2013年11月30日土曜日

「葬式は、要らない」 島田裕巳 2010 ★★

身近な人物の「死」を通して始めて体験する葬式という儀式。

人生に数回しか当事者とならなく、「死」を弔うという特別な状況下の為に、多くの人が慣れておらず、またどのような処置が適切なのかも分からず、何よりも世間体を気にするあまりに専門家に言われるままに物事を執り行う事になりがちなこの葬儀。

その専門家とは誰かというと、葬儀社と寺。

彼らが当然として伝えてくる儀式の内容とその必要経費が果たして適当なものなのかどうか?デフレにどっぷりと浸かっていた現代社会においてはも、「聖域」として守られてきたアンタッチャブルなその部分にメスを入れるかのように出版された、葬式に対する常識を正す様々な書物の先駆けともいえるこの一冊。

今回、近しい親族の葬儀を通して自ら見ることになるその現状。フラットに眺めてみてもやはり「オヤッ?」と首を傾げたくなるような場面に多々遭遇する。両親に聞いても納得できる回答が得られず、いろいろな視点から考えてみてもやはり「ストン」と落ちるような答えは見つからない時にフラッと入ったブックオフで見つけた背表紙に必然の様に手が伸びる。

「葬式が厄介なのは、それが突然に訪れるからである。」

というように、誰もが知識も無く、準備もできていない時に突然当事者にされて、それを日常としてそれでメシを食っている専門家が登場して「あーだこーだ」とお悔やみを申しながら「教えて」くる。非日常に出くわしてある種の思考停止に陥っている状況で、それはある種「これに従えば間違いないんだ」と思わせるマインド・コントロールのようなもの。

しかし本当に必要なのは、世間体を気にする事よりも「葬式はどんな意味を持つか?」を常日頃から自分なりに調べ、考えて、そして次の当事者になるであろう家族としっかり話し合っておくこと。

本書の中で示されるのは

全国平均で葬式費用231万円
その内訳は
葬儀一式費用(葬儀社へ支払うもの)143万3000円
飲食接待費用(料理屋、香典業者)40万1000円
お布施・心づけ 54万9000円

という。これがいつのデータなのかは良く見なかったが、今回の葬儀ではこれほどかかる事はなかったが、自分の日常的な常識から考えても理解できないくらいの高額のお金が必要となっていた。

このような「死」に対する儀式でこういう言葉を使うのは非常に憚れるのだが、葬儀社への支払いではとてもじゃないが、通常のコスト・パフォーマンスの感覚からは遠くかけ離れた食事やサービスが目に余る。

「人類が大昔から葬式を営んできたのも、そこに一定の役割があるから」

というように、確かに葬式という最後にその人とのお別れを、各人が心の中で区切りをつける場として必要としたというのはとても理解できるし、それは時代が変わろうが宗教が違おうが決して変わる事のない人類の本質に関わる事であると思う。

問題は、江戸時代に寺請制度が導入されてから、ある種戸籍管理システムとして脈々と続いてきた日本全国に張り巡らされた檀家制度。そしてその制度導入と同時に一般の庶民も死後に戒名を授かるようになったことによって、それまでは村単位で行われていた葬式とうい儀式が、檀那寺の専売特許となり、それが葬式仏教としての流れを加速さていく。

その流れは寺院に対して安定した収入を確保するのと同時に、新規参入を難しくすることにも働いたのは想像に難くない。地域社会が安定していればいるほど、流出者が少なければ少ないほどに、その寺院の収入は安定するが、近代において檀家制度に属さない家庭が増えたり、地域から流出する家庭の増加などにより、安定収入が不安定になることと同時に、バブル時代にその経済の流れにのってより細かい項目を作り出す事と、単価を吊り上げるなどによってより形骸化へとすすむ葬式仏教。

誰もが学校で習うように、釈迦が悟りを開いたところから始まる仏教。それが中国を経て日本にたどり着いた飛鳥時代。その時代は大陸から伝えられた最先端の学問の一つとして、国の安定化のためのシステムとして採用された。その事実を伝えるように、奈良の古寺である法隆寺、薬師寺などは墓地を持たず檀家がいない。ある種純粋な仏教の姿を見せている。

