2013年6月22日土曜日

「アサッテの人」 諏訪哲史 2010★


ギアが合ってない。そんな時がある。

スタッフにあるプロジェクトについて説明していたら、引きつるような顔をしているので「どうした?」と聞いてみると。

「ヨウスケ。中国語で話していますよ・・・」と。

彼女は韓国人でまだ中国語が出来ないので、通常は英語でコミュニケーションをするのだが、オフィス内での中国語でのコミュニケーションが60%近くになってきたこと、また自分の中国語のレベルがある程度自由が利くようになってきたことから、時間が無いときなどはこういうことが起こる。

そういう時は頭のギアが合ってなく、空回りしてしまっている。「申し訳ない」といいながら、英語で再度同じ内容の説明をする。

「吃音」では無いが、母国語を含まない多言語環境にいると、頭の中で想起したイメージや内容を意識を持って引っ張ってくる学習した言語に乗せて身体の外に出さないといけない。それは時にうまくイメージと単語の選択がうまくかみ合わず、非常にもどかしい時間を過ごすことになる。喉の奥まで言いたい内容は上がってきているのに、どうしてもうまく言葉とマッチングしない。そんな感覚。

吃音(きつおん)や吃り(どもり)。

「ポンパッ!」や「チリパッハ」と言った、理解不能な響きを発し、アサッテの世界に入り込まずにいられなかった叔父への回想。叔父の書きとめていた日記から、最愛の妻を亡くし、ならに自らのアサッテの世界に閉じこもることになり、最後は突然消えてしまった叔父の頭の中ではどんな世界が広がっていたのかを追っていく主人公。

「ピンイン」という表音記号で表される中国語を学んでいると、「あー、なんとなくこんな感じのピンインだったんだけどなぁ・・・」と手探りの感じで音にしてみて、それを耳で確認しながら、「なんか違うなぁ・・・」と一人でやることが多々ある。

そんなことを繰り返していると、ミーティングで理解できなかった単語などが出てくると、無意識のうちに、「チュイジィ、チュイジー・・・」などとブツブツしてしまうことがある。それと共に、意味は分からないけど非常に耳にしっくり言葉などに出会ったときに、それを何度も繰り返したりしてしまう。

そんなことを思い出してみると、現在の環境はある種の吃音環境でもあるのかとハッとする。小説の中でも様々な国の辞書から見つけてきた響きから、その意味を剥ぎ取り、そして表象するものを無くし、ただ虚空に漂うだけの存在にされてしまったその言葉を、泉から溢れる水のように、身体の中から溢れてくる感情と共にアサッテの世界に投げ入れる。

音がまだ意味を持つ前の瞬間の戯れ。
音が言語としてこの世に定着する前の瞬間。

そんな風に理解しながら、なかなか面白く読み進めた前半部。できればその方向性で物語を発展させてくれればより好感触だったが、後半は作者の高尚なる文学的知識をどうにも物語の中に入れ込まなければ気がすまなかったのかは知らないが、どうにも様相が変わってくる。

小さな頃から本に囲まれたという叔父の言葉を借りることによって、なかなか周囲に理解し会える友を見つけられず、自ら身体の中に溜め込みすぎた文化的芳醇が一種のフラストレーションとなって噴出するかのように、物語の芯とは違ったいわゆる文学的戯れ感が顔を覗かせるのはやや残念。


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第137回(2007年度上半期) 芥川賞受賞
第50回(2007年) 群像新人文学賞受賞
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