2015年3月29日日曜日

新書の文字数

ブックオフで真っ先に向かうのは新書の「100円コーナー」。ここでざっと本棚に通してから、通常の棚に向かう。何の理由か分からないが、同じタイトルが両方の棚にある時は、少しだけ得をした気分のなれるものである。

そんな訳で常に自宅の本棚に待機してある「これから読むべき新書」。内容が軽いだけに、「今」の社会を知るためにはテレビと同じく一番手っ取り場合メディアであろう。

基本的にその薄さと内容の軽さにて、さらっとと読めてしまうのでなかなか気がつかなかったが、比べてみると出版社によって文字の大きさや行間の余白が全く違い、各パージの文字数、一冊の総文字数も圧倒的に違っているの気がつく。

よく手にする出版社だと下記の様になるらしい。

岩波新書:42文字×15行=630文字
角川oneテーマ21:41文字×16行=656文字
講談社現代新書:40文字×16行=640文字
新潮新書:39文字×14行=546文字
集英社新書:42文字×16行=672文字
ちくま新書:40文字×16行=640文字
中公新書:41文字×15行=615文字
文春新書:42文字×16行=672文字
PHP新書:41文字×15行=615文字

こうしてみると、各出版社の文字数の差が思ったよりも少ないことに気がつく。それでも多いものと少ないものの差が、最大で100文字以上だと思うと、全部で200ページ程だとしても、200x100で2万字ほどの差が出てくるということになる。新書の一冊あたりの文字数が12-15万字ほどと言われるので、5分の1から7分の1だと考えるとやはりその差は大きいのだろうと思わずにいられない。

そう考えると、次に目が行くのは各価格。どうやらこれは大体800円前後で大きな差はないようである。そうなると、文字数の差が価格に反映されているのではなく、一冊という本に纏まる内容がその価値だということであろう。つまり伝えたいことが多くあって、あれやこれやとつらつら長く書くよりも、12-15万字というフォーマットでしっかりまとめることが、新書というフォーマットで人に何かを伝えるのには、一番適しているということなのだろう。

そこまで考えると、「なんだ、やたら余白の多い本にびっちりと文字が多い本と同じ値段を支払うのは何だかもったいない気がするな・・・」という貧乏性な考えは間違っているのだと納得し、それよりもこの世で一番貴重な「時間」という資産を投じる価値がある一冊なのかをじっくり吟味して手にすることにすると心に決める。

2015年3月28日土曜日

「人にいえない仕事はなぜ儲かるのか?」 門倉貴史 2005 ★

都会で生きていると、「この人の職業はいったい何なんだろう?」とか「この人の収入源は一体何なんだろう?」と首を傾げたくなる人にたまに出会うことになる。得てしてそういう人は、相当な生活水準を保っており、到底普通のサラリーマンをしていたらできないようなレベルの生活をしている。

「親の遺産があって、家賃収入があるらしい」とか、
「株で相当な資産をなしているらしい」とか、
「立ち上げた飲食があたって、何店舗も展開している」とか、

比較的分かりやすい理由なら納得できるが、いかにもその範囲に入らない人、それでいて夜な夜な街に繰り出しては誰かと飲んでおり、朝方にタクシーで優雅に帰っていく。一般社会の住民の雰囲気からは程遠く、何か裏があるのでは・・・と思ってしまう。

利権と言うものが大きければ大きいほど、人はそれを他の人に見えないようにしたいものである。それが他の誰かの手に渡るのを恐れるために、自分がその地位を失うのを恐れるために、ひっそりとできるだけ目立たずに社会の闇の奥底に潜んでいる。

そんな闇の仕事がどれだけの規模で我々の社会の中に存在し、勤め人という大多数の社会の構成要因の視線から見えない金の回り方があるということを闇の奥深くまで侵入してきて暴きだす。そんなことを期待していたがやはりというか、これも統計的なデータを振りかざし、「支出税」という新しい形の直接税を提案することによって、社会の不公平感をなくそうと言う主張に留まる。

その主張の根拠となるのは、今流行りのピケティの言うように、「現行の所得税の元では資産をすでに保有しているものはますます豊かになり、貯蓄によってこれから資産を形成していこうとするものはそれがしにくくなっているのであり、その結果、貧富の差がますます大きくなっていくことになる」ということらしいので、これは現代を生きる経済を生業とする人々にとっては基本的な問題意識なのだと改めて認識する。

