳内に入ってくる刺激に比例していろんなことを考えることになる。それと同じくらい自分が出来てないことを知らされ傷つき、もっとやらないとと思わされることになる。

そんな変化の中にいると、毎日同じリズムを繰り返す、安定した日常がいいと思う。

そうして戻る日常で、同じ時間に起床して、同じものを食べて、同じ道を自転車で走って出勤し、同じ忙しさの中で流れるように過ぎている時間を見ていると、また変化が懐かしく思うものである。

そう思うと、人は無いものねだりの馬鹿な生き物だと思わずにいられない。


変化と日常の中で、様々なことを感じ、考える。

それらの思考を出来るだけ身体の外に置いておこうと、言葉に変換してブログやスケッチやらと形を変えてみるが、全てを顕在化していたらもう一つの人生が必要になってしまう。

どれだけネットであるプロジェクトの記事を見て理解したつもりになっていても、その場所に行かないと分からない建築の空間同様に、様々な条件の中、困難を抱えながらもチャレンジ精神を忘れずに、新しいものを作り出していった建築家本人の言葉で語られう作品を見て、そして何よりその建築家と同じ時間を過ごして人となりを知ること。それに勝るメディアは無いんだと理解する。

その濃密な時間から得られる情報はとても言葉にして現すことができない。経験などとあやふやな言葉に置き換えられるが、その時に感じた気持ちや、浮かんだ考え、そしてそんな刺激的な時間を得て自分の中で芽生える変化。それらをどうやっても言葉には置き換えられないが、頭の中ではもやもやしながらも比較的少ない時間で処理してくれる脳。

その能力は本当に驚かされる。

例えば、ぼーっと何も考えていないような顔をして道に座っている人でも、頭の中では物凄い量を思考し、物凄い濃密な時間を過ごしているかもしれない。

何も言葉を発せずに、フラフラと街を漂っている若者も、実はその脳内で、「人生とは何か?」、「生きる意味とは何か?」、「建築のあるべき未来とはなにか?」などと、物凄い勢いで考えているかもしれない。

ぼーっとしているような顔をして、実は物凄い経験を頭の中でしてしるのかもしれない。

外からは何も変わってないように見えて、その実内面では大きな変化、幾つも歳を取るよりもよっぽど意味のある成長をしたのかもしれない。

人類の起源に対して深い思考を巡らせたり、
複雑な量子力学を解いてみたり、
宇宙の始まりをシュミレーションしてみたり、
新しいビジネスモデルがどう成長するか考えを巡らせたり、
自我とは、社会とはと永遠の問いを投げかけたり、

それらの思考を終えるみると、今までの自分とはまったく違ってしまうだろう。

そして、外からその変化は決して見えない。

それを可能にする恐るべき脳の活動。

そんなことを考えながら、帰り道の胡同の道端に座っているおばさん達も、ひょっとしたら頭の中に無限の宇宙を抱えているのかと想像を膨らませながら、人間の神秘を感じて自転車を飛ばすことにする。

2013年6月20日木曜日

生命体としてのオフィス


オフィスというものは、人がいて始めて成立するものである。

どんなに優秀な建築家でも、一人で「あーだこーだ」と声を上げている段階から、徐々に人が増えていき、オフィスという社会性のある組織へと変化していく。

そして、人が入ってきたり出て行ったりということが日常化してくる。

その中で、あるスタッフが辞めていくことになる。比較的長く勤めてくれたので、その分彼自身にストックされた知識や経験も多くなり、オフィスにとって辞められのは確かなる痛手であるし、その後はチームやオフィスへの負担も一人が抜けたという数学的には見えてこない負担が多くなる。

辞めていく前はいつもそう思うものだが、それでもオフィス自身が自ら負った傷をなめて癒すかの様に、徐々に今いるメンバーで毎日が回っていくようになる。そしてそれがオフィスの日常になっていく。

その推移を見ていると、オフィスもまた生命体であり、生命体である以上、負った傷は治さずにいられないのだと思いながら、徐々にその彼がいないことが日常になっていく雰囲気を感じる。

止まることは、死ぬことを意味する。

ならば少々の傷も気にならないほど、強い命になりたいものだと思わずにいられない。

2013年6月18日火曜日

神社の型 鳥居の型 狛犬の型


建築家なら大学時代の日本建築史の授業で一度、そして一級建築士の試験時にもう一度向き合うことになる神社の様式。

神明造は伊勢神宮。
春日造は春日大社。
大社造は出雲大社。

などと、必ず一問はでる日本建築史に関する問題で、一点を落とさない様にと必死に記憶したこれらの様式。その時にはとても楽しめる余裕は無かったが、今になって気がつく根本的な疑問。

何故違う?

