2013年7月29日月曜日

「ポジ・スパイラル」 服部真澄 2008 ★★★


読書体験は実体験よりもその賞味期限が短い。体内に溜まったドロドロとした実体験たちを体外化してやるのを待っていると、恐らく読書体験の賞味期限はとうに切れてしまうであろうから、時間軸に逆らいながら先に片付けてしまうことにする。

「暑い。暑い。毎日が暑くて凌ぎきれない。」

まさに今年の夏を表す言葉として相応しい。

「不快感が渦巻いている。何日も続く猛暑日。記録を更新してゆく月平均気温。」

ここ数年、毎年毎年同じことを繰り返す。

「これは異常気象だ」
「やはり地球温暖化は本当だったんだ」
「海辺に建てた高層ビルのせいで風が流れなくなったからだ」
「ヒートアイランドを解消しないといけない」
「過去例の無いゲリラ豪雨によう甚大な被害」
「短時間に急激に流れ込む都市内排水問題」
「突然現れる激しい雷」
「どこからか出現したのか分からない竜巻」

しかし、誰もが台本でもあるかのように、9月の後半にはぱったりそのことを忘れてしまう。

「そういえば、今年の夏は過ごしにくかったねぇ」と。

人間そこまでバカじゃない。ここまで異常が続けば、地球規模で何かが狂ってきていることぐらい誰でも想像がつく。しかもそれはかなり深刻なレベルの段階で。社会をパニックに陥れることを避けるために、出来るだけ情報を規制しようとする政府と専門機関。雲を掴むような未曾有の事態に面しているが、できるだけ有効だと確信の持てる対策を練り上げてから発表しようと躍起になる。

きっとそんなとこだろうと想像する。一般庶民は「暑い暑い」と流れ出る汗を拭くだけ。

そんな状況に一石を投げかけるような一冊。誰もがその被害者になっているこの温暖化問題。社会問題に鋭い視線で切り込んでいく作者らしい内容で、これを読めば個別の現状が大きな生態系の問題としてよく理解できる。

貧酸素水塊(ひんさんそすいかい)とも呼ばれる生物の住めないデッド・ゾーン。過多な生活排水や産業排水が、植物プランクトンを大発生させ、それらが腐る段階で海底の酸素を消費する。そして海中あるいは海底に生息する生物の大量死を導くことで漁業や養殖業への壊滅的なダメージをもたらす。

貧酸素水塊

海洋に関わる土木建設業を一手に手がけるマリーナ・ゼネラル・コンストラクション、通称マリコンの創業者一家の娘で、お金に困ることのない贅沢な生活をしながら、優雅な海外留学生活を経て、今はトップの国立大学大学院准教授と言う立場にある主人公の住之江沙紀。もちろん美人で頭も切れて、なおかつ人格者というまぁ出会うことは無いだろうと思えるスーパーウーマン。

彼女がレクをするのは、生い立ちに諫早湾(いさはやわん)に関するトラウマを抱える売れっ子俳優の久保倉恭吾。もちろんイケメンで頭の回転もよく、なおかつ情熱的で後半では東京都知事選に出馬する逸材。

「利権のはじまりの底の底にあるのは、金の力によって人よりほんの少しでも良い暮らしがしたいという、個々の人間に切望であった」

個人の欲を充足させるために、少しずつとむさぼった利権は、徐々に生態系に影響を与えてきたが、それが見えなかったのが半分、そして自分くらい大丈夫だろうと思っていたのが半分で過ごしてきた戦後世代が山を削り、海を埋め、川を堰き止めて来た結果、地球は徐々に人間が住めない環境へと変わりつつある。

その状況を利権をむさぼって来た彼らはどう思って眺めているのだろうか?