----------------------------------------------------------
■目次  
/さおだけ屋はじつは違法スレスレの裏ビジネスか
/さおだけ屋にはクーリング・オフが適用されない

第1章 野球選手はなぜ個人会社をつくるのか
/あなたが知るべき税金の仕組み
/お給料から引かれる税金の種類
/野球選手が個人会社をつくる理由
/大学教授の講演料のカラクリ
/タダのサラリーマンはどう節税したらいいのか

第2章 長者番付に載る人、載らない人
/長者番付は信用できるか
/長者番付に載る人
/長者番付に載らない人
/長者番付に載らないようにするための裏技
/海外で申告して長者番付から逃げる
/確定申告を遅らせる

第3章 サラリーマンの副業はどれだけ有利か
/サラリーマンが副業する理由
/海外では副業は認められいるか
/副業と資産運用
/副業で成功する人のパターン
/生活のパターンを買えずに収入増を目指す
/副業は本業にしない
/副業の経費と税金
/サラリーマンも落とせる経費は増やせる
/減価償却費を最大限活用する
/副業での稼ぎを会社にバレないようにするために
/副業が会社にバレる仕組み

第4章 会社はどれだけ社員と国にお金を払っているか
/社会保険は会社と折半
/奥さんには厚生年金を払わせてはいけない
/副業をはじめたら社会保険はどうなるのか
/福利厚生はどこまでが義務なのか

第5章 税金を払わなくていい仕事の種類
/ビール業界と国との過酷な攻防
/合法エスと違法エステの違い
/サービス業は脱税額が大きい
/何が起きてもOKのハプニング・バー
/風俗店は何故儲かるのか
/税金を払っていないと思われる、人に言えない仕事の主役たち
/万馬券を申告しないと罪になるか

第6章 地下ビジネスの担い手たち
/地下ビジネスの実態
/風俗ソフト・サービスの半分はモグリ営業か
/違法ドラッグの密売はなぜビジネスとして成立するのか
/ルイ・ヴィトンのニセモノ販売で生み出される巨額の利益
/海外にある地下工場
/あとを絶たない野鳥の密猟・密売ビジネス
/新たなビジネス・チャンスを見つけることに長けた闇勢力
/不良債権と税金
/顔写真入のビラを配布
/「振り込め詐欺」の背後関係
/地下ビジネスで稼ぎ出されたお金の行方

第7章 先進各国の税体系
/日本の所得税の最高税率は世界一高いか
/お金持ちに硬い税金をかければ経済の活力が失われる
/税の不公平感と国家の責任
/税金をむしりとる前に「クロヨン」の是正を
/地下経済を税収増に結びつける方法
/税金を払わないビジネスの横行で国家財政が破綻する

第8章 どのような税制が最も望ましいか
/所得税は永遠ではない
/消費に対して課税をするという考え方の妥当性
/「支出税」にあるたくさんのメリット
/スポーツ選手にとっても「支出税」は魅力
/「支出税」では政府の経済政策の効果も大きい
/残る実行可能性の問題

終章に変えて
/くるべき大増税時代に備えよう
過去10年間「ジャンル別」長者番付リスト
----------------------------------------------------------

2015年3月27日金曜日

「朝まで生テレビ|ピケティ旋風と日本の格差」 テレビ朝日 2015 ★★

今流行の「ピケティ」関連なので、これはチェックすべしと久々に見た「朝生」。

政治家から経済評論家や企業家が、「いやいやピケティの凄いところは・・・」、「彼の正しいところはこうこうで・・・」、「この本を契機に今本当に見なければいけない日本の問題は・・・」などなど、皆これを機会にとそれぞれの言いたいことを言い合い、結局「ピケティ」を通して今の日本がどう見えてくるのかはよく分からずじまい。

改めてこの番組を見てみたが、ここに参加するパネリストはどういう意図を持って参加するのかと想いを馳せる。ある人にとっては、「自分はこんなに社会の為になるようにと物事を考えていますしやっています」というアピールのため。またある人にとっては、「自分の考え方に沿って経済の旗振りをしていけばもっと経済は良くなる」というアピールのため。またある人は「テレビというマスメディアを利用して、自分が関わる社会問題を世の人にもっと知ってもらおう」というアピール。

結局こういう場では純粋に議論をするよりも、どうしてもその裏の意図が透けてしまう。だからこそ、あれだけ人の意見を遮っても、「自分は分かってます!」と言わんばかりの発現はテレビ受けし、またその人の意図を成し遂げる役に立つのだろう。

