平成22年度下半期の部門だから昨年の前半に受賞のニュースが流れていたことになる。受賞作家の経歴が変わっていて、その振る舞いも変わっているかなんかで、随分メディアに登場していたイメージがあった一冊。
直木賞、芥川賞受賞作品の一環としてそろそろ手に取ってみようと思い開いた一冊だが、中卒という作家の私小説というだけあって、なかなか毒気のある内容になっている。
安部公房の「他人の顔」のような、肉塊と化した人間の姿。それが蠢き、床を這う時のおぞましい「ヌメリ」としたなんとも嫌な感覚。
父親が性犯罪者という劣等感と、やり場のない怒りを抱え、中学卒業と同時に埠頭での日雇い仕事で稼ぐその日暮らしの5500円。食事、酒、タバコと風俗への積立金。その生活から抜け出すために稼ぐ金ではなく、目の前の欲望を解消するために費やし、金が無くなればいやいやまた家を出て5500円を得るためだけに埠頭に向かう。
欲深き生物である人間が、何を持って他の動物を区別されるかと問われたら、それはその理性によってと答えるのが限りなく正しい答えだろうと思わずにいられない。しかし自分を律し、社会の一員として必要な知識を得て、まともな大人として仕事をし、生活を成り立たせるのは誰もができることと想像する。
テレビで繰り返し放送される、「生活保護から抜け出せない人々」などの特集。それらの番組をテレビのこちら側から眺めて簡単に心に浮かぶのは、「なんて駄目な人たちなんだ」という安易な感想。それによって感じるまだ自分はこちら側にいるんだという安心感。
しかし、現代社会において堕ちるのは非常に簡単である。
しかも、一度堕ちたらなかなか這い上がれない。
恐らく身の回りにいる今まで知り合ってきた人達の多くは、相当恵まれた環境で育ってき、まともに社会人としてやっていける人ばかり。
しかしその誰にでも、こうして堕ちていく可能性はあるのが現代。
日常が一気にその風景を変えてしまう。
人間はその環境に時間の過ごし方を影響されるものであり、自分自身で本当に自分に起こっている変化を外から見るよりもはるかに小さく捕らえてしまうものである。つまり、堕ちていくことはなかなか自ら気がつかない。
理性に包まれること無く、剥き出しにされた人間の欲望。それがいかに醜いものであり、社会にとって異質なものか。そしてそれが人間の本来持っているものであるという事実。そしてそれらは社会の中にいるために、また社会の中にいることで押さえつけ、塗り固められているだけのものだという紛れも無い事実。
読み終わったときに「一体、こういう気分の悪い欲望剥き出しの内容で、何を感じろというのか?」と少々憤っていたが、暫く時間が経ってみると、どの時代にもこうして社会の周縁で生きる人は必ずいて、現代においてのその姿を見事に描いたのがこの作品であり、こうして「まっとうな社会人」を演じている側からはなかなか見えにくい側にいる人は、恐らくかつての社会よりも、はるかに大きい割合になっているのだろうと想像する。
それがグローバル化した資本主義の獰猛な姿であり、その経済活動のなかで強者と弱者をはっきり「仕分け」し、その格差を限りなく大きくしていく現代社会の必然の姿であるからであろう。
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第144回(平成22年度下半期) 芥川賞受賞
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