2014年6月2日月曜日

脳の偉大さ

朝、電動スクーターに乗って出勤する。その間にこういうブログに書くような他愛のないことに思いを巡らす。スクーターに乗っている時間はせいぜい10分から15分。それでも頭の中で巡る考えは圧倒的に多くのことが瞬時に展開していく。

同じことは頭の中で考えたことを言葉にして誰かに伝えようとする時にも実感する。自分一人、頭の中で考えていればどんなに複雑なことも、どんなに込み入ったことも、どんなに言葉というメディアに乗せにくいことも、一瞬でしかも同時並行で様々なことがスパークするように頭の中で展開する。

脳の中では一々言葉にしなくてよいので、曖昧な抽象的なイメージを持って考えが展開していく。しかし一度その思考の工程を誰か別の人に伝えるためには、曖昧なイメージからどうしても具体的な言語の力を借りなければいけない。

まずは自分の曖昧なイメージを具体的な言語に対応させる作業に時間がかかり、その時点ですでにかなり失われたしまった意味を何とか補充しようと、様々な言葉を駆使して意味の流れを、つまり文脈を作っていかなければいけない。自分ひとりの脳の中でなら、イメージからイメージへ、最終的な結論すら言葉にすることなくとも、自分で納得できてしまう。

その為に誰かに何かを伝えようとすることは大きなストレスを感じる作業であるのは間違いない。頭の中で考えたことはほんの一瞬の出来事。しかしそれを言葉で説明するには数十分かかってしまう。なんと非効率な作業なのであろうか。

つまりはそれだけ人間の脳というものが、複雑な事象を瞬時に捉えることができる非常に優れたデバイスであるということ。多様な事象を抽象的なイメージでしかも同時にいくつものことを平行して進めながら、ポイントごとにつなぎ合わせて新たなる意味を紡いでいく。

そうして世の中を眺めて見る。他の人を眺めて見ると、まったく違った世界が見えてくる。ぼーっとしているような人でも、ひょっとしたら頭の中でも自分が取りうる行動に対し、数多の可能性を検討し、それぞれにどのような結果が起こるかをシュミレーションし、その結果何もしないことを選択しているのかもしれない。

道端で一日中座っているおばさんも、ひょっとしたらその頭の中では現代社会の問題点に思いを馳せ、その原因と解決法に対し様々な思いを馳せているのかもしれない。その横のおじさんは、この世の始まりに対して終わることない思考を巡らせているのかも知れない。

それは外から見えない。だからこそ、頭の中でどれだけ思考を行っているか、その差はその人の一生として相当に大きな差となって現れてくるだろう。

本当に何も考えずにただただ動物的に日常をお腹が減っただとか、眠くなった、心地がいいなどと欲望に突き動かされて生きている人と、脳の中で様々な思考を巡らせて時間の過ごし方、人生のあり方、自らの生き方、社会の在り方に思いを馳せている人とでは、行動一つとっても大きな違いが現れるに違いない。

そう思いながら、できるだけ能動的にそして効率的に与えられた脳を活用し、思慮深い行動を行いながら少しでも実りの多い人生へとつながるようにしなければと、オフィスに到着してスクーターを駐車しながら思考を一度停止させることにする。

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