ある人は自分の著書を売りたくて、
ある人を特定の団体から講演に呼ばれたくて、
ある人はどこかの団体からコンサルなどのオファーを受ける。

そんあ「この先」があるからこそ、オファーを受けるのだろうと思いながらも、それでも何か的を得ているなと思うパネリストの著書を調べても「欲しいものリスト」へと入れている。

結局番組を見て、「ピケティ」本を書くべきか買わないべきか、その答えは出ずじまい。

2015年3月26日木曜日

「深呼吸の必要」篠原哲雄 2004 ★★

--------------------------------------------------------
スタッフ
監督 篠原哲雄
脚本 長谷川康夫
--------------------------------------------------------
キャスト
立花ひなみ:香里奈(少女期:熊本奈那子)
池永修一:谷原章介
西村大輔:成宮寛貴
土居加奈子:長澤まさみ
川野悦子:金子さやか
辻元美鈴:久遠さやか
田所豊:大森南朋
--------------------------------------------------------
 「なんか見たことある顔だなぁ。それにしても特徴的な顔だよな・・・」と思いながら調べてみると主役の女優が香里奈だということを知る。「10年前はこんな感じだったんだ・・・」と新鮮な感じを受けながらも、谷原章介、成宮寛貴、長澤まさみ、大森南朋と今ではすっかり御馴染みとなった役者人が脇を固めるその豪華布陣に少々違和感を感じながらも見終える一作。

かつて事務所のスタッフの彼女が、思い立って沖縄の石垣島にサトウキビの収穫の住み込みバイトをするので、数ヶ月向こうに移るんですという話を聞いたことがある。その時にリゾートバイトとは違って、沖縄の地でゆっくり流れる時間の中での日常に触れる生き方もあるのだとしみじみ思っていた。

最初の10分を見ていると、まさにこの映画はその彼女が過ごした日々と全く同じ時間を描いていることだと理解する。東京や他の都市から遠いこの沖縄へ。そしてさらに離島という今まで自分が過ごしてきた喧騒と一番遠い場所にあるようなこのサトウキビ畑と沖縄の民家。それぞれがそれぞれなりに、何かから逃げ、もしくは何かを求めこの地にやってくる。

このバイトに申し込んだ5名のバイトと古株の先輩。そしてサトウキビ農家を営む老夫婦。都会のようにすぐ近くに様々な娯楽や楽しみがある生活ではなく、非常に密接で限られた社会の中で時間を過ごすことになる。

その中で徐々に見えてくるのは、なぜ彼らがこの地に来なければならなかったかの理由。上記したように、あるものは何かをこの沖縄の青空の下に求め、そしてある者は都会から逃げ出すようにしてこの地にたどり着く。

それぞれが触れられて欲しくない部分を持ちながら、互いに深くこの地に来る前の生活には踏み込まない。その微妙なバランス感覚。日の出とともに起きだして、皆で食事を取り、広大なサトウキビ畑は最初はあまりにも巨大すぎて、とても時間内に終えることはできないと思うが、それでも毎日少しずつでも確実に自分たちのやったことの成果が目に見えることは、生きていることの実感を感じることのメタファーであり、都会で生活するためにしてきた仕事とは全く違った労働のあり方として提示されているのだろう。

それでも根底にあるのは、タイトルが示すとおり、「ここで深く息をすって、今までの自分の時間の生き方を見直そう」という、立ち止まる場所としての沖縄。そして異邦人としてやってきては去っていく都会に住まう若者たち。古株として季節労働者のような生活をする先輩もまた、「仮の生活期間」を延長しているだけであり、いつかはまた都会へと足を向ける日が来るのだろうと思わずにいられない。

社会の中の役割やポジションはそれぞれ違うが、それでも社会のに染まり、流されるままに生きていくことができない不器用さをもてあまし、自分なりの危機感を持って一度立ち止まることを選択する。誰もが、今の日常の中で自分らしさを失ってしまっていると感じ、何かを変えるために訪れる島。

会社名や職業などの社会の中で背負わなければいけないレッテルを剥ぎ取り、一人の人間として素性を知らない人々と生活をともにする。しかしそこでも、如何に小さくとも社会があり、人間関係が存在する。その矛盾。

日本を降りてタイに向かっても、都会を離れ離島に向かっても、人が生きる限り社会があり、誰かと関係をもって暮らしていかなければいけない現代社会。重要なのは、流され
自分を失うのではなく、スピードの中でもなんとか自分でハンドルを握り、少しだけかもしれないが進み方を制御する。そんな力をつけることなのだと思いながら映画を見終える。