「広い棚のような浅場があれば、こうも暑くはならないのよ。干潮時には、浅い砂浜や干潟の湿り気が大量に蒸発し、気化熱を奪って海や周囲を冷やしてくれるはず。でも今は海風が吹かない。」

中学生くらいなら常識的に分かりそうなことだが、規模が地球となるだけで、「自分のような大衆とは関わりの無い難しい出来事」と思考停止がかかってしまう。

「川と海は結ばれてこそ補完し合う。湿地、砂洲、浅瀬すべてが繋がっている。」

人間の身体と同じように、摂取した水分を如何に正常に循環させ、排出させることができるかが重要であるように、地球にとっても、「汽水」と呼ばれる淡水と海水が混在した状態の液体が満ちる汽水域が、しっかりと川と海との間を繋いでいることが重要である。

汽水域

局所局所で利権の獲物とされ、分断された水の道は地球環境へのネガティブ・スパイラルを産み出す。流れる清冽(せいれつ)な水は、いつの間にか留まり淀む汚水へと変化する。

「漁業権を持っていて、船もあるけど、漁に出ない。海に出なくても、満ち足りた暮らしを送ることができてしまっている」

警戒船などとして海で出ることで、漁よりもよっぽど楽にしかも大きなお金を手に入れることができる、開発にまつわる補助金。一度楽を覚えた人間は決して厳しい日常には戻れないのと同じように、甘い汁はあっと間に海岸線の風景を変えてしまう。

「やはり学者さん。予算が分かってない」

に代表されるように、国を取り巻く海岸線の問題は、一個人や一企業がどうにかできる問題では決してなく、大きな政治の力が働くことになる。そしてその政治を動かすにはどうしても避けて通れない予算の問題。そして予算を動かす数字のマジック。

ネガティブ・スパイラルをポジティブ・スパイラルに変えるために、変化を拒む既得権益を持つ団体をどう動かすか。「新しいエネルギー開発には資金がかかるから」という理由で炭化燃料に依存し続ける巨大企業。地球と言う視点から眺めるとそれは非常に短いスパンでのものの考え方ではあるものの、一企業という組織の視点からは自らを守るための当然の考え方であるこの矛盾。

経済活動だからとエネルギー方針を転換することを避けてきたそのつけは、間違いなくすべての国民へと跳ね返ってきている。

水中や泥の窒素分を吸い上げる菱。実は糖分やタンパク質の多い食べ物なので、それから焼酎が作れる。掘り起こし、埋め立てるような方法から、自然から学び、寄り添うように地中と共存する方向に少し舵を切っていく必要がある次の世代。

この本を読んで確信できることは唯一つ。循環の中で始めて生態系が維持でき、浄化作用が発揮される。孤立してはダメだということ。それは生命の本質の問題である。

2013年7月27日土曜日

「闇の底」 薬丸岳 2009 ★★

人が生きる社会の秩序維持と当事者になった本人の感情との葛藤や矛盾を抉るように描きだす著者の作風。前作では、「天使のナイフ」で更正を目的とするか、大人同様に刑罰の対象にするかで揺れ動く「少年法」と少年犯罪に光を当てた。

そして本作で光が当てられたのは、ネットの普及に比例するように留まるところを知らない「小児性犯罪」。児童ポルノなどに対する規制は進められるが、それでも日常的に報道されるようになった子供に対する暴力や性的虐待。

子供への性犯罪が発生するたびに、その抑止策としてかつてのフランスの首切り処刑人の名前からとられた「サムソン」と自らを呼ぶ男が、かつて性犯罪を起こした人間を一人ずつ殺害し、その映像を警察やメディアに送りつけてくる。その恐怖による抑制。

私人が人を裁くという法治国家では許されない行為に関わらず、一定の抑止力を発揮し始めるサムソン効果。そしてそれが法的には悪だと分かりながらも、市民の心の中では、「それでもこれで醜悪な犯罪が減るのであれば、それはそれでいいのかも・・・」という葛藤。

それに対して置かれるのは、法治国家をならしめる警察組織。犯罪者を逮捕することはできても、警察は犯罪を止められないじゃないかという葛藤。そしてその警察の中でサムソンを追う立場に置かれるのは、自らもかつて妹を児童性犯罪の被害者として亡くしている長瀬。

前作同様、作者はこの一般論と感情論の操作が非常に巧み。画面の外から見ている立場なら迷うことなくいえる意見が、自らが本当にその立場に立たされたら、一体どんな感情に晒されるのか?

