2013年12月20日金曜日

年代の多様性と触れ合う大切さ

先日妻が友人に誘われて、その友人の通うキリスト教の教会の活動として、北京郊外にある孤児院にクリスマスの飾り付けの手伝いに行ってきた。主に障害を持つなどして親が養育できないとされた幼児達が生活をする施設で、海外からの養子縁組などを受けているという。

その時は妻の友人が通う教会からだけでなく、中国人の大学生グループも訪れて幼児の遊びの相手などをしていたようであるが、妻が言うにはどの子も皆性格がとにかくオープンで、知らない人に対しても積極的に身体を預けているというのに驚いたと言う。

恐らく、養子縁組に出される子供たちなので、訪れる人に対してできるだけの愛嬌を振りまいた方がより養子に引き取られやすいというのを小さいながらに感じ取っているという点もあるのだろうが、何よりも毎週違う大人たちが100%の愛情を持って接しに来てくれて自分を可愛がってくれるという環境に慣れているからの性格なのだろうと妻と結論付ける。

こういう話を聞いて思う事。現代社会の都市生活では特に顕著になってきた、ある一定の層としか交流せずに繰り返す日常。特に日本の社会ではそれが顕著だと思うが、自分の生活水準に近しい限られた人としか接することなく、ストレンジャー達に出会うことなく時間が過ぎていく。

この教会の活動の様に、絶対的に自分がケアを与えてあげる事のできる幼児達に日常の中で触れ合うこと、それぞれの人の様々な意識を変えるのではと思わずにいられない。

中国の街を歩いていると、小さい子がお尻がぱっくり割れているズボンを穿きながら、母親に抱きかかえられておしっこをしている姿をよく見かける。もちろんあそこも丸見え状態。

そんな風景を眺めながら妻と話す。「そういう趣味の人にはたまらないんだろうね」と。そう思うが、そういう風景が当たり前に日常に溶け込んでいる方が、よっぽど変な趣向が芽生えないのかもとも思わずにいられない。

現代社会の過酷なストレスと、誰でも誰とでも繋がる事ができるようになったインターネットの出現で、女子高生や幼女など歪んだ性の趣向が渦巻く現代日本。それがこの国独特なもので異常なものであるのかどうかが気にかかり、スタッフの中国人に聞いてみるが、やはりそういうのは聞かないという。

日常の中に当たり前に年代の多様性と接すること。それが輪切りにされてしまった今の社会の硬直性を打開するのと同時に、少しでも健全な精神を取り戻す事にも繋がる事なんだろうと思わずにいられない。

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