ふと思う。
20年、30年前に比べて圧倒的に進歩したのは情報技術。
かつてなら仕事が終わって会社からでれば、なかなか連絡を入れるのは難しかったのに、今ではメール、携帯、チャット、SNSなどで365日24時間、どこにいても繋がることができる。
やり方によっては一時もオフの無い生活になってしまうということだ。
仕事の効率を上げるために革新されていった情報技術。人は格段に上がった能率で処理するスピードも速くなったに違いないが、そのおかげで仕事が早く終わってゆとりが出来るというわけではなく、「なぜか」やるべき仕事、処理すべき事項は増える一方のようだ。
単純な疑問が湧いてくる。なぜだろうと。
以前なら3日間かかっていた仕事が、パソコンや情報技術の発展によって今では数時間で片付けることが出来る。当時は同じ仕事を三日間かけていても「生きていく」のに困らないだけの給料が発生していたにも関わらず、現在同じ内容を数時間でやって後は余暇に費やしても同じ給料が発生するかといったらそんな訳は無い。
能率を上げる技術によって仕事の能率が上がったはずなのに、決して豊かになっていないのはなぜだろうと。
職業別にみていく。例えば建築家。かつてなら一つの住宅を設計するのに必要だった図面は手描きという時間がかかる手順を踏んでいたこともあり、数枚の平面図に必要な断面図と立面図、展開図に部分的な詳細図と、設計の意図が伝わるような必要十分な図面数をじっくりと描いていた。
どんなに所員が徹夜をしたといっても、現在のCADのスピード感には適うはずが無く、必然的にかけられた時間から割り出される上限の図面数があったはずである。その図面数で表現しうる内容が、その事務所の手がけられる建築内容の限界であったはずであり、空間的にもシンプルな形状のものが多く作られたのも必然であった。
それが今では情報量を圧倒的に増やしてしまう3次元での設計が主流になり、単純な矩形の「四角」の建築から、3次元で確認していかないと把握できない複雑形状の空間へと移行し、それに伴って設計者以外の関係者に意図を伝達するための図面やダイアグラム、3次元模型などの製作量も飛躍的に増加する。描画速度を圧倒的に上げてくれたコンピューターの力を借りても、追いつかない量の資料の数。
かつてなら、数枚の平面図を持っていって、「建築とはこういうものです」というような先生顔をして、「ここがこうなって・・・」とお客さんに「理解しろ」と言わんばかりの打ち合わせの方式から、誰でも直感的に分かるようなビジュアルのプレゼンテーションから、平面・断面・立面にも素材感があわり、機能分布の分かるような着色をして、懇切丁寧に製本までしていかなければいけない現代の建築家の仕事。
かつては経験のある建築家でしか想像しきれなかった空間の構想が、今では学生でも3次元ソフトを使い忠実に再現でき、さらにその中を自由に歩き回れてしまう。そういう時代には「経験」や「知識」の質も、前時代のものとは変わってこなければいけないという話はまた別のことになるが、兎に角建築家の仕事はパソコンと情報技術の発展と伴って飛躍的に増えてしまったことは間違いない。
他の職業を見てみる。
例えば医者。恐らく以前は学会などで集めた知識や経験を元に、自分の患者の診療カルテを丁寧につけていって、自分なりの診療方法を確立していくのだろうが、情報技術の進歩によって、参照すべき症例も桁違いに増えてしまい、どれだけ過去の症例が頭に入っているかがある種の「優秀さ」を示すバロメーターとなるのは避けがたく、足りない時間を削ってはデータベースで受け持つ患者と同様のケースを探し出しつつ、日進月歩の医療技術をメーカーや製薬会社からも仕入れていかなければいけなく、恐らく「なんでこんなに情報技術が進歩しちゃったんだよ・・・」となげいている真面目な医者は多くいることだろうと想像する。
恐らく他の職業を想像するまでもなく、ほとんどの職業について「できることが増えた」為に、より広く、より深く知っていること、調べていることがその時々の「優秀さ」として反映してくるのはある種の常識であり、真面目であればあるほど、仕事に真摯であればあるほど、「もっと、もっと」と時間を使わなければいけないことになる。それが「グローバル社会」の本質で、見えない相手との競争に常に晒されているこのストレス。
そこで考える。20年、30年前と比べても、一職業人、一プロフェッショナルとしては格段に処理している仕事は多くなっているはずである。個人レベルでそうであるように、その所属する会社全体としても、少し前の同じ規模の会社に比べたら飛躍的に処理している仕事量は多くなっているはずである。同じように、国や地球全体としてもそれは同様のはずである。
単純に考えてその「差異」は膨大なはずである。なのに、なぜその分、個人が、社会が、国が、豊かになっていないのはなぜだろう。
少し遡って江戸時代。一日に人々が行っていた労働や仕事を現代と比べたら圧倒的にその量は少なかったはずである。それでも人は飢えることなく暮らしていけていたはずである。比べて現代。少しでも労働をやめれば、少しでも立ち止まれば、あっという間に「生きていく」ことが出来ない「貧困」に陥ってしまう。
明らかに何かがおかしくなってしまった近代社会。我々の消えていった時間はどこへいったのだろうか?その時間の報酬はなぜ消えてしまったのだろうか?