デスノートの「キラ」が行う裁き。一定の正義に乗っ取って行われているその行為によって、社会にある種の秩序がもたらされたとしても、それは私人である限りにおいて、大量殺人であることに変わりにはなく、それが今作同様に普遍の一般論と感情論を揺り動かすからこそあれほど受け入れられたというのは理解に難くない。

ネットの登場によって、私人による感情に突き動かされた裁きがより容易になっていく世界。それだからこそ、より守る方向に振れていくだろうと想像されるかつての犯罪者の人権。「更正」という決して外からは真実をみることができない人の心。

だからこそ、今後より難しい問題が出てくると想像されるこの問題。

人を殺したらなぜいけないのか?
では、あなたは愛する娘が殺されたらどうするか?
その根本的な答えを子供にどう教えていくのか?
自分は司法の捌きを受けると分かりつつも、それでもその犯人を殺害する
という人に対してどう向き合うのか?

うらみは恨みを生むだけであるのは間違いなく、それは社会に対してなんの利益を生み出さない。それならば被害者遺族が納得できる刑罰をいかに更新していくのか。深い深い人間の心の闇の底を見せられた気がする一冊である。

2013年7月26日金曜日

虎屋京都店 内藤廣 2009 ★★★


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所在地 京都市上京区一条通り烏丸西入る
設計  内藤廣
竣工  2009
機能  レストラン
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現代京都の中心と言えば御所。京都に住まう人の多くが、「江戸に出かけてらっしゃるから」とその留守を強調する。帰るべき場所としての家。

元々は内裏の外に位置する邸宅であった里内裏(さとだいり)の一つである現在の御所。内裏の焼失に伴い最終的に現在の場所に落ち着くことになるのだが、かつては御所を中心に広大な森が広がっていたであろう風景を思わせるように、現代の御所は巨大な木々で覆われる。

江戸に居を移された後の近代化に伴う開発によって、徐々にその森も切り取られ、最後には図と地を反転させたかのように、浮かび上がる矩形の自然としての人工性を象徴する御所の森。

かつては平安京のメインストリートであった朱雀大路。羅生門から大内裏正門朱雀門に至ったその道を平安の時代から一体どれだけの人間が行き来したことだろうか。その人を中心と考えられたかつてのメインストリートから、「車の時代」の京都を支えるために整備されたのが京都駅を南北に貫く烏丸通。

日常的にここを走る人間には、ある程度の緊張感を与えるだろうなと想像する道幅や車線数を変え、車線ラインがほとんど見えないこの烏丸通。そしてその烏丸通は御所の西側に接することになる。京都駅から北上するといきなり右手に現れる巨大な森に長い歴史の中で護られてきたこの国の中心を感じることになる。

その御所西側の烏丸通から更に西側に入ったところに位置するのが内藤廣設計による虎屋京都店。今回の巡礼の中で訪れた数少ない現代建築。その中にこの建築家の作品を二つも体験することになったのは、移ろいやすい現代においてなお、日本の神域に代表されるスパンの長い時間を見据えながら設計を行っている建築家の思考が他の建築家とはかなり違ったところを捕らえているからなのだろうと想像する。

その内藤廣の建築を、何の事前知識も無く、「気持ち良さそうだから」と妻がお茶をしに行く場所として選んだのも、環境を非常に繊細に建築要素として取り込み、五感で感じるものとして建築を作り続ける建築家の能力を、現代の女性たちはまた繊細に感知しているのだろうとこれまた勝手に想像する。

いくら近代の開発により整備されたといっても元々は徒歩や馬での移動を基本に想定された碁盤の目状の平安京。その上に新しい時代を更新していこうともやはりスケールの問題はクリアできず、目抜き通り以外は今でも残る交通概念が違ったかつての時代のスケール感。

つまりは一方通行が多くしかも道幅も非常に狭いので、慣れていないと非常に運転しづらいということ。ナビに導かれるままに烏丸通から西に折れると右手に確かに虎屋は見えてくるが、駐車場に行くためには、再度左折を繰り返し烏丸通までもどって北上し、先の道を左折していかないといけないという。行きかう子供にぶつけないようにと緊張感を高めながらなんとか駐車場まで車をいれて一息つく。

