長かったモスクワでの建築訪問もこれが最後の目的地となるのが救世主ハリストス大聖堂(Cathedral of Christ the Saviour)。「ハリストス」とは「キリスト」の現代ギリシャ語・ロシア語に由来する転写であるといい、つまりはキリスト大聖堂ということである。
これはその名前から分かるように、ロシアのモスクワにある正教会の大聖堂であり、ロシア正教会モスクワ総主教直轄の首座聖堂でもあるという、かなり権威の高い聖堂となっている。それはその規模でも理解でき、全世界にある正教会の大聖堂中で最も高い103メートルという巨大な聖堂である。
歴史的に見ていくと、1883年に大聖堂は成聖され、ロシア革命の影響を受け1931年に宗教弾圧政策をとるソ連によって爆破されたが、その後ソ連崩壊後の2000年8月19日(主の顕栄祭)に再建されたという。
これを詳しく見ていくと、1812年にロシア皇帝アレクサンドル1世によってナポレオン戦争での戦勝記念と戦没者慰霊を目的に大聖堂の建立が宣言される。そのモデルとされたのは、モスクワのクレムリンにある生神女就寝大聖堂と聖天使首大聖堂、コローメンスコエの主の昇天聖堂などが挙げられているという。
様々な困難を乗り越え、約70年後の1883年にアレクサンドル3世の戴冠式と同日に成聖され、成聖の前年には、チャイコフスキーの「序曲1812年」が大聖堂で演奏されているという。この1812年はもちろん建立が宣言された年である。
その後ロシア革命により、ロシア正教会は大打撃を受けることになる。
帝政を倒し、「宗教」の力を弱体化しようとする革命政府にとっては、信徒の支持により確固として存続するロシア正教会は脅威であった。聖堂の接収や破壊、信徒の逮捕や処刑などでロシア正教会へと激しい弾圧を加えるソビエト政権。
そしてスターリン時代の1931年にかの有名なソビエト宮殿(Palace of Soviet)の設計コンペが行われ、世界中から様々な有名建築家がその計画案を提出する。そして新しいモスクワのアイコンとなるべきこのプロジェクトの敷地として選ばれたのが救世主ハリストス大聖堂の建つ場所であった。
それはつまりはロシア正教会の象徴的建造物を破壊しその跡地にソビエト宮殿を建設することで、無神論の宗教に対する勝利を示すことを企図していたことが伺える。ソ連共産党の決定により1931年に大聖堂は破壊された。
そしてソ連崩壊後の2000年8月19日(主の顕栄祭)に再建されたという、なんとも数奇な運命に翻弄された大聖堂である。
それだけにモスクワの市中心部にいてもかなり目に付くのがこの大聖堂。その後ろに控えるセブンシスターズと共に、モスクワの空を突く塔の一つとして風景を作り出している。
レッド・オクトーバー脇の橋を利用しモスクワ川を渡っていくと、遠近法を無視するかのように巨大な聖堂の姿が見えてくる。南北の方位を無視し、明らかにモスクワ川への正面性を強調する配置を取っている為に、橋を進んでいくと徐々にその巨大さが身体に迫ってくる。しかもこの橋がモスクワ川というかなりの川幅を掛け渡すために中央部が相当に持ち上げられている。その為に途中から橋を下っていきながら目の前の建物は次第に巨大になっていくという、二重の効果を受けて圧倒されることになる。
内部を除き、その時代に弄ばれた運命を思いながら、ホテルの最寄駅まで最後の地下鉄移動を行い、モスクワの地を離れる前に昨日の夕方に発見した、駅周囲のクレープ屋で売っている、大好物の「イクラ」のクレープを二つ購入し、ほお張りながらこの巨大な都市スケールを持つモスクワでの滞在を終了させることにする。
0 件のコメント:
コメントを投稿