その後、空海などの平安仏教もまた護国のための仏教であったが、法然や親鸞などの鎌倉仏教を経て徐々に庶民へと広がり、その流れを受けて、仏式の葬式が普及していく。ただしその時には現在のような葬儀に来る導師への「お布施」や、脇導師へのまた別途のお布施。ランク別に値段を決められた「戒名」など、どうしても生臭く感じてしまわずにいられない。

「死」を扱うプロフェッショナルであることは、普段から檀家として寺の存続をサポートする家庭に対して、非常時である葬儀の時には、心から近しい人を失った残された家族の気持ちをいたわり、精一杯の弔いをするのが筋かと思うが、どうも高額のお布施が当然で、一種の特権者として儀式を執り行ってやっているんだという態度で、お布施や戒名料の金額次第で執行態度を豹変させる。そんな僧侶も多々いると聞く。

世間ではグローバル社会の競争に晒され、誰もが一円でも効率化を進め、人員整理や社内仕分けなどを経てなんとか市場で競争できる価格に持っていこうとしている時代。安定した地域社会が崩れ、誰もが少しでも上へ、他の人よりも稼ごうと、容赦のない弱肉強食の日々の中それでもなんとか生き抜いていこうと知恵を絞っている昨今。

その横では変わる必然性を感じずに、ましてお布施という不透明な金の流れと納税の義務を免除されている寺という聖域の中で、それこそあまりにも時代にそぐわないシステムではないだろうかと思ってしまうのもしょうがない。

仏教国は世界に多々有るにも拘らず、戒名というのは日本のみにあるシステムであり、それこそ既存の身分秩序が簡単には崩れないように、成金などがすぐにコミュニティの中で高い地位を得る事ができないように、コミュニティを守ると同時に硬直化させる仕組みであり、同時に寺の安泰を約束する仕組みであると考えてしまいがちである。

しかし、読み進めていくうちに、そうとは一概にも言えずに、兼業などをしない限り現在の仏教寺院の収入はそれこそ葬儀や法事などでの儀式を執り行う事に対して檀家から支払われるお布施が大半を占める事になり、それから計算すると寺院を維持していくには300軒の檀家が必要であるが、都市化によって寺院と檀家との関係が希薄したことと、経済至上主義の影響で葬式にも商用化の波が押し寄せてきた点により、時代と共に300を超える檀家を抱える寺は減ってきているという。

それはイコールで寺院の収入の減少を意味し、それを裏付けるように曹洞宗の寺院での日本全国での平均年収は565万円でだという(平成17年)。封筒の中に包まれた金額がどれだけか分かるのは檀家と寺院のみで、そこに領収書が発行されるでもない非常に不透明な金のやり取りに加え、本山に上納されるという戒名料なども実際のところいくらが渡されているのは決して知りえる事がないやり取りが見え隠れするだけに、この数字がどれほど信憑性を持っているのかは疑問があるが、それでもいわゆる一般サラリーマン家庭と変わらない経済規模だというのは、恐らく大多数の人にとって意外な事実であるであろう。

しかもその約半数は年収300万円未満という注釈付きというのであるから、世間だけではなく寺院もまた厳しい経済の波に同じように飲み込まれていることとなる。

「葬式は贅沢である」

と結論付け、時代にあって、自分にあった色々な形の葬儀のやり方がより普及してくる事。「家族葬」や「直葬」、「樹木葬」など自分自身もいつか自分の番になったら選ぶであろうと思える方法を紹介する。

一般常識的な葬儀を盲目的に執り行う必要は無く、外国などの状況などを説明し、一般的に葬儀に対してのどのような事が行われ、どれくらいの費用が支払われるかを紹介し、如何に現在の日本での葬儀のやり方が過剰であるかを解いていく。

しかし、これでは自分だけは時代に合わせて檀家から抜けて、個人レベルでできる規模の葬儀を行っていきます。というだけでは、それまで脈々とこの土地に根付いてきたゲニウス・ロキや地縁を断ち切るだけであり、日本の風景を支えてきた寺院を崩壊に導くだけであると思わずにいられない。