北京に居を構えていると、否が応でも中心を意識して日常を過ごすことになる。そしてその中心はもちろん故宮。紫禁城である。完全なる風水都市。その中心には皇帝が南に向かって座り、その北には大地の気を流しこむべく湖を掘った土が盛られた景山公園。

その公園の上から見下ろすことが出来るのは、人類史上でも稀に見る壮麗な故宮の建築群。金色に輝く連なる屋根の波。他の場所では決して見ることの出来ないこの大きな風景。こういう大きなスケール好きの妻の要望に応え、天気が良い日は二人で電動スクーターにまたがり、一人2元の入園料を支払い山に登る。

その帰りに寄る故宮・東門である东华门前に広がる通り。小さな商店やレストランが軒を連ねるのだが、故宮が故宮として機能していた明や清の時代にはまさに一等地であるはずで、こんな庶民の生活が権力と並列されていることは恐らく不可能だったに違いないと想像する。その雑多な風景。それと重なる現代の虎屋周辺の風景。

御所と言う日本最大の中心のすぐ横に、凡庸たる住宅地がだらっと広がるその姿。日本全国何処にでもあるようななんともない住宅地の風景か、と言えば、自動車スケールで決められていない街路のスケールがやはり京都の特異さを示すなんとも不思議な風景。

そんな特別な場所において500年以上にも渡って銘菓を作り続けてきた虎屋。御殿場や、東京のミッドタウンなどで既に3店舗、虎屋のプロジェクトを手がけ、クライアント側との信頼関係も十分でき、仕事の流れも十分に理解した上で取り組むこの本丸・京都店舗。その建築家が意識しないわけが無かったこの御所周辺と言うコンテクスト。

さぁ、日本の中心の磁場の中で現代を代表する稀代の建築家が何を見据えて設計したのか、そんな思いを持って踏み入れた切妻平入りの店内。入口の視線を柔らかく遮るように吊らされた白のスクリーン。その吊り元へと誘われる視線の先には、海の博物館を思わせるような半円状の天井。幅細の木を曲げられ作られるその無柱空間は非常に柔らかい空間を作り出す。ふむふむと思いながらも品のいいお店内で怪しまれないように気をつけながら妻を捜す。

窓際の席でお茶を飲んでいる妻を見つけ席に着くが、その品の良い店内の雰囲気に、流れ落ちる汗を抑えるために帽子と首にタオルを巻いていたが、入ってくる前に鞄の中にしまっておいてよかったと胸をなでおろす。それにしても、平日のこの時間にこれだけの数の女性客が、決してお安くはないこのお店でお茶を楽しみながらおしゃべりを楽しんでいる姿を目にし、世の中には裕福な人がいるものだと改めて驚く。

お水だけもらうわけにもいかないので、メニューを見せてもらい手が届きそうな宇治金時を注文し一息をつく。出された氷の品の良さとおいしさにびっくりし、流石は老舗・・・とため息をつく。

やっと落ち着きを取り戻し、店内に目を移すと、入口の道路側にも切妻の庇の下に縁側空間が置かれスクリーンとして作用し、店舗の内側には中心に水盤がおかれ環境調整装置としてと同時にそちら側にも雰囲気を変えられた縁側空間が置かれており、道路側から、何層にもなるレイヤーが重ねられ、ちょっとした距離だが十分な奥を作り出す。

御所と言う大きな中心に対し、この場所でも水の力を借りて小さな中心を作ることで挑んだその設計をしかと見届けようとその水盤を見学しに行く。まるで厚みを持った一枚の黒い石の様な表情とされたその水盤は店内から中心の緑の見切りとなって心地よい緊張感を伴う境界を作っている。

ところどころに京都らしき線の細さと、天然素材の力強さが加味されて、ついつい手で触れてみたくなる欲求にかられるディテールたち。ギャラリーの外壁に使われた45mm角タイルは白ともいえない微妙な色合いと、半マスに加工されたタイルを加えられ縦目地が通るのか通らないのかなんとも不思議な感覚にとらわれ、職人の手仕事の柔らかさを見せてくれる。誰かがこのタイル割の図面を描いたんだと想像すると少々ぞっとするが・・・