2015年3月19日木曜日

ベアの違和感


なんていう、非常に景気が良いのだと感じるニュースが躍っている。「アベノミクスで潤った企業の収益をその従業員まで恩恵が巡っているのだと社会にアピールするためになんとしても給与アップを成し遂げてくれ」という官邸の移行が上意下達として現れているのだろう。

「円安、株高」だから「収益アップ」。企業が儲かり、それが従業員まで給料アップで日本は好景気。

しかしどうも違和感を感じずにいられない。

数年前から何かしら社会において、この国の産業の価値を高める、各企業の市場における価値を高める、そんなイノベーションが起きて、それが認められ業績として跳ね返ってきて収益があがった。それならばきっと違和感は感じないだろう。

しかし、相変わらずこの国が10年後どんな社会を目指すのか、世界の中でどのような戦略を持ってビジネスを展開していくのか、崩壊していく地方社会をどう維持していくのか、漂流する高齢者に対する福祉政策をどうしていくのか、そんな見えないことに覆われた閉塞感はなんら払拭されることはなく、ただただ「アベノミクス」と「株高」の言葉が踊り、投資家という「労働無き富」を持つ人々が潤っていく。

「235万円」というのはとんでもない額である。年収がそれ以下で生きる人々のニュースも多く報道されているし、この報道を見て「やはり大企業は違う世界だな」と思っている人も数知れずいることだろう。そして逆に、「自分は世界企業に勤めているから、その恩恵を受けるのは必然だ」と思っている人もいることだろう。

二極化していく格差が顕在化し始めているのは間違いない。

しかし「どんどん売ればいい。売れば売れるほど利益は上がる。」と、売り上げ総数を目指し、その行為が我々の生きる世界にどんな影響を与えるのかを立ち止まって考えることなく、自分たちの利益を追い求める、そのやり方に限界は見えていないのかと考える。

限られたパイの中で、自分たちの獲得率を高める。それが自分たちが住まう世界をどれだけ傷つけようともそこは目を瞑る。それよりも自分の生活、家族の生活、会社の動向、自分に関係するそれぞれのスケールの所属母体が生き残ること、なおかつより豊かに生き残ることが利己的な人類にとっては何よりも重要であるのは間違いない。

しかし、これほどグローバル化が進み、経済活動が地球上を覆い尽くした現在においては、ある産業に力は生態系や気候すら変えてしまう巨大なパワーとなってしまった。その中において、「自分だけ」という考え方はすでに通用しなくなってきているのもまた誰の目にも明らかなのではないだろうか。

「周りに何を言われようが売れればいい」
「誰かが困ろうが、自分が得をすればいい」

そういう考え方の個人とそれを囲いこむ企業。「自分たちだけくらいは・・・」という思いはこれほど巨大化した世界経済圏の世界ではもう生き残れないと誰もが認識する時代に突入しており、誰かが、そしてどこかの企業が、企業の利益を超えた新たなる枠組みを提案していくそんなことが必要な時期に来ているのだろうと思わずにいられない。

2015年3月15日日曜日

陶然亭公園(とうぜんていこうえん,陶然亭公园,táorántíng gōngyuán) ★


折角「西」まで来たのだから、もう少し足を伸ばして陶然亭公園(とうぜんていこうえん,陶然亭公园,táorántíng gōngyuán) を巡っていくことに。

西側の入り口からアプローチしたのだが、どうやらこちらは工事中で入り口が閉められている。ちょうど出てきたらしきおじさんに聞いてみるとそんなことを言っているっぽかったので、諦めて南門に回ろうとすると、やや怒り気味で「そうじゃない、こっから入れるぞ」と小さな路地を指し示す。その先にはフェンスの一部の前に手作りの階段が・・・

「あぁなるほど・・・」と思って、笑顔でこちらを見てくるおじさんの視線に耐えながら、なんとかその階段をよじ登る。

明や清時代にこのあたりに陶器などを焼く工場が多く建てられたという。公園の名前の陶然亭というのは、園内にある陶然亭から来ているという。それだけに留まらず広大な園内には多くの亭が建てられており、そこから取り囲むような湖への眺望が開けている。