本当に必要なのは、現在の社会、現在の時代にあった「死」の儀式のあり方を、社会も仏教界も各家族も個人も、皆が改めて考えて、身の丈にあった規模と内容に修正していく、そんな必要があるのだろう。

様々な既得権益が複雑に絡み合い、それでメシを食っている多くの人間がいるからこそ、簡単には変わらないとは思うが、それでも現状のまま放置していけば、間違いなく一世代で葬儀のあり方、檀那寺のあり方、墓のあり方がガラッと変わってしまうのは目に見ていることである。

少なくとも、家族と親と兄妹と親族と、そして現在の檀那寺と時間を取って話し合うことが自分達にもできることだと改めて知る事ができる一冊であろう。

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はじめに

第1章 葬式は贅沢である
/どんなに寿命がのびたとしても
/古代から人間は葬式を営んできた
/葬式費用231万円は世界一
/葬式は法的な義務ではない
/葬式無用の主張
/散骨はいつから認められるようになったか
/葬式をしない例は少ない
/社葬は日本の文化
/何も残らないにも関わらず

第2章 急速に変わりつつある葬式
/「直葬」登場の衝撃
/直葬とはどんな葬式か?
/昔「密葬」、今「家族葬」
/葬式のオールインワン方式、ワンデーセレモニー
/葬式だけでない簡略化の流れ
/家から個人の儀式へ
/墓の無縁化と永代供養墓
/創価学会の友人葬
/樹木葬・宇宙葬・手元供養
/宇宙葬すら100万円しかからない

第3章 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
/古墳壁画や埴輪から古代の葬式を想像する
/見出せない仏教の影響
/もし仏教がなかったら
/日本仏教を席捲した密教
/葬式仏教の原点としての浄土教
/地上にあらわれた浄土
/易行としての念仏
/仏教を大衆化させる道を開いた親鸞
/禅宗からはじまる仏教式の葬式
/浄土を模した祭壇

第4章 世間体が葬式を贅沢にする
/仏教式だからこそ
/細部へのこだわりが
/世間体が悪いという感覚
/村社会の成立と祖先崇拝
/柳田國男の祖霊信仰
/山村の新盆と「みしらず」
/村のなかでの格と戒名
/世間に対するアピール

第5章 なぜ死後に戒名を授かるのか
/戒名の習慣と戒名料
/戒名料の相場
/戒名のランキング
/日本にしかない戒名
/戒名への納得できない思い
/葬式仏教が生んだ日本の戒名
/出家した僧侶のための戒名
/日本的な名前の文化
/戒名の定着と江戸期の寺請制度

第6章 見栄と名誉
/高度経済成長における院号のインフレ化
/バブル期に平均70万円を超えた戒名料
/仏教界の対応
/戒名はクリスチャン・ネームにあはず
/有名人の戒名に見る、それぞれの宗派の決まりごと
/死後の勲章としての戒名
/生前戒名が広まらない理由
/墓という贅沢

第7章 檀家という贅沢
/介在する葬祭業者
/仏教寺院の経済的背景
/阿修羅像はなぜ傷んでいるのか?
/必要な檀家は最低でも300軒
/減る年忌法要と無住化の危機
/戒名料依存の体質が変わらない訳
/檀家という贅沢

第8章 日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか
/柳田國男が恐れたもの
/核家族化で途絶える家の後継者
/仏壇を祀らせる運動として
/家の葬式から個人の葬式へ
/土葬から火葬へ
/日本人が熱心なお墓参り教
/大往生が一般化した時代
/最後に残るのは墓の問題

第9章 葬式をしないための方法
/葬式をいっさいしないために
/完全自前の葬式は可能か
/僧侶を呼ばなければさらに
/宗派による葬式と墓の自由不自由
/寺檀関係のない僧侶のぼったくり
/作家と戒名
/戒名を自分でつける方法
/火葬するのも贅沢

第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方
/死んだ子どもの思い出に創設されたスタンフォード/大学
/裕次郎さえ寺は残せなかった
/PL教団の花火は葬式だった
/葬式で儲ける!?
/派手な葬式と戒名で財産を使いきる
/本当の葬式とは

おわりに
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