そんな考え抜かれたディテールや選定と仕様を考えられた素材の使い方を見ていると、一見凡庸に見えてしまうこの住宅街には、やはり他の地域とは一線を画す強い京の磁場が張っているのだと思わずにいられない。

この場で設計に挑む建築家が、自ら設定するそのハードルをどれだけ高くできるか?それがこの街の風景の奥行きを作り続けてきて、そして今後もまた新しいが確実に京都の街並みに溶け込んでいく風景を更新していくのだろうと思わせてくれる上質の建築だと思われる。

自分なら一体何を武器にこの場所に挑むだろうかと想像を含ませ、できることならこのプロジェクトの坪単価だけでも知ってみたいと思いつつ、カキ氷を平らげ店を後にし、旅を終わらせるためにレンタカーを返しに桂に向かう。

JRで京都駅に向かい、3日前よりも少しだけこの街の風景の奥行きを身体に入れこみ、次に訪れるときはどこから始めるかと頭の中のマップを歩き回りながら、濃密な旅を閉じることにする。
























金地院(こんちいん) 1394 ★★★


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所在地 京都府京都市左京区南禅寺福地町
宗派  臨済宗南禅寺派
寺格 南禅寺塔頭
創建  1394
開基  足利義持
機能  寺社
文化財 庭園
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すっかり寺社めぐりに満腹になってしまった妻が、家で待つ両親にお土産を買いたいということで、せっかくだから京都名物をと阿闍梨餅を買いに満月へと向かう。

自分一人だったらとてもじゃないが足を踏み入れられないなんとも京らしい品の良い店舗。いろいろ物色した挙句、やはり定番がいいんじゃないかということで阿闍梨餅のセットを購入して、少々機嫌がよくなった様子。

「気になるカフェがある」というので、言われたとおりに車を走らせると到着するのが虎屋京都店。内藤廣設計の白いカフェ。「ここでお茶してるから、好きなところを見て来なよ」と言う妻を残し参拝終了時間までの残り数時間を振る活用すべく再度左京区へと車を進ませる。

一昨日にギリギリのところで閉まってしまっていた知恩院(ちおんいん)。浄土宗の総本山であるからやはり是非境内を体験しておきたいと車を走らせるが、山門近くをぐるぐる回ってもどうも一般向けの駐車場が見当たらない。「おかしいな・・・」と思いよく見ると、小さな看板に、「この道先を左折したところにあるコインパーキングを利用してください」とのこと。後で調べると、平成31年まで御影堂の大修理を行っており、その影響で駐車場が十分に確保できないとのこと。

言われるままに道を進み、左折して小さなコインパーキングを見つけるが、ここから歩いたら山門までの往復で軽く30分はかかってしまうということで、非常に残念だが知恩院参拝は諦めることにする。

それにしてもこれほどの規模の寺院にも関わらず、車でしか来れない個人参拝者にここまで優しくないとは・・・と思いながら向かうのは、これまた一昨日にギリギリで入れなかった金地院(こんちいん)。何といっても目的はこれまた小堀遠州による作庭の庭園。

金地院(こんちいん)は臨済宗南禅寺派の大本山である南禅寺の塔頭の1つであり、必然的に南禅寺の駐車場に車を停める必要がある。そしてその駐車場代がなんとの1000円。地団駄を踏みながら脇の金地院の門へ。ここでも参拝料の400円を別途で払い、結婚式帰りなのか、羽織袴姿のカップルが写真撮影をしている脇を通り抜け境内へ。

徳川家康から格別の信頼を受けていた江戸時代の臨済宗の僧・以心崇伝(いしんすうでん)によって1605年この地へ移された金地院。家康隠居後の駿府城内にも1610年に駿府金地院が置かれ、1619年には江戸城北ノ丸付近に江戸金地院が開かれ、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝の活動拠点とされたという。