これだけ様式が分かれているのは理解できるが、その様式の中でもその土地、その時代ごとに建てられる神社。それらがなぜか全て微妙に違うのは何故なのか?

「うちの神社は何々系なので、様式は何々造りで行きます。しかし独自性も出して行かないと他との差異化ができないので、細かいデザインに関しては職人の皆さんの想像力にお任せします」

なんていう会話がなされたのかどうかは今となっては知る由も無いが、生活圏が限られた古代から中世。手に入る建材もある程度限られたはずである。そして何よりも、他の場所でどんな最先端のデザインが生み出されているのか、そんな情報も限られ、あるのは人による伝聞やスケッチのみ。

その少ない情報をヒントにして、新しい世の中に相応しい神社の型を作り出そうと魂をこめた職人達。そうやって想像力の風呂敷を思う増分広げて見上げるそれぞれの神社はそれぞれに飛び切りのドラマが後ろにあるのだと思わずにいられない。

そんな神社の様式を再度理解するのにお勧めなのが、毎回お世話になるこのサイト。

本殿建築様式について

神殿の様式のいろいろ

そんな風に見ていくと、いやいや建物だけじゃないぞと。その手前にもデザイン要素がごろごろ転がっているのが神社の空間。

一見大きな違いが無いように見えていた鳥居もこれだけ微妙に変化がついていたとは露も知らず。

鳥居の形のいろいろ

そして最近気になるのがこの狛犬。とても愛嬌のあるものから、恐ろしい形相のものまでそれこそ千差万別。

狛犬見聞録

狛犬ネット

足を運びたい神社が多くあるからそれぞれの場所で細かく鳥居と狛犬のデザインを鑑賞する時間はなかなか取れないが、見てきたものを写真で見返し、「ほう、これは」などと言う発見の楽しみがまた一つ増えることになる。

2013年6月17日月曜日

「プラナリア」 山本文緒 2002 ★★★★★


家の本棚にいつからだろうか居続けた一冊。そのタイトルや口コミから面白いのは分かっていたが、どうにも手を伸ばすタイミングを逸してしまっていた一冊。

「共喰い」を読んで芥川賞がやはり面白いと思い、それならば直木賞も一緒にと再評価してついに手に取った一冊。当時はやりだした「ニート」をテーマにした社会読み物的な一冊だとばっかり思っていたが、とてもとても、そんな浅いものではない。

読み始めると「働かない」を主題に描かれる5人の女性の姿に人間の根源的な姿を見せ付けられる。一章を読んだ段階で直木賞受賞が納得の凄い一冊。

これが「無職・男性」ならばこの話は成立しない。それが「女性」であるからこその様々な大義名分と言い訳。

/プラナリア  
/ネイキッド  
/どこかではないここ   
/囚われ人のジレンマ   
/あいあるあした   

それぞれの章で描かれる、何かしらの事情を抱えて現在定職についていない女性達。

「プラナリア」の春香は若くして乳がんになり、完治してはいるが、薬の副作用などで襲ってくる吐き気などを理由に未だに仕事に復帰することなく、実家にパラサイトをし、乳がんになったのは小さなときから食生活を配慮しなかった両親のせいだと、とんでもない理論をぶつけ、無職でいることへの免罪符を得ようとする。そうして自分自身を納得させる。

付き合っている恋人と一緒に友人と飲みに出かけると、「どうして働かないのか?」という質問に、「乳がんだから」とその場の空気を壊すのも分かっていながら、同情を得るのが目的でもなく、なんとなくその一言で自分がアンタッチャブルな存在になること、自分が無職であることが正当化されるような、とんでもないウルトラC。

「ネイキッド」の泉水は36歳。バリバリ働いていたが、二年前に夫から離婚を切り出される。「さもしいのは嫌なんだ」という言葉と共に。今までの自分の生き方を否定されて一人になるが、貯金も2000万円以上あり、マンションも自分名義で持っているために、生活自体は困らない。経済的に自立していれば、誰かに負担をかけているわけではないのでそれはそれで問題ないのかもしれないが、人間が社会の中で生きる生き物である以上、社会の中で社会に属さないでいることがどういうことかを描き出す。つまり「暇」をもてあます彼女の姿。