資本主義という名のもとに、見えないシステムの中に張り巡らされた「労働無き富」のネットワーク。「生きていく」だけで搾取されるように植えつけられた資本の根。真面目に生きれば生きるほど向き合うことになるこの事実。
ならばいっそと、そっち側に生き方をシフトさせてみるかといえば、そんな時間を費やすくらいならそれでもこちら側にしがみつこうと根っからの貧乏性に向き合うことにある。そしてまた明日も生き辛い時代の消えた時間を抱えて生きていくことになる。
20年、30年前に比べて圧倒的に進歩したのは情報技術。
かつてなら仕事が終わって会社からでれば、なかなか連絡を入れるのは難しかったのに、今ではメール、携帯、チャット、SNSなどで365日24時間、どこにいても繋がることができる。
やり方によっては一時もオフの無い生活になってしまうということだ。
仕事の効率を上げるために革新されていった情報技術。人は格段に上がった能率で処理するスピードも速くなったに違いないが、そのおかげで仕事が早く終わってゆとりが出来るというわけではなく、「なぜか」やるべき仕事、処理すべき事項は増える一方のようだ。
単純な疑問が湧いてくる。なぜだろうと。
以前なら3日間かかっていた仕事が、パソコンや情報技術の発展によって今では数時間で片付けることが出来る。当時は同じ仕事を三日間かけていても「生きていく」のに困らないだけの給料が発生していたにも関わらず、現在同じ内容を数時間でやって後は余暇に費やしても同じ給料が発生するかといったらそんな訳は無い。
能率を上げる技術によって仕事の能率が上がったはずなのに、決して豊かになっていないのはなぜだろうと。
職業別にみていく。例えば建築家。かつてなら一つの住宅を設計するのに必要だった図面は手描きという時間がかかる手順を踏んでいたこともあり、数枚の平面図に必要な断面図と立面図、展開図に部分的な詳細図と、設計の意図が伝わるような必要十分な図面数をじっくりと描いていた。
どんなに所員が徹夜をしたといっても、現在のCADのスピード感には適うはずが無く、必然的にかけられた時間から割り出される上限の図面数があったはずである。その図面数で表現しうる内容が、その事務所の手がけられる建築内容の限界であったはずであり、空間的にもシンプルな形状のものが多く作られたのも必然であった。
それが今では情報量を圧倒的に増やしてしまう3次元での設計が主流になり、単純な矩形の「四角」の建築から、3次元で確認していかないと把握できない複雑形状の空間へと移行し、それに伴って設計者以外の関係者に意図を伝達するための図面やダイアグラム、3次元模型などの製作量も飛躍的に増加する。描画速度を圧倒的に上げてくれたコンピューターの力を借りても、追いつかない量の資料の数。
かつてなら、数枚の平面図を持っていって、「建築とはこういうものです」というような先生顔をして、「ここがこうなって・・・」とお客さんに「理解しろ」と言わんばかりの打ち合わせの方式から、誰でも直感的に分かるようなビジュアルのプレゼンテーションから、平面・断面・立面にも素材感があわり、機能分布の分かるような着色をして、懇切丁寧に製本までしていかなければいけない現代の建築家の仕事。
かつては経験のある建築家でしか想像しきれなかった空間の構想が、今では学生でも3次元ソフトを使い忠実に再現でき、さらにその中を自由に歩き回れてしまう。そういう時代には「経験」や「知識」の質も、前時代のものとは変わってこなければいけないという話はまた別のことになるが、兎に角建築家の仕事はパソコンと情報技術の発展と伴って飛躍的に増えてしまったことは間違いない。
他の職業を見てみる。
例えば医者。恐らく以前は学会などで集めた知識や経験を元に、自分の患者の診療カルテを丁寧につけていって、自分なりの診療方法を確立していくのだろうが、情報技術の進歩によって、参照すべき症例も桁違いに増えてしまい、どれだけ過去の症例が頭に入っているかがある種の「優秀さ」を示すバロメーターとなるのは避けがたく、足りない時間を削ってはデータベースで受け持つ患者と同様のケースを探し出しつつ、日進月歩の医療技術をメーカーや製薬会社からも仕入れていかなければいけなく、恐らく「なんでこんなに情報技術が進歩しちゃったんだよ・・・」となげいている真面目な医者は多くいることだろうと想像する。
恐らく他の職業を想像するまでもなく、ほとんどの職業について「できることが増えた」為に、より広く、より深く知っていること、調べていることがその時々の「優秀さ」として反映してくるのはある種の常識であり、真面目であればあるほど、仕事に真摯であればあるほど、「もっと、もっと」と時間を使わなければいけないことになる。それが「グローバル社会」の本質で、見えない相手との競争に常に晒されているこのストレス。
そこで考える。20年、30年前と比べても、一職業人、一プロフェッショナルとしては格段に処理している仕事は多くなっているはずである。個人レベルでそうであるように、その所属する会社全体としても、少し前の同じ規模の会社に比べたら飛躍的に処理している仕事量は多くなっているはずである。同じように、国や地球全体としてもそれは同様のはずである。
単純に考えてその「差異」は膨大なはずである。なのに、なぜその分、個人が、社会が、国が、豊かになっていないのはなぜだろう。
少し遡って江戸時代。一日に人々が行っていた労働や仕事を現代と比べたら圧倒的にその量は少なかったはずである。それでも人は飢えることなく暮らしていけていたはずである。比べて現代。少しでも労働をやめれば、少しでも立ち止まれば、あっという間に「生きていく」ことが出来ない「貧困」に陥ってしまう。
明らかに何かがおかしくなってしまった近代社会。我々の消えていった時間はどこへいったのだろうか?その時間の報酬はなぜ消えてしまったのだろうか?
資本主義という名のもとに、見えないシステムの中に張り巡らされた「労働無き富」のネットワーク。「生きていく」だけで搾取されるように植えつけられた資本の根。真面目に生きれば生きるほど向き合うことになるこの事実。
ならばいっそと、そっち側に生き方をシフトさせてみるかといえば、そんな時間を費やすくらいならそれでもこちら側にしがみつこうと根っからの貧乏性に向き合うことにある。そしてまた明日も生き辛い時代の消えた時間を抱えて生きていくことになる。
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