家康との縁の深さから境内には崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って1628年に造営された東照宮が建っている。徐々に下がってくる太陽の西日が眩しくてという訳ではないが、進む道が分からずにいると、庭師の方が右の置くから庭園へと進めますよと教えてくれる。

苔のカーペットに敷かれた石畳の上を暫く歩いていくと、如何に広大な敷地を持った寺院かが理解できる。そうしてパッと視界が開けて見えてくるのは左手の方丈とその前の庭園。この方丈庭園こそが、徳川家光が上洛した際に見てもらおうと、崇伝が小堀遠州に依頼し、5年の歳月を費やして作庭した鶴亀の庭。

贅沢に奥行きをとった敷地のほとんどが白砂によって覆われ大海原を表現し、その奥に鶴島、亀島の石組みが組まれている。左の亀島の松は葉が無く、海にもぐる亀を表し、右の鶴島の松は見事に繁った葉をもち、飛び立つ鶴を表現する。

そしてその鶴島と亀島の間には、仙人が住む蓬莱山を表した石組みが配され、仏教の理想世界を描き出す。その規模と世界観は江戸初期の代表的枯山水庭園と呼ぶのに相応しい雰囲気を醸し出している。

南禅寺ほど有名な観光スポットでないからか、境内にはほとんど観光客の姿は見れないが、唯一広い方丈の片すみでガイドの人から説明を受ける浴衣を着た女性二人の姿を見つける。遠州の庭の前で現代の艶やかな浴衣姿。なんとも美しい組み合わせだと思いながらその脇を通り抜けもう一つの見所である八窓席を探す。

この八窓席(はっそうせき)もやはり小堀遠州の設計であり、大徳寺孤篷庵、曼殊院の茶室と共に京都三名席の1つに数えられる。できることなら中に入ってその空間を体験したいものだと思いながら、やはり感想を言い合える相手が居ない参拝は自由ではあるが、何か物足りないなとそろそろ妻の待つ虎屋へ向けて帰ることにする。
















曼殊院門跡(まんしゅいん) 947 ★★


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所在地 京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町
宗派  天台宗
寺格  門跡寺院
創建  947
開基  是算
機能  寺社
文化財 古今和歌集(曼殊院本)1巻(国宝)
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日本の建築空間掲載(書院 1656)
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詩仙堂からさらに細い道を進んみ、山に向かって坂道を登っていくと見えてくるのが天台宗の門跡寺院の一つ曼殊院門跡(まんしゅいん)。昨日訪れた三千院を始め、青蓮院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる寺院である。

門跡と言われるだけあって、境内はゆったりとした配置で見事な書院と庭園を見ることが出来る。三千院同様に、都の北東に位置し、比叡山西麓の斜面を利用した伽藍配置となっている。

山門脇の駐車場に車を停めるが、妻は既に寺社空間はお腹一杯だから車で待っているというので、一人で門を潜って拝観料の600円を払い中へと向かう。いきなり台所に当たる庫裡から入る珍しい参拝ルート。

渡り廊下を伝わっていく大書院前に広がるのは曼殊院書院庭園。この庭園は江戸時代の小堀遠州の作庭で、遠州好みの枯山水庭園で、水の流れを表現する白砂の上に鶴島と亀島が配されている。

素晴らしい庭園なのだが、やはりそれも一人で鑑賞するのはなんだか味気ない気がし、こういうものはやはろ同行二人がいいものだと改めて思いながら、あまり妻を待たせないようにとやや早足で渡り廊下を戻ることにする。

あまりの暑さの為に、受付脇にある自動販売機に目がいき、妻の目の前では「デブの元凶」として炭酸飲料はほとんど飲ませてもらえないので、これはチャンスとばかりに自販機でメッツを購入しゴクゴクと咽喉を鳴らす。なんとも清清しい。吸収した糖分と水分は参拝中にかいた汗でプラスマイナス・セロだと自分に言い聞かせ、飲み終えた缶をゴミ箱へ投げ捨て証拠隠滅を終えて、次回は是非とも予約を入れて特別公開の八窓軒茶室を見学したいものだと思いながら車に戻ることにする。