「どこかではないここ」では43歳の主婦・真穂。これが一番ゾッする。何の変哲も無い凡庸な家族。夫と息子と娘の4人での生活。しかし夫がリストラされて、給料が以前の半分になったことで人生設計の修正が必要になり、ローンも払うのが厳しくなり、自分は夜の10時から午前2時までレジ打ちのパートにでる。

高校生の娘は外泊を繰り返し、「お母さんのようになりたくないの。この家から出て行きたいの」と自立を目指す。雨にぬれて朝に帰ってきても、当たり前のように朝食が用意されると思って何もしない夫。「無理しなくてもいい」といいながら、話し相手として必要としてくる自らの母親。そして入院を続ける夫の父親の見舞い。

誰かに評価されるでもなく、誰かに感謝されるでもなく、それでも淡々と繰り返さなければいけない日常。どんなに負担が多くなっても、自分は止まる事ができない。自分の母親も含めて、今までの日本ではこういう主婦がほとんどだったと思う。その人たちが、「自分の人生ってなんなんだろう」と疑問を持ち始め、足を止めてしまったら、いきなり社会全体が回らなくなり、いろんなところで亀裂が入り始める。

「囚われ人のジレンマ」の美都は大学で心理学を学び、その当時から付き合っている同じ専攻で今は博士課程に進んだ恋人と関係を続けながら、自分は大手メーカーに勤めている。自分よりも頭が良くて、尊敬できる存在だったその彼から結婚を申し込まれ、正直に喜べない自分を見つけて葛藤し始める。

「男に生まれたばかりに、仕事先でも家庭でも強者であることを要求される。小さい方のケーキでいいと言うわけにはいかないのだ。」

という言葉でまだまだ日本に蔓延するジェンダーの問題を提示する。平等を求めながらも、それでも男性には自分よりも多く稼いでいてほしいし、自分と過程を養っていける力を持っていてほしい。そんな女性の矛盾し、いやらしいが本音の気持ちをさらけ出す。

そして最後の「あいあるあした」のすみ江。最初はこの章だけ男性が主役か?と思いきや、彼を動かし行動させているのは、不思議な魅力をもったすみ江の姿。真島の居酒屋で手相を観ることによって飲み代を捻出し、色んな男に依存しながら生きるすみ江の姿は、多くを望まなければそこそこ生きていける現代の日本を描き出す。何か達成したいことがあるわけでなく、何か手に入れたいと望むものがあるわけでもなければ、将来への負担からくる貯えなどを考えなければ、それなりに今を生きられる。それならば何のために生きるのか?

兎にも角にも良くこれだけ、人間が抱える嫌な感情、嫌な考え方、できることなら人に知られたくない、見られたくない負の部分を余すことなく、そしてそれが相応しい形の人物を使って描き出した力作。重ねて言うが、これが「無職・男性」ならばこの小説は成立しない。それはそのまま社会不適合者、ニート、格差社会の負け犬と分類されて、情弱の本人が悪いとレッテルを貼られて終わってしまう。それが「女性」であるからこその様々な大義名分と言い訳によって物語が成立する。その着眼点。すばらしい。

それにしても、それでも生きていける現代の日本。働かないことがそのまま死を意味する他の多くの国ではなく、飽和しつつ希望も持たない現代の日本の一面をとても新しい切り口で見せてくれる良作である。


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第124回(平成12年度下半期) 直木賞受賞
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2013年6月14日金曜日

「笑い犬」 西村健 2008 ★

なぜこの一冊が自らのアマゾンでのカートの中に入っていたのかいまいちよく理解できない。

恐らく、吉川英治文学新人賞を受賞した「地の底のヤマ」を購入しようとして、まだ単行本になっていないので作者の経歴を調べたら、日本冒険小説協会大賞や日本推理作家協会賞を受賞しているなかなかの作家らしいということで、その中でも評判の良いこの一冊を試しに購入してみようか・・・という流れだったに違いない。

取材の緻密さを誇るかのごとくな刑務所内での生活の描写につきる第一章。大手銀行の上層部の意向に従って行った土地の売買から、自殺者が出たことで罪に問われ、会社を守るためにと会社の顧問弁護士からも言いくるめられ結局は有罪の判決を受けて塀の向こうでの生活を始める元銀行支店長。