湖に浮かぶ大きなアヒルの子を見ながら、「これだけの人は何も無い公園で一体どうやって時間を楽しんでいるのだろう・・・」と太極拳や地面に水をつけた筆で書を書いているという何度も何度も見かけ、すでに見慣れた風景となってその姿に、「中国の都市は都市ならではのイベントや娯楽が圧倒的に欠けているのか、それとも日本の都市の多種多様な娯楽の在り方が特殊すぎるのか・・・」と答えの出ない問いを考えながら園を後にする。














法源寺(fǎyuánsì) 645 ★★★


北京市内およびその周辺には多くの名刹が現存する。といっても、日本の様に保存状態を保ち、古いものを慈しみながら大切に次世代に残していくという意識が低いのか、この国ではどこにいっても、創建年は非常に古く書いてある割に、建物自体はばっちりと鉄筋コンクリート造で建て替えられてしまっており、「昔と同じかどうかは別としてとにかく古い時代にここに寺院が建てられたのが重要だ」と主張するかのような雰囲気である。

なので、日本の古い古刹を訪ねる時のような、落ち着いた雰囲気の中この場で過ごされてきた長い年月に思いを馳せる、というような訪問にはなかなかならないものである。

さて、北京市内に現存する最も古い仏教寺院と呼ばれるのがこの法源寺(fǎyuánsì)。唐時代の645年に建設が始まり、696年に完成したと言われている。その後各時代において改修が重ねられその都度名称も変わり、最終的には清時代の1734年に現在の法源寺へと落ち着くことになる。

牛街から程近い場所にあり、周囲を昔ながらの胡同に囲まれ如何にも庶民の寺院という雰囲気を醸し出す。寺院の前の広場では周囲に住まう住民が集いおしゃべりに耽っている横を、お坊さんが袈裟を着て横切っていくという風景が普通に見られ、やはり日本人には仏教寺院の空間構成の方がどちらかといえばしっくり来るなと思いながら、門を後にする。













牛街礼拝寺(牛街礼拜寺,niújiē lǐbàisì,清真寺) 996 ★★


北京には回教と呼ばれるイスラム教の信者が多く住む一体がある。そのエリアは何故か牛街と呼ばれている。そのエリアにとっての中心となり、彼らのイスラム教信仰の重要な拠点となっているのが清真寺(せいしんじ,qīngzhēnsì)。「清真寺」というのが中国語では「イスラム教の寺院、モスク」という意味なので、フランスのノートルダム寺院の様に、各地に同じ名前の寺院が多く存在する訳でそれらと差異化するためにここでは、牛街清真寺と呼ばれている。

しかし、この寺院はその俗称の方が有名であり、牛街礼拝寺(牛街礼拜寺,niújiē lǐbàisì)と呼ばれているという。北京では一番古い歴史をもち966年の創建とされている。外から見ると全く中国様式の仏教寺院の様に見えてしまうが、中に入るとところどころアラビア風のデザインが見て取れる。

ややこしいのが「清真寺」というのが、ここでは「礼拝寺」を指すのだということがあまりどこのサイトでも紹介されておらず、てっきり二つの寺院があるものだと思って現地に向かう。さらに悪いことに、「清真寺」と地図で検索すると指し示される場所には確かに「清真寺」なる寺院が存在し、入っていこうとすると「外部者は立ち入り禁止だ」と見学拒否をされてしまう。

「外から見る限り、それほど重要な寺院とは思えない規模だけど・・・」と少々いぶかしげに思いながら、斜めに曲がった街路を南下し、「礼拝寺」へと到着する。ここでもどこにも「清真寺」という表記はされておらず、結局「清真寺」を見ることが出来ずに戻ってきてしまったと思って再度調べてみると、なにやらこの二つは同じ寺院を指すのだとやっと理解する。

そんな訳で、「礼拝寺」に入り込むとそこはやはりイスラム教徒の日常の世界。寺院の後ろは生活空間になっているらしく、白い服に身を包んだ中国人が彼方此方で行き来している。

「北京最大規模のイスラム寺院・・・」と謳われていたので少々期待して行ったが、やはり日常の中の信仰の場であり、歴史的モニュメンタルな場所である訳ではなく、思ったよりあっさりとした見学を終えて外の牛街を散策する。

街のあちこちから漂う匂いはやはりアラブの匂いに満ち溢れ、気がつくと彼方此方に書かれている文字もやはりアラビア語。その背景にはイスラム教で神聖な色とされる緑色が遣われ、微妙にではあるが文化の違う街並みに入り込んだんだと理解する。