小さなころから何をやっても自信も無く、うまくいかなかった主人公。東大に落ちて入った早稲田大学。家族を見返そうとして内定を勝ち取った大手銀行は、父親の忌み嫌う貸し渋る銀行の一つであり、更に家族との亀裂は深まる。非行に走る娘に対して小さなころから自分よりも人間的な器は上だと認めてきた長男は何の問題も無く東大に合格するが、冤罪を信じてきた彼は、判決後も上告をせずに執行猶予を狙って刑を受ける父親に「負け犬め」という視線を投げかける。

手のひらを返すような銀行からの圧力によって、長年付き添った妻も「疲れました」と実家に戻り、嵌められれ、トカゲの尻尾切りにあった元エリートの転落人生と、それに伴う刑務所の中の悲喜こもごもな生活の様子をこと細かく描いて物語は進んでいく。

世間の批判が銀行自体に向けられるのを避けるために犠牲にされたというよりも、彼を社会的に抹殺すること事態が目的だと思われるような銀行の行動。そこから見えてくる、より大きな陰謀・・・。それに気がついた主人公が出所後銀行に対して開始する復習劇。

と、話は分かりやすいのだが、如何せん、突っ込みどころが満載で、細部まで詰められてない世界観が露呈してしまっている感はいなめない。タイトルでもある「笑い犬」。無意識の内に浮かべているはずの笑みのはずが、関係者に恐怖を与える一方、娘や記者とは普通の様にやり取りができている点など、主題に関わる部分で解決されない疑問が多すぎで、どうにものめり込むまで行かない一冊。

吉川英治文学新人賞を受賞した「地の底のヤマ」では、そんなことは無くて欲しいと次に期待する。

2013年6月13日木曜日

弄ばれる日本


祭りのあと。

道には楽しかった時間を暗示するような、食べ残しや原型を留めないゴミ達。
華やかな部分だけを求めた人々はあっという間に家路につき、黒子が残って日常へ戻るために片付けをする。

そんな感じ。

ここ最近の日本経済。

金利は抑えきれず、株価は暴落、円も円安に触れて、明らかに昨年末からの大きな意図による操作が手を引いて、その波にもついに引き潮に・・・

というような雰囲気が漂う。

今回の帰国で会った友人も、皆揃って口にするのは何やら不穏な雰囲気。

さて実質を伴わない浮かれ気分の表層の好景気を演出仕切れなかったこの後、どんな祭りのあとが待っているのだろうか。

2013年6月12日水曜日

「素行調査官」 笹本稜平 2011 ★

ダブル主役かのような小松刑事の視点から物語が始まる。管轄内で発生した殺人事件。その現場に一番に到着し見つけた不審な名刺入れ。その裏に見え隠れする、警察トップの不祥事の臭い。

一方、勤めていた探偵事務所が倒産し、参加したクラス会で再会した警察官僚になっている入江よりリクルートされて警視庁監察係という、警察内部の不祥事を取り締まる部署への就職が決まった本郷。

日本でビジネスを展開する美人中国人経営者。殺されたその妹。中国人経営者と不倫の関係を続ける公安刑事。その裏の見え隠れする蛇頭の姿。そして警察官僚の出世争いと様々な謀略。

ハードボイルドを書かせたら横に出るものがいない大好きな作者だが、警察モノと言う使い古された枠組みの中で、更に期待に応えるような物語になったかといえば疑問符が残るような内容で、大きなトリックを無しにクライマックスを迎える一作。

やはり海か山という、自然の中で苦闘する男を書き続けてほしいと願わずにいれれない。

下谷神社(したやじんじゃ) 730 ★★


古くは下谷稲荷明神社と呼ばれていたのが現在の地下鉄銀座線の稲荷町駅(いなりちょうえき)として名を残している歴史の長い神社である。

1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれたという、いかにも江戸の下町らしく、江戸っ子達に愛されている空気が境内を満たしている。
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所在地  東京都台東区東上野
主祭神 大年神 日本武尊
社格  郷社
創建   730
機能   寺社
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秋葉神社 1870 ★


今や世界の「アキハバラ」となった秋葉原の名の由来でもある神社。

かつて鎮座していた土地を、東北本線の延長に伴って払い下げ、現在の場所に移ってきたのだが、その跡地に作られた駅を「あきはばら」と名づけたことがその後の「秋葉原」となったという。

つまりこの神社が無ければ、AKB48も存在しなかったと思うと凄い気がしてくるから不思議である。

火の神、水の神、土の神を祀神としているというのもまた中々そそられる神社である。
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所在地  東京都台東区松が谷
主祭神 火産霊大神、水波能売神、埴山毘売神
社格  国幣小社
創建   1870
機能   寺社
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